セージの草笛

鳴海穗

第1話 オニキスの天空龍

 その日は二十五夜にじゅうごやの満月の日。およそ十名ほどの客しか乗せられないほどの小さな飛空挺ひくうていは、月光で青白く縁取る雲をかき分けながら北上する。

 甲板には人影がある。その者は両手を胸元に添えて儚げな表情を浮かべていた。ただジッと、進行方向を見据えている。口唇を動かし、何かを

 ──カツ、カツ、カツ……。

 靴音を鳴らしながら誰かが近づいてくる。船長の指示で夜の巡回を任された操縦士の男だ。彼は人影の背後へ立ち、声をかける。

「お嬢さん、そんなところにいると風邪をひいてしまうよ?」

 その呼び掛けに応じるようにゆったりとした身動きで女性は振り返る。海を連想させるようなアクアマリン色の大きな瞳と男の瞳が重なる。

 色白な顔はまだ幼さが残るように見えるが、体つきは大人そのものであった。鼠色のワンピースの上には華やかとも艶やかとも言えるあかのコートを羽織っている。彼女は衣服で上手に隠しているつもりではあるだろうが、誰が見ても豊かな胸であると理解できてしまうものであった。

 今にも地に届いてしまいそうな長い髪は、静かに佇む月の光を背後からたっぷりと受けている。毛髪は光で透き通らせて、まるでフォスフォフィライトの原石を連想させる。

 男は彼女の姿を見てため息をついた。それは綺麗なものや美しいものを見た時に思わず出てしまう感動的なものだ。黒曜石のような黒い瞳には僅かな風と静寂な月夜の世界を背景に立つ彼女がとても美しく映って見えた。

「はい。大丈夫です」

 曇りは無く、落ち着きのある澄んだソプラノの声調が返ってくる。イントネーションは男の紡ぐ言葉とは異なっている。訛りはあるが通じないことは無いだろう。

 返答を聞いた操縦士の男の心がざわめき始める。理由ははっきりとしないが、寂しさや悲しみを女性の声から感じ取った。

 要因を探るため、右手に握る携帯用照明器具──懐中電灯の光を彼女へと向ける。顔面に当たらないように気を配りながら注意深く観察する。

 ──鼠色のワンピースへ光の先を向けたときだ。月明かりだけでは決して気付くことができない模様が浮かび上がる。

「これは……」

 銀の刺繍だ。男はワンピースの模様から目を離すことが出来ない。目を見開き、額には汗が浮かび、恐怖に襲われているかのように体を震わせる。この模様の正体が何であるものかと記憶の辞書を捲り始める。

 操縦士見習い時代の記憶が蘇る。ある講義の情景が浮かび上がった瞬間、ハッとする。

 ──まさか、このアマ……!

 古い文献に載せられた図解と、刺繍された幾何学模様が一致する。教官からは何度も『異端』という単語が発していた。

「お前……、なぜエスメラルダへ行く?」

 男は静かに問いかけているつもりであるが、その口調には棘がある。この後、女性からどのような攻撃を何を仕掛けて来るのかが予測を立てられない以上、攻撃的な言葉をかけるしか無かった。

 懐中電灯を逆の手に持ち、利き手右手は少しずつ男の腰に据える小刀の柄へ触れていく。

 ──ここで仕留められるか?

 男の心のなかで不安が過る。命をかけてでもこの女性を排除しなければならなかった。甲板に立つ女性はエスメラルダ王国にとって癌そのものであった。

 気がつかなければ穏やかに彼女を口説くことができたのかもしれないと、操縦士は残念そうに小さく笑い、小刀を抜く。

 戦闘体制の男の心情を察したのか、女性は静かに目を伏せる。キュッと、音が鳴ってしまいそうなほど目を瞑る。

 再び瞼が開かれたとき、宝石のように煌めく瞳は微かに揺らいでいた。目尻から涙がポロポロと溢れだす。涙は直径約一センチメートル程の細かいシャボン玉へと変わり、風向きに沿って夜の空へと旅立っていく。

「抵抗する気か?」

 攻撃的な口調を投げ掛けながら小刀の先を彼女へ向けた。溢れ続ける涙を止めることなく、彼女は静かに首を横にふる。

「大切な人に……会いに行くだけです」

 涙のせいか。もしくはこの後、彼女に待ち受ける現実に怯えているのか。震えた声で意思を伝える。

「神聖たる王都にはいないはずだが?」

「……!」

 彼女は強く否定する。当然、離陸前に電光掲示板で流れた速報も目にしている筈だ。それでも彼女は────僅かな希望を捨てずにいた。

 ──あの子はいる。

 ただそれだけを信じて。


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