第21話 白金なぎの場合 <異変>

 静かな薄暗い空間の中で、かたかたというキーボードを打つ軽やかな音がその部屋を支配していた。

 その音の中心になぎはいた。ノートパソコンの前に腰かけ、ぼんやりと青白く光るモニター画面に集中していた。


 パソコンを介した向こうの世界に変化があった。

 なぎにとって興味を惹かれる対象は目の前の生身の人間ではなく、ホンモノを置き去りにしたニセモノの世界である『ニューワールド』で過ごすアバターを介した仲間達に対してである。

 なぎはプレイをしながらじっくり観察する。

 感情の動き、感情からくる行動、そしてつい漏れ出てしまうアバターではない本人の本音。


 シェアハウスのルールとして『現実を持ち込まないこと』なんてものがあるが、厳密に言えば誰もが禁を犯している。

 自由を求めているようでますます自分を縛り付けてしまうルールは、なぎからすると可笑しくて、可哀そうだった。


 だって、本当は『ホンモノの自分』を誰もが見つけてほしいと思っている。


 それはなぎも例外ではなかった。

 なぎはあまり感情が動かないが、毎日ゆっくりと負の感情に蝕まれていく感覚がある。その感覚は静かな怒りとともに虚無の中に引きずり込まれるような感覚だ。

 その感覚が自己破壊に繋がるのだと大人に諭されるのだが、なぎは自分の存在があるということをあまり好ましく思っていない。

 だから、なぎの場合はたった一人に、自分という存在を見つけてほしいと思っている。

 ホンモノの自分はここにいる、それに気が付いてほしいと。

 

 コンコン、と突然扉をノックする音が鳴った。それと同時にスライド式の扉が開く音が聞こえ、ぱっと蛍光灯が瞬き部屋の照明が点いた。

 なぎは反射的に振り向くと部屋の入り口に立っている女と目が合った。


「……起きていたのね」


 凛とした声音でなぎに話しかけてきたのは赤坂景子だった。こつこつとヒールを鳴らしなぎのいる机へ近づいた。


「……気分はどう? 倒れたと聞いたのだけど……」


 景子に心配そうに顔を覗き込まれたが、なぎが感情を返すことはない。かたかたとキーボードを打つ音が鳴るだけだ。


「……これを。体調を崩すといけないわ」


 景子が羽織っていた黒のショールを脱ぎ、なぎの肩にかけようとした。しかし、なぎはその行為を拒絶した。ゆっくりと首を横に振って。

 景子が眉根を寄せるが大人しく差し出した手をひいた。

 その代わりなのか、この部屋にある医療用の簡易ベッドに近づき、ぐしゃりと乱れたシーツを整え始めた。

 そのベッドはなぎが眠っていた場所だ。目覚めてからそれなりに時間が経っているので、温もりはすでに消えているだろう。


「パソコンをしていたのね。先生からパソコンでいつも同じことをしていると聞いているわ。それは楽しいことなのかしら?」


 景子がなぎに話しかけてくるがなぎは何も答えない。シーツを整える音とキーボードを打つ音だけが聞こえ、しばらく重い沈黙が続いた。

 ふぅと溜息が聞こえた。沈黙を破ったのは景子だった。


「あなたの目に見えているものは何かしら? あなたにとってこの世界はどういう存在なの?」

「……あなたは、何が見えているの?」


 なぎはぽつりと言葉を漏らした。

 話しかけたのは景子だというのに、彼女はなぎからのコンタクトに目を瞠り驚いたようだった。


「私……?」

「そう。あなた」

「私は……」

「誰を映しているの……?」


 なぎは首を小さく傾げて、目を逸らすことなく真っ直ぐ景子を見続けた。

 景子は対象的に徐々に目が泳ぎ始める。


「だ、誰って……」


 景子は唇をわななかせた。その表情を見てなぎの瞳が揺らめいた。


「あなたは何も分かっていない……」

「な、何を……?」

「これは理事長。お疲れ様です」


 第三者の声が唐突に響き景子が振り向いた。なぎもちらりとその方向へ視線を向けると、いつの間に部屋に入って来たのか月島と竹橋がいた。

 声をかけてきたメンタルケア担当の二人に対し景子が居住まいを正し、先ほどとは打って変わり口角は上がり、美しいフォームで彼らを迎えた。


「お疲れ様。こんな時間まで仕事熱心ね」

「いえ。倒れたと聞きましてね。様子を見に来ました」


 柔らかい声音で卒なく月島が答えた。


「そう」

「……どうやら大丈夫なようですね」


 月島を竹橋に視線を向けられじっと見られる。

 なぎの健康状態を確認しているようで何かを探っているような視線だが、なぎは気にかけることなくパソコンの向こう側の世界へ戻った。


「熱心に仕事をしてもらっているけれど、この子について何か分かったことはあるのかしら?」


 景子がなぎを見ながら彼らに問うた。


「ちょうどいい機会です。我々が独自でやってきた調査結果を申し上げましょう」


 竹橋が景子に答え、手に持っていたカルテをぺらりと捲った。


「なぎはオンラインゲーム『ニューワールド』に何度もログインしプレイしています」

「それは分かっているわ」

「我々もユーザーとなってオンラインゲームの世界で接触することに成功しました」


 月島は自らのスマホを取り出し、景子にその画面を見せた。

 そこには眼つきがキツく、体躯のがっちりとした大柄な男で肉弾戦が得意な格闘家の道着を身に着けているキャラクターであるブリッジと、魔導士のような黒いローブを身に纏い、フードを目深にかぶっているキャラクターのムーンが映っていた。


「我々は接触しながら、そこでなぎとその仲間との行動を調査していました」

「なぜなぎはその行動を取っているのか? 理事長、お分かりになりますか?」


 竹橋の問いに景子がすっと目を細めた。


「対他人が存在するゲームに何かを見出している。なぎは何を見出しているのでしょうか? 我々はその場所がなぎにとって、重要なカギになっているのではないかと考えています」

「重要なカギ?」

「そうです」

「そして、何かタイミングを計っているようにも見える」

「タイミングを……」


 景子が顎に手を当て、思案顔になった。


「理事長、例えば計画を進めている時に想定外のことが起こるとどうしますか?」


 今度は月島が景子に質問した。


「そうね……そうありたくはないけれど慌てるでしょうね」

「ではなぎにそれが起こった場合、どうなってしまうのでしょうかね」

「この子に……?」


 三対の双眸がなぎを見た。

 なぎは真正面から大人の視線をひたりと見据えた。


「……何をしようとしているの?」


 なぎが声を発すると部屋の空気がしんと凍てついた。


「……おや? 珍しいこともあるものですね。いつもこうやってお話をしてくれると助かるのですが」


 月島はおどけて話してみせたが、なぎはじっと見据えたまま動かない。


「ちょっとした実験ですよ。重要なカギがその手から零れ落ちた時にどうなるだろうか、という実験」


 なぎに向けて月島はにっこりと微笑んだ。


「君にはぜひ参加してもらいたいのですが」

「……そんなことをしてどうするつもり?」

「君は壊れてしまった方がいい事もある、という事を知っているんじゃないですか?」


 月島の微笑みとは対照的になぎは無表情だ。

 けれども、なぎは感じていた。

 静かに、静かに。

 何かが競り上がってくるのを感じる。

 ああ、気持ちが悪い。


「……また私から取り上げるの? そんなことして、楽しい?」

「取り上げるだなんて……!」


 なぎの言葉に反応したのは景子だ。

 部下がいるにも関わらず狼狽した様子を見せた。


「……私のことなんて放っておいて」

「それは出来ません。君に選択権があると思っているのですか……?」


 月島の言葉は静かに部屋に響いた。

 刹那、轟くように声が啼いた。

 なぎの瞳からは涙がだらだらと零れ落ちる。

 湯が急激に沸騰したようになぎの感情が噴出したのだ。

 なぎはがたりと立ち上がり目に入ったモノを鷲掴みにして、大人たちに向かって片っ端から投げつけた。景子は撒き散らされるものから身を庇いながら、落ち着かせようと名前を呼んだ。

 なぎは今まで座っていた椅子を持ち上げ投げつけようとしたが、大柄な竹橋が椅子をぐっと掴んだ。

 なぎは投げたくて必死にもがくがピクリとも動かない。

 なぎは苛立ちが募り、唾が飛び散らんばかりに一際大きく吠えた。


「何をしているんだ!」


 スライド式の扉が乱暴に開け放たれると三宅が息を切らせて部屋へ入ってきた。

 瞬間、竹橋が力任せに椅子を引き寄せなぎからそれを取り上げた。

 その反動でなぎの体は傾ぎ仰向けに倒れたが、間一髪のところで三宅が抱き留めた。

 景子がなぎの傍に慌てて駆け寄り、ひどく心配した表情を浮かべている。

 なぎはぜえぜえと荒い息を吐きながら、月島と竹橋をぎっと睨んだ。

 なぎの瞳は怒りに満ち暗い輝きをした酷い瞳だった。


「これは……どういうことだ」

「すみません。なぎに少し刺激を与えてしまったようです」


 月島は悪びれもせず三宅に言った。


「一旦出て行ってくれ。なぎに悪影響を及ぼしている。落ち着いたら改めて診察を」


 その言葉に竹橋はふんと鼻を鳴らすと、静かに元の位置にイスを置いた。


「ここは先生にお任せしましょう。申し訳ございません。我々の不手際のために」

「御託はどうでもいい。早く出て行ってくれないか」


 三宅がぴしゃりと言ってのけたが、月島は意に介さずいつもの調子を崩すことはなかった。


「ええ。ではよろしくお願いします。行きましょう」


 月島と竹橋が連れ立ってこの部屋を出て行く。

 扉が閉まってからもその向こうにあるであろう後ろ姿を、なぎは凝視し視線を外すことはなかった。

 三宅がなぎを抱き留めたまま背中を幾度も幾度も擦り、落ち着かせようと試みていた。

 それでもなぎは時折唸り声を上げ、三宅の腕から逃れようともがいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る