第五章 魂に紡がれゆく謳

第五章 こころに紡がれゆくもの


       一


「小夜、今日お茶しない?」

 朝、校門の前で一緒になった清美が言った。

「清美、懲りないね」

「雷は同じ場所に二度落ちないって言うじゃん」

 清美は笑いながら言った。

 いつもながらあきれるほどポジティブだ。

 清美が知らないだけで、二度目がかすったんだよ。

 とは言わないでおいた。

 小夜が清美にスマホを返した二日後だった。

 小夜がスマホを持っていたことについては、学校の玄関で拾った、と説明した。

 靴を履き替えようとしてかがんだときに落としたというのは不自然ではないと考えたのだ。

 清美にスマホのことをなんと言うかは柊矢と相談して決めた。

 これまでと同じようにお茶したりすると言うことも。

 スマホに関しては、知らない間に盗られていたことで怯えさせてもいけないと言うことで、本当のことは黙っていた。

 沙陽が清美のスマホを奪えたと言うことは、付き合いを絶ったからと言って狙おうと思えば狙える。

 それなら、清美と付き合うのをやめるのは沙陽の思惑通りになるだけだから、今まで通りでいいだろう、と言うことになった。

 勿論、清美に迷惑をかけないように十分な配慮をする。

 とはいえ、清美は二度と誘ってくれないかもしれないと半分覚悟していた。

 何しろ命の危険にさらされたのだ。

 あのとき、もし刺されていたら清美は死んでいたかもしれない。

 金輪際近付きたくないと思われても仕方ない。

 それを清美に言うと、

「小夜、ひっどーい。あたしがそんなに薄情だと思ってたの?」

「そう言うわけじゃないんだけど」

「あんなのにくっしたら、あの連中の思う壺じゃん。あたし、そういうのだもん」

 と言う答えが返ってきた。


 柊矢に電話して清美とのお茶の許可をもらうと、いつもの店に向かった。

「清美、またコーヒー頼むの?」

「うん。今じゃ毎朝お父さんと一緒に飲んでるんだ」

「そうなんだ」

 小夜はちょっぴり敗北を感じた。

 自分も頼むつもりではいるが、清美のように美味しいとは思えないのだ。

 店に入ると、既に柊矢が来ていた。

 二人は注文をして、柊矢から離れたところに座った。

「柊矢さんの側の席が空いてたら一緒に話せたのに」

 清美が残念そうに言った。

「清美ってば、柊矢さんの好みは大人の女性だよ」

 清美は子供ではないが、まだ大人でもない。

「好きになっちゃえば好みなんか関係ないじゃん」

 確かに、清美の好きになる芸能人のタイプには一貫性がない。

 最初がいのっち(お母さんの好きな情報番組を一緒に見て好きになったらしい)で、次に好きになったのが草刈正雄(大河ドラマでファンになったそうだ)。その後がマイケル・J・フォックス(難病にも負けずにドラマに出演してるのを見て感動したのだとか)。

 基準が全く分からない。

 もうちょっと統一性を持とうよ、と思うが、本人いわく、中身が良ければ外見なんかどうでもいい、と言うことらしい。

「小夜、今日もコーヒーにチャレンジするんだ」

「早く飲めるようになりたいもん」


 二人はひとしきりお喋りをすると、小夜が夕食の支度をする時間になったので別れた。

 柊矢が清美を送ろうかと申し出たのだが、買い物をして帰りたいから、と言って断られた。

 車に乗ると、

「無理してコーヒーなんか飲むことないだろ」

 柊矢が言った。

「べ、別に無理してるわけじゃ……」

 柊矢さん、見てたんだ。

 小夜は頬を染めて俯いた。

 紙コップからは中身は分からなかったはずだが、小夜が飲む度に顔をしかめるのを見て察したのだろう。

 飲めるようになるまで隠しておこうと思ったのに。

 でも、なんでみんなこんなに苦いものが好きなんだろう。

 それを言うならお酒もそうだ。

 まだ祖父が生きてた頃、お酒を一口だけ飲もうとしたことがあったが、あまりの不味さに吐き出してしまった。

 あの後、口の中が気持ち悪くてオレンジジュースをがぶ飲みした。

 柊矢も少しだがお酒をたしなむ。

 台所には高そうな酒の瓶が何本か置いてある。

 大人になると味覚が変わるのかな。

 それならもう高校生なのだから大人の味覚が分かっても良さそうなものなのに。

 二十歳になったとき、柊矢さんと一緒にお酒が飲めたらいいな。

 そのとき、ムーシカが聴こえてきた。

 沙陽の歌声だ。

 やはり一人で歌っている。

「森が出た」

 バックミラーを見た柊矢が言った。

 小夜が振り返ると、確かに出ていた。

 足の付け根が熱くなった気がしてポケットに手を入れると、クレーイスが熱を発していた。

 出してみると、クレーイスは内側から輝いていた。

 クレーイスから溢れてくるのは、あの封印のムーシカだ。

 クレーイスはムーシケーの意志を伝えている。

 そして、ムーシケーの意志は森の眠りだ。

 柊矢の方を見ると、彼は前を向いたまま頷いた。

 小夜はクレーイスを握って封印のムーシカを歌い始めた。すぐに斉唱や重唱の歌声が重なり、沙陽の声はかき消された。

 森が嫌がってるのがクレーイスを通して伝わってくる。

 ごめんね、ムーサの森。

 憧れでもある、あの旋律の森が嫌がることをするのは胸が痛かった。

 でも、これはムーシケーの意志だ。

 そして自分の役目はムーシケーの意志をムーシカで伝えること。

 森はすぐに消えた。

 封印のムーシカが終わると、他のムーソポイオスが別のムーシカを歌い始めた。

「どうして、ムーシケーは森の意志に反してまで凍り付かせようとしているんでしょう」

 小夜が呟いた。

「理由はあるんだろうが、俺達には分からんな」


 起きたい森と、眠りたい惑星ほし

 いつか、何故なのか分かる日が来るのだろうか。


「夕食の買い物していくだろ」

 確かに冷蔵庫には何もない。

「はい」

 柊矢は明治通りと大久保通りの角にある駐車場に入った。


 沙陽は忌々いまいましげに今まで森があったところを睨んだ。

 とことんまで邪魔するつもりなのね。

 あの小娘さえいなければ……。

 柊矢に未練がある沙陽の憎しみは小夜に向かった。

 今は火事で天涯孤独になったあの娘に同情しているだけだ。

 ムーシコスならあの森の良さが分からないわけがない。

 なのに、柊矢もあの子も他のムーシコスも、森の目覚めに協力しないどころか積極的に眠らせようとしている。

 どうして、よりによってあの娘がクレーイス・エコーなのか。

 クレーイス・エコーは自分ではなかったのか。

 昔、柊矢に別れを切り出されたとき、ムーサの森が現れて自分を招いた。

 それまでにも森は何度も見てきたが足を踏み入れたのは初めてだった。

 そのとき、惑星全体が旋律で凍り付いていることを知った。

 大地や水、草や樹々、それらに手を触れると様々な旋律が聴こえてきた。

 この旋律が全て溶け出して惑星中を覆ったらどれだけ素晴らしいだろう。

 ここだけではない。

 惑星全てが旋律で凍り付いてるのだ。

 それらが一斉に旋律を奏で始めたら。

 実際、昔この惑星ほしは旋律で溢れ、ムーシコスはその中で暮らしていたのだ。

 ならば、この惑星ほしの旋律が溶ければまた同じように暮らせるはずだ。

 沙陽はその想像に心を奪われた。

 だが、沙陽はクレーイス・エコーから外された。

 ムーシケーは沙陽に惑星ほしが素晴らしい旋律に覆われていることを見せつけて魅了した後で拒絶した。

 もしも自分がクレーイス・エコーのままだったら、どんな手を使ってでも封印を解いて、旋律の溶けた森に帰ったのに。

 沙陽はなんとしてもムーサの森に、ムーシケーに帰りたかった。

 あの幻想的な森が溶け出した旋律に包まれたら……。

 きっと美しい旋律が惑星ほしを包み込み、帰還したムーシコスの歌と演奏が大地に満ちるだろう。

 沙陽は目を閉じて、その場面を想像した。

 その場には柊矢もいた。だが、その腕には小夜がすがり付いていた。

 沙陽は目を開いた。

 あくまでも邪魔をするのなら、こちらにだって考えがある。

 あの森も、柊矢も、両方手に入れてみせる。


       二


 その日も、清美とお茶をし、彼女と別れて、柊矢と共に駐車場に来たところだった。

 近付いてくるハイヒールの音に振り返ると沙陽だった。

 柊矢は小夜を守るように自分のそばに引き寄せた。

 沙陽の表情が険しくなった。

「柊矢、今までのことは謝るわ」

 その言葉に柊矢は眉をひそめた。

 沙陽がそんなことを言うなんて何か企んでいるに違いない。

 その程度には沙陽のことを知っているつもりだった。

「私、桂の方がムーシコスだと思ってたの。桂がそんな素振り見せたから。でも嘘だった」

 一体何の話だ?

 沙陽を理解しているという確信が徐々に崩れてきた。

「あなたがムーシコスだと教えてくれてたら、あなたを選んでた」

 柊矢は溜息をついた。

 あのとき、『あなた【が】』と言ったのはこう言う意味だったのか。

 沙陽は、二人のうちの片方がムーシコスだろうと見当を付けたものの、どちらなのかまでは分からなかったのだ。

 ムーソポイオスならムーシカを歌うだけだから分かりやすいが、キタリステースは特定の楽器で演奏しないとムーシカであっても〝聴こえない〟から判別が難しいのだ。

 それで、ムーシコスの振りをした桂を選んだ。

 自分が情けなかった。

 沙陽を好きだったことがではない。

 一時いっときでも沙陽に好かれていると自惚うぬぼれたことが、だ。

「お前は、ムーシコスかどうかで、相手を選ぶのか?」

「そうよ。うちはムーシコスの一族だもの。私もムーシコス以外の相手を選ぶ気はないわ。それにムーシコスじゃなければムーシケーには連れていけないでしょ」

 それは動物が自分にふさわしいかどうかで交尾する相手を選ぶのと同じだ。

 人間もムーシコスも動物だが、相手を選ぶ基準は他の動物とは違うと思いたい。

 でなければ、愛も恋も幻想と言うことになるではないか。

「あなただってその子がムーソポイオスだから連れ歩いてるんでしょう」

「違う!」

 柊矢は即座に否定した。

 その語気の強さに沙陽はたじろいだ。

 確かに知り合ったきっかけは互いがムーシコスだったからだ。

 しかし、小夜がムーシコスでなくても、どこかで知り合っていたら好感を持っただろう。

 救急車に同乗したとき、小夜が歌う人間ムーソポイオスかどうかなんて考えなかった。

 小夜の素直で思いやりのあるところも、安易に人に頼ろうとしないで自力で頑張ろうとするところも好ましいと思っている。

 それは個人の資質でムーシコスかどうかは関係ない。

 沙陽はそんなことも分からないのか。

「俺はこいつがムーソポイオスかどうかで判断したんじゃない」

「わ、私、柊矢さんがムーシコスだから好きなったんじゃありません」

 小夜は沙陽に睨まれながらも言い切った。

 あ、言っちゃった。それも本人の前で。

 小夜は赤くなって俯いた。

「本当にムーソポイオスじゃなくてもその子を選ぶのね。その子が歌えなくても」

「ああ、そうだ」

 柊矢がそう言った瞬間、沙陽が手を振ったかと思うと、小夜に液体がかかった。

 手の中に小瓶を隠し持っていたらしい。

 小夜は咄嗟に腕で顔を庇った。

「……っ!」

 突然、小夜が咳き込みだした。

「何をする! おい、大丈夫か!」

 小夜は頷きながら何とか声を出そうとするが、咳が出るばかりだった。

「こいつに何をした!」

「歌えなくてもいいんでしょ。だから歌えなくしただけよ。本当にその子が歌えなくてもいいのかよく考えるのね」

 沙陽はそう言うと踵を返して去っていった。

 小夜は咳をするばかりで声を出さなかった。

 いや、出せないのだ。

「ちょっと来い」

 柊矢はそう言うと、ファーストフード店に戻り、トイレに連れて行った。

 女性用の洗面台に小夜を連れて行くと、

「うがいしろ」

 そう言って、小夜にうがいをさせた。

 しかし、いくらうがいをしても小夜の声は出なかった。

 そもそも、口どころか顔にもかかっていないからうがいは無駄だ。

 皮膚から吸収されたのだろう。

 くそ! 側にいたのに守れなかった!

 柊矢は小夜を連れてトイレを出ると、車で近くの総合病院の救急外来へ向かった。

 救急外来では何時間も待たされた。

 小夜のことで頭がいっぱいで楸矢へ連絡するのを忘れていた。


「柊兄! 何があったの!」

 楸矢がやってきた。スマホのGPSで柊矢の居場所を捜したらしい。

「沙陽にやられた」

「小夜ちゃん? 何されたの?」

 柊矢は楸矢に事情を話した。

「それで、口がきけなくなっちゃったの?」

 楸矢が信じられない、と言う表情で言った。

「同じムーソポイオスなら歌えなくなることがどれだけつらいか分かるはずなのに!」

「あいつは他人の気持ちを思いやれるような女じゃない。それに、もしかしたら歌えなくなればクレーイス・エコーじゃなくなるのかもしれない」

「俺達のことを忘れているなら思い出させてやればいい」

 楸矢が低い声で言った。

 そうなのだ。

 ムーシカが必要なとき、小夜が歌えなくても柊矢と楸矢が演奏をすれば他のムーソポイオスが歌う。

 小夜の声だけ奪っても意味はない。

 だが、柊矢の腕を傷つけようとはしなかった。

 楸矢も狙われていない。

 三人同時に狙うつもりならずっと前に家に火を付けてるだろう。

「で、小夜ちゃんは?」

「今検査中だ」

「早く治るといいけど」

 だが、そんなに簡単に治るようなものを沙陽が使うはずがない。

 きっと治るまでに時間がかかるだろう。

 沙陽はクレーイス・エコーとしての小夜を恐れたのではない。

 柊矢のそばにいる小夜に嫉妬したのだ。同じ女として。

「楸矢、腹減っただろ。何か食ってこい。こっちが終わったら連絡する」

「小夜ちゃんの一大事に食事なんてする気になれると思う?」

 そのとき、診察室のドアが開いて小夜が出てきた。看護師が一緒に出てくる。声が出せない小夜の代わりに説明するためだろう。

 看護師は、一週間後に検査結果を聞きに来るように、と言った。

「有難うございました」

 柊矢と小夜、楸矢は看護師に頭を下げると薬の処方箋を貰って病院を後にした。

「腹は空いてないか?」

 小夜は首を振った。

 ムーソポイオスが声を失ったのだ。とても食事どころではないだろう。

「それならうちへ帰ろう」


 うちへ帰ると、小夜が夕食を作ろうとしたので止めた。

 柊矢も楸矢も食事をする気分ではなかったのだ。

 しかし、それでは小夜が納得しそうになかったので、楸矢がデリバリーを注文した。

「今日は休め。また明日考えよう」

 小夜は黙って頭を下げると自分の部屋へ上がっていった。


 泣いたりしない小夜を見ているのが辛かった。

 泣いてくれれば抱きしめて慰めることも出来るのに。

 今はそれすらしてやれない自分が歯がゆかった。

 柊矢達に迷惑をかけないようにと、そればかり気にしているのだ。

 いっそ自分の腕を切ってくれた方がどれだけ気が楽だったか。

 こんなことをして、柊矢が小夜を捨てて沙陽の元へ行くと、本気で思っているのだろうか。

 それほどまでに人の感情というものが分からないのだろうか。

 そんな怪物と一時いっときでも付き合っていたのか。

 何故付き合っているときに分からなかったのだろう。

 二股かけられていると分かったときでさえ、こんな女だとは思いもしなかった。

「くそ!」

 自分の右手で左手の平を殴った。

 本来なら壁か柱を殴りたいところだが、小夜が怯えると思ってやめた。

 柊矢は守るためにそばにいたのに守れなかったという痛恨の思いにさいなまれた。


       三


 小夜は風呂に入って着替えると、自分の部屋のベッドに横になった。

 大丈夫。

 柊矢さん達は心配してくれるけど、私はこんなことに負けない。

 心の中に大切にしまった想いが輝くから。

 柊矢さんのあの胸が痛くなるような優しい笑顔。

 これは私だけの秘密。

 誰にも奪うことが出来ない私の宝物。

 これが心の中で光り続ける限り、誰にも負けない。

 心の中の光は誰にも消せないから。

 そう思うと、自然に胸の中に旋律が浮かんできた。

 これは……既存のムーシカじゃない!

 今、私の中で生まれたムーシカだ。

 歌いたい。

 せめて柊矢達に伝えられるように楽譜にして残したい。

 しかし、小夜は旋律を楽譜にする技術は持っていなかった。

 柊矢や楸矢なら出来るだろうが、伝えるすべがない。

 口がきけないことがこんなに不便だったなんて。

 もし喉が元通りになったら、これからはもっと大切にしよう。大事な声だから。

 柊矢さん達、心配してるだろうな。

 心配かけないようにするためにも、いつも通りにしていよう。


 朝方、うとうとしたとき、包丁を使う音が聞こえてきて柊矢は部屋を飛び出した。

 台所で小夜が朝食を作っていた。

「おい、何やってるんだ!」

 小夜は包丁を置くと、テーブルに置いてあったスマホを手に取って何かを入力した。

 柊矢のスマホに着信音が鳴った。

 ポケットから取り出すとLINEの画面に


 朝ごはんです


 と書いてあった。

「こんなときにそんなことしなくてもいいだろ」

 と言うと、


 声が出ないだけで他のことは出来ます


 というメッセージが届いた。

「柊兄、どうしたの? って、小夜ちゃん! 何やってるの!」

 小夜はスマホの画面を見せた。

「そうは言ってもねぇ」

 楸矢は腕を組んで考え込んだ。

 確かに声以外に異常はない。

 なら、普段通りにさせてやった方がいいのだろうか。

 楸矢が柊矢を見ると、彼も考え込んでいた。

 小夜は考え込んでいる二人に背を向けると、包丁を手に取った。


「学校には電話して先生に説明はしておいた」

 小夜が頷いた。

 柊矢が助手席側のドアを開けると、小夜は車から降りて、彼にお辞儀をしてから学校に向かった。

「小夜、おはよう!」

 清美が声をかけてきた。

 小夜は予めLINEに書いておいた、


 おはよう


 と言う文を指した。

「小夜、声出ないの!?」

 小夜が頷いた。

「風邪?」

 首を振る。

「怪我でもしたとか?」


 近いかな


 とメッセージを打ち込んだ。

「治るんだよね?」

 清美が恐る恐る訊ねた。

 心配をかけたくなかったので頷いた。

「そっか。早く治るといいね」


 ありがと


 友達との会話がLINEになっただけで、後は普通だった。

 教科書は読めるし、ノートに字も書ける。

 体育の短距離走のタイムが悪いのは元々だ。

 家でも学校でも、小夜は出来る限りいつも通りに過ごした。

 柊矢と楸矢も今まで通りに接してくれるようになった。


 一週間後、柊矢は小夜を連れて病院へ行った。

 楸矢も一緒に行くといってきかないので連れてきた。

 検査結果はまだ出てない、と言われた。既存の薬物ではないらしい。

 医師は小夜を先に診察室から出すと、柊矢に二度と声が出ないかもしれない、と告げた。

 ムーソポイオスの声を潰す毒か。

 長い歴史の間には今回のような対立は何度もあっただろうし、ムーシカで物事の決着が付くことが多いであろうムーシコスなら、声を潰す専用の毒があってもおかしくない。

 ムーシコスに詳しい沙陽ならそう言う毒の存在を知っていても不思議はないだろう。

 となると、解毒剤の在処か作り方を知っていそうなのは……椿矢か。


 小夜は先に診察室を出された時点で、声が戻らないのだと察した。でなければ小夜の前で話すはずだ。

 もう歌えないんだ。

 でも聴こえる。今も。

 ムーシカはいつでも優しく響いている。

 そうだ!

 小夜は、


 楸矢さんはピアノが弾けるんですよね?


 と打ち込んだ。

 画面を見た楸矢は、

「うん。弾けるよ」

 と答えた。


 教えてもらえますか?


「勿論。そうか、歌えるようになるまではピアノ弾いてればいいんだよね」

 楸矢はいい考えだ、と言うように頷いた。


「ムーソポイオス専用の毒?」

 小夜に聞かせたくない話は、彼女が風呂に入っているときにするようになった。

 小夜は男二人からすると長風呂だからだ。

「だろうな。沙陽は薬学には詳しくないはずなのに、普通の検査で分からないと言うことは多分、そう言うものがあるんだろう」

 小夜が二度と歌えないかもしれない。

 そう聞いたとき、楸矢は頭をコンクリートの塊で思い切り殴られたような衝撃を受けた。

 自分がフルートを吹けなくなっても、ここまでのショックは受けなかったに違いない。

 小夜がそのことを知ったらどれだけ傷つくだろう。

 たとえピアノが上手くなってムーシカが弾けるようになったとしても、その音色は他のムーシコスには届かない。

 ムーシコスに聴こえる演奏は、キタリステースが特定の楽器で奏でたものだけだ。

「とにかく、何か知ってるとしたら椿矢だ。なんとしてでもあいつを見つけよう」

「分かった。明日からは椿矢を……あ」

「どうした?」

「俺、小夜ちゃんにピアノ教えるって約束しちゃった」

「そうか。なら椿矢は俺だけで捜す」

「柊兄、ゴメン」

 楸矢は手を合わせた。

「いや、ピアノで気が紛れるならそれに越したことはない。どうせ捜すといっても中央公園だけだ」


 次の日から小夜は楸矢にピアノを教わるようになった。

 柊矢も楸矢が帰ってくるまで小夜にピアノを教えていた。

 椿矢を捜すといっても、歌声が聴こえないときに中央公園に行っても無駄だろう。

 ムーソポイオスならベンチに座って鳩に餌をやるよりは歌いたいはずだ。

 だから、歌っていないなら少なくとも中央公園にはいないと言うことだ。

 こんなことなら連絡先を聞いておくべきだった。

 ムーシコスといっても現代の日本人だ。スマホくらい持ってるだろう。

 今度会ったら聞いておこう。


 椿矢は公園で歌ったりして暇そうに見えたが案外忙しいらしい。なかなか彼の歌声は聴こえてこなかった。


       四


 椿矢の歌声が聴こえてくるまで待つつもりだったが、何日たっても聴こえてこないのにれて中央公園に向かったときのことだった。

 やっぱり、いないか。

 いつも椿矢がいるベンチの辺りに来たものの、そこに座っているのは孫を連れて遊びに来たらしい高齢の女性だけだった。

 引き返そうと踵を返すと、そこに沙陽が立っていた。

 柊矢は黙って沙陽を睨み付けた。

 沙陽が解毒剤を持っているのではないかということは真っ先に考えた。

 毒がある言うことは、万が一自分にかかってしまったときのために解毒剤も持っている可能性が高い。

 だが、沙陽にだけは頼りたくなかった。

 もっとも、沙陽がくれるとも思ってないが。

「どう? 条件を呑むならあの子の喉を治してあげる」

「条件?」

「ムーシケーを溶かすのに協力することと、あの子を家から追い出すこと。金輪際あの子に関わらないって約束すれば、もう手は出さない」

「それを信じると思ってるのか? あいつを家から追い出した途端殺すんだろ」

 お前の腹は読めているんだとばかりに答えた。

「そんなことはしないわ」

 白々しさを通り越した言葉に、柊矢は呆れて言葉も出なかった。

 ムーシカでなければ封印できないのだ。

 柊矢と楸矢が演奏すれば他のムーソポイオスが歌うとは言え、ムーソポイオスの協力が必要な柊矢や楸矢と違い、小夜は他のムーシコスの協力がなくても一人で封印できる。

 柊矢と楸矢が――楸矢が協力するとは思えないが――沙陽に荷担しても小夜が封印のムーシカを歌えばムーシケーは凍り付く。

 あくまでムーシケーの意志に従う小夜は沙陽にとって障害でしかない。

「考えてることは分かってるわ。あの子の喉を治すのはムーシケーを溶かしてからよ」

 沙陽は何とか柊矢を説得しようと下手したてに出ていた。

 しかし、柊矢は答えなかった。

 何度溶かしても、封印のムーシカを歌われた時点でムーシケーは凍り付く。

 それは沙陽だって分かっているのだから小夜の喉を治したりするはずがない。


 そこまでして森を、水を、大地を凍り付かせておきたい理由が、ムーシケーにはあるのだ。

 それがどうして沙陽には分からないのか。

 自分の利益のために自然の法則をねじ曲げる。

 それは地球人が大昔からやってきた過ちだ。


 ムーシケーから来た者だからこそ、ムーシコスだからこそ、それが理解できなければならないのではないのか。

 沙陽はムーシコスであることにこだわり、自分と地球人は違うと思っているようだが、やろうとしてることは地球人と全く同じだ。

 だが、そんなことを言っても無駄だろう。

 沙陽には沙陽の理屈があるのだ。


 二人が分かり合うことはない。

 小夜は関係ない。

 これは柊矢と沙陽、二人の認識の違いだ。


 沙陽にとっての現実や考え方が、柊矢のそれとは違いすぎるのだ。

 だが、それすら沙陽には理解できないだろう。

 言い回し的な意味ではなく、現実に二人は違う世界に住んでいて、全く違うものを見ているのだ。

「あの子を助けたくないの?」

 沙陽が期待を込めて訊ねた。

「あいつは助ける。お前の手を借りないでな」

 柊矢はそう言って沙陽に背を向けると、駐車場に向かって歩き出した。

 こうなると、椿矢も危ないな。

 椿矢は残留派だ。沙陽にとってはいる価値のない人間だ。

 小夜の命を狙ったこともあるくらいなのだから、柊矢の手に解毒剤が渡るのを阻止するためなら、椿矢の命を奪うこともいとわないだろう。

 なんとしても沙陽より先に見つけないと。

 柊矢達にとっては唯一の希望なのだ。


「交渉決裂か」

 陰から見ていた晋太郎が言った。

「彼だってムーシコスだもの。あの森の良さを分からせてみせるわ」

「森の召還も、旋律を溶かす方法もあるんだ、あいつらを排除した方が早いと思うがな」

「椿矢を消すのが先よ。あのに声を取り戻させられたら計画が台無しだもの」


 二週間後の夜、ようやく椿矢の歌声がした。

 柊矢は中央公園にやってきた。

 楸矢は買い物へ出掛けていた。

 帰りを待っている時間がしかったので小夜だけ連れてきた。

 しかし、椿矢の姿はなかった。歌声はしているからどこか別のところにいるのだ。

 こんな時間じゃ聴きにくる者もいないだろうし家で歌っているのか。

 柊矢が諦めきれずに辺りを見回していると、小夜が袖を引っ張った。

 小夜は俯いていた。頬が赤く染まっている。

 どうしたのかと思って再度周囲に目を向けると、ベンチはカップルで埋まっていた。

 薄暗いのをいいことに、みんな辺りをはばからず、かなり派手にいちゃついている。

 奥手の小夜は目のやり場に困っているようで、下を向いて髪で視界を遮りLINEに、


 かえりましょう


 と書いてきた。

 帰りませんか? ではない辺り、相当狼狽えているようだ。

「帰ってもいいが……、どうせなら俺達も混ざらないか?」

 え?

 小夜が驚いて顔を上げた。

 何と書けばいいか分からず、おたおたしているうちにベンチに座らせられていた。

 柊矢が小夜の頬に右手を添えた。

「初めてか?」

 え……、え! ええ!!

 動転している小夜に柊矢の顔が近付いてくる。

 どどど、どうしよう、

 耳まで真っ赤になってるのが分かる。

 ほ、本気の訳ない。

 きっと、またいつものようにからかってるだけ。

 だって、柊矢さんが子供の私に本気になるわけないんだから。

 しかし、柊矢の顔はどんどん近付いてくる。

 ホントに本気だったらどうしよう。

 いや、絶対そんなはずはない。

 必死に自分に言い聞かせているが、心臓の鼓動が疾走して止まらない。

 そのとき、柊矢が低い声で、

「覗きは楽しいか?」

 と言った。

 驚いて顔を上げると、沙陽が木陰から出てきた。

 なんだ、沙陽さんに見せるためだったのか。

 狼狽えて損した。

「そっちこそ、下手なお芝居して面白い?」

「芝居じゃないって言ったら?」

 え?

 思わずどきっとした。

 それを慌てて押さえる。

 お芝居なんだってば!

 勝手にどきどきしている胸に言い聞かせる。

 芝居じゃないはずがない。

 沙陽さんがいることに気付いてたんだから。

 柊矢さん、ひどい。

「あなたがそんな子に本気になるわけないわ」

「お前が俺の何を知ってる」

「あなたのことならよく知ってるわよ」

「俺もお前のことはよく分かってると思ってたよ。思いちがいだったがな」

「どうしてよ! そんな子のどこがいいって言うの!」

 沙陽が声を荒げた。今にも地団駄を踏みそうだ。

 小夜が左右を見回すと、周りのカップル達が興味津々といった様子でこちらを見ていた。

 これって、もしかして痴話喧嘩?

 て言うか、修羅場?

 修羅場だとしたら、柊矢さんと沙陽さんと私は、浮気男と本命の彼女と遊び相手?

 やっぱり柊矢さん、本気じゃないんだ。

 胸の奥に痛みが走った。

「全てだ」

 その言葉に沙陽がきっと小夜を睨み付ける。

 この言葉も、ただ、沙陽さんを怒らせるためだけのもの?

 小夜が切なそうな表情を浮かべたのに気付いた柊矢は、

「用がないなら消えろ。こっちはいいところなんだ」

 と言って小夜に向き直った。

 小夜の頬に手を添え、顔を近付けてくる。

 え? え?

 沙陽は足音も荒く去っていった。

 それでも柊矢はそちらを見ようともせずに、顔を近付けてきた。

 小夜は慌てて。


 っっt


 焦ってしまって入力が出来ない。

「字になってないぞ」

 と言われ、顔を上げて、


 柊矢さん!


 小夜が口をぱくぱくさせると、

「俺の名前を書こうとしたことは分かった。で?」

 なんとか、


 からかわないでください


 と入力した。

「俺は本気だが」

 真面目な顔で言って小夜の後頭部に手を添えて引き寄せようとする。

 小夜はスマホを取り落とした。

 思わず柊矢の胸に手を当てて押し戻してしまった。

 柊矢が溜息をついた。

「お前がその気じゃないなら無理強いはしないよ」

 柊矢はそう言って手を放した。

 え?

 小鳥ちゃんじゃなくて、お前?

 もしかして柊矢さん、本当に本気だったの?

「行こう」

 小夜を立たせスマホを拾うと、肩を抱いて歩き始めた。


 あの!


 と言おうとしても声は出ない。

 口には出来なくても手紙でなら言えると言うことは良く聞くが、今の小夜はスマホに書こうにも手がいうことをきいてくれそうになかった。

 声が出れば本気なのか聞くのに。

 こんな大事なときに声が出ないなんて。

 柊矢さんもひどい。

 こんな思わせぶりな態度を取るなんて。

 なんで恋って、これから始めようって決めたときに始まらないんだろう。

 いきなり好きになって、こんな風に気持ちが高ぶったり落ち込んだりするなんて困る。

 清美ならなんて言うかな。

 あ、でも、清美も柊矢さんが好きなんだっけ。

 清美にも相談できない。

 楸矢さんに言ってもからかわれるだけのような気がするし。

 小夜は思わず溜息をついた。


       五


「見つけた!」

「見つけられた! って、僕を捜してたの?」

 歌を遮った楸矢を聴衆が睨み付ける。

 柊矢と楸矢で小夜にピアノを教えているときに椿矢の歌声が聴こえてきたので、三人で中央公園までやってきたのだ。

「ま、とにかく、逃げないからさ。あと二、三曲歌わせてよ」

 椿矢はそう言うと、ムーシカを続けた。

 それを柊矢と楸矢はじりじりしながら待っていた。

 小夜は二人の後ろで歌声に耳を傾けていた。

 やっぱりムーシカは最高だ。

 椿矢さんの優しくて甘い声。それに重なる澄んだソプラノや、低く響くアルトの歌声。様々な楽器の演奏も風に乗って聴こえてくる。

 歌えなくてもこうして聴いていられるだけで幸せだった。

 小夜はうっとりしてムーシカの旋律にひたっていた。

 しかし、柊矢と楸矢はそれどころではなかった。いつもなら心地よい歌声も、今日は耳に入らなかった。地球人でさえ、もっと聴きたいと思う美しい旋律も、柊矢や楸矢の耳には入らなかった。

 ようやくムーシカが終わり、聴衆が散ると、椿矢はブズーキを置いて柊矢達に向き直った。

「随分長いこと姿を見せなかったな」

「なんかあの人達に狙われてるような気がしてね。で、用件は?」

 柊矢は事情を話した。

「あの毒、現存したんだ」

「毒のことを知ってるのか!」

 柊矢と楸矢が身を乗り出した。

「なら、解毒剤も……」

「毒も解毒剤も地球のものじゃないよ」

 椿矢が柊矢を遮って言った。

「毒が手に入るなら解毒剤だって……」

「残念だけど、僕に分かるのはこの森のどこかに生えてるって事だけ」

 椿矢が手を振ってみせたので、周囲を見回すと、いつの間にか森が現れていた。

「解毒剤になる草は分かるけど……」

「凍り付いてるから使えない、か」

 柊矢と楸矢は肩を落とした。

 小夜は一人でスマホに何か書いていた。

「これがあの人達の手なのかもしれないね」

 椿矢が言った。

「解毒剤のために俺達が森の眠りを覚ますだろうって読みか」

「悔しいけど、ここは沙陽の……」

 そう言いかけた楸矢の裾を小夜が引いた。

「何? 小夜ちゃん」

 小夜は柊矢と楸矢にスマホを見せると丁寧にお辞儀をした。


 みなさん、ありがとうございます

 もう十分です


「何言ってんの! 小夜ちゃん、ここで諦めるの!?」

 小夜は更にスマホに入力した。


 私はクレーイス・エコーです

 その私が公私混同で森を起こすわけにはいきません

 みなさんの気持ちだけいただいておきます


「小夜ちゃん」


 私の代わりに封印のムーシカを歌ってください


 小夜はもう一度お辞儀した。

「待ってよ! 小夜ちゃん! 諦めたらダメだよ!」

 楸矢は小夜の両腕を取って揺すった。

「一時的に起こして、解毒剤の草だけ取って封印すれば……」

 小夜は首を振った。

 自分がクレーイス・エコーになった理由は分からない。

 特に意味はないのかもしれない。

 そうだとしても、ムーシケーの意志に反することはしたくなかった。

 ムーシケーを覆っている旋律に憧憬しょうけいの念を抱いているからこそ、それを冒涜するような真似はしたくない。

 椿矢がブズーキを奏で始めた。

「待て……!」

 椿矢を止めようとした楸矢の腕を小夜が掴んでもう一度首を振った。

「封印したら治癒のムーシカを歌うよ。それで手を打ってくれないかな」

 椿矢が言った。

「治癒のムーシカなんてあるのかよ!」

「ありそうだな」

 柊矢が言った。

 その言葉に楸矢は黙った。

 心の中で治癒のムーシカを望むと旋律が浮かんできた。

 これで小夜を治せるのかは分からないが、治癒のムーシカがあることは確かのようだ。

 椿矢が歌い始めると、他のムーソポイオスが同調して歌い始めた。一重一重、重なって八重になるように、歌声が重なっていく。

 歌声が流れ、通り過ぎていったところにある森が薄くなっていく。

 森が徐々に消えていった。

 ムーシカが終わりに差し掛かったとき、歌いながら椿矢が柊矢の後ろを指した。

 森は殆ど消えているのに、わずかに地面が残っていた。

 そこに一輪の花が咲いていた。

 青い色をした、キキョウに似た小さな花だった。

 凍り付いた旋律の大地に生えていながら、その花は凍っていなかった。

「これが……」

 柊矢が花を手折たおると森は完全に消えた。

「これが、解毒剤?」

 楸矢が訊ねた。

「そうだよ」

 椿矢が答えた。

「どうやって飲むの?」

「薬草なんだからせんじるんじゃないのか?」

「これは、こうして……」

 椿矢は柊矢から花を受け取ると、器用に花を茎から切り離して小夜に差し出した。

「付け根のところから蜜を吸って」

 小夜は恐る恐る口を付けると蜜を吸った。甘い蜜が一滴、喉を通った。


 あ……


 かろうじて聴こえるくらいの小さな声が出た。


 出ました


 かすれた声で囁くように言った。

「これで治ったって言えるの?」

 楸矢が椿矢を睨んだ。


 楸矢さん、楸矢さん、声、出てますよ


 小夜が楸矢の袖を引っ張った。

「小夜ちゃん、悪いけど聞こえてないよ」

 楸矢が首を振った。

「そこで僕たちの出番でしょ」

 椿矢はブズーキを弾きながら歌い始めた。

 すぐに他のムーソポイオスも歌い始める。

 歌声が集まって小夜を優しく包む。

 小夜は目を閉じて聴いていた。

 小夜を中心に大きな八重咲きの花が開いていくようだった。

 ムーソポイオスの歌声に、喉が治っていくのが感じられた。

 もう大丈夫だ。

 柊矢は確信した。

 このムーシカが小夜を癒やしてくれた。

 柊矢はキタラを持ってこなかったことを悔いていた。

 自分もこのムーシカに参加して小夜の喉を治したかった。

「あーあ、笛持ってくれば良かった」

 楸矢も同じ気持ちらしい。盛んに残念がっていた。


 治癒のムーシカが終わると、小夜が歌い始めた。声はすっかり戻っていた。

 透き通った優しい歌声が広がっていく。

 三人が一様に驚いた表情をした。

「これは……」

「これ、ムーシカ……だよね」

 楸矢が確かめるように柊矢と椿矢を見た。

 耳に聴こえる肉声とは別に〝聴こえてる〟からムーシカのはずだ。

 だが、知らないムーシカだった。

 既存のムーシカなら聴いたことのないものでも知ってるはずなのに。

 だから、確信が持てなかったのだ。

「小夜ちゃんが創った新しいムーシカなんだよ」

 椿矢が言った。

 だから、他のムーシコスは誰も知らないのだ。

 これはムーシカだから他のムーシコスの元にも届いている。だが、小夜のムーシカだから他のムーシコスは参加していない。

 歌っているのは小夜だけだが、それは沙陽のようにムーシコスが味方していないための独唱ではない。

 これは、小夜から他のムーシコスへのお礼のムーシカだ。

 だから他のムーシコスは大人しく聴いているのだ。

 小夜の歌声が風に乗って街へ広がっていく。


 有難う、柊矢さん、楸矢さん、椿矢さん。

 有難う、ムーシコス。


「こうやって、ムーシカは出来てきたんだな」

 小夜の歌声を聴きながら柊矢が言った。

 ムーシケーを凍り付かせている旋律は、きっと全てムーシコスの先人達の作ったものだ。

 ムーシコスが、心に思うだけで旋律が溢れてくるのは、それが魂に刻まれているからだ。

 こうやって新しいムーシカが生まれる度に、ムーシコスの魂に刻まれてきたのだ。

 小夜のムーシカも同じようにムーシコスの魂に刻まれ、次からは他のムーシコスも奏でるだろう。

 三人はただ黙って小夜の歌声を聴いていた。

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