第2話 春蘭

 白杏の属する桜陣の中心部、春蘭は商人の街である。


 桜陣は東の陣の中でも西部寄りにあり、物流業が栄えた春蘭では西部からの珍しい物資があちらこちらで売られていた。


 市場では、威勢の良い呼び声がそこらで競うように上がり、商人の活気につられて観光客も賑わっている。


 どこもかしこも喧噪に包まれていた春蘭のあまりの人口密度に気分が悪くなった田舎育ちのアヤメはその陽気な空気とは正反対に全身に疲労の色を濃く滲ませていた。


「シャンとしろ」


 だらしなく背を丸めるアヤメをとてもではないが情けなくて見てられず、立浪(たつなみ)は呆れて諌めた。


 平均よりも少し高めのアヤメを軽々と見下ろす程に高身長の青年は老人のように曲がった幼馴染の背をパンと軽く叩く。


 いたぁ、と大して痛くもなさそうに唸るアヤメが振り仰ぐと、短く切り揃えられた夜露色の髪の下、同色の鋭く光る瞳とかち合った。


 黒髪黒眼は白杏出身者の特徴だ。強い色が持つ特有の堅いイメージを和らげているのは少し垂れた眼尻のおかげだろう。


 強烈な眼光をまともに浴びたアヤメは聞こえなかったフリに徹することを決め、手元の氷菓子を一掬い、口に放り込んだ。


 口内を刺激する冷たさに思わず目を細める。温暖な地域で氷菓子が食べられるのも珍しい。

 北の精霊の持つエネルギーが変換された簡易符が十分に行き届いている証だ。それだけでも春蘭全体が潤っていることがわかった。


「……」


 あっという間に貴重な氷菓子を食べ終え、空になった器を前にして物足りなげに匙を齧りだしたアヤメを「行儀が悪い」とまたもやお目付け役が叱る。その手元にはまだ氷菓子が山となって残っていた。


「食べないの?」


 なら頂戴、と獲物を狙う獣のごとく素早く匙を伸ばしてきたアヤメの行動を既に予期していた立浪は横取りされる前にサッと器を退けた。目標を失った匙が虚しく空を掬いあげる。


「お見通しなんだよ」


 恨めしげに睨みあげてくるアヤメをふんと鼻で笑う。

 伊達に長いこと付き合っていない。

 細身に似合わぬ怪物並みの胃袋を持った友人と行動を共にしていれば、たとえ兄弟がいなくとも食事の取り合いには慣れる。あまり人に自慢できない慣れではあるが。


「欲しけりゃ来た道戻って買いに行くんだな」


「えー…」


 気の抜けた声を出し、振り返って見た人波の激しさにうんざりとした。多い。多すぎる。白杏の人口が一所に集まっても、こんな賑わいにはならないのではないだろうか。心底白杏で育って良かったと思いながら、左右に撫で付けた髪をぐしゃぐしゃと乱雑に崩した。


「早く帰りてー」


 ぼやく立浪にアヤメも深く同意する。


 二人の疲労の原因はつい先ほど行われた各地の代表が集まる定例議会であった。


 各長たちが一斉に集まるこの議会で一際歳若いアヤメたちはどうしても他からの注目を集めてしまう。


 さらに、年齢だけでなくアヤメの風貌も目立つ要因だった。


 白杏の民は、ほとんどの者が髪と瞳に黒を有する。

 しかし、アヤメのそれらは東では馴染みのない白金と金であった。明らかに白杏出身でない若輩のアヤメに長を任せることは注目を集めるに仕方がない程に奇異なことだったのだ。


 七つ年上である兄の藤馬は洸国の最南部、楽果陣全体を治める陣長である。若干15歳にして白杏の長となり、それから五年で楽果の陣長になった。

 アヤメが今回、移民であるのに白杏の長に就任できたのは、藤馬という前例の影響が大きい。


 飄々とした兄の顔を思い出す。

 幼い頃はいつも兄の後をついて回っていた。出かける兄と離れるのが嫌で、泣きながら広い背中にしがみつく度、呆れながらも優しく抱き上げてくれた。


『アヤメ』


 会うと必ず頭を撫でるのが兄の癖だった。


『お前、長になりな』


 ある日唐突に、いつも通り頭を一度撫で、何でもないことのようにそう命じた。


 相変わらず、自分の兄ながら何を考えているかわからない。しかし、こう言ったからには自分が白杏の長になるルートはしっかり用意されてるのだろうとは思った。


 その予想通り、トントン拍子に長へと就任し、気がつけば2年である。白杏の頭の固い年配たちをどうやって懐柔させたかは知る由もないが、さすがの段取りと手腕に畏敬の念を覚える。より、単純に引いた。


「さ、用も済んだし帰るか」


 晴れやかに踵を返したアヤメの襟を、すかさず立浪が掴む。


「ほ さ か ん」


 怒りを滲ませて凄む立浪に振り向かないままアヤメは笑って返す。


「い や だ」


 直後、頭上に勢い良く振り下ろされた手刀を緩やかに体を捻って避けると、立浪が再度手を伸ばす前に流れるような動きで素早く距離を取った。

 その軽業師のような身のこなしに一瞬立浪が呆気に取られた隙をつき、アヤメはすかさず雑踏に紛れ込んでいった。


「自分の補佐官だろう!大人しく迎えに行け!」


 どうせ上から送られてくる奴なんか、ロクでもない奴に決まってる。

 背後からの怒声に、声には出さず心の中だけで悪態を吐いた。


 白杏は娯楽も少なく、治安も良い。これといって事件も何もない辺鄙な田舎だ。そんなところに遣わされる者など『ワケアリ』に違いがなかった。


 アヤメが白杏の長に就いてからは補佐官はずっと立浪が担っていた。

 立浪はアヤメと違い、生まれも育ちも白杏で、文武両道、周囲からの人望も厚く、やる気のないアヤメを根気強く蹴飛ばす、いや励ますことのできる逸材だった。


 そんな唯一無二の存在が一月の間、急遽、アヤメの兄である藤馬の元へと馳せ参じなくてはならなくなったのだ。


 つまり、アヤメにとってはまたといってない機会。お目付け役がいない間、堂々と仕事をサボれるチャンスだった。


(宿への近道は…)


 呼吸を周囲と同調させる。潜り込んでしまえば、歩調は急がなくていい。一歩一歩、行き交う人々とテンポを合わせて。

 白杏の者は皆、隠密行動に長けている。移民であるアヤメも白杏の民と認められるようになってから一番始めに教わったことは文字でも白杏の歴史でもなく、自分という存在を薄めることだった。


 恐らく、森と共生するため、お互いの領域を守るための先人の知恵なのだろう。


 すい、とアヤメの爪先が人波を泳いでいくように前へと進む。追いかけてきているだろう立浪を探るが、流石は白杏随一の優等生。


 馴染んだ気配を察知することができず、アヤメは間隙を縫って進みながら内心焦りを感じていた。

 そしてその焦りは次のアヤメの行動に致命的なミスを生み出した。


「ぶっ!」


 背後に意識を向けすぎて、路地裏に身を潜める人物の存在に気が付かなかったのだ。

 そのまま走り抜けられると思っていたアヤメはふらりと現れた目の前の人物に思い切り鼻頭ぶつけてよろめいた。


「っ…!」


 差し伸べられた手を咄嗟に掴む。完全な前方不注意を反省しつつ、ぶつかった反動で反り返ったアヤメは、掴んだ手の華奢さに一緒に倒れてしまう、と思った。細身とはいえ、鍛えているアヤメの体は見た目よりも大分と重い。とてもではないが自分を支えきれるとは思えず、後ろ足を引き、これから来るであろう衝撃に備えた。


「大丈夫ですか?」


 しかしいつまで経っても衝撃がくることはなかった。それどころか、アヤメの体はしっかりと支えられ、目の前の人物の腕の中にちょこんと収まっていた。


 驚きに振り仰ぎ、次の瞬間その人物の正体に思わず声を大きくして叫んだ。


「先生!?」


 意外な人物の登場に目を見開いたアヤメを可笑しそうに『先生』が見つめ返す。


 清廉で上品な声。

 蝶の舞うが如く優雅な身のこなし。


 その人物はたたらを踏んだアヤメを素早く受け止め、柔らかく声をかけた。


「はい、お久しぶりですね」


 どうして、と問い掛ける前にアヤメの視界から『先生』が消えた。否、背後からの強烈な蹴りによってアヤメが『先生』の視界から消えたのだ。

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