エピローグ はじまりの道

第37話 静謐

 新緑の葉が生き生き伸ばし、爽やかな風に揺れていた。

 初夏の明るい日差しはじりじりと温度を上げ、じっとりと汗ばむ陽気になっていた。


 広尾俊輔は自転車に乗り、緩やかな坂道を駆け上がっていた。

 やがて、クラシカルな洋館のような外観をもつ大きな邸宅の前で、ブレーキを掛け停車した。自転車を止めた後、慣れた手つきで俊輔がインターホンを鳴らすと、はい、と家主である女性の声が答えた。

 門扉の前でしばらく待っていると玄関の奥から赤坂景子が出てきた。


「こんにちは、おばさん」

「俊輔くん、こんにちは。お休みの日に来てくれてありがとう。さあ、入って」

「はい。ありがとうございます」


 俊輔は景子に促されて邸宅に足を踏み入れた。

 玄関から伸びる廊下を通り、吹き抜けのある開放的なリビングからつながる階段を上がる。二階に上がり奥へ進むと、景子が部屋の扉の前に立ちノックをした。


「渉、入るわよ」


 景子と共に俊輔が部屋に入った。お目当ての人物は室内用の車椅子に乗り、窓辺に佇んでいた。


「渉、俊輔くんが来てくれたわよ」


 景子が声をかけ、俊輔と共に渉の傍へ寄った。


「渉、遊びに来たぞ」


 俊輔は渉を覗き込むが、焦点の合わない瞳でぼんやり窓の外を眺めていた。


「ごめんなさいね、まだ話ができない状態が続いているの。でも、以前と比べれば状態も安定するようになったのよ。ゆっくり回復を待っているところなの」

「しばらく面会もできなかったし、会えて良かったです」

「心配かけているわね」


 俊輔の言葉に景子が眉尻を下げた。

 『ニューワールド』のシステムエラーが起こった事件から半年経った。

 季節は移ろい、俊輔は高校二年に上がった。

 けれども、渉が新学期に登校することはなかった。

 今、渉は自宅で療養中である。

 話をすることが出来ず、見えているのか聞こえているのかは分からない。

 渉は心を閉ざしていた。


「今日、渉に見せたいものがあって持ってきたんです」

 

 俊輔は持っていた鞄をごそごそと漁るとSDカードを一枚取り出した。


「SDカード。どうしたの?」

「渉が少しでも回復するきっかけになればって、預かってきたんです」

「預かってきた? どなたから?」

「渉が『ニューワールド』で一緒に過ごしていた仲間のみなさんですよ。少しでも渉の回復のお手伝いが出来ればって、ビデオレターのような動画を作ってくれたみたいです」

「そうだったの」

「この中には動画が入ってるんですけど、渉に見せてもいいですか?」

「大丈夫だと思うわ。パソコンを立ち上げるわね」


 景子は渉の机に移動し、パソコンを立ち上げるために起動ボタンを押した。


「本当は会いたいって言ってましたし、ビデオチャットを使うのもありかなって言ってましたけど、渉の体調のこともあるからって動画に」

「そう。みなさん、渉のことを気にしてくださっているのね。私がこの子と向き合えていなかったばっかりに……」


 景子はそっと目を伏せた。


「おばさん……」

「これでもね、反省してるのよ。母親であり教育者であるのにも関わらず、実の息子をこんな目にあわせてしまって……今はね、極力渉と向き合う時間を作っているのよ。さ、立ち上がったわ。俊輔くん、セットしてもらっても? 渉を連れてくるわ」


 はい、と俊輔は返事をしてSDカードをスロットに差し込んだ。俊輔もまだどんな動画であるか確認していない。

 俊輔にこのSDカードを預けたのは、俊輔のクラスの担任になった小宮詩織だった。

 その詩織から、渉と一緒に『ニューワールド』をプレイしていた同じ学校の先輩から預かってきたから渉に見せてあげてほしい、と俊輔に依頼してきたのだ。

 そうして俊輔は幼いころから行き来している渉の家にやってきたのだ。

 俊輔が動画を再生する準備をしていると、景子が車椅子を押して渉を連れてきた。


「渉、『ニューワールド』で一緒だった皆さんから動画のプレゼントが届いたわよ。見せてもらいましょうね」


 俊輔は渉の反応を伺ってみたが、ぼんやりしたままで見えているのか聞こえてくるのか分からない状態だった。


「渉が少しでも反応すればいいんだけど……」

「俊輔くんが気に病むことはないわ。さ、再生してもらえるかしら?」

「はい」


 俊輔はマウスを操作して、動画の再生ボタンを押した。

 俊輔がちらりと景子の顔を見ると、これまで記憶になかった優しい笑い方をしていた。

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