第8話 だから親子に


 止める家令を意に介さず、愛人女性は子爵の用意した離縁状に勝手に押印した。当主が不在の時にだ。

 子爵はそれを携え伯爵家を出て行った。

 思わず口元が笑みに歪む。


 

 あの平民女は知らないのだ。

 これで自分が伯爵夫人になれると勘違いしているが、そんな未来は欠片も無い事を。

 もう妻と偽り夜会に連れ立つ事も叶わない。

 何故なら伯爵は既に離縁している一人者なのだから。

 それでも、もしあの女を連れ歩く様な真似をすれば、伯爵だけでなく、家も馬鹿にされ侮られる。

 何よりも既婚女性たちの冷たい眼差しと態度は、さぞ居た堪れないものとなるだろう。

 それでも尚あの愛人を家に置くのだろうか。


 そして彼は今後再婚し、子を設ける事が出来るのか。

 あんな家に嫁ぐ女性、或いは嫁がせる家は余程の事がない限り、利を覚えない。

 何故なら伯爵自身が、自身を無能であると晒してしまっているのだから。


 テッドは子爵が既に養子に迎えている。

 その書類にも離縁状と共に押印させた。


 馬鹿女と馬鹿伯爵


 自分の家族を蔑ろにした事、決して許さない。




 けれど、修道院に向かう長女を止める事は出来無かった。

 子爵は躊躇ったが、暫くはそれが娘の平穏の為だと頷いた。だが、


 娘からだと修道院から届いた手紙を開ければ、冒険者と結婚したと書かれており瞠目した。

 もう好きに生きるのだと、娘の固い決意が書かれており、読み終えた子爵は思わず笑い出してしまった。


 (全くうちの娘たちときたら……)


 頑固にも、勝手にも程があるだろう。

 誰に似たのかと思い、顎を撫でては苦笑する。

 それでも自分に似ているのだと思えば、悪くないと思ってしまうのだから。



 娘が二人とも嫁に行く事になり、後継はもう暫くしてから、親族から目ぼしい者を選ぼうと思っていたのだが。

 テッドがいるのだから、問題はあるまい。

 そして、

 イリーシアが、待ちたいと言うのなら、好きにさせてやろうと思ってしまった。


 今回の事は何かの天啓では無いかと、子爵はふと柄にも無い事を思ったのだった。



 ◇



「私たちは暫く王都に居を移す。後の事は執事と家政婦長に任せてあるから、お前はここで好きなだけ待てば良い」


 それだけ告げて両親は王都に向かった。

 恐らく伯爵への牽制だろうが、あの家は初動が遅く、前伯爵が対応に回った時は、残念ながら社交界の眼差しは冷ややかだったそうだ。


 長男の婚家を頼ればいくらかましになるかもしれないが、婿の立場でどうだろう。

 相手の女性も、自分も同じ事をされるかもしれないと、不快な思いをしているかもしれないのだから。




 

 一人残されたイリーシアは、テッドの世話を任されていた。

 この家の嫡男とすべく教育せよとは、父からの命令だ。


 イリーシアは嬉しかった。

 何もせずにただ待つ事がどれ程辛いか分かっていたつもりだ。

 だからテッドの存在と両親の温情に感謝した。



 テッドは常に怯えていた。

 その様は、一度だけ会いに行ったアウロアを彷彿とさせた。


 イリーシアはテッドを甲斐甲斐しく世話し、懸命に心身の健康を育んだ。

 そして、



「お母様……」



 躊躇いがちに口にしたテッドを、イリーシアは抱きしめた。



「そうよ、お母様よ。テッド」



 そうして二人は親子として過ごす様になったのだ。

 

 イリーシアは腕輪を用意した。

 テッドと同じ瞳であり……そして……

 アウロアを思い出し、イリーシアは少しだけ涙ぐんだ。

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