第三章 風の音色

       一


 ムーシカが終わると椿矢は消えていた。

「あいつ、教えるって言っておきながら……」

「いいじゃん、早く帰ろうよ。濡れた服、着替えたい」

 いなくなったものは仕方ない。

 柊矢も濡れて身体に張り付いている服を何とかしたいのは同感だったので車に向かった。

「あの、柊矢さん、このペンダント。お祖父様の形見なんですよね。やはり頂くわけには……」

 小夜がペンダントを外して差し出した。

 柊矢は、

「その手、早く手当てしないとな」

 とだけ言って受け取らなかった。

「柊矢さん!」

「俺の物だ。どうしようと俺の勝手だ」

 小夜は困って楸矢の方を振り返ると、

「祖父ちゃんの形見ならフルートがあるから」

 と両手を挙げた。

「それは柊兄からの愛のプレゼントなんだからさ。貰っておきなよ」

「あ、あ、あ……」

 小夜は真っ赤になってどもった。

「楸矢、小鳥ちゃんをからかうな」

「小鳥ちゃんって言うの、やめてください! 私は動物じゃありません!」

「ほう、植物だったのか。それは知らなかった」

「野に咲く可憐な花ってとこかな」

「だから、からかうのやめてください!」

 そんなやりとりをしている間に霧生家に着き、ペンダントのことはうやむやになってしまった。


 小夜は学校の窓から、西新宿の超高層ビルを見ていた。

 今もムーシカが聴こえている。

 歌うのも楽しいが、こうして聴いているのも好きだ。女神の歌声のようなソプラノ、天使の話し声ようなメゾソプラノ、大地の精霊の祈りようなアルト、甘く優しいテノール、様々な楽器の音色。それらが絡み合い、春の日差しのように地上を優しく包む。

 あの旋律の森。

 凍り付いている旋律が溶けて音楽が流れ出したらどうなるだろう。

 きっとどの旋律も美しい音色を奏でるだろう。

 あの森は一体何なのだろう。

 椿矢さんは知ってるみたいだったけど、また会うにはどうしたらいいんだろう。

 あの森のことを詳しく聞きたいな。

 今日の帰りに中央公園に行ってみようか。

 もしかしたら歌ってるかも……。

 そこまで考えてはっとした。

 このテノール、椿矢さんだ!

 中央公園で歌ってるんだろうか。

 学校が終わるまでいてくれるだろうか。

 柊矢に電話をしようかとも思ったが、中央公園にいるとはっきりしているわけではない。もし、いなかったら無駄足を踏ませてしまう。そもそも、柊矢にもこの歌声が聴こえているはずだ。

 学校が終わって中央公園に椿矢がいることを確かめてから電話することにした。

 小夜は午後の授業中ずっとそわそわしていた。が、最後の授業が終わる前に椿矢の声は聴こえなくなってしまった。


 柊矢は椿矢のムーシカを聴きながら、中央公園に行こうか考えていた。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。

 一日中家にいる者にとって、一番煩わしいのが、新聞などの勧誘や不要品を引き取ると言ってくる手合いだ。

 断ってもしつこく来るのは違う人間なのか、それとも同じヤツなのか。押し売り押し買いの顔などいちいち覚えてないので分からなかった。

 それでも、柊矢は男だから押し売り押し買いも強引なことはしないで帰っていく。聞くところによると、一人暮らしの高齢者にはかなりしつこいらしい。

 溜息をつきながらドアを開けると、そこには沙陽が立っていた。

「沙陽。……何の用だ」

「話をしに来たのよ」

「こっちは話なんかない。帰ってくれ」

 柊矢がそう言ってドアを閉めかけたとき、

「ムーシコスのこと、知りたくない?」

 沙陽が扉に手をかけて止めた。

 沙陽と椿矢の口振りからしてこの二人はムーシコスについて詳しそうだった。

 だが、沙陽が嘘をつかないという保証は?

 もう二度と沙陽のことは信用しないと決めた。知り合って間もない椿矢の方がまだ信じられる。

 しかし、沙陽は何かたくらんでいるようだ。その計画に柊矢を引き込みたいのなら、それに関しては嘘はつかないかもしれない。

 柊矢が迷っていると、

「柊兄、何してるの? って、沙陽!……さん」

「楸矢君、久しぶりね」

 楸矢は、なんで沙陽がここにいるんだ、と言う顔で柊矢を見た。

「楸矢君だって、ムーシコスのこと、知りたいでしょ」

「それは知りたいけど……」

 あんたからは聞きたくない、と言う顔で沙陽を見た。

 沙陽は溜息をついた。

「出直した方が良さそうね。今日は帰るわ」

 そう言うと踵を返して帰っていった。


 小夜は霧生家に続く道を歩いているところで沙陽に気付いた。

 咄嗟に立ち止まって胸元を押さえたが、沙陽の方は小夜を覚えてないのか、表情を変えることもなく通り過ぎていった。


「ただいま帰りました」

 小夜が家に入ると、柊矢と楸矢は台所で向かい合って座っていた。

「あ、お帰り、小夜ちゃん」

「沙陽さんが来たんですか?」

「すれ違ったのか」

「はい」

「何もされなかった?」

 楸矢が心配そうに訊ねた。

「私のこと、覚えてなかったみたいです」

「そうか」

 柊矢はそう答えたものの、沙陽がペンダントを持っている小夜の顔を忘れるはずがない。

 何に必要なのかは知らないが、沙陽にとっては大事なものらしかった。

 沙陽はそう言うものは簡単には諦めない。

 多分、人の往来おうらいがある場所で無茶なことが出来なかっただけだろう。

 と言うことは、人目がないところでは襲ってくる可能性があるのか?

 やはり話だけでも聞くべきだったのか?

 しかし、追い返してしまったものは仕方がない。

 今度椿矢の歌声がきこえたら迷わず中央公園に行くことにしよう。

「しばらく人気のないところは歩くな」

 と小夜に言った。

 学校の行き帰りはどうする?

 送り迎えしてもいいが、変な噂が立つと小夜が困ったことになるだろう。

「え?」

 意味が分からず、きょとんとしている小夜を残して、柊矢は部屋へ戻った。

 柊兄もちゃんと理由を言えばいいのに。

 楸矢は密かに溜息をついた。

「小夜ちゃん、今日の夕食、何?」

 楸矢の問いに、小夜は冷蔵庫を開けた。

「買い物に行かないと。私ちょっと行ってきます」

「じゃあ、一緒に行くよ」

 柊矢の言葉の意味が分かっている楸矢が言った。

「一人で大丈夫ですよ」

 柊矢も楸矢も一緒に買い物に行くと荷物を全部持ってくれる。

 それが心苦しくてなるべく黙って一人で行っているのだが、今日は言わないわけにもいかず答えてしまった。

「夕食リクエストしたいからさ。一緒に行っていいでしょ」

 そう言われると、小夜も嫌とは言えなかった。


       二


 数日たったが、いくら待っても椿矢の歌は聴こえてこなかった。

 小夜も何事もなく過ごしているので、柊矢も楸矢も気が緩み始めた頃だった。

 小夜は霧生家のある住宅街を歩いていた。買い物の荷物が重い。こう言うとき、荷物を持ってくれる柊矢達の有難さを痛感する。

 向こうから男が一人、歩いてきた。他に人気ひとけはなかったが、住宅街なのだから通行人がいるのは当たり前だ。

 小夜がそのまま男とすれ違おうとしたとき、いきなり腕を掴まれた。

「え?」

 小夜が目を丸くしていると、男が小夜の胸元に手を入れようとした。

「な、何を……」

 小夜は袋を落とすと男の胸を押して引き離そうとした。

 男は小夜のペンダントを探り当てると、思い切り引っ張った。

「きゃ!」

 小夜が前のめりに倒れる。途中で鎖が切れた。

「おい! 何してるんだ!」

 学校帰りの楸矢が通りかかって声を上げた。男はペンダントを掴んだまま、走り出した。

「小夜ちゃん! 大丈夫!」

 楸矢が倒れている小夜に駆け寄ってきた。

 エンジン音がして楸矢が後ろを振り返ると、男がバイクに乗って逃げていくところだった。

「痛た……」

 小夜が顔をしかめながら身体を起こそうとした。楸矢が手を貸して起き上がらせる。

「首、怪我してるね。とにかく帰ろう。手当てしないと」


「柊兄! 柊兄!」

 家へ入ると楸矢が柊矢を呼んだ。

「どうした」

 柊矢が二階から下りてきて、楸矢に支えられている小夜を見て目を見開いた。

「おい! 何があった!」

 楸矢は小夜を台所の椅子に座らせながら、柊矢に今見たことを話した。

 柊矢は目を閉じて聞いていた。

 やはり、学校帰りを狙われたか。

 こんなことなら無理にでも送り迎えをするんだった。

「とにかく傷の手当てが先だな」

 柊矢がそう言うと、楸矢が救急箱を持ってきた。

 それを受け取ると小夜の前に膝をついた。

 すぐそばにある柊矢の顔に、小夜は思わず赤くなった。

 オーデコロンかな?

 いい匂い。

 って、ダメダメ!

 そんなこと考えたらますます赤くなっちゃう!

 この程度で赤くなったら、またからかわれちゃう。

 小夜は赤い顔に気付かれないように俯きたかったが、手当をされているのが首だからそうもいかなかった。

 そんな小夜の様子を楸矢は横目で見ていた。

「少し染みるぞ」

 柊矢が傷の消毒を始めると、小夜が顔をしかめた。

「それで、ペンダントを持っていったんだな。それならこれ以上は……」

「あの……」

 小夜が手当を受けながら口を開いた。

「あれ、偽物なんです」

「どういうこと?」

「柊矢さん達のお祖父様の形見を盗られたら困ると思って……」

 小夜はそう言ってポケットから、小さな巾着に入った本物のペンダントを取り出した。

「この前、雑貨店に行ったらそっくりなのが売ってたから買ってきたんです。それを首にかけて、本物はポケットに入れてたんです」

「そうか……」

 小夜のことを考えるなら、本物を盗られた方がこれ以上狙われることがなくなって良かったのだが、彼女の気遣いを思うとそれは口に出せなかった。

「じゃあ、向こうが偽物だって気付いたらまた狙われるわけだ」

 楸矢が言った。

「でも……本物と偽物の違いってなんでしょう」

 小夜が言った。

「え?」

 楸矢が聞き返した。

「私、見比べてみましたけど、違いはペンダントヘッドと鎖の間の留め具の細かい細工しかありませんでした。宝石なら光り方の違いとかで分かりますけど、これは違うし……」

 柊矢と楸矢は顔を見合わせた。

 二人は偽物を見てないから何とも言えないが、女の子の小夜が見て分からないのなら少なくともアクセサリーとしては大して変わらないものなのだろう。

 だが、沙陽はムーシコスの帰還に必要なものだと言っていた。

 だとしたら、何かに使うのだろうし、それは偽物では役に立たない。小夜が話している間に首と手のひらの手当は終わり、柊矢は膝の手当てをしようとした。

「あ、膝は自分でやります!」

 思わずスカートの裾を押さえた。

「子供のスカートを覗く趣味はない」

「こ、子供って……」

 小夜が口をぱくぱくさせているうちに柊矢は手早く膝の手当てをした。

「小鳥ちゃん、傷だらけだね。柊兄、全然お守りになってないじゃん」

「楸矢さん、小鳥ちゃんって言うのやめてください。お守りがあったからこの程度で済んだんですよ」

「小夜ちゃんは優しいなぁ」

「手当は終わった。着替えてくるといい」

「有難うございました」

 小夜は逃げるように部屋へ戻った。


 楸矢は小夜の買い物袋の中を覗き込んだ。

 小夜はすぐに着替えて下りてきた。

「楸矢さん、調理する前のもの食べちゃダメですよ」

「食べないよ。ただ、卵が割れてるなって」

「あ、やっぱり割れちゃってますか。今夜は親子丼にしようと思ってたんですけど」

「親子丼! 俺、大好きなのに! くそ、沙陽のヤツ! ぜってぇ許さねぇぞ!」

「そんなに好きなんですか」

 楸矢が自分の好物を口にしたのは初めてだ。

「うん、大好き」

「なら、もう一度卵を買ってきま……」

「いや、行くのは楸矢だ」

 柊矢が小夜の言葉を遮った。

「ちょっと行って買ってこい」

「はーい。行ってきまーす」

 楸矢は部屋に戻ってジャケットを取ってくると買い物に出ていった。

「柊矢さん、私、買い物くらい行けますよ」

「まださっきのヤツがいるかもしれない。今日は念のため家から出るな。それから明日からは俺が学校の送り迎えをする」

「でも、向こうはもう盗ったって思ってるはず……」

「つべこべ言うなら外出禁止だ」

「柊矢さん!」

 柊矢は小夜の抗議を背に受けながら部屋に戻った。


「間違いなくあの小娘が首にかけていたものなんだな」

 代々木のマンションの一室で、三十代後半の男はそう言うと鎖の切れたペンダントを見た。

「間違いねーよ」

 その言葉に、沙陽は男に金を払った。

 男が消えるのを待って、

「晋太郎、それを持っていてもクレーイス・エコーなら邪魔出来るはずよ」

 沙陽は言った。

「分かっている。それはまた考える。どうせたかだか三人だろう」

 晋太郎の言葉に沙陽は溜息をついた。

 これで柊矢は完全に敵に回っただろう。

 もう沙陽の言うことに耳を貸してはくれないはずだ。

 ペンダントクレーイスを奪うのは説得に失敗してからにしたかった。だが、十年近く所在が分からなかったクレーイスがようやく見つかったため、気がはやった晋太郎は実力行使に出てしまった。

 折角柊矢がムーシコスだと分かったのに。

 しかも、クレーイス・エコーだった。

 桂ではなく、柊矢の方がムーシコスだと分かったときは、ムーシコスをよそおって自分を騙した桂より、ムーシコスだと打ち明けてくれなかった柊矢を恨んだ。

 でも、柊矢が同じムーシコスで嬉しかったのも事実だった。柊矢と一緒にあの森に帰れたら、どんなにいいか。

 柊矢は何も知らないのだ。あの森のことを。

 きっとあの森のことを知れば自分と同じ気持ちになってくれるはずだ。

 なのに……。

「沙陽、何をしている。早速始めるぞ」

「分かったわ」

 沙陽は晋太郎について部屋を出た。


 あれ?

 小夜は親子丼を作りながら、聴こえてきたムーシカに首をかしげた。

 一人で歌ってる。

 この歌声、沙陽さん?

 重唱も斉唱もない。演奏も弦楽器が一つだけだ。

 なんで他のムーシコスは参加しないんだろう。

「ね~、小夜ちゃん、まだぁ?」

 楸矢の甘えるような声に、

「あ、もう出来ます」

 今はご飯作るのに専念しなきゃ。

 小夜の頭からムーシカのことは消えた。


       三


 小夜の学校の送り迎えを柊矢は本当に実行に移した。

 小夜はもしかしたらあの場の勢いで言っただけかもしれない、と思ったのだが甘かった。

「小夜! 見たよ!」

「あの人、誰?」

 小夜は教室に入るなり、クラスメイトに取り囲まれた。

「あれ、その包帯どうしたの?」

 柊矢のことを聞こうと身を乗り出してきた清美が首の包帯に気付いて訊ねた。

「あ、これは……」

「まさか、キスマーク隠してるんじゃ……」

「え~! キスマーク!?」

「あの人とそう言う関係なの!?」

 クラスメイト達がどよめいた。

「清美! 変なこと言わないでよ!」

 小夜が真っ赤になった。

「じゃ、どうしたの?」

「その、昨日の帰りひったくりに遭って……」

「嘘ぉ!」

「大丈夫だったの?」

「うん、どれもかすり傷」

「小夜、あの人でしょ。お守りくれた人」

 小夜の傷が大したことがないと聞いて安心した途端、また柊矢に話題が戻った。

「何? お守りって」

「何のこと?」

 クラスメイト達が口々に訊ねる。

 清美は小夜が柊矢からお守りをもらったことをみんなにバラしてしまった。

「お守りだけじゃ安心できなくて、送り迎えまで?」

「すごい! 小夜のナイトだね!」

「そんなんじゃないってば……」

「どこに住んでる人なの?」

 クラスメイトの問いに、

「小夜と……」

 話そうとした清美の口を小夜は慌てて口を塞いだ。

「あのね、あの人、後見人なの」

「後見人?」

「ほら、私のお祖父ちゃん、死んじゃったでしょ。私、他に身寄りがいないし。だから私が成人するまで保護者になってくれた人なの」

 小夜がそう言うと、周りにいたクラスメイト達はバツの悪そうな顔になった。

 お祖父ちゃん、口実にしてごめんなさい。

 小夜は胸の中で祖父に手を合わせて謝った。

 それ以上誰かが口を開く前に予鈴が鳴って、みんなそそくさと席に戻っていった。

 清美が小夜の手の甲をつついた。手を放せということだろう。小夜はまだ清美の口を塞いでいた。

「清美! これ以上バラさないって約束して!」

「分かった分かった」

 小夜は清美から手を放すと席に着いた。

 祖父の代わりに保護者になった人、と聞いてみんな柊矢の話をしなくなった。

 亡くなった祖父のことに触れてしまうのを恐れているのだろう。


 担任の教師から職員室に呼ばれて、今朝柊矢に送られてきた事情を聞かれたが、昨日ひったくりにったから後見人が用心のために送り迎えをしてくれている、と答えた。

 首と手足の傷を見て信用してくれたのか、それ以上追求されることもなく解放してくれた。

 教師達も孤児になった小夜に対して腫れ物を扱うように接していた。

 清美達のお陰で予行演習が出来て良かった。

 お祖父ちゃん、二度も口実にしてごめんなさい。

 小夜は胸の中でもう一度祖父に手を合わせた。


「柊矢さん、私、放課後に友達と買い物とかしたいんですけど」

 小夜は迎えの車の中で柊矢に訴えた。

「そう言うときは事前に連絡しろ」

「そうしたら迎えに来ないでくれるんですか?」

「友達と別れたところでまた連絡しろ。そこへ迎えに行く」

 小夜は溜息をついた。

 しかし、自分の為を思ってやってくれていることを考えると、むげに断ることも出来ない。

 もっとも、柊矢はどんなに拒絶しても、やると決めたら絶対やり通すだろう。

 まだ一緒に暮らし始めてそんなに日数がたったわけではないが、それくらいは分かった。

 それに、柊矢の送り迎えはホントのことを言うとそんなに嫌ではない。

 短い時間だが、柊矢と二人きりで話が出来るのは嬉しかった。

 柊矢は一日中仕事をしていて、お喋りが出来る機会は少ないのだ。


 翌日、早速小夜は友人と出かけると連絡してきた。

 ファーストフード店でおしゃべりをするだけだと言っていたし、夕食の支度もあるからそんなに遅くはならないだろう。

 柊矢はファーストフード店の近くに車を止めると隣の喫茶店に入った。

 コーヒーが来て、口を付けたとき、

「話を聞いて欲しいの」

 沙陽が柊矢の側に立って言った。

「……いいだろう」

 柊矢がそう答えると、沙陽が向かいに座ってアメリカンを頼んだ。

「最初に言っておくと、あの子を襲わせたのは私じゃないわ」

 柊矢はどうでもいいというように肩をすくめた。

 馬鹿馬鹿しくて答える気にもなれなかった。

 全く関係ないなら襲われたことを知っているはずがない。

 ペンダントを持っていることを知っていたのは沙陽だけだし、小夜は制服の下に着けていて外からは見えなかったのだから、通りすがりの男が衝動的に盗ったということもあり得ない。

 沙陽は柊矢が怒ってないと思ったのか、安心したように微笑んだ。

「私達の目的はあの森に帰ることなの」

「どういうことだ?」

「ムーシコスはあの森から来たの」

「俺は東京生まれの東京育ちだ」

「そうじゃなくて!」

 沙陽が苛立ったように言った。

「ムーシコスの祖先はあの森に住んでたのよ。理由は分からないけど、ある日ムーシコスは森を離れた」

 柊矢は黙っていた。

「私、あの森を見てきたの」

 柊矢が小夜に言った、森に入って行ったきり帰ってこなかった人、というのは沙陽のことだ。

 コンクールの日、沙陽を病院まで連れていって、帰ってきてから超高層ビルのそばで別れ話をした。

 コンクールの邪魔をしようとしたことで桂を選んだことは分かった。

 仮に、あの時点でまだ桂を選んでいなかったとしても、沙陽の音楽に対する拘りはかなりのものだったから、音大を中退し、ヴァイオリニストになることを放棄したら桂を選ぶだろうと思った。

 以前から、沙陽が惹かれているのは柊矢自身ではなく、ヴァイオリニストとしての腕のように感じていた。

 桂も音楽家としてはきん出た才能を持っていたから、二股の相手が彼だと知ってその思いは強くなった。

 柊矢も桂も男として好きになったのではなく、音楽の才能で選ばれたような気がしたのだ。

 だが、柊矢は元々ヴァイオリニストを目指していたわけではない。周囲の大人達からヴァイオリニストとして将来有望だと言われていたから、それならなってもいいと思っていた程度だ。

 演奏をするのが好きだから弾いていただけだし、ヴァイオリンだったのは小さい頃から習っていたからで、特に拘りはなかった。

 音大付属の高校に入ったのも、普通の高校より音楽の時間が長いからと言うだけの理由だった。

 楽器ならなんでも良かったから、家でムーシカにあわせてキタラを弾いてるだけで満足だった。

 だから、音大をやめるのに躊躇いはなかったし、ヴァイオリニストに未練もなかった。

 仕事のほとんどは自宅でするから、ムーシカが聴こえてきたらいつでもキタラを弾ける。

 柊矢にはそれだけで十分だった。

 どちらかと言えば、ステージの上で聴衆に向かってヴァイオリンを弾くより、ムーシカにあわせてキタラを弾いている方が好きだった。

 だが、それは沙陽には理解出来ないだろうと思った。

 なんとなく、沙陽とは考え方やものの見方が違っているような気がしていた。

 だから、桂と二股かけられていると分かって後腐あとくされなく別れられると思ったのだ。

 別れ話が終わる頃に森が出現した。

 沙陽は自分が振ったのではなく、振られたのだと言うことに屈辱を感じたようだったが、柊矢と別れることには異論がなかったようで、あっさり受け入れた。

 柊矢が別れを告げると、むっとした表情ではあったものの、

「さよなら」

 と言って背を向けると歩み去った。

 そして森に入っていったかと思うと、一緒に消えたのだ。それまで、森はただ見えてるだけだと思っていたから、沙陽が入っていってそのまま消えてしまったときは驚いた。

 しばらく、辺りを捜したが見つからなかったので沙陽の両親には、沙陽の行方が分からなくなったと連絡しておいた。警察への連絡は沙陽の両親に任せた。普通の人間には見えない森に入っていって消えた、などと言っても門前払いされるだけだし、どちらにしろ大人だからいなくなった直後では受け付けてもらえない。

 この前会うまで戻っていたとは知らなかった。


「素敵なところだった」

 沙陽は夢見るような表情で言った。

 あの森はムーシコスを惹き付けるものがあるのだろうか。

 小夜も森のことを話すときは同じような表情になる。

 しかし、柊矢や楸矢は「綺麗」以上の感想は持てないから、そうするとムーシコスの中でもムーソポイオスを惹き付けるのだろうか。

 だが、同じムーソポイオスの椿矢も柊矢達と同じように特に魅せられている様子はない。

 だとすると、女性のムーソポイオスを魅了する何かがあるのだろうか。

「少し離れたところに神殿があるの。ギリシアのパルテノン神殿みたいなのが」

「あの森に帰るって言うが、あそこで生活できるのか?」

「勿論、凍り付いた旋律を溶かすのよ。そうすれば森は元に戻る。お願い、協力して」

「協力?」

「あの子の持ってたペンダントクレーイスさえあれば森に帰れると思ってた。でも、私達だけではダメだった」

 あれが偽物だということにはまだ気付いてないらしい。

「あなた達クレーイス・エコーの力を貸して欲しいの」

「俺達? クレーイス・エコーって何だ」

「クレーイス、あのペンダントのことだけど、鍵っていう意味よ。クレーイス・エコーっていうのは鍵の力を引き出せる者よ」

「俺達っていうのは?」

「あなたと楸矢君と、あの子」

 小夜も入っているのか。

 柊矢は顔をしかめた。出来ることなら小夜は巻き込みたくない。

「どうして俺達がクレーイス・エコーだって分かるんだ?」

 柊矢がムーシコスだということを知ったのは嵐のときのはずだ。

「クレーイスはクレーイス・エコーの手に渡るようになっているからよ。知り合いのお祖父様がクレーイス・エコーだったけど、その人が亡くなると同時にクレーイスも消えた」

 つまり、クレーイスが祖父の遺品で柊矢が手に入れたと知って、柊矢と楸矢がクレーイス・エコーだと判断したのか。

 そして、柊矢からクレーイスを渡されたなら小夜もクレーイス・エコーということか。

 確かに、小夜に渡したのはそうすべきだという気がしたからだ。

 お守りと言ったのはなんとなく守ってくれそうだと思ったからそう言っただけだった。

「帰るってのはムーシコスの総意じゃなさそうだが?」

 椿矢は協力する気はないと言っていた。

 沙陽達の話には乗らなかったと言うことだ。

「二つに分かれてるのよ。残留派と帰還派に」

 まぁ、普通に考えて、今自分が住んでいるところに満足してれば、わざわざ知らない土地に移り住もうなどとは思わないだろう。

 ホモ・サピエンスはアフリカで生まれたと言われているが、だからといって、人類がみなアフリカに住みたがっているわけではないのと同じだ。

「帰らないのは勝手よ。でも、帰りたいって言うのを邪魔する権利はないはずだわ」

「女子高生を襲って怪我をさせる権利だってない」

「だから、それは私じゃないって……」

「お前の一味の誰かがやったんだろ」

「一味って、そんな悪者みたいに……」

「女子高生から持ち物を奪って怪我をさせるのは十分悪者だと思うが」

 沙陽が反論しようとしたとき、柊矢のスマホが振動した。

 ポケットからスマホを出して電話に出た。

「ああ。分かった。今行く。そこで待ってろ」

 柊矢はスマホをしまうと、それ以上は何も言わず、沙陽と自分の勘定書を取ってレジに向かった。


       四


「あの、柊矢さん? いつまで送り迎えが続くんですか?」

 小夜が助手席で訊ねた。

 車は明治通りを走っていた。家までそう遠くない。

 沙陽は自分達ではダメだったと言っていた。

 彼女が『クレーイス』と呼んでいるペンダントが偽物だからと言うのもあるのだろうが、何かの儀式のようなこともしているのかもしれない。

『あなた達』の中に小夜が入っていた。

 三人全員必要ではないのなら、一番さらいやすいのは小夜だ。

 まだ小夜を狙ってくる可能性があると言うことだ。

「今回のことに決着が付くまでだな。送り迎えされるのは迷惑か?」

「いえ、ただ、お仕事の邪魔になってるんじゃないかと……」

 送り迎え自体は嫌ではない。

 と言うか、むしろ柊矢と二人きりになれるのは嬉しい。

 しかし、それが柊矢の負担になって結果的に嫌われないかが心配なのだ。

「それなら問題ない」

「でも、どうしてここまでしてくれるんですか?」

 小夜は柊矢にとって、ムーシコスであること以外にはえんもゆかりもない人間だ。

「前に言っただろ。祖父から一度拾った生き物は最後まで面倒を見るように言われてる」


 家に帰ると、夕食を作るのには少し早い時間だった。

 少し歌おう。

 小夜は音楽室に入ると、聴こえて来るムーシカにあわせて歌い出した。

 すぐに柊矢が入ってきてキタラを弾き始めた。

 重唱や斉唱、副旋律を歌うコーラスや演奏が次々に加わって、小夜達の周りに音楽が満ちていく。

 そのうちに楸矢も帰ってきて笛を吹き始めた。

 透明な歌声と演奏に包まれながら歌っていると、嫌なことは全て忘れられた。

 きっと、あの森の旋律が溶けたらこんな風に音楽が地上に満ち溢れるんだ。

 斉唱と重唱、演奏、それらが重なり、風のようにどこまでも流れていく。


 ムーシカが終わると、丁度夕食の支度の時間だった。

 これからは楸矢が音楽室でフルートの練習をする。

 よその家から美味しそうな醤油の匂いが漂ってくる。

 小夜はエプロンを着けながら台所に立った。歌の余韻に浸りながらジャガイモを剥こうとして手の甲の絆創膏が目に入った。

 沙陽のムーシカはいつも独唱だ。

 嵐の時も、それ以外の時も。

 独唱のムーシカだからじゃない。

 他のムーシコスが同調しないからだ。

 ムーシコスは人を傷つけるためのムーシカは歌わないし、演奏しない。

 だから沙陽はいつも一人で歌っている。

 沙陽もムーシコスだから今のムーシカが聴こえたはずだ。

 ムーソポイオスの合唱をどんな思いで聴いていたのだろうか。

 本来なら、あの人だって加われるはずなのに。

 柊矢から沙陽があの森に帰りたがっていると訊いた。

 だが、ムーシコスから孤立してまで帰りたいのだろうか。

 あの旋律の森に。

 音楽が満ち溢れる世界は素敵だと思うけど、そこにいるのが自分一人だけでも幸せなのだろうか。

 家族も友達もいない天国を楽園だと思えるのかな。


 小夜がジャガイモの皮を剥いていると、か細い鳴き声が聞こえてきた。

「え?」

 すごく小さくて、今にも消え入りそうだけれど、確かに聞こえる。

 小夜はジャガイモと包丁を置くと、勝手口から外に出た。外は小雨が降っていた。

 小夜は玄関から傘を持ち出した。

 霧生家の門の近くに段ボールが置かれていた。鳴き声はその段ボールの中から聞こえてきていた。子猫が四匹、段ボールの中で鳴いていた。

 小夜はしゃがんで傘を段ボールに差し掛けた。

 どうしよう。

 居候の身で子猫を連れ帰ることは出来ない。でも、放っていくことも出来なかった。困っていると、後ろから足音が聞こえてきた。

 振り返ると柊矢が立っていた。

「柊矢さん」

「何だ、子猫か」

「あ、あの、これは……」

 小夜が口ごもっていると、柊矢は段ボールを持ち上げた。

「帰るぞ」

「え? え? 柊矢さん、どうしてここに……」

 小夜が柊矢に傘を差し掛けながら訊ねた。

「ドアが開く音がしたから様子を見に来た」

 柊矢は先に立って家に向かった。

 ドアを開け、傘を閉じた小夜を先に通すと、玄関に段ボールを置いた。

「あの、この子達、どうするんですか?」

「うちで飼うわけにはいかないからな。貰い手を探すしかないだろ」

「柊矢さん!」

 小夜が嬉しそうな顔で柊矢を見上げた。

「ミルクでもやっておけ」

「はい!」

 小夜は子猫達に少しだけ温めたミルクをやると、夕食の準備に戻った。

 夕食の支度が出来た頃、楸矢が音楽室から出てきた。

「あれ? 猫の鳴き声」

「さっきそこに捨てられてて……」

「猫なんて久し振りだなぁ」

「猫、飼ってたことあるんですか?」

「たまにね」

 たまに?

 意味が分からず首を傾げていると、

「捨て猫見ると放っておけなくてさ。見つけると拾ってくるんだ。柊兄も俺も」

 拾った生き物云々うんぬんと言っていたのはこのことだったのか。

「でも、全部を飼うわけにはいかないからさ、いつも貰い手探して引き取ってもらってるんだ」

 楸矢がフライドポテトに手を伸ばしながら言った。

「そうだったんですか」

 小夜はフライドポテトの皿を取り上げながら答えた。

「ちょっと味見させてよ」

「楸矢さんのは味見じゃすまないからダメです」

 そう言って取り分け用の皿にポテトを少し載せて渡した。

 楸矢は、これだけ? と言いながらも美味しそうに食べていた。

「明日から猫の貰い手探ししないとね」

「楸矢さんも探してくれるんですか?」

「勿論」

「有難うございます」

 小夜はそう言って、楸矢の皿にフライドポテトを追加して載せた。


「猫? 欲しいけど、うち、マンションだから」

 何度目かの同じ答えが返ってきた。

 確かに都心では一戸建てに住んでる人間より、マンション住まいの人の方が遥かに多い。新宿区に居住している数十万人のうちの大半はマンション暮らしだ。

 たまに一戸建てに住んでる子がいても、家族に猫アレルギーや猫嫌いの人がいるか、猫好きは既に飼っているかで、貰い手は付かなかった。

 自分が拾わせてしまった手前、何とか自力で猫の貰い手を探したかったのだが、一人も見つからなかった。

 がっかりして迎えに来た柊矢の車に乗った。


「どうした? 学校で何かあったのか?」

「猫の貰い手が見つからなくて……」

「あれならもう全部貰われてったぞ」

「ホントですか!?」

 驚いて柊矢の顔を見た。

 自分はあれだけ苦労しても見つからなかったのに。

「楸矢の友達が引き取っていった」

「楸矢さん、友達多いんですね」

「みんな楸矢の気を引きたくて貰っていったんだろ」

 なるほど。

 確かに猫を貰えば話しかける口実になるし、家に呼ぶ名目に使える。

 楸矢さんってモテるんだ。


       五


 学校の帰りに寄り道をせず、車で帰ってくると結構時間が余る。

 学生だから本来は勉強した方がいいのだろうが、小夜はつい歌ってしまう。柊矢も勉強に関しては何も言わない。

 まぁ、柊矢さんも楸矢さんも音大付属高校の音楽科だから、普通の勉強より音楽の方を重視しているのかもしれないけど。

 とはいえ、成績が悪くて後見人の柊矢が学校に呼び出されるような羽目になっても困るので、宿題や予習、復習は真面目にやっていた。


「小夜ちゃん、今日のおやつは?」

 楸矢が台所の椅子に座って訊ねた。

 もう箸を手に持っていた。

「ごぼうの素揚すあげです」

「何それ?」

「ごぼうを油で揚げて、少しお塩をかけたものです」

「ふぅん」

 楸矢は自分の前に置かれた皿から、五センチほどの長さに切られたごぼうを箸でつまんで口に入れた。

「あ、美味しい。揚げ物の割りには油っぽくないし」

「そうですか。良かったです」

 小夜はそう言って微笑むと、キャベツの千切りに戻った。

「小夜ちゃん、進路文系選んだって聞いたけど、普通の高校って高一で進路決めるものなの?」

「進学するかとか、するとしたらどの大学を受けるのかとかは決めてなくても、一応文系か理系かは選んでおかないといけないんです。受験科目が違いますから」

「受験勉強って難しい?」

「さぁ? 私はまだ進学するかも決めてませんから」

「なんだ、普通の大学に行きたいのか?」

 柊矢が台所に入ってきた。

「柊兄! いや、そういうわけじゃ……」

 楸矢が慌てたように手を振った。

「行きたいなら行けばいいだろ」

「……いいの?」

 楸矢が窺うように柊矢を見た。

「お前の進路なんだから俺の了解は必要ないだろ」

「柊兄は俺のために音大やめたから……」

「それとお前の進路となんの関係がある。俺は音大付属も音大も音楽の授業が多いからって理由で選んだだけだからな。今の仕事は好きなときに演奏出来るから音大へ行く必要がなかったってだけだ」

「柊兄はヴァイオリニストになりたかったんじゃないの?」

「別に。なってもいいとは思っていたが、どうしてもなりたかったってわけじゃない」

 楸矢の問いに柊矢の方が意外そうな表情で答えた。

 楸矢がそんな風に考えてたとは思ってなかったらしい。

「なんだ」

 楸矢が拍子抜けした表情で言った。

「だが、お前の成績じゃ今度の入試は無理だぞ」

「柊兄は夜間部とは言え、すぐに受かったんだよね」

 楸矢は参るよなぁ、などとぼやいた。

「音楽の授業が長いからって理由で音大付属に行っていたとは言っても、学生なんだから勉強もしてたに決まってるだろ。お前の成績が悪いのはフルートに打ち込んでるからじゃなかったのか」

 柊矢の責めるような視線に、楸矢は決まりの悪そうな表情で目を逸らせた。

 どうやら柊矢は、楸矢が勉強する間も惜しんでフルートに没頭してると思っていたから成績が悪くても何も言わなかったらしい。

 普通の大学へ行ってもいいということは、フルートに専念していたからと言ってフルート奏者になって欲しいと思っているわけでもないようだ。

 単純に音楽が好きなら、好きなだけやればいいというだけで、それを将来に繋げるべきとか言う考えはないらしい。


「着いたぞ」

「有難うございます」

 小夜は柊矢が開けてくれたドアから車を降りた。

「帰りはいつも通りか?」

「はい。何か変更があったら連絡します」

「分かった」

 柊矢はそう言うと、車に乗って帰っていった。

「いつ見てもいい男~」

 いつの間にか現れた清美がうっとりしたように言った。

「いちいち助手席のドア開けてくれるんだもんね~」

 買い物すれば荷物を持ってくれるんだよ、とは言わなかった。言えば、騒ぐに決まっているからだ。

「ねぇ、小夜、ホントにあの人と何もないの?」

 嫌なこと聞くなぁ。

「ないよ。ただの保護者」

 口にすると少しだけ胸が痛んだ。

「じゃあ、あたしが迫ってもいい?」

「いいけど、あの人の元カノ、すごい美人だよ。それに楸矢さんが柊矢さんは子供は相手にしないって言ってたし」

「元カノが美人ってことは、綺麗な顔は散々見たってことでしょ。なら、もう顔にはこだわらないかもしれないじゃん」

 清美のこの超ポジティブなところ、私も見習わなきゃ。

 そのとき、沙陽の歌声が聴こえてきた。やはり、斉唱も重唱もなかった。演奏も楽器が一つだけだった。

 これも人を傷つけるムーシカなのかな。

 特に嫌な感じはしないが、他のムーシコスが加わってないのは何か理由があるからなのかもしれない。

 柊矢さん、大丈夫かな。


 柊矢は家に戻る途中で沙陽のムーシカに気付いた。

 小夜に何かするつもりか?

 車をUターンさせると小夜の学校の近くに止めた。

 出来ることなら学校に乗り込んで小夜の無事を確かめたいが、さすがにそれをするのははばかられた。

 ひどい怪我をすれば救急車が来るはずだ。

 ここにいれば分かるだろう。

 本来ならば、そんな大怪我をする前に助けたいのだが……。

 しばらく待ってみたが救急車は来なかった。学校の校庭からはかけ声や歓声などが聞こえてくる。特に騒ぎにはなっている様子はない。

 そのうちに沙陽のムーシカは終わった。

 何かの儀式のムーシカだったのか?

 鍵がどうのと言っていたが、鍵の使い道は鍵を開けることと相場が決まっている。

 つまり、開けたいものがあるのだ。

 あの森へ行く道、か。

 一時間近く待ってみたが、何もなさそうなので車を出した。

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