第34話 造影の魔女(1)

 遥か遠く地平線の傍に、巨大な漆黒の半球が滞在していた。

 かつて神へと挑み敗北した九人の賢者の成れの果て。九大災禍と呼ばれる呪いの一つ“無明”。それは空を、大地を、光を呑み込み、黒く黒く、鮮烈な闇を放っていた。

 ネメアはそっと自分の体を抱きしめた。ひんやりとした冷たさが腰を下ろした岩から伝わってくる。

 これほど離れた場所にいるというのに、凄まじいほどの存在感だった。少しでも何かが狂えば、足元から世界が崩壊しあの球体に飲み込まれてしまうかのような、そんな不安。それが勝手に生まれては溢れてくる。

 見ていて気持ちの良い光景ではない。だが何故か、気が付けばこの丘に足が向くことが多くなっていた。

 無明はこの世界で唯一漂うことを止めた九大災禍。ここまでじっくり九大災禍を眺められる場所は、他のどの地においてもありえない。

 ゆらゆらと陽炎のように揺らめく黒い輪郭を見つめつつ、ネメアはマヌリスから聞いた話を思い返した。

 ――……かつてあの地には、オルベルクと呼ばれる都市があった。今の場所に移転する前のアザレアの王都だ。

 当時のアザレアは大陸の中央から東にかけて広がる大国であり、オルベルクは五大国家――白花の国ルドぺギア、緑の国マグノリア、灰夜の国グレムリア、青影の国ロズヴェリアを繋げる交易の中心でもあった。

 人、物、知識、情報、富――ありとあらゆるものがオルベルクに集中した。

 他の四大国家の支部に、災禍教、主要な組合や組織の本部など、ありとあらゆるものがそこにはあった。

 九大災禍が巡回する世界の中で、オルベルクだけは栄華を極め、人々はオルベルクこそが人類発展の礎だとそう確信を持っていた。

 この大都市と人材があれば出来ないことはないと。いつか九大災禍を切り払い、平和な世界を実現できるのではないかと。誰もが希望を胸に抱き、夢を抱えていたのだが――……その夢は、とある魔女集団によって一瞬にして崩壊することとなった。

 当時、一人の聖職者が各地で生み出された民間療法を集め、祈祷術として広める活動を行っていた。彼が生み出した祈祷術は、知識と技術さえ身に着ければ誰もが呪いに対抗できると評判を呼び、オルベルクの人々に浸透していった。

 人々は彼を救世主と呼び崇拝し、彼もまた人々の期待に応えようと励んだ。

 最初はただの自警団に過ぎなかった彼の組織は、いつしか三神教と呼ばれるようになり、彼は初代教主として、彼の仲間は聖騎士として尊敬を集めるようになった。

 彼らは少しでも呪術を使って悪事を働く者がいれば、徹底機的に攻撃し断絶させた。禍獣、悪質な呪術師、子供をさらう魔女など、多くの敵と戦い打ち勝っていった。人材が増え組織が大きくなるたびに三神教の力は増し、その分争いも増え、いつしかそれは、彼の管理を外れた行いに発展することもあった。

 ある日。聖騎士たちはアザレアの奥地に住んでいた魔女集団を発見した。その魔女たちは普通の魔女ではなかった。独自の言語体系と術式を扱う、類を見ない人種だった。

 どのような経緯があってそうなったのかはわからない。だが結果として、三神教は魔女たちの怒りを買った。

 幾度かの衝突の末、魔女たちはオルベルクへと攻撃をしかけた。それはオルベルクの歴史上類を見ないほどの大激戦であり、聖騎士にも魔女にも多くの犠牲者が生まれた。魔女たちはかなりの実力者ぞろいだったが、長期戦になるにつれてその数を減らしていった。聖騎士との数の差がありすぎたのだ。

 あと少しで魔女に勝てる。そう聖騎士たちが確信を持った時、魔女たちはある禁術を使用した。

 それが一体どのような術式だったのかは諸説あるが、肝心の魔女が消え去ってしまったため真実はわからない。だが結果としてその術は、九大災禍“無明”を呼び寄せ地に堕とした。

 聖騎士も、初代教主も、魔女も、家も木も、その瞬間、すべてが無明の闇に飲み込まれた。世界の中心、人類の希望とまで呼ばれたオルベルク。その全てがたった一夜で無明に飲み込まれ消失したのだ。

 大陸の中心に九大災禍の一角が停滞してしまったことで、周辺の土地には呪いの影響を受けた強力な禍獣が大量に発生するようになった。

 アザレアは王都を東の端へ移転せざる負えなくなり、勢力の半数を失った三神教も西へ追いやられた。

 国土を奪われて、仲間を失って、黙って逃げ続けるわけにはいかない。アザレアと三神教はその後何度も無明に挑み、呪いを解こうと試みたのだが、幾度兵を派遣しようとも結果が得られることはなく、以来、五百年もの長い間ずっと、あの場所は呪われた地として、忌み嫌われ続けることとなった。


 風が重い。

 かなりの距離があるというにも関わらず、見ているだけで無明の呪いが体に伝わってきそうだった。

 なぜこれほどまでに無明に惹かれるのは、自分でもよくわからない。だがどうしてか、あの黒い球体を眺めていると、どこか寂しい気持ちになるのだ。まるで家族の墓を前にしているようなそんな気持ちに――……。

 カラスが鳴き声を上げ、眼下の森から一斉に羽ばたいた。餌を探して活動を開始するつもりなのだろう。

 ……そろそろマヌリスも起きる頃だ。

 ネメアは岩の上から立ち上がると、長い赤毛を後ろに流し、そっとその場を立ち去った。



 朝食に使った食器を片付け家の外に出ると、マヌリスはいつものように日傘の席で涼んでいた。

 手には難し気な分厚い紫の本が握られている。毎度違う本を読んでいるようだったが、どこから本を用意しているのだろうか。家の中にはそんなに大きな本棚なんてないはずなのに。

 ネメアは呼吸を整えてから、丁寧に話しかけた。

「マヌリス。片づけを終えたので、今日の講義を始めて頂いてもいいですか」

 家事と雑務を行う代わりに、呪術について教えてもらう。それが、最近のネメアの日課になっていた。

「もう仕事を終えたのかい。ったく、どんどん手際がよくなるねえ」

 読書の邪魔をされて若干不機嫌層ではあったものの、約束した手前無下にはできないのだろう。マヌリスは本を丸机の上に置きながら、面倒くさそうにネメアを見上げた。

「……え~と、どこまで話したんだっけ?」

「呪術と祈祷術、魔法の違いについてまでです」

「ああ。そうだったね。じゃあとりあえず復習からだ。説明してみな」

 マヌリスは手であくびを隠しながらそう言った。

 ネメアは机を挟んだ反対側の席へと座った。若干椅子が高く足が浮くが仕方がない。

「魔法は九賢者が神に挑み、九大災禍として呪いの塊と化す前に存在していた大いなる力です。今では失われてしまいましたが、かつての人々はその力を使い、思うように願いを叶え、好きなものを生み出し、また破壊することができたとされています。

 呪術は九大災禍によって振りまかれた呪いを利用する技であり、その本質は命に対する害意です。その効果は命を害することにのみ発揮され、魔法のように自由自在な効果は発揮できません。悪意に形を持たせ増長させる技術とも言えます。

 祈祷術は、呪いを払うために生まれた技です。呪いを受けた人々から呪いを払う。呪いの塊である禍獣に与えることで、禍獣の体を崩壊させるなど、呪いに対してのみ効果を発揮します。こちらも呪術と同じで、呪いに対処する以外の効果はありません」

 ここ数日間で聞いた話を整理しながら自分なりにまとめて答える。マヌリスはネメアの流暢な説明を聞いて、満足げに頷いた。

「そうさね。勘違いされがちだが、呪術は人に害を与えることしかできないし、祈祷術は呪いを払うことしかできない。基本的には怪我や病気は呪術や祈祷術でも対処できないから医者にかかる必要がある。ま、応用次第ではある程度の治療は出来なくもないが、魔法のように何でもかんでも自由自在ってわけにはいかない」

 マヌリスは背中を椅子に寄りかからせた。この長い椅子でそんな真似をしてなぜ倒れないのか、ネメアは不思議に思った。

「だから呪術師たちは魔法に憧れる。万物を操り、無から有を作る力に。例えどれほど難しく、たどり着けない道だとしても」

 マヌリスは話を続ける。

「魔法は失われたが、この世界には呪術が残った。呪術は唯一、人と魔法を繋ぐ残り香だ。……ついでだ。今日は呪いとは何なのかについて、もう少し細かく話そうか」

「細かく?」ネメアは聞き返した。

「ああ。世界に魔法と呼ばれる力が溢れていた時代。愚かな九人の賢者が神に挑み、そして敗れた。人という種に失望した神は地上から姿を消し、その恩寵を失った世界からは魔法が消え去った。

 九人の賢者は神の怒りを受け形を失った。彼らは死ぬことも生きることも叶わず、永遠に世界を彷徨い続ける苦痛と絶望の中に捕らわれた。

 それは神の戒めかそれとも罰か。

 彼らが通った道には死が溢れ、彼らから降り注ぐ力は毒となり世界に充満した。

 毒は物体、現象、感情に干渉し絡まることで、様々な形態へと変質した。

 それは望まぬ死を経た亡骸から。

 それは多くの恐怖を集めた土地から。

 それは他者を憎む人の意識から。

 人の世界を破壊するという特性のまま、世界を汚し続けた。

 人々は毒を恐れ、いつしかそれがもたらす現象を総称して“呪い”と、そう呼ぶようになった」

 歌うような声。相変わらず綺麗な音色だ。ネメアは思わず聞き入ってしまった。

 マヌリスは先ほどよりも遅い口調で、言葉を続けた。

「今のが一般的に言われている知識だが、呪術師的な観点で言うと、呪いってのは“方向性”のことを示しているんだ。本当に神様なんてものが居て、そいつが九賢者に与えた罰なのかはわからないが。九大災禍と化した彼らからは“命を奪え”という“方向性”が発せられるようになった」

「方向性?」

 いまいちよくわからない。ネメアは聞き返した。

「溝があれば、池の水はそちらに流れるだろう。それと同じことさ。呪いとは世界に対して“命を奪え”という指令をもってばらまかれた空間的な溝なんだ。殺意を込められた死んだ肉体や殺意、憎しみは、その溝に流れ込み易くなる。そうして溝に沿って増長し続けた結果、禍獣や呪いといった形を形成し、人々に害をなす。呪術とはこの溝を人為的に動かしたり、構築する技術のことであり、方向性の向きを小刻みに誘導しているだけで、本質的には禍獣が動く原理と同じなのさ」

 随分と抽象的な説明だ。ネメアは必死にマヌリスの言葉を理解しようとしたが、中々納得のいく解釈は出来なかった。

 マヌリスは何かを感じるように二本の指を動かし、

「まあ呪術を学んでいけばそのうちわかるようになるさ。赤色を知らない人間にいくら赤について説明しても、無意味だからねぇ。呪術の基本は、学ぶより感じろさね。今日は呪いを知覚する練習でもしようか。目をつぶって降り注いでいる呪いに集中するんだ。何か感覚を掴むまで開けるんじゃないよ」

 そういってそのまま机の上から本を持ち上げる。ネメアはもう少し詳しく説明を聞きたかったのだが、こうなってしまっては仕方がない。マヌリスは自分の言った言葉を決して曲げない。やれと言われたら、言われたとおりに行うしかないのだ。

 椅子に座ったままそっと目を閉じる。歯を食いしばり必死に意識を集中させたのだか――いくら頑張っても、何かを感じることなどできはしなかった。



 いつの間に席を離れていたのだろう。背後からマヌリスに肩を叩かれ、ネメアは目を開けた。

「もう昼だ。そろそろやめときな。昼食を作ってくれ。お腹が空いてしまったよ」

 太陽が高く上がっている。それほど時間が経った感覚はなかったのだが、もうこんな時間になってしまったようだ。ネメアは椅子から降り、家の中へ向かおうとした。

「ああそうだ。食事を終えたらちょっとお使いにいってくれないかい。そろそろ王都へ向かおうと思っていてね。その前に食料を買い込んでおきたい」

「買い出しですか? わかりました。他に何か必要なものはありますか」

「……そうさね。捨てられている人形があったら、回収しといてくれ。見つけたもの全てをね」

 人形……?

 あれほど村人たちに喜ばれていた人形が捨てられることなんてあるのだろうか。意図はよくわからなかったが、指示された以上、断るわけにはいかない。ネメアは不思議に思ったが、あえて質問はしないことにした。

「わかりました。探しておきます」

 穏やかな明るい空の一日。

 それは――この庭園が血に染まる、一日前のことだった。

 




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