2

 私はあまり夢を見ない。

 眠りにつくと、見えるのはまぶたの裏の闇だけで。

 色鮮やかな空とか、あったこともない男とか。

 骨董無稽な夢の映像は、私の脳味噌は取り扱っていなかった。


 だけど、今度のは別だった。

 揺れる体。肩にふれる手の感触。

 それはまるで実際に起きているような、リアルな体験だった。


 極め付けは、頭上から響く男の声。


「先生、先生……」 


 その声はタカギの声のようだった。

 彼が私を呼び、夢の中にまで何かを伝えにきたのだろうか。


「先生、起きて下さい」

 

 彼の顔は影になっていて、どんな顔をしているかわからない。

 けれど、その声からどうやら困っていることは分かった。

 また体が揺れる。

 すると、彼の顔から闇が晴れていく。

 ああ、そうだ。これは夢なんだ。

 そう気づくくらいには、私の意識は現実に戻りつつあった。


「先生、もうお昼をすぎましたよ」


 タカギの声が光を連れてきた。

 感覚が戻り、煩わしい肉体の重みが戻ってくる。

 まぶたを開くと、目の前はぼやけていた。

 視界がはっきりしてくると、私を覗き込むタカギの顔が目の前にあることに気づいた。


「タカギ、さん」


「おはようございます、先生。といっても、少し遅いですが」


 タカギは苦笑しながら、時計を指差した。

 肘をつきながら私は起き上がり、時計を見た。

 午後1時52分。お昼過ぎ、すっかり眠ってしまったらしい。


「すみません、私ったらこんな時間まで」


「謝ることはありませんよ。旦那様も、今日はゆっくりとされていましたから」


「そうなんですか」


「ええ。久しぶりにはしゃぎ過ぎたと、旦那様がぼやいておりました。……お腹は、空いていらっしゃいますか。昼食をご用意したのですが」


「もしかして、お待たせしてしまいましたか」


「いえいえ。お気になさらず。ご気分が優れないようでしたら、上下に良いものをお作りいたしますが……」


 私のお腹から小さな悲鳴が聞こえてきた。

 眠っている間に、胃の中がすっかり消化されてしまったようだ。

 

「どうやら、ちょうどよかったようですな」


「すみません……」


「謝ることはありませんよ。さ、お立ちなさい」


 タカギは朗らかに笑うと、手を差し伸べてくる。

 私は彼の手をとって、ベッドから立ち上がった。


「行きましょうか」


 タカギは私の手を離すと、彼は柔らかく頬を歪め、歩き始めた。

 彼の背中を追って部屋を出る。

 向かったのは見慣れた食堂だ。


 メイドたちは私の到着を予期したように、テーブルに着々と料理を並べていく。

 用意されたのはどんぶりと小皿、小鉢。

 丼の中にはつゆだくの汁とうどん。

 その上には鴨肉とネギが乗せられている。

 小皿には大根とナスの浅漬け。

 小鉢の中にはおからと野菜を混ぜた和物が添えられている。


「鴨うどんです。二日酔いには暖かい料理の方がいいと思いまして」


 言いながら、タカギは私のために椅子を引いて待ってくれる。


「タカギさんが作ったんですか」


 私はその椅子に座りながら、タカギに尋ねた。


「ええ。まあ」 

 

 タカギには珍しく、歯切れの悪い返事だった。


「普段は料理人の方がいるんですが、生憎今日は休みをとっていましてね。今日は私とメイドが交代でご用意させていただいているのですよ」


 まるで言い訳をするように、調理場事情を説明してくるタカギ。

 だからちょっと妙な味がしたとしても、気にするなということだろう。


「食べるのが楽しみです」


 箸を手にとって、両手を合わせる。

 さて早速一口いただこうとした時、テーブルに料理が1つしかないことに気がついた。

 私の対面に座るであろうクドウ氏の分が、そこになかったのだ。


「あの、クドウ氏の分は……」


 私が言いかけると、ちょうどクドウ氏が食堂にやってきた。


「やあ、おはよう」


 けろっとした顔で、彼は片手を上げて私に声をかけてくれる。

 二日酔いに悩まされている気配はない。

 酒の席に慣れているせいか、クドウ氏は見かけによらず酒に強い質のようだった。


「昨日は楽しかったな」


 いいながら、クドウ氏はいつものように、私の対面にある席に腰を下ろした。


「ええ、そうですね」


 アンニュイに笑みを浮かべながら、私は同意した。

 だが、正直に言えば、昨日のことはあまり覚えていなかった。

 ささやかな祝賀会。その開幕にワインが注がれたところまでは覚えている。

 だが、3杯目が注がれたあたりで、だいぶ記憶が怪しくなり、それから記憶が飛んでいた。


 クドウ氏の笑い声と、饒舌にあの絵を描いたことに対しての感謝を送られた、ような気がする。

 その内容はすっかり頭から飛んでいて、彼のにこやかな顔と声。

 動き続ける彼の唇が、うすぼんやりと浮かんでくるだけだ。


「体調の方はよくなったかい。今朝はひどい二日酔いだったそうじゃないか」


「ええ、まあ。ゆっくり休ませてもらいましたので、もう大丈夫です。あの、それより昨晩、変なことしませんでしたか」


「変なこと?」


「いや、その。もしかしたら酔った私がクドウさんに失礼なことを、したんじゃないかなと」


「そんなことはなかったさ。なぁ、タカギ」


「ええ」


 クドウ氏とタカギは顔を見合わせ、互いにうなずく。表

 情を見るに私を気にして、嘘をついているようには見えない。

 いつも通り、彼らは平然と穏やかさを保っていた。


「そうでしたか」


 顔を引き締めつもりだけど、それでも自然とほほが緩むのを感じた。

 どうやら、酒の失態だけは避けられたようだ。


「ところで、昼食はいらないんですか。その、食事がないようですけど」


 クドウ氏の前には空白がおかれていた。

 テーブルの上には料理どころか、箸すらも見当たらない。


「早めに食べてしまったから、私はお腹がすいていないんだよ」


 両手で白いテーブルを指しながら、クドウ氏は肩をすくめた。

 タカギの不手際とも思ったが、彼に限って主人の食事を用意し忘れることなんてありえるはずもない。

 気になってはいたのだが、その理由はなんてことないことだった。


「ゆっくり食べてくれ。私も食べたが、うまいものだぞ」


「ええ。いただきます」


 これで憂いは晴れた。

 私は箸を手にして、今度こそ丼の中に箸を入れた。

 うどんをすくいあげ、息で熱を冷ます。

 うどんに纏った煙がわずかに減ってきたら、香りを楽しみながら口に含んだ。

 唇をすぼませて、うどんをすする。


 舌に伝わる熱。

 そして瞬時に鰹出汁の優しい塩気とうどんの食感が、口いいっぱいに広がった。

 2本のうどんを噛み切ることなく、口の中にしまう。

 熱を少し我慢してから、ゆっくりと噛み締めた。


 酒による発熱。

 その反動で体温が低くなっていたところ。そこへ優しい温もりが、私の体内から温めてくれる。

 薄すぎず濃すぎず。ちょうどいい塩梅の汁に絡んだうどん。

 うまくないはずがない。私の胃袋は、しっかりとタカギに握られてしまった。


「美味しいです、とても」


 一口、もう一口と続けて食べて、ようやく出した言葉。 

 美味しいという言葉の中に、全ての感動を込めて、感嘆のため息とともに言った。

 クドウ氏は頬を歪めてうなずき、タカギは胸に手を当てて、頭を下げた。

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