第43話 紅玉

朝陽が微かにその身を現したばかりの薄暗い部屋の中、3人の男が三者三様の表情で顔を突き合わせていた。

きっちりと重なった書類が面積の大半を占領する机を前にただ一人座る男は、この部屋の持ち主である。


紅い奔流にのまれる。直属の上司が怒りを顕にするたび、霞は眼前に大波が打ち寄せ体が巻き込まれていくような錯覚を起こした。


自然の脅威を前にして、人が抵抗する術を持っていないのと同様に、霞もこの上司の激情をどうすることもできなかった。ただただ、引き千切られてしまわないよう、身を強張らせることしか思い付かない。


「何故、報告を怠った」


問い掛ける声は大きくはないが、静まり返った室内ではよく響いた。低く、深みのある声は、普段ならば羨ましく思えるのだが、今は恐ろしさに暢気な考えは決してできなかった。断罪されるのを今かと待つ罪人の気分だ。

厳しい質疑に、同僚の雛菊はスラリと伸びた背を正したままの態勢で臆することなくきっぱりと答えた。


「申し訳ありません。この件は優先事項ではないと判断し、報告を遅らせていました」


「誰が判断した」


「自分です」


「バッ」


馬鹿!と怒鳴りそうになって慌てて口を噤む。その代わり、大穴を空ける勢いで雛菊の飄々とした横顔を睨み付けた。本当に、半石の頃からこの肝っ玉の据わりようには驚かされてばかりだが、今ほど恨めしく思ったことはなかった。自分より上だと見做した人間に対しては実直で従順、だが時にこうして度を越して暴走してしまう。考えあってのことであると後々になってわかるのだが、上司からしてみると紀律違反も甚だしかった。


横目に見た雛菊は若干いつもより固くなっているが、自分が言ってることをちらとも間違っていないと信じて疑わない顔だ。

息をするのでさえ苦痛を伴うこの場で、よくそんな顔で堂々と宣うことができるなと霞は一周まわって感心した。


「規矩準縄でも正してくれているつもりか?」


子ども一人分の身長もある机を挟んでいるというのに、まるで耳元で恫喝されているみたいな気がして、霞は小さく震える自分を抑えられなかった。威圧感で死んでしまいそうだと本気で思った。紅玉を冠するに相応しい、焔のような光を放つ瞳の激しさが今後の自分たちの処断を物語っているようだった。


この会話に口を挟むべきか、と一瞬躊躇った霞は、またしても何も言うことができなかった。


雛菊が唐突に腰を折り、両膝を床につけ頭を垂れたからだ。突拍子のない行動に霞はぎょっとして今度は大口を開けることとなった。尊礼…、などではない、紛うごとなき土下座だ。

いきなりすぎる行動に男は怜悧な瞳をちょっと眇めて黙した。


「紅様」


頭を下げたまま、雛菊は少しの躊躇もすることなく自分の上司に進言した。


「此度の件で、また紅様自ら現地に赴かれるのではと危惧してでのことです。神子なき今、洸国は少しずつ秩序が乱れています。戴暉方が要であるこの陣を離れることがどれだけの危険を齎すか…」


「建前は良い。本音をさっさと言え」


「仕事のしすぎです休んでください」


一息で言い放った言葉に霞は気が付けば今度こそ「バカヤロウ!」と怒鳴っていた。

言うに事欠いて天上にも等しいところに御座します方に『休め』とはどういうことだ。


戴暉と普通の人間は違う。その名を冠する責任の代わりに与えられた奇跡は、常識や人智を超えたものだ。それなのに、自分の隣で頭を垂れる同僚は自分たちと同様の扱いをしたのだ。霞にしてみれば、報告漏れよりも今の言動のほうが遥かに不敬に取れた。


強烈な目眩が襲ってきて倒れ込みそうになるのを丹田に力を込めてどうにか堪えると、ぐっと奥歯を噛みすぐさまその場に膝をついて頭を下げた。


「この馬鹿を制御できなかった自分にも責任はあります。紀律違反に加え、コイツの心得違いに関しても、非礼この上ないことと、謹んでお詫び申し上げます」


馬鹿とはなんだ、と非難の声が聞こえたが無視をして言葉を連ねる。


「この馬鹿は確かに手前勝手で、粗暴で、人間を名乗るのに相応しいか疑問が残るところですが」


「オイ」


「それでも紅様への忠誠心は自分と勝るとも劣らないと思います。今回仕出かしたことも、全ては紅様を思ってのことで…」


「もういい。…雛菊、霞…二人とも顔を上げろ」


霞の言葉を遮ったのは、柔らかい声だった。

息を飲む。霞は躊躇いがちに雛菊と視線を合わせた後、恐る恐る前を向いた。

予想に反して、目の前には呆れているような、微笑っているような、複雑な表情をしている上司がいた。先程まで目の奥に見えていた灼熱の岩漿は影を潜め、今は常の鮮やかな炎だけが宿っている。


「雛菊、お前が俺の身を案じているのは理解した。霞、無理に雛菊の手綱を握ろうとしなくていい。胃に穴が空くぞ」


「は、はい…」


「すみません、俺の世話をするのが霞の唯一の趣味なのもので」


「おまっ、」


「自覚があるなら振り回してやるな」


はっと威勢良く下げた頭に、さすがに顔が険しくなるのを隠せなかった。

殊勝に見せたところで、この部屋を出たあたりでまたすぐに自分の制御下を離れて自由気ままに振る舞うのは目に見えている。全く信用ならない。


殴り付けたくなる衝動を押し殺し、霞は改めて上司を見上げると、一枚の書類に目を通していた。それは、先程青褪めながら霞が提出したものだ。

頬杖を付き、無言のまま眺める上司の顔は書類で隠れてしまって見えない。不備でもあったかひやひやした面持ちで窺っていると「立て」と声が飛んできた。


「好事家と繋がっている奴の名は」


「…目星はつけていますが、確証がなく…。申し訳ありません」


「まあ、簡単に尾を掴ませるとも思えないしな」


紙面から覗いた上司の顔は、霞の予想と違い、いつもの落ち着き払ったものだった。そのことにホッと胸を撫で下ろす。どうやら書類は問題ないらしい。


確か、星の巡りが23ということだったが、どう見ても自分より歳下には見えない。実年齢より大人っぽい、というのを通り越して、老成している。上背がかなりあり、靭やかな筋肉がついていることもあって、ただ頬杖をついているだけでも、常人にはない貫禄があった。


そして何より、身形以上に目立つのが、紅玉の二つ名に相応しい燃え盛るような目の色だ。その燦爛たる紅は宝石と見間違う程鮮烈で、一度見たら目に焼き付いて忘れられない色だった。


生まれは西の外れだという話だが、洸陣育ちの霞には彼の色が土地柄なのか、家系によるものなのかは判断し辛かった。


「逆から探したほうがいいかもな」


ひとり言のようにポツリと呟かれた言葉に霞は首を傾げたが、雛菊は「ああ…」と合点がいったように深く頷いた。


「飛竜を狩る者を探るのではなく、飛竜に狩られた者から探る、ということですか」


「そうだ」


それ以上、雛菊は問わなかった。霞も同様に頷き、「了解致しました」と短く答える。


未だ生態の詳細が解明されない魔獣は、許可を得ずにその素材を売買することを禁じられている。しかし禁じられているが故に、人間の性なのか、秘密裏に使われる取引材料として人気が高く、特に攻撃性の高い魔獣などは飼い慣らせないものの、討伐された後の肉体は鱗1枚でさえも希少価値があり、市場では日々その価値を高めていた。

魔獣たちを狩り、金に換えている者たちは少なからず一定数存在する。

討伐をするまでは良い、が、その後が問題となっているのだ。親衛隊では把握できない程に闇の市場は広大だ。


この案件は、魔獣狩りの団体が飛竜に出くわし、死亡者まで出たために王立軍に訴えがあったというものだが、問題はその団体が非認可であり、芋づる式に今までの悪事が露見したことである。


訴えを起こしたのは、死亡者の妻であり、口封じや報復を考え今は保護しているが、その妻も夫の仕事の詳細ついてはほとんど何も知らなかったようで引き出せる情報が少ないため、半ば部下に任せて他を当たっていたが、上司はこの妻から探れと言っているのだ。


今回のことは、親衛隊の威信にも関わる厄介なものだが…霞は、この上司が簡単には動じないことを知っている。また、この案件が上司自ら采配を振るわなければならないようなものでもないとも思っている。優先事項ではないと言った雛菊の言葉にも同意だった。


問題は根深いが、正直に言うとこのような話は今に始まったことではない、というのが本音だ。そして上司も恐らく同じ意見を持っている。


『それならば何故』と先程の激昂をふと疑問に思った。


「お前たち、俺の体の心配してくれているんだったよな」


意識がハッと引き戻される。俯きかけていた顔を慌てて上げると、好青年らしい何とも爽やかな表情をした上司が目に入った。


嫌な予感がする。


頷くのを躊躇っていると、上司好き好き馬鹿野郎が「ハイ」と真面目くさった返事をしたので心の中で盛大に舌打ちをした。


「じゃあ、好事家を調べるついでだ。この件が終着するまで白杏の安全を確保しろ」


「白杏の安全と言いますと…?」


「白杏の民全ての安全だ。この件に関わることについて、一人も負傷者を出すな」


ザッと血の気か引いた。

控えめに言っても白杏の民は1000はいる。少ないとはいえ、万が一飛竜が暴走した時、全員を守りきるのは不可能だ。


言葉を失くす自分を横目に動じることなく頷く雛菊が恐ろしかった。


「いいか、必ず捕まえろ」


背後から、昇った陽が男の身を照らす。それが霞には後光にも見えた。暗闇の中、道を指し示す唯一の灯火。

雛菊が深く頭を垂れる。霞も倣い、膝を付いた。


「この件は最優先事項だと認識を改めろ。それと、必要なら協力者を使え」


「「ハッ」」


二人の返事を聞くや否や、上司は「下がっていい」と言ったきり、机の上の書類に取り掛かった。


「失礼致します」


自分で思う一番形の良い礼をして霞は同僚と共に退室した。端的な命令を追及するような真似は、いくら丸太並みに図太い神経を持つ雛菊を以てしても出来かねたらしい。大人しく引き下がる様子に『さっきまでの強引さはどうしたんだよ』と突っ込みを入れたくなる。


「ふうー…」


緊張から解き放たれ、霞は安心するとともにがっくりと肩を落とした。


仕事が増えた。


ただでさえ今は半石の選定と各国の精霊調査で目が回る忙しさだというのに、それに加え密偵までしなければならないとは…、いくら輝石の中でも類を見ない天才であると自負している霞でさえも荷が重かった。

そう、己の優秀さは己がよくわかっている。


――こいつさえ上手くやってりゃな…


廊下を進む男の背中を無言で睨み付ける。長い脚が、嫌味かと思うくらいの大股で足早に自分の前を歩いていく。周りがチカチカと光って見えるのは、何も光の反射だけでない。

朝陽の昇りはまだ低く、永遠に終わることのないように思えた先ほどの会議が、濃密な時間だったのだと改めて感じさせた。


―― 一日が始まる


そう、これからが長いのだ。


よし、と霞は一人、腹を括り、自分を無視して立ち去ろうとする男にイラつきながらも後を追った。





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