第22話 錯乱

その時、ふっ、と視界の隅で何かが光った。



「なに…」


アヤメはその後の言葉を続けることなく、本能的に土を蹴った。


「ーーっ!?」


距離をとったと同時に四方に放たれた青白い光。

目を貫く閃光が瞬く間にアヤメ達の前に広がった。



「下がって…!」



庇うようにアヤメの前に立ちふさがった月の隙間から見えた光景に、言葉を失う。


「…っ」


光の正体は爆発する炎だった。


「まずいっ…」

「今行っても無駄です…!」


もう遅い…と唇が動く。


炎は既に男達の体を飲み込んでいる。アヤメたちの目前、地に伏せていた男達を中心に燃え盛る炎は上がった。


間に合わない、駄目だ、手掛かりが…


焦るアヤメを強い力で月が止める。行くな、と視線だけで告げられた。


火の元となるものは何もないにも関わらず、炎は更にその身を大きくしていった。

気がついた男達は火を消そうと無意識に転げまわっていたが、すぐに肺から酸素をすべて奪い去され窒息死したようだった。しかし、命を奪ってもなお炎は消える気配を見せず、その勢いは増すばかりで、二人は険しい顔をしながら後退した。


「くそ…!」


ギリ…と音をたて歯噛みする。護衛達の体のどこかに符を紛れ込ませていたのだろう。術者の意思で発動したそれは死を以て男達の口を封じた。


ゴウと唸り声を上げる炎を睨み付ける。


「用意周到なことですね…」


アヤメの掌にジワリと汗が滲んだ。

もし、自分たちが話し込まずすぐに男たちを捕らえ、移送している最中であったならば…


自分たちの敵は普通の術者ではない。

自分の目に見えない範囲で術を発動させることは相当な手練れでないとできないことだ。


「これはなかなか…面倒そうな相手だ」


退こう、と言いかけて、すぐに口を噤んだ。アヤメは目の前の光景に既視感のようなものを感じ取った。

ちらちらと揺らめく炎がアヤメの目に映り込む。


前にも、こんな光景が…


いつだったか、と思い出しきれないうちに頭の奥がズンと痛んだ。身に覚えのない記憶が、固く蓋をしていた記憶が、解かれようとしていた。


全身はじっとりと嫌な汗で濡れているのに、口の中がひどく渇く。

焼ける人の臭い。

鼻の奥に残るツンとしたこの臭いを自分は嗅いだことがある。


…いつ?


記憶を呼び起こそうとしても答えは出なかった。大きく頭を振る。


呼吸がうまくできない。


吸い込もうと意識しても煙ばかりが喉に入り込み、引っ掛かった。浅く息を繰り返す。


「…っ」


自分は何かを忘れている。


鼓動が速まる。


胃の腑が強く締め付けられ、堪らずその場に膝をついた。


様子がおかしいことに気づいた月が背後を振り返った。


「―――アヤメ様…?」

(アヤメ―――)


低い。

この声は兄上だ。


(アヤメ、)


唇が薄く開く。聞こえない。笑い声が邪魔をしている。

何を言っているかわからず、焦れったい思いでアヤメは必死に手を伸ばす。


目の下に刻まれた傷。

笑みに引き吊られて歪む。


腕が伸びて、首に、絡まる。そのまま、強く強く締められる。


斬り付けられた背中が痛い。

大きくなる笑い声。

隣で寝転がっている黒い塊。

あれは、なんだ


視界に入れた途端、アヤメの瞳は大きく見開いた。



頭が割れるようだ。

目の前がチカチカと点滅する。


焦げる肉。焼ける脂の嫌な臭い。


これさえなければと、背中を斬り付けられた。全ての元凶。禍の種を産みしもの。


映写機のように広がる景色はアヤメの身に覚えのないものだ。


「アヤメ様!」


呼吸ができない。

締め付けている手を剥がそうと必死になるが、少しも弛まず、真っ青な顔でアヤメはもがき続けた。


精一杯吸い込むのに、空気は漏れていくばかりで少しも肺に取り込めない。


何事かを月が喚く。

聞き取れず、アヤメは自分を守るように固く蹲り呼吸を荒くした。


パッと、ある光景が、不意に閃くようにアヤメの脳裏に甦った。


兄の目に咲いた狂気の花。


人からの憎悪を真っ直ぐ受けることの恐ろしさを初めて知った。烈火のごとき憎悪は、受け取ると凍てつくように震える冷たさに変わるのだ。


幼い手で母に、兄に、必死の思いで助けを呼ぶ。

燃える炎はまわりを飲み込みながら大きくなっていく。踊る炎。


火は一番自分の身近にいて、ずっと味方だった。だというのに、炎はたった一人の  を焼いた。



首を締める手が強まる。



「―――!!」


「――うっ…!」


左頬に与えられた衝撃でアヤメの体は大きく傾いだ。手を付くことができず、そのまま派手に顔から地面に倒れ込む。顔が土に擦れ、アヤメさ小さく呻き声をあげた。


ぐらりと地面が揺れる。口の中を切ったのか微かな血の味が口に広がるのを感じながら、定まらない視線を彷徨わせた。


殴られたのだと気が付いたのは少し経ってからだった。


頬を擦り付けて横たわるアヤメの背中がぐいと抱え起こされる。

霞む視界の中、赤い光だけが鮮烈に浮かび上がった。

強引に顎を持ち上げられる、正面にある唇が何かの形に動いたがアヤメには聞き取ることができなかった。



「…っ…」



少しかさついた、温かなものが自分の口に重ねられる。これは何だろうとぼんやり思っていると、ふうっと息が口内に吹き込まれた。



「…ふ…」



唇から空気が漏れ出る。

送り込まれる空気に呼応するかのように、体が一度ぴくりと反応を示す。

甘い、花の香りが混じっているかに思えた。息が吹き込まれるたび全身から力が抜けていき、アヤメの体が弛緩する。


…なにをされている…


疑問に思った時、アヤメに正気が戻った。

振り絞り、ゆるく目を開けると柳眉を潜めた月の顔が間近に見えた。長い睫毛は伏せられていた。


眼鏡…


眼鏡がないとアヤメが気付いた頃には、いつの間にか呼吸の苦しさも頬の痛みもどこかに消えていた。


術でもかけられているのか、次第に瞼が鉛のように重くなる。


駄目だ、意識が…


朦朧とする。

なんとか意識を飛ばすまいと体に力を込めるが、手も足も、僅かも動いてはくれなかった。

役に立たない体の代わりに、そろりと舌を動かし、空気が流れてくる方に差し出す。


「…っ」


もう良いと月に伝える。


舌を動かし生ぬるいものに当てると、瞬時に月は驚いたように顔を離した。


まじまじと顔を凝視される。

アヤメは、重たい瞼を押し上げ懸命に月に訴えた。


「………」


しかし、アヤメの訴えに反して月はふっと口の端を吊り上げた。


初めて見るその表情に戸惑いながらも、月の腕から逃れようと試みる。しかし、力の入らない体ではいくら抵抗しようとも強固な腕の中から抜け出せるはずもなく軽く身動ぎした程度で終わってしまった。


月は表情を改め紳士的に笑いかけると、優しくアヤメの顎を持ち上げた。

あっという間に再度アヤメの唇が塞がれる。それも、先ほどとは違い今度は深く。


ぬるり、と舌が入り込む。

慌てて舌を引っ込めようとすると、熱い舌がそれを許さず絡め取った。

食べられる。

反射的にそう思った。自分の舌が味わわれるように蹂躙され、遊ばれる。抵抗しようとする素振りを見せると、頬をするりと撫でられた。そのままこめかみから髪を掻き上げ、宥めるように梳かれる。


「む…」


歯列をなぞられる。何をしているのだろうと思ったら、どうやら欠けてないかを確かめているようだった。変なところで律儀である。


「…ん…」


べろりと上顎を舐めあげられ、変な声が出そうになり寸でのところで堪えた。身体がじわりと熱くなる。おかしい。というか、この状況は危ないんじゃないだろうか、色々と。舌先をちゅっと軽く吸われ、頭の芯が痺れる。



非常にまずい…



咄嗟にアヤメは近くにあるものに噛み付いた。

それは月の下唇に当たる部分で、どうにでもなれとアヤメは力の入らない体を動かし、はむ、と噛み付く。


相手にしてみれば、思わぬ反撃だったらしく、舌の動きを止めてやわやわと噛むアヤメの様子を不思議そうに伺った。


「ふ、」


笑い声が漏れ出る。




月の指先がアヤメの顎をすいとなぞる。擽られる感触にアヤメは首を微かに揺らしてむずがった。まるで人に懐かない猫だ。

その発想に月は再度笑い、それから焦げ臭い空気を吸って肺に息を溜めた。顎を持ち上げる。


「ふー…」


唇を合わせ、術の込められた息は、アヤメの体の隅々まで行き届けられた。体が重い。どこも思うように動かない。

思考回路が溶けていく感覚を味わいながら、アヤメはゆっくりと眠りに落ちていった。

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