3

 屋敷を歩き回るか。

 それとも部屋に戻って、惰眠を貪るか。

 どちらも魅力的だった。

 だが、結局私はテラスに腰を据え、ボーッと外を眺めることにした。


 特に理由はなかった。

 理由がなかったから、そうすることにしたのかもしれない。


 タカギが気を利かせて、飲み物を用意してくれた。

 レモンティーだ。青の陶器のカップに、淡いオレンジ色の紅茶が入っている。

 水面には薄く輪切りにされたレモンが浮かび、湯気とともに華やかな香りを放っていた。


「ありがとうございます」

 

 タカギに礼を言うと、彼は薄笑みを浮かべて頭を下げた。

 テーブルに置かれた紅茶を手に取り、そっと口をつける。

 これもまたちょうどいい温度に調節されていた。

 2回目ともなれば驚きはなかった。

 当然のように、けれど申し訳なさ半分に、私は紅茶に口をつけた。


 茶葉の香りに混じる、レモンの酸味。

 高級な紅茶という感じがする。

 とても私の貧相な語彙力じゃ、とてもこの味わいを表現しきれなかった。


 受け皿にカップを戻し、息をつく。

 紅茶の香りと温もりが、じわりと体を巡っていく。 

 心地の良い温もりを感じながら、何をするでもなく、外を眺める。

 最高に幸せな時間だった。

 クドウ氏のことも、彼のもたらした不可思議な依頼のことも。

 この時だけは、すっかり忘れることができた。


 私を現実に戻したのは、遠くから聞こえてきた車の走行音だった。 

 てっきり誰かが出掛けたのかと思ったが、そうではない。

 車の音はどんどんと屋敷に近づてくる。

 現れたのは赤いMINI。2シーターの小さな車だ。


「来客のようですね」


「そのようです。少し席をはずしてもよろしいでしょうか」


「ええ。もちろん」


「ありがとうございます。それでは」


 タカギは頭を下げ、テラスから玄関へと向かっていた。

 彼の横顔を何とはなしにのぞき見たが、驚きと不満が入り混じったような、不快げな表情を浮かべていた。


 タカギが向かったと同時に、運転席から男が降りてきた。

 白いスーツを着た、金髪の男。

 整った顔立ちにティアドロップのサングラスをかけている。

 軟派な結婚詐欺師。

 そんな職業がピタリと当てはまりそうな雰囲気があった。


 男がタカギに気がつくと、軽く手を上げて、彼の方へ歩み寄っていく。

 一言二言、男とタカギは言葉を交わしている。

 内容まではわからないが、世間話のようなものだろう。

 それが終わると男はタカギに、封筒を渡した。

 タカギが受け取ると、男はおもむろに私のいる食堂の方に顔を向けた。


 思いがけず、男と目があってしまった。

 男はサングラスを傾け、意味深に頬を歪めて見せる。

 そして手のひらを向けて、ひらひらと私に手を振った。

 私は首をすくめながら、気まずげに手を振りかえした。


 サングラスをかけなおし、男はタカギに会釈をする。

 運転席に戻った彼は、エンジンを唸らせる。

 駐車場内で車を回し、屋敷の出口へ頭を向けた。


 その時初めて、助手席に女性が乗っていることに気づいた。

 ツバの広い白い帽子を被り、大きなサングラスをかけている。

 表情は確認できないが、色白の肌に浮かぶルージュの口紅が、何とも印象的だった。


 車は屋敷を走り去った。

 時間で言えば10分とかからない滞在だった。


「失礼いたします」


 タカギが戻ってきた。

 私が顔を向けると、ちょうど、彼が頭を下げているところだった。

 彼は頭を上げ、柔和に笑い皺を浮かべる。

 そしてジャケットの胸ポケットから、一通の封筒を私に差し出してきた。


「お手紙でございます」


「手紙? 私にですか」


「ええ。どうぞ」


 タカギの柔和な顔と、手紙とを交互に見つめる。

 それから恐る恐る、私は封筒を手に取った。


 なんてことはない縦長の封筒だ。

 口は糊付けされているのか、少しシワがついていた。

 ただ、宛名もなければ、切手もない。

 手紙という割には、やけに質素な作りだった。


「今、届いたんですか」


「ええ。お使いの方が来られまして、これを貴女にと」


「というと、さっきの男の人が」


「ええ。まあ」


 タカギの返答は、やけに歯切れの悪いものだった。

 明らかに曇った表情。そのことにあまり触れて欲しくない気配が感じられた。


「誰です。あの男」


 だが、そうと気づく前に、私の口が動いてしまった。

 言った後に、タカギの表情に気づいて、まずいとは思った。

 だが、吐き出した言葉は飲み込めない。

 タカギは仕方ないとばかりに、肩をすくめる。

 呆れのため息。彼は自嘲するような口調で、話を始めた。


「彼はウシオダ・タケル。クドウ・サチエ様の情夫でございます」


「情夫って……」


「愛人ですよ。簡単にいえば」


 愛人。そのあだ名がウシオダの顔と一緒に、頭の中に残った。

 驚きはなかった。

 依頼人の中には、多少なりともそういう関係を持った人もいた。


 男と女。大人と高校生。そして同性同士。

 いろんな事情、いろんな関係をひめた人間たちが、私のところにやってきて、絵になった。

 依頼人の顔は憶えていないし、彼らが今どうしているのかもわからない。

 ただ、彼らのまとっていた色というか。

 空気というのが、私の記憶の引き出しに積み重なっている。


「そのサチエさんというのは」


「旦那様の奥様です。手紙はきっと、奥様からでしょう。ウシオダ様は手紙を書くという習慣はありませんから」


「もしかして、助手席に乗っていた女性が」


「ええ」


 だとしても、どうして手紙などを寄越したのだろうか。

 クドウ夫人と私は面識はないはずなのに。


「では、私はこれで。何かあれば、給仕たちにお声をかけてくださいませ。無論、私でも構いませんよ」


 胸に手を当てて、タカギは頭を下げる。

 そして彼はきた道を引き返し、部屋を出て行った。

 ドアがゆっくりと閉まっていく。

 横目に捉えながら、私は疑念をテーブルの封筒に向けた。


 開けるべきか、それともこのまま放置するべきか。

 悩んだ挙句、封筒を開くことにした。


 中身を引き裂かないように。

 封筒の上部から引き裂いた。

 中を覗くと、四つ折りにされた白い紙が入っていた。

 封筒を傾け、紙を滑り出す。

 封筒をテーブルに静かにおいて、私は慎重に紙を開いた。


 綺麗な手紙だった。

 ワープロで作られた、機械じみた精密なものではない。

 流麗な文字で綴られていた。


  拝啓 遺影画家殿へ


 手紙は冒頭。その言葉から始まった。

 遺影画家。それはどうやら、私のことを指しているらしい。

 どうせなら流浪の絵描きとか。

 自由を愛する画家とか。

 そういう見栄えする肩書にしてくれればいいのに。

 でも、たとえ与えられたとしても、名前負けする感はいなめないだろうけど。


 内容は私が依頼を引き受けたことへと感謝。

 そして自分の主人の身勝手さへの陳謝が記されている。

 文面だけから想像すれば、サチエ夫人は美しい女性のようだ。

 とても、情夫を囲っているような女とは思えなかった。

 

  あの人の最後のわがままを、どうか叶えてあげてください。

  どうか最後まで、静かに見守ってあげてください。


 手紙の最後はそう締め括られていた。


「自分は、見守ってあげないのかしら」


 というか、自殺を止めることをしないのだろうか。

 夫婦の形についてとやかく言えるほど、夫婦というものに精通しているわけじゃない。

 そもそも夫婦というものが、恋愛の帰結としてあるというわけでもない。

 恋愛の介在しない、金や権力という欲望のために。

 結婚という手段を選ぶ人間も、世の中には存在するのだ。


 クドウ氏とクドウ夫人がどのようにして出会い、結婚という選択をしたのかは私の知るところではない。

 ないのだが、あのルージュの女性の横顔が何を考えているのか。

 何となく、気になった。

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