秘密〈SUPER BEAVER〉

 夢を口に出来るほど、現今いまは素晴らしき世界ではない。


「いや、世界一周したいって…夢見すぎでしょ」


 そうやって昔、クラスメイトに笑われたことを、揖斐いび姫乃ひめのは憶えている。


 この頃さすがに世界一周をするまでの資金は貯め切れなかったのであるが、話を聞いた田舎の祖母が納屋で見せてくれたのは、


「お祖父さんの形見なんだけど」


 出てきたのが、埃まみれのMD90である。


「お祖父さんが郵便局で働いていたときのもので、定年の記念にって払い下げ品をもらったらしくて」


 色は錆止めの茶色だが、ハンドルのウェイトやフロントのテレスコピックフォークは明らかに郵政カブである。


「これで旅をしてごらん」


 姫乃はアルバイトで貯めた資金をもとに、夏休みの間に合宿で普通二輪免許を取ると、祖母からの郵政カブの試運転をしてみた。 





 祖父と懇意であったバイク屋の爺さんが、キャブレターのオーバーホールをするとすんなりエンジンがかかるようになったので、ナンバーを取り早速乗ってみると、つま先がレッグシールドに引っかかる。


「これはカットタイプにしたほうがいいね」


 ホットカッターで加工して、切り口にモールをはめて綺麗に仕上げ、つま先だけをカットすると、


「これでいいかい?」


 姫乃が乗ってみると、引っかからなくなった。


「これなら乗れるね」


 これならクラッチペダルの操作も楽である。


「通学するのも楽になりそうだねぇ」


 そのようにして、姫乃の新しいバイクライフは始まったのである。





 姫乃が郵政カブとともに就職で上京し、川崎の事業所で事務の仕事を始めたときには、通勤の足として使っていたのであるが、休みの日には晴れている限り意味もなく郵政カブで鎌倉を目指したり、横浜までプチツーリングをかけてみたり──と、まるで子供が自転車を初めて買ってもらったときのように乗り回しては、風や光を楽しんでいた。


 自ずとファッションもヘルメットありきのコーディネートに変わり、それまで持っていたブランド物のバッグを売ると、防水性のあるスクエアリュックに変えた。


 スカートも穿かなくなり、パンツスーツに変わった。


 そうしてライフスタイルがすっかり馴染んだ頃、姫乃は駐輪場に郵政カブを取りに行った際に一枚の名刺がシートに挟まっているのを見つけた。


「可愛らしい郵政カブなので、写真を撮らせてもらいたいのですが、よろしければご連絡ください」


 裏にメッセージが書かれた名刺には、カメラマンという肩書で、国木田くにきだ薫という名前が書かれていた。





 姫乃はこのとき急いでいたのか、名刺をポケットに入れたまますっかり忘れ去ってしまっていたのであったが、しばらくして桜木町の駐輪場に停めようとしていたところ、


「あの…すみません」


 姫乃が向くと、カメラを首から下げたキャスケット帽の男と、肩から鞄を下げたアシスタントらしき女性の二人組がいた。


「実は先日、名刺をシートに挟んだのですが」


 どうやらこのキャスケットが、国木田薫らしい。


「…バイクの写真だけなら良いのですが」


「もちろんです。バイク雑誌で『街で見かけたバイク』の特集でして、オーナーさんは顔出しなしでも大丈夫です」


 それなら──姫乃は了承した。




 赤レンガの前までともに移動すると、薫はレンズを向けて次々と姫乃の郵政カブを撮影していく。


 フィルムを一本近く撮って、小一時間ほどかけて撮影を終えると、


「お時間いただいてありがとうございます。おかげで良い写真が撮れました」


 薫は封筒を姫乃に渡し、


「場合によっては表紙になるかも知れませんので、それだけはご了解いただけますか?」


「はい…」


 それにしてもクラシカルで良い郵政カブですが、払い下げ品ですか──薫は問うた。


「祖父の形見なんです」


「それは…とても大切にされてきたんですね」


「私は何も知らなくて、ただ乗ってるだけなんですが」


 姫乃は気恥ずかしそうに言った。


「いや、こんな状態の良い郵政カブは近頃みんな海外に売られてしまっているので、大切に乗ってくださいね」


「ありがとうございます」


 薫は深々と頭を下げ、やがて立ち去って行った。





 しばらくして。


 仕事帰りのコンビニに寄った姫乃は、本棚で郵政カブが表紙になっている雑誌を見つけた。


 果たして姫乃の郵政カブで、ページを開いてみると、


「編集長が見つけたクラシカル郵政カブ」


 と見出しがあり、


「この名車は、祖父から孫へと受け継がれた大切な宝物でもある」


 という解説がついて、このときに薫が編集長であることを姫乃は初めて知った。


 帰宅すると、ホルダーにあった名刺のメールに姫乃は連絡を入れた。


「表紙にしていただいて、ありがとうございます」


 程なく、薫から返信が来た。


「こちらこそありがとうございます。このたびはありがとうございました」


 律儀で丁寧な薫の返信である。


 後日、返礼で姫乃がセレクトしたクッキーを送ったところから薫と姫乃は交流が始まったのであるが、


「スーパーカブって奥深いんですね」


「昔から『カブに始まりカブに終わる』というぐらい面白い世界なんですよ」


 薫が目を輝かせて語る姿を、姫乃は好もしく感じてもいたらしい。





 そのような感じでしばらく交流をしていた姫乃は、


「実は前から、郵政カブで旅をしてみたくて」


 と、長年の夢を薫に相談してみた。


「さすがに若い女性一人では危ないですから、うちの編集部の女性スタッフを同行させましょうか?」


 という企画となり、それは薫のバイク雑誌で連載が始まると、たちまち人気のシリーズへと成長を遂げた。


「郵政カブの姫乃ちゃん」


 と呼ばれるようになると、インスタやTwitterのフォロワーは急に増え、旅の際にはときおり編集長の薫も現場に来ては、


「体調が悪くなったらすぐに休載させますから言ってください」


 などと気遣わしく言うので、連載が終わる頃には姫乃は薫と交際するようになっていたらしい。





 以下、余話となる。


 そのようないきさつで、最終的には姫乃と薫は夫婦になったのであるが、その披露宴のときに姫乃の、例の郵政カブのエピソードが紹介され、


 ──カブがつないだ縁。


 という司会からの紹介がなされると、


「私は好きなものを諦めなかったから、夢も叶えることができたし、薫さんにも出会うことができた」


 この言葉は、会場にいた出席者の一人が感動してマンガにし、それがちょっとした話題になったほどであった。


 めでたい、というより他はない。



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