第43話 死門(2)

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 戸棚の隙間から見える血まみれの死体を見つめ、少女は体を震わせた。

 昨日まではごく普通の平和な村だった。

 畑仕事に出向く父を見送り、母と一緒に家事をこなし、たまに友達と泥道を駆け巡る。そんな日常が今日も続くはずだと、そう思っていた。

 陽光が差し込む部屋の中で赤い筋肉繊維の塊のような生き物が、父だったものを貪り食っている。そのたびに日焼けした父の太い腕が上下に揺れ、ぴちゃぴちゃと水音を鳴らした。見るべきではないと思っても、それから目を離すことが出来ない。

 強い血の臭いが鼻孔をつき、今にも吐き出してしまいそうだったが、少女は何とかそれを喉の奥に押しと留めた。狭い棚の中で小刻みに体を震わせ、必死に手を握り合わせる。

 村の近くで禍獣が目撃されたのは、今から三日前のことだった。

 灰夜の国グレムリアではどの村でも禍獣の襲撃に備え、退魔師を雇うことが慣習となっていたが、最近は禍獣の姿をあまり見なかったことと、農作物の出来の悪さもあり、彼らの雇用を減らしぎみになっていた。それが災いしてしまったのだ。

 報告を受けた村長はすぐに村中の金をかき集め、王都へ使いを送り、焔市場で退魔師への討伐依頼を出した。静かに家に籠り気配を消していれば、退魔師が来るまでは何とか生き延びることが出来ると、そう聞いていたのだが、依頼を出してから三日後の昨夜、禍獣たちはとうとう村へ侵入し、虐殺を開始した。

 村から外へ逃げようにも、馬の数は少なく荒野には禍獣が溢れている。村人たちは必死に農具を武器にして抵抗し逃げ惑ったが、所詮は戦闘経験の無い農民だ。次々にその命を奪われ、死んでいった。

 今はもう、悲鳴も争う物音も聞こえない。一体何人が生き残っているのだろうか。買い出しに出ていた母はそのまま戻ることは無く、家に居た父は押し入ってきた禍獣によってつい先ほど殺されてしまった。間一髪のところで洋服棚に身を潜めたものの、このままでは自分の命が失われるのも、時間の問題だ。

 怖さと悲しさ、それに表現のしようがない何とも言えない感情が体の奥から溢れ抑えることが出来ない。小さな嗚咽がどうしても口の隙間から漏れてしまった。

 こちらの息遣いが聞こえたのか、父に貪りついていた真っ赤な獣――赤剥が顔を上げる。その視線がゆっくりと自分の隠れている戸棚の方へと向けられた。

 血走った赤い瞳が窓から差し込む陽光を反射し、戸棚の隙間を突き抜ける。見えるわけがない。そう思っていても、まるで視線が交差し、自分の顔をまじまじと見られたような気分になる。

 荒い呼吸音を響かせながら近づいてくる赤い筋肉の塊。その口からは父のものだった血が流れ落ちている。

 嫌だ嫌だ。来ないでお願い……! 誰か助けて……!

 もう体の震えを抑えきることが出来ず、戸棚がきしむ音が部屋に響く。それを耳にし、赤剥は完全にこちらに狙いを定めたようだった。

 肥大化した大きな手を戸棚の淵にかけ、爪が板の一部を削り突き抜ける。

「ひいいっ――!?」

 小さな悲鳴を上げた途端、まるで御馳走を目にしたかのように、赤剥が大きな雄たけびを上げた。

 戸棚を破壊しようと激しく爪を突き立てる。衝撃で倒れた戸棚の扉が開き、少女は転げ出るように赤剥の横へと飛び出した。

 白く濁った息を吐き出しながら振り返る赤剥。その血走った瞳が殺意を込めてこちらを見下ろす。地面に飛び出した痛みで辛うじて体の感覚が我に返る。少女は途端、一目散に跳ね起き、家から飛び出した。赤剥はすぐにこちらを追おうとしたが、父の血に滑ったのか、転倒するような音が背後で響く。その一瞬の差が幸を期した。赤剥は激しく家の扉を引き飛ばし外へ躍り出たものの、入り組んだ路地のおかげでこちらの姿を見失ってくれたらしい。少女が音に身を縮こまらせた間に、まったくの逆方向へと駆け抜けていった。

 心臓がうるさく脈打ち今にも喉から飛び出してしまいそうだ。

 少女は目を真っ赤にはらし助けを探すも、視界に入るのは血を撒き散らし地面に伏している村人の姿だけだった。

 大工のトーマス。織物屋のキャサリン。見知った顔だったものが、皆体をぐちゃぐちゃに引き裂かれ、散らばっていた。

 声を出すことはまずいとわかっていても、嗚咽を抑えきることが出来ない。もはや冷静な判断が出来なくなり、隠れることも忘れ、少女は一目散に村の出口を目指した。

 ただこの場から離れたかった。怖くて、恐ろしくて、全てから逃げ出したかった。

 通りに出ると、家の間をこそこそと歩く男の姿を目にした。父と同じ農夫の男だ。生きている人間を見つけて思わず胸の奥が熱くなる。喜んだ少女は、すぐにその男へ駆け寄ろうとしたのだが、声をかける直前で男の目の前の壁が脈動し、突然二本の鎌のような腕が飛び出した。

 男が壁に掴まれたと驚いた途端、その壁の色が徐々に深緑色へと変色していき、二重の顎と複眼を持った奇怪な化け物が姿を見せた。確か蛇鎌と呼ばれていた禍獣だ。

 男は慌てて逃げようとするも、瞬時に両肩を挟まれ身動きが取れなくなる。次の瞬間、蛇鎌の二重の顎が伸び、男の首元をあっさりと噛み千切った。

 大量の血柱が吹き上がり、男の絶叫が木霊する。

 少女は顔を真っ青にして、慌ててその場を離れた。

  ――もう嫌だ。もう無理だよ。こんなの耐えられない。

 恐怖で何もまともに考えることが出来ない。せめて気を失えていればどれほど楽だっただろう。

 死ぬと思った。もう助からないと。自分も父のように肉をえぐられ、泣き叫びながら死を迎えるのだと。

 今自分がどこを歩いてどこに向かっているのかもよくわからない。ただ必死に蛇鎌から離れようとして走り続けた。

 道を曲がったところで何かにぶつかり思わず尻もちをつく。禍獣かと思い顔を青くして見上げると、陽光の影になった黒い影がこちらを見下ろすように動いた。

「ひいっ!?」

 思わず悲鳴を上げ腕を顔の前に掲げるも、その影は動かない。恐る恐る腕の隙間から確認すると、禍獣ではなく、一人の青年の姿がそこに見えた。

 紺色の服に濃い鋼色の軽装武具を身に着けた、黒髪短髪の青年だ。腰には無骨な長剣を差している。

「……大丈夫か」

 その青年は少女を見て、気遣うように声をかけた。

 見慣れない顔。どう見ても村人ではない。たまたまこの村を訪れた旅の旅行者か、それとも依頼を受けてやってきた退魔師だろうか。

 いや、今は誰でも構わない。少女はすがる様にその青年の服を掴んだ。

「お願い。た、助けて……禍獣が……」

 泣きはらした顔で必死に事実を伝えようとするも、恐怖と動悸のせいで上手く言葉が形にならない。

 青年は少女の肩にそっと手を乗せると、神妙な顔で頷いた。

「大丈夫。俺は退魔師だ。依頼を受けてここにきた」

 退魔師。ようやく来てくれたのか。少女は一瞬安堵したものの、すぐに疑問を抱いた。いつも村を訪れていた退魔師は必ず複数人で行動を共にしていた。この人の仲間はどこにいるのだろうか。まさか既に禍獣にやられてしまったのだろうか。

 放心したまま青年の顔を見上げていると、彼は急に目つきを変え、少女を自分の後ろへと移動させた。少女が彼の視線の先を追うと、つい先ほど農夫の男を食い殺した蛇鎌が少女を追うように道の先から姿を見せたところだった。思わず身を固くし青年の服を掴んだ手に力を籠める。

 しかし彼は動揺することなく少女の腕を引くと、慣れた様子で建屋の裏に身を隠した。

「ひとまず安全な場所を探そう」

 周囲を警戒し、息を潜めながら路地へと入り込む。少女は言われるがままに青年に手を引かれ後を追った。

「村から出ないと。殺されちゃうよ……!」

 少女は急かすように青年へ呼びかけたが、彼は冷静そのものといった表情で首を左右に振った。

「村の出口の近くには赤剥が居た。あっちから出るのは無理だ。……村に入り込んだ禍獣の種類と数はわかるか?」

「た、多分、三体だと思う。赤剥が二体と、蛇鎌が一体……」

 少女がそう言うと、青年は黙り込んだ。恐怖しているのだろうか。その表情からは感情が読み取れない。

 物音をほとんど響かせていないにも関わらず、青年の足は速い。何とか必死についていこうとしていると、突然青年が動きを止めた。

「どう、したの?」

「静かに――」

 青年は片手を少女の口へ伸ばし身を屈ませたが、既に遅かった。路地の先、曲がれ道になっている場所から、のっそりと、真っ赤な筋肉を流動させた骸のような顔の化け物が姿を見せたのだ。あの相貌。父を食い殺した方の赤剥だ。赤く充血した二つの瞳がこちらを捉え、じんわりとそこに殺意の炎が灯るのがわかった。

 その視線のあまりの恐ろしさに思わず青年の袖を握りしめる。勝手に歯ががたがたと揺れ動いた。

 青年は少女の手を引き慌てて来た道を戻ろうとするも、今度はその先から先ほどの蛇鎌が姿を見せた。少女の服についた血の臭いを追ってきたのだろうか。最悪なことに、前後を二体の禍獣に挟まれる形となってしまった。

 やっぱり自分は死ぬんだ。あの恐ろしい化け物たちに食い殺されて。

 先ほど目にした農夫の死に様と父の最後の姿がありありと脳裏に蘇る。

 いくらこの青年が退魔師だろうと、この状況で禍獣に打ち勝てるはずがない。

「もう駄目だ。もう助からない……!」

 少女が涙声で嗚咽を漏らす。しかし青年はそんな彼女の手を強く握り返した。

「諦めるな。生きようと思わなければ生き残ることなんて出来はしない」

 緊張した眼差しで禍獣を見つめ返す青年。その大きな黒い瞳にはしっかりと禍獣たちの姿が映り込んでいる。

 こんな状況にも関わらず、彼はまだ決して諦めてはいないようだった。




 獲物を見つけた蛇鎌が何かをすり合わせるような荒い雄たけびを上げ、こちらを見据える。いつもと同じ、禍獣独特の殺意の籠った眼がはっきりと見てとれた。

 カウルは瞬時に周囲を観察した。今の状況で二体の禍獣を同時に相手取るのは、流石に分が悪すぎる。

 ちょうど斜め前。家と家の間に狭い路地が見えた。反対側の通りへ出るための小さな私道のようなものだ。あれほど狭い道であれば、禍獣は直列に並ぶしかない。つまり僅かな間は一対一で対処できるということだ。

 カウルは少女の手を掴んだまま、すぐさまそこへ駆けこんだ。

 獲物が逃げたのを見て二体の禍獣も動き出す。距離的に近かった蛇鎌が先に路地に入り、カウルたちの背後へと接近した。

 これ以上逃げることが不可能だと判断したカウルは、少女を背中側へ回し、手を離すと同時に地面に転がっていた丸椅子を手に取った。それを盾のように左手に構え、体の向きを反転させながら右手で鞘から剣を抜く。

 蛇鎌は正面からの敵にとても強い禍獣だ。その腕の速度は達人の剣速にも劣らず、大きな二つの複眼はありとあらゆる相手の挙動を捕捉する。どれほど足の速い人間だろうと剣術に優れた人物だろうと、あれの鎌から苦れるのは至難の技。しかし逆に言えば、それさえ無効化してしまえれば、蛇鎌の脅威は大きく半減するとも言えた。

 カウルの目の前まで迫った蛇鎌は自身の最大の武器である鎌腕を揺らし、一気に前に伸ばした。それはカウルが体の前に掲げた丸椅子をがっしりと挟み込み、形を大きくひん曲げる。カウルは椅子が引っ張られる勢いに任せ蛇鎌の前へと前足を滑らせた。蛇鎌の腕は一度でも何かを掴むと手元に引き寄せるまで決して離すことがない。つまりこうして障害物や盾で防ぐだけで、その最大の武器を無効化することが可能となるのだ。

 大きく軋み割れる丸椅子。しかしその時カウルは既に剣を斜めに構え、蛇鎌の腕の下へと伸ばしていた。

 この四年間。蛇鎌とは嫌というほど対峙させられた。もはや第二の師匠と言っても過言では無いほどだ。一対一であれば、正面きっての戦いだろうと負ける気はしない。

 刃が蛇鎌の腕に食い込む。蛇鎌は筋肉に力を込めて抵抗しようとしたが、その前にカウルは刃に自信の特性を乗せた。

 ――傷の呪い――。

 粘土を斬るように腕を通過しすり抜ける刃。吹き飛んだ蛇鎌の腕は空中で回転し、そのまま建物の屋根に突き刺さった。

 蛇鎌は耳障りな声を上げ直ちに逆の手を振り下ろしてきたが、カウルはさらに一歩踏み組むことでそれを回避した。蛇鎌の腕は何かを挟むことで効果を発揮する。近すぎる相手には腕を開き切ることが出来ず十分な速度も拘束も出来ないのだ。

 前に踏み込んだ勢いのまま刃を胸に突き立てる。蛇鎌は抵抗しようとしたが、傷の呪いが乗った刃が真一門にその胸を切り裂いた。心臓から左腕までの全てが両断されおびただしい黒い血が吹き上がる。カウルは剣を振った勢いのまま体を回転させ、蛇鎌の首を斬り落とした。

 腕を引き体勢を整えようとした直後、蛇鎌の背後にまで迫っていた赤剥が飛び掛かりカウルの顔に巨大な手を伸ばす。間一髪のところでカウルはそれをかわした。

 思わず息を止め全身全霊で赤剥の腕に意識を集中させる。右、左と交互に振られる爪はまるで刃のついた巨大な槌のようで、一瞬でも気を抜けばすぐにでも顔が吹き飛んでしまうのではないかと思われた。

 攻撃を避けつつも筋肉や視線の移動から赤剥の動きを予期したカウルは、体重を後ろ脚に乗せたまま前傾に構えることで次の位置を誤認させ、なんとか攻撃をしのいだ。

 単純な戦闘力で言えば、赤剥は蛇鎌よりも上だ。動体視力も腕の速さも蛇鎌には劣るが、その代わり筋力と頑強さの面で大きく優っている。こと大量発生型において荒野で赤剥以上に危険な相手は存在しない。狭い路地。それも背後には弱った少女。この状況では横に転げまわることも、後ろへ退避することも困難だ。何もしない限りすぐに限界が来て、殺されることが目に見えていた。

 後退し広い場所に出れば回避は楽になるが、その分赤剥の動きも自由になる。何より少女が狙われれば、守りきることは困難だ。二人で生き延びるためには今ここであれを倒すしかない。

 血走った赤い瞳と視線が交差する。

 自然と脳裏に剣の師であるベルギットの言葉が蘇った。


「いいか。カウル。正面から敵と打ち合う時、もっとも重要となるのは機先を制することだ。それは先に斬りつけるという意味ではなく、相手の動きを読み、確実にこちらの攻撃を当てられる機会を先に奪うこと。そのために剣士同士の試合では、斬りつける前に陽動や牽制、威嚇など様々な動きを通して相手の隙を作ろうと試みる。

 小手先の技術が効かない禍獣が相手でも、それは同じだ。いやむしろ禍獣の方が動きが単純な分、機先は制しやすいとも言える。

 相手の動きをよく見て剣の道筋を見定めろ。しっかりとした線さえ捉えることが出来れば、こちらの剣は必ず急所を貫くことが出来る。肝心なのは決して相手の動きに惑わされず、落ち着いてその機会を見出すことだ。いいか、どんな時も決して相手の動きや気迫に飲まれるな。飲まれた時点でそれは自分の機先を相手に制されたのと同じだ」


 左足を前に伸ばし、重心を後ろ足へ乗せる。すぐに動けるように、膝に余裕を持たせた。

 カウルが路地の左手に寄ると、それに誘導された赤剥が雄たけびを上げ、爪を振り上げる。カウルはそれに合わせるように剣を振り直前で刃の軌道を水平へ移行し、斜め下に振り下ろすように赤剥の胴を斬りつけた。

 赤剥は強靭な筋肉を持つが、動きが単調な分、こうした誘導や抜き技にとても弱い。“傷の呪い”が乗った刃は深々と鎧のような肉を裂き、骨を割り、赤剥の背中側へと突き抜けた。

 胴体を真っ二つに分断された赤剥は自身の勢いのまま前のりに倒れ、上半身を地面に落とす。カウルがすぐに剣を構え振り返ると、赤剥は殺意の籠った瞳をこちらへ向けたまま動こうとして、そのまま力が抜けたように崩れ落ちた。

 足元に黒い血の池が広がっていく。

 カウルは周囲に他の禍獣の姿が無いことを確認し、息を吐き出した。すっと全身に冷汗が溢れ出る。

 剣を鞘に戻し、呼吸を整える。路地の背後では少女が腰を抜かしたまま座り込み、こちらを見上げていた。

 怯えと困惑が混在したような瞳。まさか勝てるとは思ってもいなかったのだろう。心底驚愕したように目を真ん丸にしている。

「……村に入り込んだ禍獣は三体って言ってたね」

「は、はい。多分……ですけど」

「わかった。さっさと片づけて生存者を探そう。まだ生きている村人がいるかもしれない」

 残り一体なら、先に発見することさえ出来れば不意打ちで仕留められる。

 意識を周囲に張り巡らせ、カウルは剣についた血を振り払った。





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