第八章 疑念

 それから二時間ほどが経過した。日付は七月十四日木曜日。朝霧は晴れ、始業時間間近を迎えた中谷高校には多数の生徒たちが登校してきている。凛もそんな中で大きく欠伸しながら校舎への道を自転車で走っていた。通いなれた道ではあるが、昨日あれだけ警察に色々聞かれた後では、何となくその足取りも重くなる。

 と、ちょうど校門の前に見知った顔が歩いているのが見えた。

「おーい」

 凛が呼びかけるとその人影が振り返る。コノミだった。いつもつかみどころのない感じだが、今日はどこか沈んでいるのが凛から見てもよくわかった。すぐ横まで走っていって、自転車を降りて隣を歩く。

「おはよう。何か元気がないね」

「おはよぉ。うん、ちょっとねぇ」

 コノミはどこか疲れたように返事する。

「今朝、駅に行ったら財布がなくなっている事に気がついてさぁ。おかしいなぁ、昨日、東中野駅を降りたときは間違いなくあったのにぃ」

「そ、それ、大丈夫だったの?」

「大丈夫じゃないよぉ。一回家に帰って親にお金だけ借りて、とりあえず電車には乗れたって感じ。帰りに交番に寄らないとなぁ」

 コノミは盛大にため息をついた。同時に、それでも遅刻しないで済んでいるという事は、コノミは実は普段からかなり早めに登校してきているという事らしい。

「あーあ。朝のうちに次の記事のプロットをまとめておきたかったんだけどなぁ。まぁ、仕方がないか」

「え、コノミって、いつも朝から部室で作業してるの?」

「うん、そうだよぉ。何ていうか、昔からの癖」

 相変わらずのんびりした口調ではあるが、凛はコノミの意外な一面を知った気分だった。

「すごいね、コノミ」

「そうでもないよぉ。私、昔新聞部で一回大失敗してるしぃ」

「大失敗って?」

 凛としては何気なく聞いたつもりだったが、その瞬間、コノミがやや真剣な表情をした。

「うん、私が持っていた取材ノートを何の考えもなしに他の人に見せちゃってねぇ。そのせいで……人が一人死んじゃったんだぁ」

「え?」

 凛は思わず足を止める。一方、コノミは気にする事なく話を続ける。

「この話するの、凛ちゃんが初めてなんだけどねぇ。私、そのとき身近なある人の不正について調べていたんだけど、うっかりそれを書いていたノートをある人に見せちゃってねぇ。その人、その内容を信じちゃって、その取材対象の人を刺し殺しちゃったの」

 思わぬ話に凛は唖然とする。

「そんな……」

「私は別に責められなかったよぉ。でも、私自身は罪悪感でいっぱいになってねぇ。新聞部も続けられなくなって、そのまま退部しちゃったんだぁ。馬鹿みたいな話だよねぇ」

 コノミはあくまでお気楽に言う。だが、そのとき凛は、初めて江崎コノミという少女の奥底に、何か表面上の性格とは違うものがあるように感じた。もしかして、この表の性格はわざとなのではないか。何の根拠もないが、凛は思わずそう感じていた。

「……じゃあ、何で高校に入ってまた新聞部に?」

「んー? 何というか、このままじゃ逃げてるみたいだったからぁ。そのとき新聞部で仲がよかった私の親友にも、顔向けできないなぁって。だから、高校に入ってすぐに心機一転のつもりで、ねぇ」

「そうだったんだ……」

 凛は普段あまりかかわる事のないコノミの新たな側面を見た気がした。何しろ、彼女は普段は詠江と一緒にいる事が多いので、話す機会も少ないのだ。

「あれ、そういえば今日、詠江さんは?」

 その問いに対し、コノミは首をひねる。

「それなんだけどねぇ。一応待っていたんだけどいつもの時間に来なくってぇ。電話にも出ないし」

「いつも思ってるんだけど、詠江さんと仲いいんだね」

「んー、そうかなぁ。同じ中学だから何となく気が合うだけだよぉ」

 コノミはそう言って謙遜する。そんなことを言っているうちに校門に到着する。始業まであと二十分ほどはある。

「ごめん。やっぱり私、一回部室に顔出していくよ。新しい資料も置いておきたいしぃ」

「そうなんだ。……じゃあ、私も付き合おっかなぁ」

「いいのぉ?」

「別にいいよ。もう少し話もしたいし」

 そんなわけで、二人は事務室で鍵を借りると、その足で部室棟へと向かった。運動部ならともかく、朝連などとは無縁の文化部が集中する部室棟は、人通りも少なくて不気味な雰囲気をかもし出している。

「私、こんな朝早くに部室に行くなんて初めて」

「まぁ、普通行く人なんかいないしねぇ」

 そう言いながらも、コノミは慣れた足取りで部室の前に立つ。一見すると、何も変わったところはないように見えた。コノミは部室の鍵穴に借りた鍵を差し込む。

 が、そこでコノミの表情が訝しげなものに変わった。

「どうしたの?」

「……鍵、開いてるみたい」

 コノミはポツリとそう言った。

「え? でも昨日、ちゃんと私が鍵をかけたよ。誰かが先に来ているんじゃ?」

「それじゃあ、この鍵が説明できないよぉ」

 コノミが鍵を差し出して言う。確かに、誰かが先に来ているなら、事務室に鍵があるのはおかしい。二人は顔を見合わせた。

「もしかして、泥棒?」

「うちの部に盗んで得するようなものなんかないと思うんだけどなぁ」

 何にせよ、入ってみない事には状況がわからない。二人は一瞬ためらったが、ドアノブを握ってドアを開け……そこで絶句した。

「き、キャアァァァァ!」

 凛の絶叫がこだました。


 荻窪中央署も朝を迎えていた。会議室では疲れ果てた表情の刑事たちが、正面に居座る鳥梨を睨みつけている。

「最悪の雰囲気だな」

 落合が小さな声でぼそりと呟いた。隣に座る蓮も疲れた表情で黙って頷く。

「でも、一番空気が重いのは、あの三人だと思います」

 蓮はそう言って、正面で睨み合う三人の人間……鳥梨、佐野、国友を見つめた。

「……佐野、もう一度言ってみろ」

 鳥梨が押し殺した声で佐野に言葉をかける。一方、佐野も何か覚悟を決めたように鳥梨に対峙していた。

「ですから、しばらくあの高校への直接的な干渉は控え、証拠固めをした後で改めて捜査に入るべきです」

「私の方針に逆らうというのか!」

 激昂する鳥梨に対し、国友があくまで冷静に告げた。

「現状では家宅捜索及び証拠の捜索差し押さえに関する令状は下りません。ここは焦らず、慎重に捜査を進めるべきです」

「国友警部、『黒紳士』と呼ばれたあなたらしくない言葉だな。一ヶ月も捜査を停滞させているうちに頭のねじが緩みでもしたか?」

 国友は小さく首を振る。

「急いで結果を損じては本末転倒になるだけです。別に私たちはすべてに反対しているわけではありません。あの高校における被害者の関係者を洗い直すというのは悪くない考えです。すでに一ヶ月の捜査で通り魔説は現実味を失いつつあり、ゆえに私もそろそろそちら方面に舵を切るのも一手であると考えています。しかし、警視の捜査はあまりにも性急過ぎます。これでは高校関係者に犯人がいたとしても、単に警戒させてしまうだけではないですか。そうなれば、焦った犯人がどういう行動に出るかわかったものではありません」

「そんな悠長な事を言っている時間がないのは、君たちもよくわかっているはずだ」

 鳥梨が苛立ったように言う。もちろん、出雲がいつ犯行を起こしてもおかしくないがゆえの焦りなのだが、刑事たちが見つめるこの場で言う事ができず、本人ももどかしいのだろう。

「鳥梨さん、事は慎重を要します。強引な捜査で、焦って捕まえた犯人が間違っていたら言い訳のしようがありません。ここは多少遠回りでも、もう一度高校関係者の洗い直しをやるべきです。今ならまだ間に合います」

「佐野警部、君は自分の立場が……」

 鳥梨がついに激昂して立ち上がり、何かを叫ぼうとした。佐野も何か覚悟を決めたかのように静かに目を閉じる。

 まさにそのときだった。

 けたたましい無線音声が署内全域に響き渡った。

『警視庁より各局。警視庁より各局。杉並区荻窪・中谷高校の敷地内において他殺体発見の通報あり。被害者は先の女子高校生殺人事件の被害者が所属していたのと同じ新聞部の部員であるとの情報。同事件の捜査本部、および関係各所の人員は、至急現場に急行せよ。繰り返す……』

 その瞬間、今まさに何かを言おうとしていた鳥梨の表情が大きく歪み、隣で佐野が「やられた……」と呟くのを、蓮はしっかり見て取っていた。


 現場に到着し、新聞部室に飛び込んだ蓮は、思わず吐き気を感じて口を手で押さえた。それぐらい現場の状況は凄惨だった。

 被害者は新聞部の壁にもたれかかるように座り込み、全身血まみれでうつむいている。右肩と左肩にそれぞれ小型の刃物が刺さり、両足からも出血しているようだ。流れ出した血液が床を褐色に染め、きつい金属臭を放っている。そして、そのうつむいている被害者の眉間にも数センチ程度の穴が開いていて、そこからも血がポタポタと落ちていた。

「惨いな」

 先着していた佐野がそんな感想を漏らす。隣で遺体を見ていた検視官が、小さく首を振って所見を述べた。

「至近距離から眉間に銃で一発。それで即死だ。後ろの壁に貫通した銃弾が埋まっている。それと両足首と左肩にもそれぞれ一発ずつ。左肩の銃痕の上にはバタフライナイフが刺さっている。しかも、腹部と背中にも内出血があって、とどめに右肩にはペーパーナイフときたもんだ。こりゃ、殺される前に相当痛めつけられているな」

 聞いているだけでも胸が苦しくなってくるような殺害状況だった。明らかに先日の高原恵殺害とはレベルが違う。何より、女子高生が射殺されるという事態に、蓮は背筋が薄ら寒くなっていた。

「被害者は橋中詠江。この高校の新聞部二年生。朝、登校してきた同じ部の部員が部室の鍵が開いているのを不審に思い、中を確認して死体を発見、通報したとの事です。発見者には、今別室で落合警部が話を聞いています」

 所轄の刑事から話を聞いていた野々宮が報告する。

「死亡推定時刻は?」

「今日の朝の五時くらいじゃないかね。死んでからそこまで時間は経っていない」

 検視官がぶっきらぼうに答える。蓮は今まで見た事のない凄惨な現場に、思わず顔をそらせそうになる。

 と、そのときだった。

「警部。これが」

 野々宮が袋に入った何かを佐野に差し出した。それを見た瞬間に、佐野の表情が一気に厳しくなる。

「あったか……」

「ええ」

 何か重苦しい雰囲気が二人の間に起こる。蓮は恐る恐る佐野に話しかけた。

「あの、何かあったんですか?」

「……これを見たまえ」

 差し出したのは、一枚の金属カードだった。真っ黒に塗られたカードに女性の絵が書かれている。

「その女性は出雲阿国。このカードは、やつが仕事の現場に必ず残すものだ。そうする事で、これが自分の犯行である事を明確にする目的があるらしい」

「……それって、まさか」

 佐野は頷くと、遺体を見下ろした。

「つまりこの殺しはやつの仕業。となれば、この被害者こそが、やつが引き受けていた高原恵殺害事件の真犯人という事になる」

「そ、そんな……」

 蓮は思わず遺体の少女を見ていた。あれだけ捜査本部を苦しめていた真犯人が、まさかこんな少女であるなどとは思っていなかったのだ。

「でも、どうして。何でこんな子が……」

「それを確かめに行く」

 と、部屋の入口から遅れてやってきた国友が顔を見せた。

「あぁ、お早いですね」

「鳥梨さんは?」

「呆然としていますよ。やれやれ、こうなっては『黒紳士』の異名も返上ですかね」

 この惨状にもかかわらず平然と会話を進める国友に対し、佐野は近づいてこう耳打ちした。

「カードが見つかりました」

「……では、この子が?」

「間違いないでしょう」

「してやられましたね」

 国友は一瞬苦い表情をしたが、すぐに真剣な表情で佐野に問いかけた。

「それで、佐野警部、あなたはこれからどうなさるつもりですか?」

「依頼人の逮捕に向かいます。鳥梨さんもああですし、ここ、お任せしても?」

「わかりました。依頼人の事はお任せします」

 佐野が蓮の方へ振り返る。

「一緒に来てくれ。君は確か、依頼人に心当たりがあるんだったな」

「え、ええ」

 蓮の頭に恵の父親の顔が浮かぶ。

「やつの仕事が遂行された以上、もう遠慮する必要はない。依頼人を逮捕するぞ」


 高原政信は自宅の仏壇の前で届いたばかりの封筒の中身を見ていた。『報告書』……そう表紙に書かれた紙の束で、そこには『復讐代行人』が暴きだした、事件の真相が余す事なく記されていた。


『……以上が本案件に関する報告になります。この報告書の送付を持ちまして、本件における高原様との契約を終了いたします。なお、同封のICチップには標的に対する追及、及び殺害を行った際のICレコーダーによる音声記録が収録されていますので、そちらもご確認ください。

 事前に申し上げました通り、本報告書及びICチップの破棄・意図的な紛失は制裁の対象となります。また、依頼人の自殺に関しても一切許しておりません。仮に今後いかなる理由であれ高原様が自殺された場合、高原様が一番大切に思われている人間が代わりに制裁される次第となりますのでご注意ください。ただし、依頼遂行後の自首等に関しては一切制限を課しておりませんので、自責の念に耐えかねた場合は自首する事をお勧めいたします。自首もしくは逮捕された場でどのような証言をしようとも、当方は一切関与いたしませんし、制裁するつもりもございません。

 それでは、高原様の今後の御健闘をお祈りいたします

敬具』


 すべてを読み終えると、政信は紙の束を仏壇に供え、そのまま放心したようになってしまった。まさか恵と同じ部の人間が犯人で、しかも以前にも殺人を犯していたというのは政信にとっても予想外の話だった。

 だが、そんな政信の胸に去来しているのは、娘の復讐を成し遂げたという達成感ではなく、何ともいえない虚無感であった。恵の復讐をする。それを望んで殺し屋に依頼をし、実際に犯人が死んだというのに、まったく気分が晴れないのだ。

「恵、私は……私はお前の敵を討った。敵を討ったんだ。それなのに……」

 写真の中で微笑む恵に対し、政信はまともに顔を見る事ができなかった。

「教えてくれ、私は……私はこれでよかったのか? お前は、これで喜んでくれているのか……教えてくれ……頼むから、教えてくれ!」

 最後は振り絞ったような声だった。だが、恵は答えない。誰もその問いに答える者はいない。

「こんなはずじゃない……こんな、はずじゃなかったんだ……こんな感情なんて、嘘だ」

 予想外の感情に、政信はただひたすらに戸惑っていた。これでは、何のための復讐だったのかさえわからない。政信は頭を抱えて呻き始めてしまった。

 と、そんなときだった。突然玄関のインターホンが鳴り、政信は思わず体を震わせた。だが、来客はしつこくインターホンを鳴らし続ける。

 政信はよろめきながら立ち上がった。そこには復讐を成し遂げた爽快感などない。ただの後味の悪さ、何かを無くした喪失感だけが漂っている。

 玄関に向かい、扉を開ける。そこにはスーツ姿の男と、あの事件のときに自分に話を聞いていた若い女性刑事の姿があった。

「高原政信さん、ですね?」

 男の言葉に、政信は疲れた様子で頷く。

「警察庁刑事局の佐野と申します。私がなぜ来たのか……おわかりですね?」

 それで政信にはすべてがわかった。依頼のときに出雲が示唆していたように、来るべきものが来たのだ。政信は力なく頷く。それを見て、女性刑事……確か、尼子蓮と名乗っていたのを政信は覚えていたが……は、遠慮がちに、しかし目に力をこめて宣告した。

「高原さん、橋中詠江殺害事件についてお尋ねしたい事があります。ご同行、願えますか?」

 もう充分だった。政信は再度無言で頷くと、家から外に出た。同時に、後ろにいた刑事たちが家の中に乗り込んでいく。

「……残念です」

 蓮が泣きそうな顔でそう呟くのを、パトカーに乗ろうとした政信はぼんやりとした頭で聞いていた。


「おい、どうなってるんだ!」

 荻窪中央署の廊下を歩いていた蓮の元に、落合が駆け寄ってきた。

「落合さん……」

「高原政信が今朝の橋中殺しを自供したって本当か? しかも、橋中が高原恵殺しの犯人だと確信しての復讐殺人だって?」

 『復讐代行人』の事を知らない刑事に対しては、政信の逮捕はそのように伝えられていた。もちろん、蓮はそうでない事……間に『復讐代行人』が関与している事を知っている。だが、それを落合に言うわけにはいかない。

「そうらしいです。私も詳しい話は聞いていませんが……」

「けど、どうして橋中が! 橋中に高原恵を殺す動機なんかあったのか?」

 落合にとってはまさに青天の霹靂でパニック状態なのだろう。だが、蓮はその理由もよく知っていた。

 高原家を捜索した結果、仏壇の前に『復讐代行人』から送られた詳細な調査報告書が発見され、そこに事件の真相のすべてが書かれていたのだ。さらに同時に発見されたICチップには橋中詠江が出雲の追求に対して罪を認める発言まで記録されており、詠江の容疑は決定的になりつつあった。その報告書の中に、詠江が恵を殺害するにいたった動機……すなわち、三年前の尾澤中学での殺人事件の事も書かれていた。

 もちろん、報告書に書かれていたとは言えないので、蓮としてはこう言う他ない。

「それが、事態を把握して警察庁の方々が橋中詠江の自宅を捜索した結果、彼女が三年前に起こったある殺人事件に関与している疑いが出てきまして」

「三年前の殺人事件、だと?」

「中野区の尾澤中学という場所で起こった生徒の転落死事件です。事件は担任教師の犯行と断定されて終わっていますが、どうもこの犯人が橋中だったようで……。高原政信の話では、被害者は新聞部の取材でその事件を調べていた矢先に殺害されたとか」

「そんな事が……」

「橋中は殺害の際に高原恵の所持していたそれ関連の資料を全部奪っていたようです。その資料が自宅の自室から発見されました。警察の捜査に引っかからなかったのもそのせいみたいですね。ついでに、消えていた被害者の通学鞄も同じ場所から見つかっています」

 これは本当だった。彼女の自宅の自室から、事件当夜に彼女が恵から奪った資料と通学鞄が発見されたのである。こんなものはさっさと処分すればいいはずなのだが、詠江としても何か思うところがあったのかタンスの奥に大切に保管してあったのだという。

 ちなみに、資料の内容には事件の概要こそ書かれてあったが、特別に詠江を糾弾するような記事は一切確認できていない。どうやら、本当にまだ調べ始めの段階だったようで、これ以上調べられるのを恐れた詠江が先手を打って殺害したというのが真相のようだった。

「……くそっ! あの女、俺の前ではそんな素振り一切見せやがらなかったのに」

 落合は壁に拳を叩きつけて悔しがる。昨日本人に会っているだけに、なおさら屈辱的なのだろう。

「……だが、待てよ。彼女にはアリバイがあったはず。それはどうなったんだ?」

「それも何とか目処が付きそうだと、佐野さんは言っていました。私も詳しい内容は知りませんが」

 本当は『報告書』を読んでいるので知っているのだが、落合に言うわけにもいかず、蓮は歯がゆさを感じていた。実は、現場からは発見者の江崎コノミが前日に無くしたはずの財布に入っていた定期券だけが発見されており、肝心の財布は彼女の自宅のポストに放り込まれていた。『報告書』の内容から、改めてコノミの定期券の記録調査が行われている段階らしい。明らかに『復讐代行人』の仕業であると、佐野は断定していた。

「全部、警察庁の連中の大手柄ってわけか。くそっ、俺たちはいい笑い者だな」

「そうでもないようですよ」

 蓮は控えめにそう言った。そんな蓮の視界の端に、廊下に置かれた長椅子に腰掛けてうなだれている鳥梨の姿があった。

 『報告書』には、事件の真相を明らかにするために出雲が警察、というよりも鳥梨を利用して詠江を動かしたという事実まで書かれていた。この記述により普段慎重な出雲が今回に限ってあえて依頼の事実を警察にばらした理由が判明したが、同時に鳥梨がまんまと出雲に利用されて今回の橋中詠江殺害の引き金を引かされてしまった事まで発覚してしまったのだ。

 鳥梨にとっては面目丸潰れどころの話ではない。警察が殺人に利用されたとなれば、下手をすれば鳥梨の進退にもかかわってくる。実際、佐野の話では出雲の思惑に気付かずにまんまと利用されてしまった鳥梨に対し、今まで大目に見ていた上の評価も厳しいものになりつつあるという。しかも佐野や国友が出雲の行動を怪しむ中で強引に捜査を強行し、反対した国友を捜査から遠ざけてしまっているのだから弁明の余地はない。

 いや、それを言えば蓮だってまったく責任がないとはいえない。何しろ、出雲は凛が蓮の妹である事実を知ってこの罠を仕掛けてきたのだ。つまり、その罠に乗せられてしまった責任が蓮にない事もない。もっとも、相手が勝手に蓮の姉妹関係を利用した形になるのでさすがに鳥梨のように進退に直結するというわけではなかったが、それでも蓮の心には後味の悪いものが渦巻いていた。

 と、向こうから佐野が歩いてきた。

「ああ、ここにいたか」

 佐野は蓮の元に近づいてくる。

「少しいいか? 話がある」

 蓮は迷ったように落合の方を見た。落合はため息をついて手を振る。

「行ってやれ。いい経験だろ」

「す、すみません」

 蓮は頭を下げる。佐野は「お借りします」と一言断ってから、蓮をつれて廊下を歩き始めた。

「どこへ?」

「取調室だ。高原政信の取調べをしている。君にも立ち会ってほしい」

 佐野は簡単に答える。その言葉に、蓮は思わず緊張する。

「高原さんは……」

「スラスラと話している。だが、少し気がかりな点があってな」

 そうしているうちに、取調室の前に到着する。中に入ると、国友と野々宮の二人が取調べを担当していた。

「では、あなたが『復讐代行人』の事を知ったのは……」

「はい。事件から一ヶ月経ったある日、恵の同級生が生前恵の調べていた文化祭用の資料を持って来ました。その資料を読んで、恵が生前に『復讐代行人』の都市伝説について調べていた事を知りました。私は、娘が何を調べていたのかさえ知らなかった。改めて娘の自室を調べたら資料の続きも保管されていて、そこに依頼の方法が書いてありました」

「それで、依頼したんですか?」

「ええ。秋葉原で直接会って。五千万円を振り込んで……後は待つだけでした。彼女は、見事に復讐を成し遂げてくれました。娘も、これで喜んでくれていると思います」

 そう言う政信ではあったが、なぜかその表情は暗い。国友と野々宮は気まずそうに互いを見つめ合った。

「本当ですか?」

 不意に、佐野が尋ねる。政信は顔を上げた。

「本当にそう思っていますか?」

「……」

「正直に話してください」

 しばらく政信は耐えていたようだが、やがて力なくうなだれるとこう呟いた。

「今は……ただ空しいだけです」

「……でしょうね」

 佐野はそう言ってため息をついた。

「今までの依頼人もほとんどそうでした。……それが、復讐というものですよ」

 その言葉に、今までうなだれるだけだった政信が嗚咽を漏らし始めた。

「私は……ただ、恵のために……」

 そのまま泣き始めてしまった政信に対し佐野は首を振ると、後を国友たちに任せて連と一緒に部屋を出る。そして、そこでいきなり蓮に尋ねた。

「どう、思う?」

 一方、そう聞かれた蓮にも戸惑いの表情が浮かんでいた。

「お、おかしいです。こんなの、絶対におかしい」

「だろうな。だからこそ君を呼んだんだ」

 そう言うと佐野はずばり言った。

「ずばり聞くが、事件直後の捜査で、被害者・高原恵が書いていたという記事の資料……高原政信が『同級生から受け取った』という資料はあったのか?」

 それに対し、蓮ははっきりとこう答えた。


「い、いいえ。そんな資料、事件後の新聞部室の捜査では発見されていません!」


 そうなのだ。事件後、警察は新聞部員に話を聞いた際に、新聞部室の恵のデスクを調べている。が、そのデスクにそんな資料らしきものは存在していなかったはずなのだ。

 確かに当時は通り魔説が大半を占めていたので部室のデスク周辺しか調べてはいなかったが、それでもそんなものがあれば警察が見逃すはずがない。何しろ殺し屋の噂話を調べていたという内容なのだ。しかもその内容からして、もしそんなものが見つかっていれば即座に国友警部が佐野たち特別捜査本部に連絡しているはず。それがなかったという事は、その時点で資料など存在していなかった……つまり、警察は彼女が資料を作っていなかったと誤解させられてしまった事を意味する。

 実際、さっき詠江の自宅から被害者の資料が見つかったという話をしたときも、落合は詠江が恵の資料をすべて奪って隠していたと判断していたはずだし、凛自身もこの話を聞くまで資料は詠江の自宅から見つかったものがすべてだと判断していた。だが、実際はそうではなかったのだ。詠江は資料の中で自身に関係ある尾澤中学関連の記事を奪っただけで、残りは現場に残していたのである。考えてみれば資料がすべてなくなれば他の部員が怪しむはずだから、犯人が詠江だとするなら資料の一部しか持ち去らなかったのは納得できる行動である。しかし、事件後にその残された資料は紛失した。

 そのないはずの資料を……正確には「なかった事にされた」資料を政信に渡した人間がいるのである。

「そもそも、新聞部員の話では、被害者のテーマを事前に聞いていた人間は皆無だ。彼女はどうも秘密主義で、発表直前まではテーマを明らかにしないのが普通だったらしい。……たった一人の例外を除いて、だが」

「たった一人の、例外?」

 その瞬間、蓮の頭の中で何か危険信号がともった。何か、とんでもない事が起ころうとしている。そんな直感が働いていた。

 だが、佐野は無常にもその事実を告げる。

「高原恵からあらかじめ彼女のテーマを聞いていて、そして高原政信の家に問題の『ないはずの資料』を届けた人間はな……」

 佐野はその名を告げた。


「尼子凛。君の妹、だそうだ」

 その瞬間、蓮の頭の中は真っ白になった。


「状況から考えて、高原恵殺害事件の犯人が橋中詠江なのは間違いない。定期券に『報告書』、尾澤中学の事件、ICチップの自供。あらゆる事実が彼女を指し示しているし、出雲が間違った人間を標的にするとは思えない。だから、犯人は疑う余地なく橋中詠江だ。また、出雲に橋中の殺害を依頼したのは高原政信。これも本人が自供している以上、間違いはないだろう。だが、この事件はどうやらそれだけじゃない。どんな形かは知らないが、君の妹が殺人とは関係ないところで事件にかかわっている。これを解決しない限り、やつも……出雲も止まらないぞ。下手をすれば、更なる事態に発展しかねない」

 佐野の言葉が蓮の頭で渦を巻く。すでに街には夕暮れが迫ろうとしている。蓮は凛の自宅……すなわち、自分の実家へと覆面パトカーを走らせていた。無我夢中だった。佐野の言葉を聴いた瞬間、そのまま署を飛び出して覆面パトカーに飛び乗っていたのだ。

 橋中詠江の遺体の第一発見者となった凛は、午前中に事情聴取を受けた後、すでに帰宅しているはずだった。だが、携帯電話に凛は一切出なかった。

「凛ちゃん、あなた、何をしたの……」

 運転しながらも凛は困惑気味に呟く。わけがわからなかった。信じていたはずの自分の妹が、突然得体の知れない何かになってしまったような感覚だった。

 状況は明白だった。彼女は……尼子凛は警察が調べる前に新聞部室に残されていた恵の資料の残りを回収し、それを一ヶ月後に「部の代表」として高原政信に返却しているのだ。明らかに警察から第一級の証拠を隠す行為に他ならない。警察官の妹で現場の証拠の重要性を知っているはずの凛が、そんな事を偶然するとは思えなかった。

 やがて連のパトカーは実家の前に到着する。が、家に明かりはついていない。蓮は焦る気持ちを押し殺して鍵を開ける。

 家の中は静かだった。人のいる気配はない。蓮は部屋の中に入ると手前の和室を覗いた。

 そこには真新しい二つの位牌が飾られていた。

「お父さん、お母さん……」

 蓮と凛……二人の両親は一年前に交通事故で他界していた。そして、当時すでに警察寮に入っていた蓮に対し、凛はこのまま一人でこの家に住む事を決断したのだ。蓮は反対したが、他に頼れる親族もなく、結局蓮が毎月給料を仕送る形でこの生活は続いていた。もっとも、蓮も時間があればよく家に寄っていたし、この奇妙な生活はうまくいっていたはずだったのである。

 だが、家中を探しても凛の姿はなかった。表の車庫を見ると、いつも乗っていたはずの自転車もない。凛がまだ帰っていないのは明白だった。

「どうして……どうしてなの!」

 蓮はそう叫ぶと、パトカーに飛び乗った。と、無線に連絡が入る。

『佐野だ。彼女は自宅に?』

「いません!」

『そうか……どうやら、状況は切迫しているようだ』

 佐野の言葉に蓮は不安を感じる。

「どうしたんですか?」

『さっき、本部から連絡があった。「東」が動いている』

「東?」

『出雲がよく使っている情報屋だ。出雲が使っているだけあって普段は動向がまったく読めないんだが、今日に限ってなぜか派手に動いている』

「……罠ですか?」

『わからん。だが、鳥梨さんの失敗があるせいで、このあからさまな動きに対して上層部も動くのに躊躇している。あるいはこれが出雲の目的かもしれない』

「警察を動かさないために、という事ですか?」

『だが、これで警察が動かないのもせいぜい一日くらいだ。逆に言えば、出雲は一日ですべてを終わらせるつもりなのかもしれない』

 蓮の心臓の鼓動が早くなる。

『妹さんが行きそうな場所に心当たりはないのか?』

「わかりません……探してみます」

『念のためにもう一度自宅の中を探してみるのはどうだ? 手がかりがあるかもしれない』

 佐野のアドバイスに、蓮はキーを回すのを止めた。確かに、パッと見ただけで詳しくは調べ切れていなかったかもしれない。

「……そうしてみます」

『自宅には野々宮を行かせる。君は心当たりを探せ。私も上層部と交渉してみよう』

「はい」

 無線が切れる。蓮はパトカーを降りると再び家の中に入る。ひっそりと静まり返った家の中を進み、二階にある凛の自室に足を踏み入れる。部屋の中はきれいに整頓されていて、机の横には凛の鞄もあった。少なくとも、事情聴取の後に一度この部屋に戻ってきたのは間違いないらしい。

 蓮はまず凛の鞄の中を調べる事にした。本来なら警察が勝手に所持品をあさるのは問題だが、唯一の家族である蓮なら問題はない。何より、プライバシーがどうのと言っている場合ではなかった。

 中には文房具や教科書などの他に、新聞部の資料なども多くあった。が、内容は凛自身が調べていたゲームに関する資料ばかりで、特段変わったものは見つからない。

 次に机の周辺を調べる。だが、こちらも成果はほとんどなかった。諦めかけた凛の目に、部屋の隅に置かれたディスプレイと据え置き型のゲーム機が目に入る。周りには何本ものゲームソフトが並び、その中には明らかに女子高生がするようなものではないミリタリー物のゲームのパッケージまで見えた。

「まったく、こんなものばっかり買って……」

 そう言って部屋を出ようとしたときだった。蓮は不意に何か違和感を覚えた。咄嗟に部屋の中を振り返る。そして、蓮はその違和感の正体をつかんだ。

 ゲーム本体の電源は切れていたが、ディスプレイの電源が入れっぱなしなのだ。長年一緒に暮らしてきた蓮にとって、一見何でもないよう見えるこの事実はあまりに見過ごせないものだった。なぜなら、凛はこういう細かい事には非常に厳しい性格で、特に一人暮らしをするようになってからはテレビの主電源などをしっかり消すようになっていたはずなのである。蓮自身、凛がゲームをしているのに何度か立ち会った事もあるが、ゲームを終える際には常に自然な動作でディスプレイの電源を落としていた。そんな凛がディスプレイの電源を入れっぱなしにしたまま出かけている。姉である蓮だからこそわかる違和感だった。

 思わずゲーム機を触ってみると、まだ温かい。ついさっきまで電源が入っていたかのようだ。蓮は緊張した面持ちになると、改めてゲーム機の中を確認する。

「え?」

 ゲーム機には何のソフトも入っていなかった。どころか、棚にずらりと並んだゲームソフトには埃がかぶり、最近使った形跡が一切ない。つまり、ここ最近凛はゲームで遊んでいないのだ。ならば、凛はこのゲーム機で一体何をしていたというのだろうか。

 蓮は震える手でゲームの電源を入れた。妹と違って、蓮にはゲームの知識などほとんどない。だから、しばらくして出てきたメニュー画面を見ても何がなにやらさっぱりわからなかった。

 と、そんな時、蓮の携帯電話が鳴った。相手は、つい最近番号登録したばかりの野々宮刑事だった。

「は、はい」

『ああ、僕です。今、家の前にいるんだけど、入っていいかな?』

 こんな状況だというのにややお気楽な声だったが、それでもその芯に緊張したものが含まれているのが蓮にもわかった。

「二階に来てください。お願いします!」

 蓮は咄嗟に叫んでいた。それから数分後、野々宮が凛の部屋へと駆け込んできた。

「ごめんごめん、これでも急いできたつもりなんだけど。……で、何かわかった?」

 最後はさすがに真剣だった。蓮は黙ってゲーム機を指し示す。

「据え置き型のゲーム機、か」

「でも、中にゲームは入っていなくて。私、こういうのは苦手なんです」

 野々宮はそれを見ながらしばらく考えていたが、不意にこう呟いた。

「ネットじゃないか?」

「え?」

「今のゲームは確かインターネットもできたはずだよ」

 そう言うと、野々宮はコントローラーを受けとって軽く操作する。すると『インターネット検索』という項目が画面に現れた。

「ゲームでインターネットができるんですか?」

「最近のゲームはほとんどパソコンとスペックが変わらない。もちろん本家のパソコンに比べればやれる事に制限はあるけど、ネット検索や動画視聴くらいなら簡単にできる。こういう据え置き型はもちろん、携帯型ゲームでもネット通信に関してはパソコンの代用が可能なくらいだ」

 そこで野々宮は蓮を振り返った。

「この家にパソコンは?」

「えっと、ノートパソコンは一台あったんですけど、凛が『必要ないから』って私に譲ってくれて……」

「必要ないって言ったのは、多分これがあったからだ。ネットで調べ物をするだけならこれで足りるし、記事自体は学校の部室のパソコンで書けばいいからね」

 さすがに特別捜査本部にいるだけあって、軽い調子とは裏腹に野々宮もなかなかに頭の切れが鋭かった。野々宮は検索項目の場所でボタンを押す。すると、文字を打ち込むパネルが画面に現れ、その横に単語がずらりと並んだ。

「こっちの単語は今まで検索してきた単語だね。何回も打ち込んだ単語は、こうして候補として羅列されるから、この単語を見れば、彼女が何を調べていたのかある程度は推測できる」

 そして、実際にそこに羅列されている単語は、ある意味蓮たちの予想通りのものだった。

『復讐 都市伝説 殺人 復讐代行人 噂……』

 実際に目の前に現れた単語に、蓮は絶句する。

「やっぱり、彼女、出雲の事を調べていたみたいだね」

 それは、凛が何らかの形で今回の事件に関与しているのを示す決定的な証拠であった。だが、蓮の目を引いたのはそれらの単語ではなく、一番下にある単語だった。

『松彦神社』

 聞きなれない神社の名前だった。だが、その分普通はネット検索しそうにもない言葉である。野々宮もすぐにその単語に気付いたようだ。

「……これ、検索してみようか」

 野々宮はその単語を選択して実際に検索をかける。するとすぐに蓮でも見覚えのある大手検索サイトの検索結果ページが画面に現れた。その一番上に出たサイトをクリックする。


『松彦神社は東京都杉並区荻窪に位置する神社である。一九六八年から神主や氏子もいない無人の状態が続いていたが、近年になって周辺の宅地開発に伴って近隣の北梅神社と合祀される事が決まり取り壊しが決まった。が、宅地開発におけるトラブルの影響から取り壊し工事は無期限延期されている状態で、現在では入口も封鎖され、訪れる人間もほとんどいない』


 場所を見て驚いた。凛が通っている中谷高校から数百メートルほど行った団地の片隅である。

「……この辺は宅地開発の失敗で、最近でも空き家が増え続けている場所だったはずだ」

 野々宮がポツリと呟く。蓮は妙な胸騒ぎがした。なぜ、凛がこんな場所を調べていたのかまったくわからなかったのだ。思わずその場に立ち上がる。

「行くのか?」

「手がかりはこれしかありません。行ってみるしか……」

「……わかった。警部には僕から伝えておく」

「野々宮さんは?」

「僕はもう少しこの家を調べてみる。もしかしたら、彼女が帰ってくる可能性もわずかだけどあるしね」

 野々宮は相変わらずお気楽そうに言うが、それが野々宮のスタイルだという事を蓮もいい加減にわかるようになっていた。

「わかりました、お願いします!」

「絶対に無理はしないように」

 その言葉を聞くと、蓮は家を飛び出して覆面パトカーに飛び乗っていた。エンジンをかけ、問題の神社のあるところへとパトカーを走らせる。途中で中谷高校の前を通りかかったが、何しろ殺人事件が起こったばかりなので人影らしい人影もない。

 やがて車は狭い道路に入り、人気の少ない団地へと向かっていく。こんな時間にもかかわらず明かりのついていない家がほとんどで、住人が減っているというのは本当らしい。

 その片隅に問題の松彦神社はあった。この辺りだけはちょっとした雑木林になっていて、入口の石段には立ち入り禁止のつもりなのか鳥居にロープが巻きつけてある。だが、その鳥居のすぐそばを見て、蓮は息が止まるかと思った。

 そこに、見覚えのある自転車……凛の自転車が停めてあったからである。

「凛……」

 蓮は神社から少し離れたところにパトカーを停めると、周囲を警戒しながら神社の前にたどり着く。改めて近くで見ると、自転車は間違いなく凛のものだった。彼女がここにいるのは、どうやら間違いないようである。蓮は一瞬迷ったような仕草をしたが、やがて意を決してロープを潜り抜けると、境内へと続く石段に足を踏み入れた。

 石段は両脇を深い雑木林で囲まれ、しかも長年人が足を踏み入れていないせいか落ち葉や雑草だらけで歩きにくい。何が出てきてもおかしくない雰囲気だが、蓮は勇気を振り絞って石段を進み続ける。夕刻である上に雑木林で覆われているため視界はほとんど真っ暗で、入口から少し進むとほとんど手探りの状態だった。

 そのまま五分くらい進むと、やがて石段の終わりが見えてきた。どうやら終着点らしい。そして、蓮はその上から何か物音がするのを聞き取っていた。誰かが、この暗い境内の中にいる。

 蓮は咄嗟に石段から脇の雑木林へと足を踏み入れ、木に隠れながら境内を目指した。このまま石段を登って堂々と境内に突入するのはまずいと判断したのだ。音を立てないようにそのまましばらく進むと、やがて境内が見えてくる。蓮は木の陰から境内の様子をそっと見やった。

 境内は開けた広場の中央に石畳の通路があり、そのさらに奥に小さくて古びた社があるだけである。その広場の社の前で、誰かが何かをしているのが見えた。この暗さで人相まではよくわからないが、何かを探している様子なのはわかる。蓮は思わず隠れている木の幹を握り締めて、自分も境内の中に出ようとした。

 そのときだった。


「おいで頂けたようでございますね」


 突然、境内全体に声が響き渡った。蓮は思わず身をすくめ、社の前の人影はバッと背後を振り返る。

 その瞬間、突然境内に明かりが灯った。見ると、境内のあちこちにかがり火の台があって、そこに一斉に火がつけられた様子だ。かがり火の炎で境内全体が揺らめく明かりに照らされる。

 そして、いつの間にそこにいたのか、ついさっきまで蓮が登っていた石段の近くの石畳の上に、上下真っ黒なセーラー服を着た少女が立って、奥の社の前にいる人物を見据えていた。揺らめく炎の明かりが黒のセーラー服と絶妙なコントラストを生み出し、何とも幻想的な佇まいを生み出している。見るのは初めてだが、蓮は彼女が発する強烈な雰囲気にすべてを悟っていた。間違いない。彼女こそが『復讐代行人』……黒井出雲その人だと。

「こうしてお話しするのは二度目でございましょうか。尼子凛さん。あのときはありがとうございました」

 その特徴的な飴玉を転がすような甘ったるい、しかしどこか可憐さも残る声に、社の前の人物……尼子凛は、今までにない真剣な表情で出雲に向き合った。距離にして十数メートル。だが、その間には鋭く張り詰めた緊張感が漂っている。

「……やっぱり、あなただったんですね」

 凛の第一声はそんな言葉だった。

「招待状は無事に届いたようでございますね」

「ええ」

 出雲の言葉に、凛は一枚の紙を取り出した。

「家のポストに入っていました。『今夜六時、松彦神社で待つ』。松彦神社がどこか調べるのに苦労しましたけど、一体こんなところで何のつもりなんですか、日名子さん」

 つまりあのゲーム機の記録は、凛がその事を調べたときに記録されたものらしい。そんな凛の言葉に、しかし出雲は首を振る。

「大和日名子は偽名でございます。黒井出雲、とお呼びください」

「……やっぱり。警察に確認しても曖昧な返事しかなかったから、もしかしたらって思ったけど……」

「その様子では、私が何者なのか、よくご存知のようでございますね」

「……うん」

 凛ははっきり言った。

「復讐代行人、ですよね。恵が調べていた、あの都市伝説の当人」

 凛の口から直接その言葉が出て、蓮は一瞬眩暈がした。信じたくなかった。だが、凛は間違いなく復讐代行人の事を知っているようだった。そして、それに対し、出雲も微笑みで答え返す。

「正解でございます」

「今日起こった詠江さんの事件も、あなたが?」

「その通りです」

「つまり、恵を殺したのは詠江さんだった……そういう事?」

「私はそう判断しました」

「そうだったんだ……」

 凛は一瞬放心したかのようにうなだれる。だが、出雲はそれを許さなかった。

「驚く事はないでしょう。少なくとも、あなたにとってはそこまで意外な結論でもないはずでございます」

「……どういう事ですか?」

 その直後、出雲はとんでもない爆弾発言を凛にぶつけた。

「何しろ、あなたは最初から、橋中詠江が犯人であると知っていたはずでございますから」

 その言葉に凍りついたのは、当の凛本人ではなく、隠れて話を聞いていた蓮の方だった。

「……え?」

 蓮は出雲に聞こえないような小さな声で、思わず絶句していた。一方、告発された凛の方は、不気味なほどに落ち着いた様子で、キッと出雲を睨み返している。

「言いがかりはやめてください。もし犯人がわかっていたなら、すぐに警察に言います」

「でも、あなたは言わなかった。それどころか、私をこの事件に巻き込んで、更なる殺人を誘発した。そうではございませんか?」

 どこか可憐さを残す声ながらも、その口調は恐ろしく冷たい。その剣幕に対し、凛は何かを吹っ切ったかのように大きく手を広げると、

「何を言っているのかまったくわかりません! 大体、どうして私が犯人を知っていたなんてわかるんですか。警察でもわからなかった事を、どうして私が……」

「あの日、直接犯行を目撃したから、でございましょうね」

 出雲の声を遮るように出雲は告げた。凛はそのまま押し黙ってしまう。

「あの日、あなたは午後七時頃まで自宅前で馬渕高成と話をしています。したがって、午後六時十分から七時の間に死亡推定時刻がある高原恵殺害の犯人はあなたではありえません。ですが、それよりも後、あなたは買い物に出かけてアリバイらしいアリバイはないのでございます。一方、高原恵殺害時刻は確かに前述の通りでございますが、それ以降の遺体への細工や自殺偽造に関しては別にこの死亡推定時刻を経過していても問題ございません。しかも、あなたが買い物に出かけたスーパーは中谷高校や遺体発見現場である工場を通った先にございます。つまり、あなたが買い物に行く途中で、遺体に細工をしている橋中詠江を偶然目撃してしまう可能性は、ゼロではないのでございます」

 黙りこんでしまった凛に対し、出雲は推理を続ける。

「決定的なのは、今回の依頼主である高原政信氏が私に依頼するきっかけとなった、この高原恵の資料でございます」

 そう言いながら、出雲は隣に置かれたキャリーバッグを軽く蹴る。バッグの上から紙の束が飛び出し、出雲はそれを手に取るとさらに凛を詰問する。

「政信氏によれば、この資料はあなたが部活の代表という事でわざわざ自宅を訪れてまでお渡しになったそうでございますね。ですが、警察の記録にこんな資料の存在などありません。部室のデスクからそんなものは見つからなかったというのが警察の見解でございます。殺し屋の私が言うのもあれでございますが、警察がこんな重要な証拠を見過ごすはずがございません。つまり、この資料は警察が部室を捜索する前にあなたが隠していたのでございます。では、いつ隠したのか?」

「……」

「事件前という事はございません。何しろ、この資料は橋中詠江が自身に関係のある記事を抜いた残りだからでございます。抜かれた資料は彼女の自宅から押収されたと、先程東さんから報告がありました。橋中詠江が資料を抜いたのは犯行直後、高原恵が殺害されたすぐ後でございます。つまり、この時点で資料は部室に存在したのでございます」

「……」

「にもかかわらず、翌日の新聞部室捜索で資料は見つからず、そのなくなったはずの資料を一ヶ月後にあなたが部の代表という事で高原政信氏に渡し、その結果高原政信氏は私に依頼をした。これが意味するところは一つでございましょう」

 出雲は淡々とした口調で言葉を叩きつける。

「資料を隠したのが高原氏に資料を渡したあなたである事にもはや疑いはございません。では、いつこの資料を持ち出したのか。可能性は一つしかございません。橋中詠江が高原恵を殺し、翌日警察が部室を捜索するまでの間。しかも、警察がまだ捜索の済んでいない部室に関係者である部員を入れるはずがございませんから、あなたが事件の翌朝に学校に来た後で資料を盗むのは不可能でございます。ならば、そのタイミングとは事件の直後、しかも橋中詠江が資料を抜いて自殺偽造をしているまさにその瞬間しかございません。なぜなら、部室が開いているのはその時間帯だけで、詠江が帰ってしまうと部室に鍵がかかってしまうからでございます」

 出雲は蓮にとって残酷な結論を突きつける。

「つまり、尼子凛さん、あなたは少なくとも橋中詠江が高原恵を殺害してから、すべてを終えて帰るまでの間に、現場に足を踏み入れて資料を盗んでいるのでございます。ならば当然、あなたは高原恵が橋中詠江に殺害された事も、知っていなければおかしいのでございます。なぜなら、殺害後とはいえ、あなたはまさにその現場にいたのですから」

 そう言いながら、出雲は手に持った紙の束を宙にゆっくりとした動作で放り投げた。紙はバラバラになって舞い、ゆっくりと炎の明かりを反射しながら神社の境内に落下していく。そんな光景を見ながらも、凛は一言も発しようとしない。ただ、何かに耐えているように時々肩が小刻みに震えている。

「さて……問題は、なぜあなたが犯人を警察に告発せずに、資料を盗んで高原政信氏に渡すなどという行動を取ったかでございます。少なくとも、あなたが証言さえすれば事件直後に橋中詠江は逮捕され、それで事件は終わっていたはずでございます。にもかかわらず、なぜ?」

「……どうせ、それもわかっているんですよね?」

 凛は振り絞るような声で言った。それは、今の出雲の話を、凛自身が認めたという事に他ならなかった。蓮は思わず両手で口を塞いで絶句する。

「おおよそは、でございますが」

 一方、出雲はあくまで冷静だった。そんな出雲に対し、凛はこう問いかける。

「聞かせてください。私の動機、出雲さんは何だと思ったんですか?」

 その問いに対し、出雲は少し黙り込んだが、やがてはっきりとこう言った。

「復讐、でございますね」

「……正解、ね」

 その瞬間、こんな状況にもかかわらず、凛は涙を浮かべた目で微笑んでいた。蓮は信じられない思いで、そんな凛の姿を木陰から見つめるしかなかった。

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