第29話


「ウィル……?」


 ぱっちりと目を瞬き、驚いた表情をしているティアナを見て、ウィルバートはぽつりと言葉を溢す。


「本当に、心配、した……」


 息を乱しながらもティアナの身を案じていたと口にしたウィルバートは、よく見てみればいつも綺麗に整えられている髪を大いに乱し、空色の目は充血しているし、裕福な商人風の小綺麗だった服もところどころ擦り切れていたり、何かわからないもので汚れていたりしている。


「よかった……生きてる……」


 そう言って深く嘆息したウィルバートの腕にきつく抱きしめられた。


「ご、ごめんなさい心配かけて……反省しています……」


 慣れた温もりと匂いに安心して身を委ねそうになったティアナは、ハッと正気を取り戻し、ウィルバートの胸を押し返した。

 また迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて、大好きだった空色の瞳を見ることはできなかった。


「ティア……!ティア!!」


 そこにふらふらとやって来たのは、マリアだった。その場に両膝をつき、ティアナを胸に抱き込んだ。


「ティア、私の愛するティアナ。ごめんね。全部思い出したわ。クリスのことも、あなたのことも、全部」


 その言葉を聞いて、ティアナはゆっくりと顔を上げて母の顔を見た。

 ティアナと同じ翠の瞳からは後からあとから涙が零れ落ち、頬を濡らしていた。


「お母さん?思い出した……?最後に三人で住んでいたあの家、引っ越した時に私とお父さんと三人で壁を白く塗ったことも……?」

「ええ。ドアや窓枠だけは茶色にしようって決めていたのに、クリスが間違えて全部白に塗ってしまって、二人でクリスを怒ったことも。その後仲直りして三人でクリスの好物のシチューを作って食べたことも……全部」


 三人しか知らない、三人だけの楽しかった思い出だ。母は全部思い出したのだと、ティアナの母が本当の意味で戻ってきたのだと実感して、ティアナも涙が止まらなくなった。


 二人抱きしめ合ってさめざめと泣く母娘の姿に、周囲の人々は落ち着くまでは、と温かな目で見守っていた。


 幸い、ティアナの周りにはちょうど人もおらず、建物へ突っ込む直前でフィリップやサミュエルたち護衛騎士の働きによって馬の暴走は止められていたので、怪我人も周辺への被害も出ていなかった。


◆◆◆


「確かあの日もウィルくんがティアを助けてくれたのだったわね」


 未然で防がれたとはいえあわや大惨事というところだったのだ。少し残念ではあったが、その後すぐに帰ることになった。

 帰りの馬車の中では自然と5年前の話になっていた。


「偶然発見できてよかったです。そのおかげで僕はティアナ嬢に出会えたのですから」


 ウィルバートは人攫いからティアナを奪い返す時に少し怪我をしてしまい、ちょっとかっこ悪いなとは思ったが、自分のことを心配してくれるティアナが可愛くて、それを口実に会える喜びの方が勝り、ティアナに怪我のお世話をされていたのだ。


「それがきっかけで二人は付き合うようになったのよね!クリスが反対して大変だったわ……」


 「付き合うなんてまだ早い!」「友達でいいではないか!」「なぜ友達ではいけないのだ……」と最後は弱々しく、涙目になりながら訴えていたことを思い出す。

 いま考えても、あの時の姿がいつもかっこよくて自慢だった父の一番情けない姿だったな……とティアナは苦笑とともに思い出していた。


「クリスさんもあんなに反対していたのに、僕が訪ねていくとぶっきらぼうながらも本当に良くしてくれて……」


 ウィルバートはマリアとティアナに改めて姿勢を正して向き合って頭を下げる。


「この度は……本当に、ご愁傷様でした。クリストファー様のご冥福を心よりお祈りします」


ティアナは俯き、マリアはうっすらと微笑んだ。


「あの時、私も死んだと思ったわ。あの人が咄嗟に私を守ってくれたのよ」

「お父さんが……。お父さん、お母さんのこと大好きだったものね。

 二人が亡くなったって聞いて……私、わけのわからないままにロバートに連れて行かれて使用人として働かされて……親のいなくなった私を養ってくれてるんだから当然だって思ってた。でも、違った……!私、ロバートが許せない……!」


 ティアナは初めてクリストファーの死に関しての感情を露わにした。


「私利私欲のために人を殺めるなんて間違っているわ……。そんな人がフランネアの重臣だなんて、許されるはずがない」


 一度口にすると、自分の内側からふつふつと怒りが湧き出してくるのを感じた。


「……僕が力になるよ」


 ティアナの言葉を聞いて、ウィルバートは静かに固めていた決意を口にしたのであった。

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