第29話 11月……

十一月二日、月曜日。

信吾、京子、言ノ葉の三人は朝早くから四階の屋上の踊り場に集まっていた。

話し合う議題はシンプルで、それ故に三人ではどうする事も出来無い事ばかりだった。

「八重のここ一ヶ月の記憶がない、それから八重は転校する事になった」

信吾の言葉は周囲の空気を更に凍てつかせる。

『大見八重』は、『十月一日』から『十月二十九日』までの記憶が丸々抜け落ちていた。

病院では精神的ショックから来る記憶障害だという診断を受けたらしいが、三人は何となくその意味が分かっていた。

そして三人の気持ちに拍車を掛ける様に八重の自身の転校の話が持ち上がったのだ。

というのも、心身共に傷ついた彼の心のケアをしたいと思った『大見八重』の両親の判断である。

子供を想った『大見八重』の両親の気持ちを止める術は三人にはなく『行かないでくれ』と言える程の図々しい精神も持ち合わせていなかった。

誰も言葉を発しない。

言葉を発する事で何かが損なわれる程の物はないにも拘らず、何時も四人がたむろしていた四階には、物悲しい静けさと絵の具を溶かし込んだ混沌とした灰色の水が満たす筆洗い用バケツから香るアクリル絵の具の匂いが充満していた。

四人が三人になっただけで、こんなにも静けさが満たす空間に置き去りにされた気がするのは、四人でこそこの空間が完成していた事を証明していたからに他ならない。

ただ、どんな悲しみに明け暮れようと、愛しい誰かを失おうと、後悔を抱えていたとしても、三人の元には等しく一分一秒が刻み込まれていく事に変わりはない。

何をしている訳でもない目の前の二人を言ノ葉は見据え、かじかむ手の平を擦り合わせながら事此処に至って、何も話そうとしない信吾を溜め息と共に睨みつけた。

「太田くん、あなたずっと黙ってるけど、何か知ってるんでしょ?」

猜疑を含んだ言ノ葉の視線は、何処か信吾を責めている様でもありながらも、言ノ葉の『太田信吾』への疑いは半ば確信に近かった。

「太田くん、私が八重くんに告白された時ずっと冷静だったわね?それにあの八重くんが最後に太田くんに言ってた『約束』あれはどういう意味?」

硯言ノ葉は知っている。『太田信吾』という人物が隠し事の出来る性格では無い事を、だからこそ、何も話そうとしない事を言ノ葉は良しとしたくなった。

『大見八重』に関するこれまでの事を、何も知らぬふりをして過ごして行くことだけはしたくない。

「私は何も納得してないのよ。だから知ってる事は全部話して頂戴。太田くんは八重くんから何を聞かされたわけ?」

何時も以上に静かで、問う言葉も

信吾は八重に最後に渡されていた数枚の紙の束を鞄から取り出し、二人へ手渡した。

「この手紙……」

「定規文字さね。これは……」

言葉を失う、言ノ葉と興味深そうに見つめる京子の視線の先にあるのは紛れも無い、駒沢教諭が『硯言ノ葉』へ送りつけていた怪文書だ。

「これはどいう事?私こんな手紙受け取った記憶ないわよ!」

「これは、八重が毎朝自分の机に入ってた手紙だよ」

そして、硯言ノ葉へ宛てた手紙が愛の告白であるのなら、この手紙に書かれている言葉は怨嗟の念と言っていい。

駒沢教諭は信吾に取り押さえられ、警察に連れて行かれた後『硯言ノ葉』に対して行っていたありとあらゆるストーカー行為を自白した。

硯言ノ葉の家を学内資料から特定し、手紙を送りつけた事。

硯言ノ葉の持ち物を盗み出した事

学内で備品を破壊した事

そして証言した中で、何より問題だったのは『駒沢教諭』ターゲットを『大見八重』に移した事。

そして、あの一瞬だけターゲットが『硯言ノ葉』へ戻ったこと。

「八重はさ、文化祭の準備中に落としたラブレター以外に、もう一通ラブレターを硯宛に出したらしいんだよ。八重はその手紙をストーカーに取られると分かっていて、硯の机の中に入れた。まぁ、つまりなんつうか……八重はその時から八重自身の記憶が消えていってる事に気付いたらしいんだよ……」

口馴染みの悪い気まずさが信吾の口を噤ませるが、二人の表情から伝えたい事は伝わったことを確認し、信吾は先に続く言葉を、自らが漫然と消費していた夕暮れと共に吐きだした。

「コマ先はさ、ずっと硯と自分が付き合ってると思ってたらしいんだよ。だから硯が八重の告白を受け入れた日から『コマ先』はずっと八重の事を付け狙ってたらしい。……でもあの日、俺と硯が二人で帰ってるのを見たコマ先は硯が許せなくなった。……というか、硯に向けた気持ちの矛盾に収拾が付かなくなったんだよ……」

「それはつまりさね?言ノ葉ちゃんが何人もの男とこの短期間で仲良くしている事に腹を立てたってことかい?」

当たらずとも遠からずの京子の言葉に、信吾は深い沈黙で答えた。

「じゃあなにかい?八重くんは自分がストーカーの標的になる事が分かってて……しかも、八重自身も居なくなる事が、最初から分かってたって言うのかい?」

信じられないと肩を震わせる京子の横を風が抜けた。

その風の正体が、友人の手の平だと気付いた時には言ノ葉の手は信吾の頬を叩いていた。

「なんで……?なんではアンタ!八重くんが居なくなるって分かってて!なんで止めなかったのよ!」

言ノ葉は信吾の胸ぐらを掴み上げ、怒りをぶつけるが、対した信吾も憤然と言ノ葉のブレザーの胸ぐらに掴み掛かった。

「お前だってさ!じゃあ!なんで八重を頼るんだよ!お前に頼られなけりゃ八重はまだ!俺達とずっと一緒に居られたじゃんかよ!何で、なんで八重なんだよ……」

二人の言い争いに落としどころなどない。

誰のせいだと言い合えば、誰のせいにでもなる議論の中で犯人探しをすれば、待っているのは不毛な猜疑と押し付け合いだけだ。

「もう、やめるさね!言い争っても、八重くんは戻って来ないんだよ……」

何度も何度も流した涙で泣き腫らした京子は、華奢な身体を目一杯に使い、二人を何とか引き剥がす。

「八重くんはもう戻って……こないさね。これは誰のせいでもないんだよ……」

「戻って……来ない……?」

「そうさね!もう、あの八重くんは何処にもいないさね!それを今更言い争ったってしょうがないじゃないかい!」

結び目を無理矢理に解く用な歪な皺が信吾のシャツに残り、言ノ葉は『何処にも居ない』と言った京子の言葉を吟味する様に、ゆったりと堅く握っていた手を開く。

そこには何も乗っていない手のひらがあるばかりで、特段変わった様子はないが『何も無い』という事があるには違いがなかった。

「もう、何も無いのね。私は、私を助けてくれた八重くんに余計な事だけを押し付けて、結局は何も出来なかった。……つまりは、そういうことじゃない……」

言ノ葉は、何時かの八重の言葉を思い出す。

アレは確か、十月の十六日にあの手紙が届いた時、言ノ葉は八重を呼び出して助けを求めたのだ。

確かに彼は言っていた。『色々な事を忘れていっている』のだと。だが言ノ葉は、それを大した事ではないと、信じる事をしなかった。

アレは、不器用な彼なりに助けを求めたということなのだろう。

だから彼は『まだ。大丈夫』だと言ったのだ。

だが私は勘違いをしていた。『まだ、大丈夫』は『いずれ、駄目になる』ということとイコールである。

八重は分かっていたのだろう。

きっと何時かこの日が来る事を……いずれ自らが駄目になる事を分かった上で『硯言ノ葉』を助ける為に動いていたのだとしたら……

「恩知らず……なんて言葉じゃ、私には生温いわね……」

恩知らずどころか、これではストーカーを押し付けた加害者に他ならない。

大人しく言ノ葉が一人静かに巻き込まれていれば、誰も傷つかずに済んだ話だ。

なればこそ、『硯言ノ葉』は此処で後悔をしているのだ。

そう、後悔だ。

きっとあの八重くんも、抱えた後味の悪いこの時間を、次は『硯言ノ葉』が、ここで抱えている。

なれば、こそここから先に、こんな思いを抱えて生きる事を『硯言ノ葉』が納得出来る訳が無い。

何度繰り返した?

何度、諦めた?

最後にそれを掬い取った恩人まで巻き込んで、一体ここで何をしている?

膝を抱えて、自己憐憫に浸り、加害者根性で二人の同情を引いている。

今にも崩れそうな心情を、ここで補完しあう事を、良しとしている。

だから違うと言い聞かせろ。『そうじゃないだろ!』と、諦めの悪かった彼の事をもう一度良く考えろ。

「こんなことで!私は諦められない!」

静寂に言ノ葉の声が響く。

そう声に出してみたが、自身の沈鬱の心情を払拭するには至らない。

だから、もう一度考えるべきだ。

払拭出来るだけの知恵を、ここで絞るべきなのだ。

八重くんがそうしてくれた様に、今は私がここで考える。

きっと彼は助けを求めていた筈だ。

そうでなければ、自分の事を語らない彼があの場で『記憶が消えている』などと口走る筈が無い。

彼は何処で、何を求めていた?

何を欲していた?

彼らしくない、行動と言動は?

何処かに答えがあった筈だ。

彼と関わったこの一ヶ月の中に、彼がこの三人に求めた物とは何か?

彼は語らなかった。

頑に、頑固に語らなかった。

何故?語らなかった?

考えろ、考えろ、考えろ!

全ての感情を切り捨ててでも、彼に関する答えを見つけ出せ。

そうして、浮かんできたのは彼と最初の頃に交わした言葉だ。

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