第四章 警察

 出雲が神社で東と密会していたのと同じ頃、荻窪中央署の刑事課ではぐったりした様子の尼子蓮が机に突っ伏していた。

「おい、コーヒー飲むか?」

 部屋に入ってきた落合警部が缶コーヒーを蓮に差し出す。蓮は力なく手を上げるとその缶コーヒーを受け取った。

「すみません、お手数おかけして」

「いや、別にかまわん。俺も飲みたかったところだしな」

 部屋の中は多数の資料で埋め尽くされ、他の刑事たちも自分の席で死神のような表情でぐったりしていた。

「もう一ヶ月か」

「はい。全然進みませんね」

「予想通り、長期戦になってきやがった」

 荻窪中央署の会議室に設置された高原恵殺害事件の捜査本部は事実上の停滞状態にあった。知人などから表立っては動機が発見されなかったことから、捜査は早くから不審者などによる通り魔殺人を視野に入れたものになっていた。その過程で何人か容疑者は浮かんだが、この一ヶ月の捜査でその容疑者の疑いは次々と晴れていく。捜査陣の中にはそもそも通り魔殺人という考え方自体が間違っているのではないかという意見も出てくる始末であるが、そのように主張する刑事も、だとするなら一体どんな動機で彼女が殺されたのかを説明できず、捜査は硬直状態に陥っていた。

 今や刑事課はこの荻窪中央署所属の刑事たちの休憩室のようになりつつある。本庁から来た捜査員たちは道場などで寝泊りしているが、捜査本部全体に倦怠感のようなものが広まりつつあった。

「蓮、お前、前に家に帰ったのはいつだ?」

「さぁ、一週間くらい前でしょうか」

 ボーっとした表情で蓮は答える。ここ一ヶ月は食事を買いにコンビニに行くときか、あるいは近所の銭湯に入りに行くとき以外はずっと仕事をしているような気がする。前に帰ったのは着替えを取りに行った一週間ほど前だったように思える。正直女性としてどうかと思えるような生活をしているわけだが、こんな事、人に言えるわけもない。

 と、そのとき机に置いた携帯電話が振動した。着信は「凛」となっている。

「妹さんだぞ」

「わかっています……」

 くたびれた様子でそう言うと、蓮は携帯電話を手に取った。

「はい……」

『あ、お姉ちゃん。今いいかな?』

 凛の声に、蓮は突っ伏した状態から起き上がった。

「どうしたの、こんな時間に」

『うん、ちょっと学校で気になる事があって』

 凛は珍しく迷ったような口調で言った。

『ねぇ、お姉ちゃん。恵に従姉妹っているのかな?』

 唐突な問いに、凛は戸惑った。

「どうして?」

『実はね、今日学校に恵の従姉妹って子がやってきたの』

「高原恵の従姉妹?」

 蓮が思わず聞き返した言葉に、何気なく会話を聞いていた落合が反応する。

「何だって?」

 近づいてくる落合に、蓮は電話口をふさいで答える。

「今日、高原恵の従姉妹を名乗る人間が中谷高校を訪れたと妹が……」

「そんな話、初耳だぞ」

 二人は顔を見合わせ、蓮は電話口に戻った。

「どんな人だったの?」

『えっと、京都の西城高校の大和日名子さんって名乗ってたよ。全身黒一色の薄気味悪いセーラー服を着て、出雲阿国の書かれた黒のキャリーバッグを引いていた。恵の亡くなったお母さんの妹の娘で、最近になって恵が従姉妹だってわかってやってきたんだって』

「それで?」

『その子、事件の日の恵の事が知りたいって新聞部に話を聞きに来たんだけど……なんだかその、雰囲気が普通じゃなくて、ちょっと気になって電話したの。もしかして、話しちゃ駄目だった?』

「そんな事はないけど……」

 だが、あまりにも怪しすぎる人物だった。

『ごめん、用件はそれだけ。何か後味が悪いから、できれば調べてほしいの』

「……わかった。知らせてくれて、ありがとうね」

『うん。たまには家にも顔を出してね』

 電話を切ると、蓮は落合と顔を見合わせた。

「どういう事ですか?」

「わからん。少なくとも、被害者の親族関係を調べた際に、そんな人間はいなかったはずだ」

 何かがおかしかった。

「おい、西城高校について調べられるか?」

「は、はい」

 蓮は自分のパソコンを立ち上げて西城高校のホームページにアクセスする。そこには学生を写した写真もいくつかあったが、そこに写っている女子生徒の服装は……。

「はっ、似てもつかないな」

 写っているのは黒どころかブラウン系の色合いで、しかもセーラー服ではなくブレザーだった。凛の言っていた「全身黒一色のセーラー服」とは全然違う。

 それを見ると、落合は自分の席に戻って被害者のデータを引っ張り出してきた。しばらく何かを読みふけっていたが、やがて小さく頷く。

「……やっぱり、被害者の母親に妹なんていない。戸籍上、被害者の母親は一人っ子だ」

「でも、認知されていない場合があるんじゃ……」

「そもそも母親の両親……つまり高原恵の祖父母は生粋の東京っ子で、二人とも大学卒業から就職、結婚に至るまで一度も東京を出ていない。しかも亡くなるまで夫婦円満で、愛人の気配も一切なしだ。高原恵に叔母がいるとは思えないぞ」

 二人の表情が緊張した。

「おい、西城高校に電話してその『大和日名子』とかいう女子生徒がいるかどうか聞けないのか?」

「えっと、この時間だと学校は開いていないと思います。明日まで待たないと……」

 蓮が当惑した声を出したときだった。

「どうかしましたか?」

 刑事課の入口から声がかかった。振り返ると、そこには捜査主任の国友警部が立っていた。この男も一ヶ月ほど捜査にかかりきりになっているにもかかわらず、表向きは疲れた様子を一切見せない。

「お、お疲れ様です!」

 蓮が思わずぴょんと跳ねるように敬礼する。が、国友はそれを片手で制すると、二人の元へ近づいてきた。

「何やら緊張した声が聞こえましたのでね。何か新しい事実でもわかったのですか?」

「それが……」

 落合が今までの経緯を話す。すなわち、「高原恵の従姉妹である西城高校の大和日名子」を名乗る人物が、中谷高校を訪れて新聞部員から話を聞いたという話である。

「もちろん、明日になったら西城高校に電話をして大和日名子が存在するかどうかを確認しなければならないのですが、いずれにせよ、怪しい人物には間違いないと思いますので、今後の捜査の重要参考人として考慮する必要性が……」

「それには及びません」

 不意に、国友が落合の説明をさえぎった。その表情が、心なしか険しいものになっている。

「国友さん?」

「黒いセーラー服に出雲阿国のキャリーバッグ……間違いありませんね。まさか、よりにもよってこんなときに出てくるとは……」

 国友は何やら小さく呟いていたが、やがて決然とした表情でこう告げた。

「この一件は私が預かります。あなた方は今まで通りの捜査をしてください」

「は?」

 思わぬ発言だった。蓮は思わず食い下がる。

「どういう意味ですか?」

「言葉の通りです。この件はあなた方には荷が重過ぎます」

 そのまま刑事課を出ようとする国友。だが、そんな国友の前に落合が立ちふさがった。

「待ってください。いくらなんでも何の説明もなしにそれはないと思いますよ」

「そ、そうです! ちゃんと説明してください!」

 蓮もしつこく食い下がる。国友はしばらくそんな二人を見ていたが、やがて声をひそめてこう告げた。

「では、はっきり言いましょう。この件は国家機密に関係しています。それを知るという事は、あなた方も相応のリスクを負う事になりますが、それでもよろしいですか?」

 静かな声だった。だが、それだけに現実味がこもっていて、落合と蓮は一瞬ひるんだ。蓮が混乱した声で問いかける。

「国家機密って……だって、相手はセーラー服を着た少女なんですよね? そんな子のどこに国家機密になりうる話が……」

「とにかく、その覚悟がないなら、この件はここまでです。体を壊しては何ですから、しっかり休みを取って捜査に戻ってください」

 そう言うと、国友は一方的に会話を打ち切ろうとする。

「ですが国友さん! もしこいつが犯人だったら、取り返しのつかない事に……」

 だが、国友はなおも反論する落合に対し、落ち着いた表情でこう言った。

「その心配はありません」

「え?」

「彼女は犯人ではありませんから」

 そう言いながら、今度こそ国友は部屋を出て行く。

「そう、絶対に」

 それが国友の最後の言葉だった。後には唖然とした表情の落合と蓮だけが残される。

「何だ、一体……」

「国家機密って、どういう事でしょうか?」

「俺が知るかよ」

 そう言うと、落合は自分の席に腰掛けてため息をついた。

「もしかして、その『大和日名子』は政治家とか上の人間の関係者なんじゃないでしょうか。例えば警察に関係のある政治家の娘とか。国友さんはそれに配慮して……」

「それはない」

 刑事ドラマではありがちな想像を話そうとした蓮に対し、落合はきっぱり否定した。

「あの人を甘く見ない方がいい。一見すると穏やかな物腰だが、『黒紳士』の異名を持つあの人の気骨は伊達じゃない。事件の犯人であるならば、たとえどんな立場の人間であっても容赦しない生粋の刑事だ。噂だが、かつて愛人を過失致死で死なせた警察庁出身の政治家に対し、上からの圧力を完全黙殺して容赦ない追及で全面自供に追い込んだ事もあるらしい」

「へ、へぇ」

 階級社会の警察では相当な蛮勇である。

「そんなあの人が、上からの圧力に屈するとは思えない。したがって、その黒いセーラー服の少女が上の人間の関係者だとは考えにくい。たとえそうだったとしても、普通ならあの人は容赦なく締め上げている」

「でも、今回はそうじゃないんですよね」

「あぁ、だから国家機密っていうのは本当なのかもしれない。だが、だとするならあの国友さんが追求を諦めるほどの内容の機密という事になる。並大抵の機密じゃ、あの人が諦めるって事はないはずなんだがな」

 落合は考え込む。

「え、えーっと、私、少し外の空気吸ってきますね」

「……そうだな。このまま考え込んでも話は始まらない。気持ちを入れ替えた方がいいかもしれない。行って来い」

 蓮は落合に一礼すると、そのまま薄暗い廊下に出た。

「ふう」

 蓮はため息をつきながら玄関の方へ向かって歩いていった。せっかくそれらしい手がかりが見つかったのに、不自然にそれを取り上げられて何とも後味の悪い話である。

 と、そのときだった。

「あれ?」

 玄関から少し離れた場所にある空き部屋のドアが小さく開いているのが目に入った。あの部屋には何もないはずである。不審に思った蓮が近づくと、暗がりの中に誰かいるのが見えた。

「国友警部?」

 それは、先程部屋を出て行ったばかりの国友だった。どうやら誰かに電話をしているらしく、こちらには気づいていない。興味を持った蓮は、こっそりドアの隙間から会話を盗み聞きする事にした。

 そうとは知らずに、国友は何やら話し込んでいる。

「はい、間違いないようです。今日になって被害者の通っていた学校に現れたという証言がありました。……いえ、今のところは関係者で死亡した人間はいませんので、まだ依頼遂行前だと思われます。ただ、今日の事で向こうも何かをつかんでいるはずですから、時間はあまりないと考えます。……そうです。すぐに鳥梨さんに連絡して、警察庁の特別捜査本部を動かしてください」

 警察庁の特別捜査本部。少なくとも蓮にはそう聞こえた。穏やかでない単語に緊張する蓮に対し、国友は淡々と言葉を続ける。

「久々にやつが尻尾を現しました。とにかく早急かつ慎重に対策を考える必要があります」

 そして、国友はある一言を告げる。

「この一件、あの殺し屋『復讐代行人』を捕まえるチャンスになるかもしれません」

 殺し屋……その言葉を聞いた瞬間、蓮の頭が一瞬にして真っ白になった。そして、うかつにもこのとき、よろめいた拍子にドアに寄りかかって、物音が立ってしまった。


 そして、これが刑事・尼子蓮の人生の転機となる事となる。


「そこにいるのは誰ですか?」

 国友は後ろを振り向かないまま、落ち着いた様子で尋ねた。その落ち着き振りが返って恐ろしさを醸し出しており、蓮はただその場に硬直するしかない。そうしている間にも、国友はゆっくりとドアの方を振り返る。

「あなたは……」

 国友は目を細めてドアに寄りかかっている蓮を見据えた。蓮はその場を動く事ができない。国友は黙って携帯の通話を切ると、蓮に向き直った。

「……今の話を聞いていましたか?」

 国友は静かに尋ねる。詰問している風ではない。が、それだけに今聞いた会話がとんでもないものである事を逆に証明しているようでもあった。蓮は何も言う事ができず、ただその場で震えているだけだった。が、国友にはそれで充分伝わった様子である。

「そうですか……」

 一言そう言うと、国友は黙って蓮の方に近づいた。蓮はさらに縮こまる。

「仕方がありませんね。いい加減な事を話されても困りますし、一緒に来てもらいましょう」

「え……」

 いきなり言われて、蓮は戸惑った。

「ど、どこへ?」

「別に何かしようというわけではありません。ただ、知ってしまった以上、少々厄介な事になりますのでね」

 そう言うと、国友は蓮を促した。こうなってはどうする事もできない。蓮は青白い表情で立ち上がり、黙って国友の後に続いた。深夜の署内は人通りも少なく、すれ違う刑事達も自分の事で精一杯で、二人の様子に気づくものはいない。

 国友が向かったのは、捜査本部の置かれている大会議室のすぐ傍にある第二会議室だった。もっとも平時は倉庫代わりに使われている場所で、案の定、中には誰もいない。だが、国友はそんな事はお構いなしに蓮を中に招き入れた。

「しばらく待ってください」

 国友はそれだけ言うと、そのまま部屋の壁にもたれかかって目を閉じてしまった。蓮はといえば、突然の事にどうすればいいのかわからず、ただ戸惑い続けているだけだ。一体何を待っているのか、それさえもわからぬまま、居心地の悪い時間だけが刻々と経過していった。

 と、待ち始めてから三十分。不意に部屋のドアがノックされた。

「来ましたね」

 国友は目を開けると、そっとドアに近づいてドアを開けた。すると、ドアの向こうから数人のスーツ姿の男たちが入ってくる。全部で三人。三十代から四十代で、何ともいえない威圧的なオーラを発している。

「ご苦労様です」

 国友が挨拶すると、先頭に立っていた三十歳半ばの男が小さく黙礼した。どうやらその男がこの男たちのリーダーらしい。と、その男の視線が部屋の中で硬直している蓮に向いた。

「彼女は?」

「ここの刑事です。秘密を知ってしまったようですので、とりあえず。例の情報を提供した少女の姉でもあります」

 国友が簡単に説明する。

「あ、尼子蓮です」

 蓮の挨拶に対し、男はしばらく何かを見定めるかのようにジッと蓮を見据えたが、怯えたように体を震わせる蓮を見て、その表情を緩めた。

「失礼。怖がらせるつもりはなかった」

 そう言うと、男は一礼して名乗る。

「警察庁刑事局特別捜査本部警視の鳥梨和定だ。同本部の本部長もやっている。よろしく頼む。後ろの二人は主任警部の佐野正警部と、部下の野々宮敬介巡査部長」

 男……鳥梨の紹介で後ろに控えていた二人も頭を下げる。どうやら四十代前後の男が佐野で、もう一人の三十代前半の男が野々宮らしい。いかにもバリバリのキャリア組という風貌と言動の鳥梨に対し、残る二人は生粋の刑事畑の人間という感じがした。

 それはともかく、蓮はガチガチに緊張していた。警察庁の特別捜査本部……それは、さっき国友が携帯で話していた単語そのものである。だが、鳥梨はその後にさらにこう付け加えた。

「もっとも、うちの捜査本部の正式名称は『復讐代行人特別捜査本部』だがね」

 その言葉に、蓮は緊張した表情を浮かべる。『復讐代行人』。確か、この言葉も先程の電話の中に登場していた。そして、国友はそのときこうも言っているのだ。『復讐代行人』は殺し屋である、と。

「……一体何なんですか、その『復讐代行人』って。この事件とどう関係しているんですか?」

 蓮は震える声で尋ねる。それに対し、鳥梨は無表情のまま続ける。

「殺し屋である、という事は?」

「……さっきの会話で聞きました。ただし、知っているのはそれだけです」

「なら、まだ引き返せる。ここから先は聞いたら後には戻れない。聞けば、必然的に君も機密に関与する事になる。それでも聞きたいか?」

 挑むような物言いだった。だが、蓮は青ざめた表情ながらも、即座にしっかりと頷いていた。

「……聞きたいです。私も刑事の端くれですから」

「覚悟あり、という事で構わないか」

 蓮は再度頷く。その体は悲しいほどに震えていたが、目だけは真剣だった。しばしの沈黙が部屋の中を支配する。

「……いいだろう。座りなさい」

 やがて、鳥梨は静かにそう言った。蓮は一礼すると、言われた通りに近くのパイプ椅子に腰掛ける。その体はまだ震えは止まっておらず、椅子が小さくカタカタと揺れている。だが、その表情に迷いはなかった。

 それを確認すると、鳥梨は近くのテーブルに鞄を置き、そこからいくつかの資料を取り出した。

「最初に言っておくが、これから話す事は国家機密に該当する。したがって、今ここにいる我々、及びこの機密を知る人間以外への他言は一切認めない。仮に他言した場合、君の将来に関して一切保障できなくなる。まずは、この点を了承してもらいたい」

 鳥梨の言葉に対し、蓮は唾を飲み込みながらも小さく頷いた。

「わかった。なら、私も君の問いに答えるとしよう」

 そう言うと、鳥梨は語り始めた。

「『復讐代行人』。これは現在ネット上の都市伝説として広く語り継がれている殺し屋の異名だ。ただし、一般の人間はあくまで『都市伝説』の一種……つまりただの噂話に過ぎないと考えている。君はこの都市伝説の存在は知っているかね?」

「いえ……」

 蓮は首を振った。

「ネット上での都市伝説の内容はこうだ。この殺し屋は『標的がわからない復讐目的の依頼』しか受け付けない。だが、一度依頼を受けるとその犯人を必ず見つけ出し、犯人に対してその罪を追求した上で標的の殺害を容赦なく遂行する。つまり、犯人探しと殺害を両方行う稀有な殺し屋。それが都市伝説『復讐代行人』だ。まぁ、普通ならただの絵空事と思われても仕方がない内容かもしれない」

 そこで、鳥梨は蓮の方をジッと見つめる。

「だが、真実は違う。この『都市伝説』と思われている殺し屋は実在している」

 その言葉に、蓮は思わず肩を振るわせた。鳥梨は言葉を重ねる。

「実際にこの殺し屋による犠牲者も発生している。もっとも、一般には通常の殺人事件としてこの殺し屋の存在は伏せ、依頼人の犯行という形で公表しているがね。我々特別捜査班の目的は、この殺し屋『復讐代行人』及び依頼人の逮捕、依頼の阻止、さらに依頼対象となった事件の解決にある」

「い、依頼対象の事件?」

 聞き慣れない言葉に蓮が戸惑う。

「ネット上の都市伝説では『標的がわからない復讐目的の依頼』しか受けないと書かれているが、実際にこの殺し屋が扱う依頼はこれらの風説よりもさらに特殊なものでね。そういう意味で、こいつはその辺にいる金だけで動く殺し屋とは明らかに違う。この風変わりな殺し屋が受ける依頼は確かに復讐目的のものだけだが、復讐は復讐でも『未解決の殺人事件の犯人への復讐』に対する依頼だけだ。つまり、この殺し屋に殺される標的は、いずれも何らかの未解決の殺人事件の犯人でもあるというわけで、つまるところは被害者が犯人として関与していた未解決の殺人事件の特定も我々の仕事になってくるというわけだ」

 蓮は唖然としていた。復讐目的の依頼しか受けないというだけでも驚きなのに、そんなわけのわからない殺し屋など聞いた事がない。思わず鳥梨に聞き返す。

「あの、未解決事件の犯人が標的って事は、依頼段階では誰が標的になるかわからないという事ですよね?」

「当然だ。むしろ、依頼段階で標的がわかっているような事件の場合、こいつは依頼を受け付けない。わかっているなら自分で復讐をしろ、という事らしいが」

「という事は、その殺し屋は自分で標的を推理して殺害に至っているという事ですか?」

「あぁ」

「そ、それってもし標的が違っていたら……」

 だが、鳥梨は首を振った。

「やつが活動を開始して数年になるが、その間、やつが関与した事件における標的の的中率は百パーセントだ」

「百……」

「信じ難い事だが、やつはすべての事件において正しい標的……すなわち未解決事件の真犯人を正しく特定し、そして例外なく殺害している。殺し屋ではあるが、同時にやつの推理力は推理小説によく出てくる名探偵そのものだ。それだけにますますたちが悪い」

「で、でも、標的が殺されている以上、その殺し屋の推察が正しかったか確かめようがないんじゃ……」

 鳥梨は再び首を振る。

「やつはただの推察だけでは動かない。人の命を奪うだけあって、やつは標的特定に際しては綿密かつ徹底的な調査を行う。そして、殺害前に真犯人に対し自分の推理をぶつけ、相手が陥落した段階で初めて依頼を遂行する。そして、依頼遂行後はその依頼過程を記した報告書を依頼人に送付する」

「報告書……」

「実のところ、この報告書こそが依頼人を逮捕する切り札になっている。つまり、報告書を持っている人間が依頼人というわけだ。そして、その報告書に書かれている推理は……悔しいがすべて根拠があり、否定できないものばかりだ。少なくとも、今まではそうだった」

 そこで鳥梨は顔を上げる。

「要するに、やつの犯行は警察にとって二重の意味での敗北になる。つまり、やつの犯行を防げなかったという意味での敗北と、警察が解決できなかった事件を殺し屋のあいつに解決されてしまうという意味での敗北だ。ゆえに、警察庁は我々専属の捜査本部を設立し、こうして『復讐代行人』への対応を極秘裏に行っている」

「どうして極秘に……」

「言った通り、やつは『未解決事件の復讐』という依頼しか受けない。だが『復讐』とは厄介なものでね。この事実が公開されると、自分はどうなってもいいからやつに『復讐』を依頼したいと考える人間が多数出てくるのは必定だ。ゆえに、我々としてはやつの存在を隠すしかない。さすがに一人で未解決事件の犯人を特定する頭脳を持っているだけあって、やつもよく考えている。まさに怪物だ」

 鳥梨は忌々しそうに言った。

 と、そのとき蓮の頭に嫌な予想が浮かび上がった。

「あの……鳥梨警視がここにこうしてきたという事は、もしかして今回の事件に……」

 その問いに対し、鳥梨はしっかりと頷いた。

「国友警部からの報告ではっきりした。やつは今回の事件、すなわち高原恵殺害事件の犯人に対する復讐依頼を受けている」

「ど、どうしてそんな事が……」

 そこまで言って蓮は気づいた。そもそも、国友警部の態度が変わったのは……。

「まさか……」

「気づいたようだな」

 鳥梨は告げた。

「我々が今まで集めた情報における『復讐代行人』の情報は以下の通りだ。一つは普段『黒井出雲』という名前を名乗っているという事。もっとも、これも偽名である可能性が高く、調査の際には別の名前を使う事も多い。肝心なのはもう一つでね。すなわち、見た目は十代後半の腰下まで届こうかという長髪の女子で、上下真っ黒なセーラー服を着込み、出雲阿国の絵が描かれたキャリーバッグを引きずっているという事だ」

「あっ!」

 その特徴に、蓮は思わず声をあげていた。まさしく、今日中谷高校に現れたという謎の少女の格好そのものである。

「国友警部が君たちの話を聞いて、顔色を変えた理由がこれでわかったと思う」

 蓮は思わず大きく頷いていた。

「警視庁捜査一課の各捜査班の係長には、この殺し屋の話はすでに伝えてある。ゆえに、それらしい情報が確認されれば、即座に情報が届き、我々が出動するというシステムだ」

「この殺し屋の事を知っているのは……」

「警察内部では、我々特別捜査本部の人間、階級が警視以上の人間、及び各県警本部の刑事部に所属する各捜査班のリーダーだけだ。一所轄の巡査長でこの話を知っているのは、おそらく君が初めてだろう」

 そこで鳥梨は拳を握り締めた。

「これは久しぶりのチャンスでもある。うまくいけば、やつの犯行を食い止められるかもしれない」

「……どういう事ですか?」

 恐る恐る発せられた蓮の問いに、鳥梨はしっかり答えた。

「基本的に、一度やつに狙われれば逃れる術はない。推理力が高くてほぼ間違いなく標的を特定してしまう上に、殺しの技術そのものも一級品だ。だが、一つだけやつの手から免れられる手段がある」

「それは?」

「依頼遂行前に標的である犯人が逮捕されるか自首する事だ」

 鳥梨ははっきり言った。

「依頼遂行前に犯人が特定されると、その時点で『未解決事件の犯人』というやつが絶対視する条件から外れてしまう。やつが『未解決事件』の復讐という条件に固執するのは、本来復讐は自分でやるか法律に任せるべきであるものであって、それさえもできない人の無念を汲み取るのが自分の役割だと考えているから、と推測されている。ゆえに依頼遂行前に犯人が逮捕された場合、この時点でやつがかかわらずとも司法による断罪や自身での復讐が可能になる事から依頼の存在意義が失われると判断し、やつはその時点で依頼を中止する。やつの犯行を食い止める方法は、現時点ではこれしか確認されていない。つまり、やつが依頼を遂行する前に犯人を逮捕さえできれば、やつの犯行を止められるというわけだ。実際、依頼遂行前に犯人の逮捕に成功したり、犯人が自首したりした事で犯行を食い止められたケースが数件だけだが確認されている」

 そこで鳥梨は苦々しい表情になる。

「だが、やつの犯行は標的が殺されてから初めて発覚するケースが大半だ。依頼遂行前にやつが何らかの依頼を受諾しているとわかる事など稀でね。そのため、警察が依頼遂行前に総力を結集して犯人を捕まえ、やつの犯行を阻止するという作戦を採る事はほとんどできないというのが現状だ。ところが今回は……」

「依頼遂行前に、彼女が高原恵の事件を調べている事がわかった」

 蓮の言葉に、鳥梨は頷く。

「国友警部からの報告では、現段階で高原恵の周囲で出雲による殺人が起こった形跡はない。ゆえに、まだやつは依頼を遂行していない。今ならまだ間に合う」

 そう言うと、鳥梨は目を光らせた。

「やつが現れたのは被害者の通っていた中谷高校の新聞部。悔しいが、やつは今までの事件でも無駄な調査をした事がない。やつが調査したとなれば、それなりの理由があったからこそ」

「では……」

「我々も中谷高校に対する捜査を行う。表向きは新事実発覚のための補充捜査という形をとる。尼子君、君にも参加してもらうぞ。ただし、すべての事情を知った上で、捜査本部から離れて我々と行動を共にしてもらう」

「は、はい!」

「国友警部、それでよろしいか?」

 これに対し、国友は落ち着いた声で軽く反論する。

「事件からすでに一ヶ月半。この段階で何の前触れもなく高校に捜索となると、いささか騒ぎになります。もう少し容疑者を絞った上で、時期を見計らうべきかと思いますが」

「だが、このまま放っておくわけにもいかないだろう。多少強引な事をしても、やつを追い詰める必要がある。このまま放置しておくのは警察の恥だ」

「しかし、補充捜査となるとあくまで任意捜査です。証言者の話を聞くだけで物証の押収などは行えませんし、証言者に拒否されてしまえばそれまでです」

「なら、家宅捜索令状を発行すればいい」

「この状況で家宅捜索令状は出ないでしょう。ご承知の通り、捜索差押許可状には被疑者の氏名や差し押さえるべき物を書く欄があります。被疑者さえ特定できていない現段階で、これを発行させるのはあまりにも無謀です」

「『復讐代行人』が絡んでいるんだぞ」

「だからといって、被疑者の欄に『黒井出雲』の名を書くわけにもいきません」

「そこまで言うのなら、明日、君が直接裁判所と交渉してみたまえ。捜査一課一の古株の君なら、裁判所も納得するのではないか?」

「しかし……」

「これは命令だ」

 最後は少し苛立ったような口調だった。それで国友もついに折れた。

「……わかりました。そこまで言うのならば何も言いません。指示に従います」

 国友は最終的にそう答えた。鳥梨は満足そうに頷くと、そのまま小さくこう呟いた。

「今度こそ、絶対に捕まえてやる」

 鳥梨の呟きに、蓮は言葉を挟む事もできずにその場で固まっている。鳥梨もそれに気づいたようで、軽く咳払いした。

「……ごくろうだった。以後の指示は明日行うので、今のところは下がって結構。ただし、この事は他言無用だ。同僚にも家族にも、な」

「わかっています」

 蓮は小さく頭を下げてそのまま部屋を出た。とたんに、全身から嫌な汗が一気に吹き出す。時計を見ると、刑事課の部屋を出てから一時間程度しか経過していなかった。だが、その一時間の間に蓮の立場は大きく変わってしまっていた。

「どうしよう……」

 まさか自分の知らないところでそんなフィクションの中にしかいないような殺し屋が活動しているなどとは、蓮自身にとっても予想していなかった。まして、その殺し屋が今まさにこの事件に関与しているとは。

「依頼人は、誰なんだろう……」

 そう、殺し屋がいる以上、そこには必ず依頼人がいるはずだ。つまり、今回高原恵の復讐を依頼した人間がいるはずなのである。そして、そんな人間を、蓮は一人しか思い浮かべられなかった。

 被害者の父親……事件の際、あれだけ落胆していたあの人物であるなら……。

「話、聞いておいた方がいいのかなぁ……」

「……やめていた方がいい」

 急に呼びかけられて、蓮は思わず飛び上がりそうになった。振り返ると、そこには鳥梨の背後に控えていた四十代の男が無表情で立っていた。

「あ、えっと、確かお名前は……」

「佐野だ。佐野正」

 主任警部の佐野は落ち着いた様子で淡々とそう言った。最後はやや感情的だった鳥梨と違い、こちらは随分と淡白で感情が読みにくい。が、そのたたずまいには、落合以上のベテラン刑事の風格が漂っていた。キャリアの匂いがしていた鳥梨と違い、この男は間違いなく現場の最前線で活躍してきた歴戦の刑事である。まだ刑事になって日の浅い蓮にも、その程度の事はよくわかった。

「明日の捜査、どうやら私と君が組む事になりそうだ。それを知らせにきた」

「あ、よ、よろしくお願いします!」

 蓮は頭を下げたが、すぐに頭を上げて佐野に向き合った。

「あの、それでやめておいた方がいい、というのは?」

「君は依頼人に心当たりがあるのだろう」

 ずばり言い当てられて、蓮は思わず表情を歪ませる。それを知ってか知らずか、佐野は淡々とこう続けた。

「話を聞こうとしても無駄だ。依頼人には依頼遂行までは出雲の情報を一切話してはならないという約定がある。反すれば依頼中止はもちろん、出雲からの制裁も覚悟せねばならないらしい。ゆえに、出雲の依頼遂行までに依頼人を逮捕する事は、たとえ依頼人がわかっていても事実上不可能だ。下手をすれば依頼人の命まで危うくなる」

「そんな……」

「実際、過去に依頼遂行前に依頼人を逮捕して、依頼を自供した依頼人が殺害されてしまったケースがある。依頼遂行か犯人逮捕まで、依頼人に手を出す事は逆に危険だ」

 そう言うと、佐野は小さくため息をついた。

「今回の件、どうも私は嫌な予感がする。出雲も関係者の中に刑事の親族がいた事はわかっているはず。にもかかわらず、出雲はあえて警察にその存在がばれるような行動をとった。私にはそれが解せなくてね」

「……佐野さんは、どこの刑事だったんですか?」

 思わず蓮はそんな事を聞いていた。が、佐野は気にする様子もなく答える。

「……昔は神奈川県警の刑事部にいた。そのときに出雲絡みの事件にかかわって、以来、こうしてここにいる」

「鳥梨さんは?」

「あの人は半年前の警視昇進と同時に本部長になった人だ。私と違って定期的な人事異動で移籍してきた人で、基本的には現場に出ずに作戦立案をし、私が現場の指揮を採るという関係だ。まぁ、あの人にとって見れば、ここは出世の通過点に過ぎないのだろうがね」

 もっとも、成果を挙げられなくて焦っているようだが、と佐野は冷静に上司の分析をしていた。

「……佐野さんは、殺し屋の事を『出雲』って呼ぶんですね」

 その蓮の言葉に、佐野は小さく眉を動かした。

「よく聞いているね」

「いえ、その、気になって」

「……鳥梨さんと違って、私は事件の最前線で出雲とは直接何度もやりあった。その差、なのかもしれないな。まぁ、聞き流してくれ」

 そんな曖昧な答えをすると、佐野は「明日は頼む」と簡単に言って、そのまま元の部屋へと消えていった。後には呆然とした表情の蓮だけが残されていた。


 翌日、すなわち七月十三日水曜日、中谷高校は混乱状態に陥っていた。放課後になるや否や突然警察関係者たちがやってきたかと思うと、何の前触れもなく補充捜査の実施を告げたからである。

 新聞部の部室にも、部員たちが緊張した様子で集まっていた。

「どうなっているの? 今になっていきなり補充捜査だなんて」

 星代が当惑したように呟く。

「それが、捜査している刑事たちもよくわかっていないみたいなんです。何というか、みんな何をしているのかわからずに生徒から話を聞いているって感じで。証拠の押収なんかもやっていないみたいですし、あくまで今日は関係者の話を聞いているだけみたいですよ」

 馬渕が当惑した声で言う。

「何をしているのかわからないって……そんな事あるのぉ?」

「さぁ。わかりませんね」

 凛はそんな部員たちの声を聞きながら、自分の席に座って考え込んでいた。昨晩、昨日ここにやってきた黒服の少女……大和日名子の事について姉である蓮に知らせたのは自分である。正直、彼女の発するどこか異様な雰囲気が気になって一応知らせておいたのだが、昨日の今日でいきなり警察が学校にやってきてしまった。

 やっぱり、あの大和日名子には何かあったのだろうか。警察が来てから蓮に何度も連絡を取ろうとしているが、一向につながる様子はない。凛は、もしかしたら自分がとんでもない事をしてしまったのではないかと少々焦っていた。

 と、そのとき部室のドアがノックされた。返事を待つ事なく、ドアが開かれて誰かが入ってくる。

「失礼」

 入ってきたのはいかにもエリートめいた格好をした三十代の男だった。背後には他にも何人かスーツ姿の男がいる。

「警察庁刑事局の鳥梨だ。少し、話を聞かせてもらっても?」

「は、はい」

 と、そんな鳥梨の鋭い視線が凛の方へと向いた。

「な、何ですか?」

「君が、尼子凛さん、か?」

「そうですけど……」

「……姉とは似てもつかないな」

 その言葉に、蓮は思わず立ち上がった。

「姉を知っているんですか?」

「同じ捜査本部の刑事だからな。君の話も聞いている」

「姉は今どこに?」

「別の場所に行かせてある。事件の捜査で親族である君に会わせるわけにはいかない」

 鳥梨はそっけなくそう言うと、改めて新聞部のメンバーに向き直った。

「さて、君たちに聞きたい事がある」

「何なんですか。事件の日の事はもう一ヶ月以上前に全部話したはずです。今更答える事なんかありませんよ」

 星代が代表して鳥梨に答える。

「そうですよぉ。一ヶ月も経った今になって何の用なんですかぁ?」

「説明してもらえないと納得できません」

 コノミと詠江も星代に賛同する。だが、鳥梨はそれに答える事なく無表情に告げた。

「状況が変わった。それでこの高校の捜査をもう一度やり直す事になった。それだけだ」

「そんな、急に……」

「安心したまえ。今日は令状がないから任意で話を聞くだけだ。学校側にもその旨を伝えた上で校内での捜査の許可をもらっている。ただ、状況次第では近々家宅捜索をする事になるかもしれない。その点は心においてほしい」

 鳥梨の言葉に、室内の全員が顔を見合わせてざわめいた。

 一方、凛は心内で首をひねっていた。この鳥梨という男は、確か警察庁の刑事局の人間だと言っていた。だが、昔姉から聞いた話では、警察庁は全国の警察を統括するような組織で、いわば管理部署。個々の事件に出てくるような事は通常ほとんどなく、現在まで二十四事件しか登録されていない警視庁広域手配事件や、かつて地下鉄にサリンを巻いた某宗教団体の事件クラスでもない限りはまずないという。

 そんな管理部署の人間が、言い方は悪いがこんなありふれた殺人事件に出てきている時点で、警察の制度を知っている人間からすれば異常である。何かあった。しかも、急に事態を転換させるようなものが。聡い凛は瞬時にそれだけの事を考えていた。

 そして、急に事態を変えたものなど凛には一つしか思い浮かばなかった。つまり、昨日自分が姉に……警察に伝えた情報。すなわち、『大和日名子』を名乗るあの少女。

 だとするなら、鳥梨が初対面の自分の名前を知っていたのも納得がいく。それは、すなわち自分があの情報の提供者だからだ。

 そう考えると、凛は急にここにいる事が不安になってきた。目の前にいる鳥梨の存在が、どこか不気味に思えてくる。

「あ、あの……」

 自分でも気づかないうちに、凛は思わずそんな声を上げていた。

「何だ?」

「その……トイレに行ってもいいですか?」

 鳥梨はしばらく考えていたが、

「入口まで刑事が同行するが、それでよければ」

 そんなわけで、凛は近くにいた苦々しそうな表情の中年刑事と一緒に部室棟のトイレに行く事になった。あのままでは息が詰まりそうだったので、一度気分を整えたかったのだ。

 だが、トイレに行く途中で、同行していた刑事はぶつくさ文句を言い続けていた。

「まったく、何で俺がこんな事を……」

 刑事の愚痴に嫌気がさして、凛は思わず窓から外を見た。外にも何人かの刑事がいて、校内の人間に聞き込みをしているようである。

 と、その中に見覚えのある顔があった。黒縁フレームのメガネをかけた長髪の女性……。

「お姉ちゃん?」

 凛は思わずそう呟いていた。凛の姉……尼子蓮は、凛の見覚えのない四十代の男と一緒に校舎の方へ向かって歩いていった。あまりに突然の出来事で、声をかける余裕すらなかった。

「何だ、蓮のやつ、まだあんなところにいやがったのか」

 と、不意に同行していた刑事が凛の視線を見てそんな言葉を発した。反射的に凛は振り返る。

「え、お姉ちゃんを知っているんですか?」

「知っているも何も、俺はあいつの同僚だ。というより、あいつの教育係といったところか。妹のあんたの事は話だけはよく聞いているよ」

 その言葉に、凛はピンと来ていた。

「もしかして、落合警部さんですか?」

「俺の事、知っているのかい」

 刑事……落合は苦々しい表情のままそう言った。

「はい。お姉ちゃんがたまに聞かせてくれます」

「どうせ俺に対する愚痴か何かだろう。そういえば、あいつ一週間ほど家に帰っていないみたいだが、家は大丈夫なのか?」

 落合の言葉に、凛は首を振った。

「お姉ちゃんは警察の女子寮に住んでいますから。実家には月に何度か顔を出すくらいです」

「あぁ、そうか」

 この際なので、凛は色々聞いてみる事にした。

「あの、どうして警察庁の人がこの事件に出てきているんですか? お姉ちゃんが、普通の事件ではあまり出てくる事はないって言っていたんですけど」

「さぁ、俺にもわからんよ。今朝になって急に捜査本部にやってきて、なぜかは知らないがこの事件を担当するとか言いやがった。で、やってきて早々、どういうつもりかこの学校を補充捜査すると、今までの捜査状況を一切無視して宣言してな。こうしてわけもわからないまま捜査に借り出されているというわけだ。おかげで俺はあのキャリア警視の付き添いだ」

 落合は本当に忌々しそうに言った。本来一般人に話すべき内容ではないはずだが、相当頭にきていたのか遠慮なく話している。

「それで、お姉ちゃんの隣にいた人は?」

「何でも、鳥梨警視の部下らしい。警視直々の要請で、今日の捜査ではあの二人が組む事になった。意味がわからんよ。あいつもあいつで、昨日の夜から様子がおかしいし」

「……昨日の夜、私が電話した後に何があったんですか?」

 その問いに対し、落合はさすがに口をつぐんだ。

「……悪いが、さすがにそこまでは一般人に言えない」

「私が知らせた大和日名子さんについて、何かわかったんですか?」

「今調べているところだ。格段、知らせるような事はない」

 だが、そのときの落合の視線が明らかに泳いでいるのを、凛は目ざとく見ていた。というより、素人の凛が見てもすぐわかるほどに、落合はその視線をさまよわせていた。

「本当ですか?」

「……これ以上、その件について話す事はない。というより、俺自身、何がどうなっているのか知りたいくらいだ」

 最後に少しだけ本音をばらして、落合はトイレを示した。いつの間にか到着していたようだ。

「早くしろよ。こっちも忙しいものでね」

 凛は頷くとトイレに入った。が、入る直前に落合がこう呟くのを聞き逃さなかった。

「上の連中は、一体何を隠しているんだ?」

 凛はそのまま黙ってやり過ごすしかなかった。


 同じ頃、尼子蓮は緊張した様子で佐野と一緒に中谷高校の敷地内を歩いていた。今も新聞部の部室には妹がいるはずだが、鳥梨の判断で蓮は彼女に会わない事が決まっていた。私情を挟む恐れがあるというのだ。

「我々の中では、彼女も容疑者の一人だ」

 鳥梨にはっきりそう言われてしまうと、蓮としても言い返す事はできなかった。ゆえに、こうして新聞部以外の場所での捜査をする事になっている。ただし、他の刑事たちがわけもわからないまま捜査しているのに対し、蓮たちは『復讐代行人』の存在を頭においた上での捜査をしている。それだけに、責任は重大であった。

「大丈夫か?」

 無表情ながらも、佐野が蓮を気遣う。

「へ、平気です」

「ならいいが、無理はするな」

 そう言いながら、佐野はテキパキとあらかじめ決めてあった捜査手順を遂行していく。

「警部!」

 と、そんな佐野たちに呼びかける声があった。振り返ると、昨日佐野と一緒にいたもう一人の特別捜査本部の刑事……野々宮敬介巡査部長がこちらへ駆けてくるところだった。

「野々宮、どうだった?」

「警部の言った通りでした。いやー、相変わらず警部の推察には頭が下がります」

「御託はいい。報告を頼む」

 他の特別捜査本部所属の刑事に比べてかなり調子の軽い刑事だが、佐野いわく、これでもかつて所属していた警視庁町田署管内でトップクラスの検挙率を誇っていた腕利きの刑事らしいというのだから、人間見た目だけではわからないものである。その実力を評価されて警察庁の特別捜査本部に抜擢され、今では前線で捜査指揮を採る佐野の右腕のような存在という事だ。はっきり言って水と油ほどに性格が違う二人だが、ある意味これでバランスが取れているのかもしれない。

「警部の読み通りです。あいつ、ご丁寧にも来校者記録のノートに『大和日名子』名義で名前を書いていました。しかも直筆です。事務員の話だと、しきりにカウンターに置かれていたノートに書かれている名前を見ていたとの事でした」

「そうか……」

「これで、問題の少女があいつだったのかどうかがはっきりしますね」

 その言葉に、蓮が疑問をはさんだ。

「えっと、『復讐代行人』の筆跡って、わかっているんですか?」

「あぁ。今までの現場で何回か残しているのが確認されている。もっとも、どうもわざと残しているようだがな」

「わざと?」

「自分の存在を明らかにしたいときに直筆の何かを残しておけば、後は警察が勝手に『復讐代行人』の介入を明らかにしてくれる。やつの駆け引きの一つだ」

 だが、そう言ってから佐野はすぐに首を振った。

「もっとも、やつの筆跡がこれだけとは限らんがな。筆跡なんて出雲クラスの人間なら意図的に変えられる。……まぁ、今回はどうやら向こうも何か思惑があって自身の介在を明確化しているようだから、来校者記録の筆跡は本部に保管されている出雲の筆跡と合致するだろうが」

 それでも佐野は一応ノートの該当箇所を写真に撮って鑑識に回すように野々宮に指示を出した。今日は任意捜査なので物品の押収はできないのである。野々宮は小さく頷くと、そのまま回れ右して走っていく。

「あの、佐野警部。聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「鳥梨さんいわく、依頼遂行前に犯人を逮捕するか、犯人が自首すれば、その時点で出雲の依頼は解消されるんですよね」

「あぁ」

「今までにそのケースになった事件って、どれくらいあるんですか?」

 蓮の質問に、佐野は少し考えるような素振りを見せたが、

「さぁてね。せいぜい二、三件じゃないか。そのうち、警察側の勝利に終わったのは一件だけだったと思う」

 予想はしていたが、あまりの少なさに蓮は唖然とした。そんな蓮の様子を尻目に、佐野は言葉を続ける。

「警察唯一の勝利は、今回のように事前に出雲への依頼事実が偶然発覚して、依頼遂行前に犯人を特定して逮捕する事に成功した数年前の神奈川の事例のみ。……私が特別捜査本部に来るきっかけになった事件だ」

「そ、そうだったんですか」

「昔の話だ。だが、逆に言えば警察がやつに完全な意味で勝てたのはこれ一回だけ。あとの依頼遂行を防いだ数件は、出雲が調査しているのを知って恐怖心に負けた犯人が勝手に自首してきたケースだ。当然、この場合警察は出雲への依頼事実を知らなかったわけで、出雲の依頼遂行自体は失敗しているものの、警察にとっては事実上の敗北に近い」

 そこで、蓮の表情は真剣になった。

「今回は勝てるでしょうか?」

「……どうかな。少なくとも鳥梨さんは勝つ気でいるようだ。だが私は、今回はどうも出雲の手のひらで警察が……もっと言えば鳥梨さんが踊らされているような気がしてならない」

 佐野は心配そうな表情でそう言った。

「あの、昨日もそんな事を言っていましたけど、どういう意味ですか?」

「出雲はそんなに甘い殺し屋じゃないって事だ。少なくとも、今回みたいなミスで依頼を受けた事実を警察に悟らせるような人間じゃない。にもかかわらず、出雲がそんな事をしたという事は……何か意図があるのかもしれない」

「意図……」

「それが何なのかわからないところがもどかしいが……」

 蓮は少し考えて、恐る恐る意見を述べた。

「あの、例えば、警察の目をこの高校に集中させるため、というのはどうでしょうか?」

「……どういう意味だね?」

「出雲の実際の見立てはこの学校以外の人間で、依頼遂行前にその人間が警察に逮捕されるのを恐れて、あえて自分の存在を明らかにして捜査の目をこの高校に向けさせた、とか」

「……いや、出雲は警察がマークしているかどうかを気にするタイプじゃないな。警察がマークしていようがしていまいが、自分が正しいと確信を持ったら必ずその標的を殺害する。たとえ、どんな相手でもだ」

 佐野はきっぱり言う。だが、蓮にはそのくらいしか考えが思いつかなかった。蓮は思わず、凛がいるはずの部室棟の方を眺めやる。

「妹さんが心配か?」

「あ、いえ……」

「心配ない。今日は話を聞くだけだから鳥梨さんも手荒な事はしないはずだ」

「でも、こう言っては何ですが、鳥梨警視は出雲を捕まえる事に躍起になっているような気がします」

 その言葉に、佐野は眉をひそめた。

「驚いた。よく見ている」

「では……」

「実のところ、鳥梨さんはうちに異動して以降成果らしい成果を挙げられていない。相手が出雲ではそれも当然なんだが、今まで順調に出世してきただけに、あの人にとっては屈辱的な事らしい。それで焦っている。近々栄転の話も出ているだけになおさら、な」

「でも、そんな殺し屋が相手だったら……」

「あぁ、上の人間もその辺は理解しているから特にお咎めもない。が、本人のプライドがそれを許さないんだろう。今まで失敗らしい失敗をした事がないだけに、なおさらだ」

 そう言うと、佐野はこう付け加えた。

「だからこそ、出雲にしてみれば付け入るのに絶好の相手という事になるのかもしれない」

「……何か嫌な予感がします」

「私もだ。もっとも、鳥梨さんが捜査を主導する以上、私にはどうする事もできないが」

 そして、佐野は刑事たちの行きかう校内を厳しい表情で見渡す。

「もしかしたら、出雲は今もこの様子をどこかで見ているかもしれないな」

 佐野の言葉に、蓮は押し黙るしかなかった。

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