第4話 4日目

枯れた大地に種を蒔こう。

枯れた草木に水をやろう。

枯れた心に花咲かそう。

おじいさんは、一生懸命種を蒔きます。咲くかどうかもわからない、発芽するかもわからない。それでも必死に水をやります。

森の奥に、河川敷に、裏路地のアスファルトに。それを見た小学生は笑います。それを見た中学生は囃し立てます。それを見た高校生は無視します。それでもおじいさんは、必死に、必死に種を蒔きます。それがいつか、彼らの心を癒す存在になることをおじいさんは確信しているからです。

去年蒔いた種は芽を出したでしょうか。一昨年蒔いた種はすでに枯れているでしょうか。その短い一生で、誰かの心を満たせたでしょうか。

おじいさんは知りません。

でも、おじいさんは知っています。

自分のやっていることは、必ず、誰かのためになるんだということを。

枯れた大地に種を蒔こう。

枯れた草木に水をやろう。

枯れた心に花咲かそう。

おじいさんは今日も一人、必死に種を蒔きました。


**


「釣れねえなあ」

 河川敷で釣り糸を垂らしている岩崎は、ぽけぇと口を開けながらピクリとも動かない釣り竿を眺めていた。

 ハゼ釣り。

 岩崎は、ハゼ釣りなら初心者でも比較的簡単に準備ができて楽しめるという噂を聞いて、近所の河川敷を通り河口へと自転車をすっ飛ばした。下調べを入念に行い、時期に問題がないことを確認した彼は、不快な感触に耐えながらもアオイソメを針につけ、勢いよく釣り竿を振るう。

 しかし、一時間近く経ってもハゼはおろか根がかりなどで釣り糸が引かれることすらなかった。釣りに慣れている人間だったら一時間アタリがないくらいで心が揺れたりもしないだろうが、釣り素人の岩崎にとってその時間は耐え難かった。

 平日の昼間だからだろう、彼のほかにハゼ釣りに励んでいる人の姿が見えなかったことも退屈の要因だった。もしいれば、話しかけようと思っていたし、よしんばできなかったとしても、その人が釣れているかどうかを観察して退屈を紛らわせることができただろう。

岩崎は欠伸をした。

涙が滲む。ぎゅっと瞬きをすることでこぼれた涙を振り払い、再び目を開けた時、自分のすぐ近くに落ちている“それ”に気が付いた。

「エロ本じゃん……」

 エロ本。

 エロい本のことである。

 表紙にでかでかと鎮座している女性は、一見すると水着を着ているように見えたが、はだけた胸元から完全に乳首が見えていたので、際どいグラビア雑誌ではなく十八禁の雑誌だろう。

 雨に打たれたのか、紙の質が少しごわごわしているように見える。

 河川敷に落ちている雨に濡れたエロ本。岩崎は思わず「百点!」と叫んでいた。なにが百点なのかは自分でもよくわかっていなかったが、きっとシチュエーションについて点数をつけたのだろう。

 近年のインターネットの台頭により、十八禁の雑誌に対する需要は右肩下がりだと言える。それに加え、コンビニなどの万人の目に映り得る場所に卑猥な雑誌を置いていいわけがない、という声が高まり全国ほとんどのコンビニや書店から十八禁雑誌が姿を消した。

 ベッドの下や本棚の奥にエロ本を隠していて母親に見つかる、と言ったお約束のイベントは時代の流れに淘汰されつつある。

 代わりに家族共用のパソコンの閲覧履歴を見られてしまい家族会議が開催されると言った事例が増えていることだろう。

 もちろん、十八禁同人誌は一定の地位を確立したままなので、雑誌文化が完全に消えてなくなったわけではない。しかしそう言ったオタクチックな文化は万人が触れるもののわけがなく、紙媒体のエロで育っていく青少年は絶滅危惧種に認定されていた。

 岩崎自身も紙から電子へ切り替わる狭間の時代を生きてきたので、それほど馴染みがあるわけではなかった。

 それでも、小学生のころ森の奥に大量に捨てられていたエロ雑誌を見て騒然としたことや、友達が周りにいないときを見計らって何冊か持って帰ったこと。持って帰ったはいいものの、一通り満喫した後の処理に困ったことの記憶は鮮明に脳裏へ焼き付いている。家族共用のゴミ箱に捨てるわけにはもちろんいかず、かといって再び森へ捨ててくるのは彼の中の良心が痛むのだ。不法投棄物を放っておくことと、一度拾った不法投棄物を不法投棄することは彼にとって意味合いが全く違った。

 高校生のころになると、自分のスマートフォンが買い与えられたことや、あまり森や河川敷に立ち寄らなくなったこともあり、捨てられたエロ本と出会うこともほとんどなくなった。

 そして岩崎はふと、今の小学生はしっかりと出会えているのかな、と気になった。

 湿気と土の匂い。何故か張り付いているページに破れている箇所。発見したときの背徳感と喜び。持って帰って我に返った時に罪悪感。

 その言いようのない感情全てを味わうことができず、クリック一つでそれにたどり着いてしまう後輩たちを、岩崎は少しだけ哀れんだ。

 もちろん岩崎の先輩たちは、“バターを塗った経験”や“自動販売機の前をうろうろした経験”がない彼を憐れむのだろう。そして岩崎の後輩もまた、“三百万ドル請求された経験”や“パソコンがエラー音を吐いて暴れだした経験”がない遥か未来の後輩たちを憐れむのだろう。

 ちなみに岩崎の最高請求額は九千九百九十九万ドルである。これは現代の日本で約百億円にものぼる。

 岩崎は、エロ本の表紙を見ただけでここまで夢想してしまった自分に苦笑いをし、その後もちろん不法投棄はよくないことだけどな、と心の中で誰かに言い訳をした。不法投棄のエロ本を楽しんでいた少年が大人になり、購入できる年齢になった後、一通り楽しんで捨てる。そのループが断ち切られてしまうことを少しだけ寂しく思いつつ、「結局誰がこんな捨ててるんだろうな」と思った。

 たまにありえんくらい大量の雑誌が束になっておかれているタイミングなかったか?

 その時、彼の垂らしていた釣り糸がピクリと動いた。

「嘘、マジか」

 少し緊張しながら、釣り糸を引く。

 根がかりでもなく空き缶でもなく、ましてやエロ本でもなく、まごうことなく魚が釣れていた。

 パチパチパチ。

 岩崎が喜んでいると、後ろから拍手が聞こえてきた。振り向くとかなり高齢の男性が興味深そうに岩崎のことを見つめていた。

「ようやく釣れたようじゃな」

「なんだよじいさん、ずっと見ていたのか?」

「そういうわけではないがのぉ。最近は釣りに来る人も減ったから珍しくてな」

 老人は年齢こそ高かったが、健康的な日焼けをしていてスタイリッシュに被ったハットがとても似合っていた。右手で杖を突いていたが、普段はあまり必要なさそうだ。

 そして左手には透明の袋を持っていた。

「じいさんは昔からここの河川敷によく来てるのか?」

 岩崎は一匹釣れたことに満足したので、釣り具を片付け始める。

「まあな、儂の庭みたいなもんだ」

「ふうん。ランニングか?」

 そう尋ねると、老人は左手に抱えた袋を指差して「いや、儂は種を蒔いている」と言った。

 よく見ると、袋の中にはたしかに植物の種のようなものが入っている。そして気が付かなかったがこの河川敷には様々な花が咲いていた。見てわかるのはタンポポだけだったが。

「ガーデニング、っていう規模じゃねえなあ、河川敷全体なら」

「がーでにんぐ? はよくわからんが、儂はここの河川敷に来る人の心が少しでも癒されるために種を蒔いておる。河川敷以外にもじゃがな」

 植物の知識をあまり持ち合わせていない岩崎は、へえ、と生返事をした。彼は生き物や植物の世話があまり好きではなかった。飼育には膨大な時間と、手間がかかる。アサガオを育てるだけでも毎日水をやって観察日記をつけなければならない。水をやりすぎても毒だし、やらないのは言語道断だ。中には日光の当たり具合まで気にしなければならないものもある。

 それだけの時間と手間がかかるわりにはリターンが少ない。確かに花は綺麗だ。でも綺麗なものを見るだけなら花屋にいけばいい。花屋の店先に並んだいろんな花を見ていればいい。

 岩崎は努力家ではあるので、自分の手で成し遂げるということに意味があることはもちろん知っている。ゲームの実況動画を見てそのゲームをクリアしたかのように話す行為は世界で一番許せない行為だ。高難易度だとなおさらだ。

 だから植物を育てる人のことを否定はしないし、どちらかというと尊敬している。ただ彼の中でコストに対してのリターンが見合っていないというだけの話だった。

「少年は植物には興味ないか」

「まあな。綺麗だなとは思うけど、手間をかけるほどじゃない。じいさんはなんで種を蒔くんだ? 花を見たいからか?」

 岩崎と老人は河川敷の石段に並んで腰を下ろした。

 その岩崎の問いかけに対して、老人は鼻で笑う。

「花を見たい? 花を見たいだけなら花屋にいけばええじゃろ。それに咲いたものを見たいだけなら自分ちの庭でやるわ」

「……」

 老人が自分と全く同じ考えをしていることに驚いた岩崎は、だったらどうして種を蒔くんだ、と聞いた。

 老人は少し考えこみ、言葉を選びながら話し始めた。

「思うに儂は、誰かがそれを見て喜ぶかもしれないという期待を持つために、種を蒔いているのかものぉ」

「もう少しわかりやすく言ってくれないか?」

「ふぅむ、少年にはまだわからない感覚かもしれんが、老い先短い儂にとって、咲くかどうかはどうでもいいんじゃ」

「咲くかどうかはどうでもいい?」

 だったら種を蒔く意味なんてないだろう、と言いかけた岩崎を手で制して、老人は言葉を続ける。

「儂はあと何年生きられるかわからん。来年の桜が見られない可能性だってある。でも、来年咲く桜を見て喜ぶ子どもたちの姿を想像することはできる。儂にとっては、それだけで十分なんじゃよ。そして例えばその桜が、自分で蒔いたものだとしたらどうじゃ? 来年、どこか知らない子どもたちは、儂が育てた桜を見て心を躍らせる。ワクワクするじゃろ。このワクワクのために、明るい未来を想像するために、儂は種を蒔いておるんじゃ」

「蒔いた種が目を出す前にくたばったとしても、じいさんはそれでいいってのか?」

「そうじゃなあ。咲いた後、きっと誰かが心を躍らせてくれる。それだけで満足じゃな」

 たとえ明日死ぬとしても、儂は種を蒔くと思う。

 岩崎は、そんな風に語る老人の話全てを理解できたわけではなかったが、それでも心に染みわたる何かがあった。

 明るい未来を想像するために手間をかける。そんな発想が今までの自分にはなかった。

 まだ自分の中で飲み込めたわけでもなかったが、それでも確かに、心が動いた。

「じいさん、また明日も来ていいか?」

「儂なんかと話すより、もっと楽しいことはあるじゃろ」

 岩崎が友好の印に差し出した右手を、老人はじっと見つめるだけだった。

岩崎はそれでも、右手を下ろさずに言葉を紡いだ。そうだなぁ、爺さん風に言うなら。

「そのもっと楽しいことを今後より楽しむために、俺は明日もじいさんと話したい、ってとこかな」

「……フッ」

 老人は差し出された手をなおも見つめ、やがて諦めたかのようにがっちりと握手をした。

 次の日も、岩崎と老人は河川敷を見つめながら雑談をした。

 老人の青春時代の話と岩崎の今の話を比較して、彼女を作れと叱られた。

 その次の日も、岩崎と老人は雑談をした。

 老人は必ず種を蒔いてからやってくる。河川敷だけではなく、森の奥やアスファルトで舗装された道路にすら蒔いているのだという。

『こうすることで、アスファルトを裂いて育つかもしれないと想像する余地が生まれるじゃろ。それってなんか、ワクワクせんか?』

 次の日も、次の日も、岩崎と老人は話し続けた。

 晴れの日はアイスクリームを片手に。雨の日は高架下に潜り。

 老人といる時間はあっという間で、岩崎にとってとても斬新な時間だった。自分には理解できない考え方や、自分が経験していない出来事を聞くのはすごく楽しかった。

 この時間がずっと続くのも、悪くねえな。

 そう思っていたある日、事態は急変した。


「どなたかお待ちですか?」

 その日岩崎はいつものように河川敷に座って老人を待っていた。

 しかしその日に現れたのは、老人ではなくスーツを着た男女二人組だった。

「何の用だ?」

 基本的に敬語というものを知らない岩崎は、振り返った相手が老人ではなかったことに落胆し、仏頂面で尋ねる。

 それに対してあまりにも無表情で事務的に「質問しているのはこちらです」と言われたものだから、彼は少したじろいだ。そのまま正直に答える。

「名前も知らねえじいさんを待ってんだよ。なんかの勧誘なら受けねえからどっか行ってくれ」

 スーツの男女は向かい合って、「名前を知らない?」「嘘を言っているようには見えませんね」「確かに他人に名乗るほど浅はかな男ではないか」と小声で言い合った。岩崎は聞こえていたが、理解はできなかった。

 スーツの男が岩崎の方を見る。

「君。金輪際、あの老人とはかかわらないでください」

「はぁ?」

 突然理不尽な要求をされた岩崎は反発し、理由を聞くために食って掛かった。

「なんでお前らにそんなこと言われなきゃなんないんだよ」

「これは助言や警告ではなく命令です。あの老人は危険因子なんです。君だって老人が種を蒔いているのを見たでしょう」

「……は?」

 種を蒔いていることに、何か問題があるのか?

 岩崎は数秒間フリーズした。その間に女の方が一歩近づいてきて、耳元に顔を寄せる。

 首筋に、冷たくて鋭いものが当たった。

「怪我、したくないでしょう? 大人しく命令を聞きなさい」

 岩崎はピクリとも動けなかった。ナイフ? 包丁? 脅し? 頭の中が疑問符で埋まる。恐怖が刻み込まれる。

 その恐怖は次第に痺れていき、次に浮かんだのは一つの大きな疑問だった。

 あのじいさん、いったい何を蒔いてたんだよ!

「もうあの老人と会わないと約束できる?」

 女が耳元で囁く。

 岩崎はゆっくりと頷くことしかできなかった。

「そ、いい子ね」

 一歩離れた女の手には、鋭い刃物が握られていた。脅しではなく、本当に怪我させる気でいたのか。

 どっと現実が押し寄せてきたので、岩崎は膝から崩れ落ちそうになった。

 その瞬間、目線の先、男女の背後から、老人がゆっくり歩いてくるのが見えた。

「……っ!」

 来ちゃだめだ。

 どうしてかはわからないけどこの二人組はじいさんを探していて、しかも刃物を使うことに躊躇がない異常者たちだ。

 そう伝えようとしたが、都合よくテレパスが目覚めるわけもなく。

 むしろ岩崎の挙動を不審に思った男が、ゆっくりと後ろを振り返った。

 じいさんの足が、ぴたりと止まった。

 数秒。

「じいさん、逃げろ!」

 岩崎は叫び、勢いよく女の足を掬うように蹴り飛ばした。そのまま左手のひらで男の顔を掴み、地面に叩きつける。

 意識のスキを突いた岩崎の攻撃は効果てきめんで、二人とも地面に倒れ伏した。

 そのまま彼は老人の方へ走っていく。老人の手を取って、川に面している団地の方へ駆け込んだ。

 入り組んだ団地の路地を無作為に通り過ぎていく。

 追手の気配はない。

 撒いたか。岩崎はそう安堵の息をついた。老人はまだ現実を飲み込めていないのか、どこか遠い表情をしていた。そんな彼に向かって岩崎は単刀直入に聞く。

「なあ、じいさんはなんで追われているんだ? あの人たちはなんなんだ? 一体、何を蒔いているんだ?」

「そう一気に質問するでない。じゃがまあ、巻き込んでしまった以上説明するしかないだろうな」

 老人はゆっくりとため息をついた。

「数年前。もう十数年前になるかのぉ。儂の元にあの種子が送られてきたのは。その頃は今みたいに種を蒔いてなんていなくてな、植物にも興味なかったから放っておいたんじゃ。でもある日ふと、何かのテレビ番組に影響されたかで種を蒔こうと思っての。いや、きっとあれは婆さんが死んだタイミングじゃのお。寂しくてな。送られてきた種を自分ちの庭で一年間じっくりと育ててみたんじゃよ」

「そっか。ばあさんが。で、それが十年くらい前なんだな。一体何が咲いたんだ?」

「エロ本じゃよ」

「……は?」

「……」

「…………」

「…………………………」

「……………………………………………………」

「で、それを咲かせて以来定期的に儂の元に同じ種子が送られてくるようになったんじゃ。送り主は不明。目的も不明。でも儂はそれを育てることで、婆さんが死んで以来、生きる希望を得たんじゃよ」

「いぃや待て待て待て! なんで話進めたの? なんでちょっといい話みたいになってるの? なにも呑み込めていないんだけど。なに、エロ本が咲いたって何!」

 岩崎は大声で叫ぶ。

 思い返せば確かに老人は一度も花が咲くとは言っていない。

「ふむ、お主も河川敷で拾わなかったか? エロ本」

「拾ったけども!」

「あれ、儂が育てたエロ本じゃ」

「なんだよそれ!」

 岩崎が状況を飲み込めずにいると、路地裏に二本の影が伸びてきた。足音と共に先ほどのスーツ姿の男女が入ってくる。

 まずい、見つかった!

 運の悪いことにこの路地裏は袋小路で、岩崎と老人は刃物を持った男女二名から逃れるすべをすでに失っていた。

「青少年保護育成委員会よ。少年、老人を渡しなさい」

 女性が名乗りを上げた。青少年保護育成委員会。聞いたことのない組織だったが、エロ本を許さない人種であろうことは簡単に理解できた。

「嫌だね、渡すもんか!」

「ううん、今ここで引き渡したら、さっきの暴力は不問にしてあげる。言っておくけど警察沙汰だよ?」

 ナイフを持ち出しておいて何を言っているんだ、と思い交換条件を出されてもなお引き下がらずにいる岩崎に、老人が声をかけた。

「いい、いい。儂のことを庇うな」

「でも!」

「こんな老い先短いじじいがここで捕まっても、痛くもかゆくもないんじゃよ。それよりも儂は、少年。お主の経歴に傷がつく方が許せんのじゃ」

「……」

「夢は十分見させてもらった。儂の蒔いた種で少年たちは喜び、恥ずかしがり、怒り、悩み、そして成長していったじゃろう。把握しきれんほどの思春期が、そこにはあったじゃろう。こんな老人には、それがとても幸せなんじゃ」

「じいさん……」

「ああ、でも少年よ。もしお主さえよければ、最後にもう一つだけ夢を見させてくれんかの?」

 老人は青少年保護育成委員会に見えないように、岩崎の手元に何かを忍ばせ、そっと耳打ちをした。

「儂のかわりにこの種を、蒔いてくれんかの?」

 それは、老人がずっと大切にしていた透明の袋だった。中には黒くて小さな種子が入っている。

 岩崎が種を蒔こうがどうしようが、老人にとってはどうでもいいことだった。彼にとってはただ、後を引き継いで蒔いてくれるかもしれない、という希望だけで十分だったのだ。

 岩崎はそれをよく知っていた。それでも力強く、誓いとともに頷いた。

「ああ。絶対蒔くさ。絶対咲かせてみせるさ!」


 その後老人がどうなったか、岩崎は知らない。

 二度と会うことはなかった。この話の結末としては、それだけで十分だろう。

 一年後、岩崎は河川敷に実った大量のエロ本を見て、思わず涙を流した。

「じいさん、じいさんだったんだな……」

 森の奥、河川敷、路地裏。

 岩崎の思春期を、数々の少年の思春期を支えた不法投棄のエロ本。

「全部、じいさんがくれたものだったんだな……」

 岩崎の頬を涙が伝った。

 彼と老人は二度と会うことはなかった。それでも、確かにバトンは渡された。

 時は移ろいでいく。人は成長していく。

 それでも確かに変わらないものが、そこにあった。

 岩崎と老人の絆。時にも人にも引き裂かれることはない、大切な、絆。

 それを抱えて、これからも彼は生きていく。


<『え』ろほんばらまきじじい 継承>

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