牙の2

『二ホンオオカミ?』俺は聞き返した。

『私は野生動物については特別詳しい訳じゃありませんが、記憶するところでは明治時代後期に絶滅したと聞いていますが』

 俺はカップを持ち上げてコーヒーを啜り、シナモンスティックを齧った。

『通説ではそうなっています。』

 奥田博士は俺の質問の意味が分かったのだろう。”通説”という部分をやけに強調して眉根を吊り上げ、紫色に腫れている右頬をぴくつかせながら、幾分感情的に答えた。

『でも私はまだ生存していると信じています。』

 彼は子供の頃から、二ホンオオカミ生存説を信じて疑わなかった。

 大学の理学部で動物学を専攻したのも、その説を実証したかったからだ、とも言った。

 大学院を修了し、母校の准教授になってから、本格的にフィールドワークに何度も出かけた。

 そうしているうちに、和歌山県のO山系で、度々それらしき姿の目撃例を知り、本格的に何度も調査を行ったという。

『写真は、私がO山系でキャンプを張り、定点監視カメラを仕掛けて撮ったものです』

 彼はその写真を調べ、間違いないと信じ、学会にも発表し、高名な動物学者にも見て貰ったが、返って来た答えは大同小異であった。

”野良犬だろう”

”確かに犬とは違うようにも思えるが、二ホンオオカミと断定するのは早計過ぎる”

”二ホンオオカミはもう絶滅したのだ。”

中には、

”日本にはもともとウルフはいなかった。”というものさえあった。

反論されればされるほど、奥田博士の闘志は掻き立てられ、

”どうしてもオオカミを見つけ出してやる”

 そう決心し、何度も和歌山に足を運んだ。

 その結果、恐らく一番生存の可能性が高いと思われるのは、同山系でも一番奥に位置する、神代山を探してみることにした。

 しかし、この山に登るのは難航を極めた。

 

 いや、山そのものはそれほど険しい訳ではない。

 ましてや奥田博士は学生時代から登山部で鳴らし、日本はおろか海外へ遠征したこともあるくらいだから、標高が2000メートルもないこの山なら、一人でも登れるところだ。

 問題はもっと別のところにあった。

 神代山の麓には、安立村あだちむらという集落がある。

 戦国時代に、織田信長との戦に敗れたある武将の残党が落ちのびてきて築いたと言われている。


 この村の住民は神代山をある種の信仰の対象と捉えており、他の山には登ることはあっても、ここだけは決して立ち入らない。

”あそこにはイヌガミ様がおられる。無断で立ち入ると怒りに触れ、生きて戻ることが出来ないだけでなく、御山(村人はそう呼ぶ)を守る我々にも祟りを被る”という訳なのだ。

 しかし、彼はその”イヌガミ様”がオオカミのことであるという確信めいたものがあり、どうしても神代山に登りたいと思った。

 

 ある時、彼は村人の静止を無視して登山を敢行した。

 それを察知した村人に、

『こんな目に遭わされたんです』

 そう言って深いため息を洩らした。

 つまりは登山をする直前に、袋叩きにされたというわけだ。

 その怪我は、博士に一か月の入院を強いた。

 やっと退院して出てきても、このざまである。

『しかし、私はどうしても諦めることは出来ません。そんな時私は松平教授の口から貴方の事を訊かされました。元陸上自衛隊第一空挺団員、しかも空挺レンジャーの資格も持っておられる。神をも恐れない乾宗十郎探偵のことを』

 俺は二杯目のコーヒーをカップに注ぎ、咥えていたシナモンスティックでかき回した。

『妙に買いかぶられたものですな。確かに私は元陸自の隊員で、しかも探偵ですがね。そんなに立派なもんじゃありませんよ』

『それでもお願いします。他に頼れるあてがないんです。』

 どこで聞いたのか知らないが、また俺のウィークポイントを突いてきやがる。

 俺は苦笑して、

『いいでしょう。お引き受けします。退屈な時間を過ごすより、危険を買った方がまだ息抜きになるってもんです。その代わり探偵料ギャラと必要経費の他に、危険手当もいつもの二倍、いや、三倍増しということにして頂きますよ』

 彼は大きく頷き、俺の差し出した契約書に、すぐサインをして返した。



 

 

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