第15話


「島津さん!お待たせしました!」


 不意に、菊と島津の背後から、菊の、一番聞きたくない男の声が谺した。


 利用者のことなど視野にも入れず、コインランドリー駐車場のど真ん中に停めた車から降りてきたのは、旧『ころりん』2代目社長。


 菊は苦い顔をして2代目から目を反らし、キッチンカーの運転席のドアを開けた。


「ちょっと待ってくれませんか!」


 だが島津が執拗に菊の腕を掴む。


「離してっ」


 ここまでしつこくされる理由が分からず、菊は苛立ちと怒りに任せて声を荒げた。


「本当にいい加減にしてください!先約があったのに話がしたいとか、あなた本当に社会人ですか!?」

「おい瀬戸さん!あんた何て事を言ってんだ!!」


 しかし菊の怒鳴り声に反応したのは、慌てて駆け寄ってきた2代目だった。


「ちょっと、白石さん、…」


 島津は振り返り、2代目を制止しようと声をあげかけたが、それより早く、2代目は誇らしげに声を裏返させながら大声を張った。


「島津さんがいなけりゃな!俺たちはあんな湿気た店と心中するところだったんだぞ!!」

「………!」


 あまりの言葉に、菊は真っ暗な絶望の中で息を飲んだ。

 そして、


「……どういう、ことですか?」


 菊は血の気の引いた青い顔で島津を見た。


「………っ」


 島津は、そんな菊から視線を外したまま、みるみる表情を殺していく。


 だが空気を読めない2代目は、更に興奮した様子で声高に叫んだ。


「島津さんがあの店を高く買い取ってくださらなかったらな、俺たちはお袋の葬式さえまともに出せなかったんだぞ!!今俺たちが生活できるのも、島津さんがコインランドリーのオーナーの仕事を斡旋してくださったからだぞ!全部島津さんのお陰なんだよ!!」


 菊はただ呆然と言葉を失った。

 身体の芯が冷えて、足が震える。


 しかし菊が黙っていることで増長し、2代目は唾を飛ばしては醜く言の葉を散らしていく。


「そもそも瀬戸さん、あんたがもっと早くに諦めていたならな、借金だってあんなに膨らまなかったんだ!あんたが!あの時!」

「やめろ!!」


 刹那轟いた島津の怒号。


 島津はそのまま、菊を2代目から隠すように立ち塞がる。菊にはもう、島津の背中しか見えなかった。


 その背中が、ゆらゆらと揺らいでよく見えない。


「もうそこまでにしてもらえますか、白石さん。言葉が過ぎます。…そもそも、店の長たるものが撤退の時期を見誤った責任を、従業員に押し付けるのは間違っています。それに、」


 ゆらゆらと揺れる菊の目の前の背中は、冷たい声音で静かに言葉を連ねていく。


 しかし菊の耳には、もう何の音も入りはしなかった。


     ※ ※ ※


「菊さん!」


 西日が空をオレンジ色に染める頃、コインランドリー『LittleMermaid』の駐車場に、白の軽トラックが入ってきた。車体には『武田モータース』の文字。


 停まると同時に運転席から降りてきたのは黒いツナギを着た松原だった。そして助手席からは恰幅のよい武田社長が少々慌てた様子で降りてくる。


 松原は菊を見つけると、血相を変えて走ってきた。


「…松原さん、」


 菊は、駆けてくる松原を見た瞬間、堪えきれない涙に両手で顔を隠した。そしてそのまま小さくうずくまる。

 

 2代目は気まずそうに自身の車に逃げ込み、島津はただ菊に背を向けたまま立ち尽くしていた。


「菊さん、大丈夫ですか?」


 松原はそんな島津の横を通り抜け、菊の傍にしゃがんで、「立てますか?」と声をかけた。そして菊の脇を抱えて無理矢理立たせる。一方で武田社長はキッチンカーの運転席に乗り込み、エンジンをかけた。


「松原、俺はこのままこれを持って帰るぞ。」

「あ、すみません社長。よろしくお願いいたします。」


 武田社長は松原に声をかけつつチラリと菊を見やり、眉根を寄せた。


「一応瀬戸ちゃんにも連絡しておくから、菊ちゃん落ち着いたら一旦こっちに連れて戻れよ松原」

「あ、はい、わかりました。」


 そしてキッチンカーはゆっくりと、コインランドリーの駐車場から走り去っていった。



 松原は菊の脇を支えるように自身の乗ってきた軽トラックまで連れていき、その助手席に菊を乗せた。


 そして自分は運転席へと向かう。


 その際、松原は立ち尽くす島津を見た。

 島津は無表情のまま、ただじっとこちらを見据えていた。


 目が合い、松原は軽く会釈する。


 すると島津はゆっくりと深く、頭を下げた。頭を下げたまま、松原が駐車場を走り去るまで、島津は決して頭を上げることはなかった。

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