第19話 アリスはそれでいいの?
「ねぇ、アリス出てきてよ」
「……」
「ごめんって。まさかあんな状態だとは思わなかったんだよ」
「……」
僕は実験室にいた。ピペット、ビーカー、ノートの切れ端。実験机には様々な器具が放置されていた。内用液が半分以上残ったビーカーからは芳しい香りが漂ってくる。ガラス棒に付いた液体は拭われることなく、直接机に置かれてしまっているから小さな水たまりを作っている。器具の洗浄をする時間もないくらいアリスは集中していたのだろう。
さて、そのアリスはといえば。離れた場所で頭から大きな布を被って座っている。それは以前オーディションで御簾として使ったものだった。
テントになったアリスは歌といい服装といい、二重三重の痴態を見せたことを心底恥じている様子だった。僕は部屋に入れられたにもかかわらず小一時間無視された。だからといってぼうっとしていたつもりはなくて、僕はアリスに平謝りをし続けた。言葉を変え、ポーズを変え何度も謝った。それでもアリスはうんともすんとも言わない。それでだんだん僕の方もイライラしてきて、「行くってラインで送ったんだけど」とチクリと刺してみた。
「いいって言ってないし!」
アリスは布から出てきて強気に言ったのだけど、まさか僕がずっと見ているとは思わなかったようで、また顔を真っ赤にして布を被る。
「……どこまで見たの」
「申し訳ないけど全部」
布のなかから溜息が聞こえた。
「はぁ……一生の不覚ね」
「でもでも、朗報もあるよ」
「……どんな」
アリスは不機嫌に言った。
「アリスはバロン社に香りをパクられたって言ってたよね。僕はその痕跡を見つけたんだ」
「どこで!」
アリスの声色が変わった。
「庭園で。踏み荒らされた跡があった。きっとバロン社の奴らがここに来たんだと思う。それこそ僕みたいにアリスが調香しているところを覗いて」
「覗きを認めるのね」
アリスは布を捲って、ねめつけるように僕を見る。
「違うって。あれは偶然……いや、とにかくバロン社はそうやってアリスの香水を盗んだんだ。たぶん」
「悠がスパイじゃなければそうなるわね」
「僕は違うよ。だってもしそうなら、電車でアリスに声をかけられることまで織り込んでいたことになるじゃないか」
僕が必死に言うと、アリスはようやく出てきた。
アリスは目を細め僕を見る。静電気で髪が浮き上がっていて、整った顔立ちが台無しだ。
「いい? 悠は何も見てない」
「うん。分かった」
「いいえ、悠は分かってない。ちゃんと言って。見てないわよね」
「断じて見てません」
「よろしい」
アリスは腕を組んだ。
「赤かった」
「……悠、死にたいの」
即座に、ピペットを喉へ突きつけてくる。
「ごめんなさい出来心で」
アリスはピペットを机に置く。窓をしっかりと施錠してカーテンを閉める。
「ともかく、これで覗きは封じた。後は香水ね……。ちょうどよかったわ。出来上がった香水があるから試してみてくれる。それで悠の悪事は帳消しにしてあげるから」
「お安い御用です」
これ以上アリスに怒られないように、精いっぱい僕は恭しく言った。
目の前には香水。さらに後ろにはアリス。
すでに匂い紙の香水は乾いていて、微かに香りが鼻腔を撫でる。アリスは僕の答えを待っている。瞳が下を向いて、香水に視線が注がれている。
試作品No.124。材料にはとある男性の体臭を使ったとのことだった。でもそれはほとんど重要じゃない。
僕は悩んでいた。どう伝えればアリスは傷つかないだろう、と。
「アリス、あのさ」
「はぐらかさないで、はっきり言って」
アリスは僕がなかなか言い出さないことで何かを察知したようだ。ならばと、僕は腹をくくった。
「アリス、怒らないで聞いてほしいんだけど。僕は見ての通りド素人だ。香水のことは全然分からない。教科書を読んで多少の知識は得ても、センスまでは身につけられなかったし……」
「つまり?」
「つまり、その……ええと、ごめん。言うよ。――僕には良いと感じられなかった」
僕は歯切れ悪く言って、アリスの反応を見る。アリスの胸が上下している。僕の言葉を咀嚼しているようだった。
「やっぱり悠には分からないのね」
「えっ」
予期していた言葉と違って、僕は狼狽えた。
「これがトレンドなのよ」
「トレンド……流行ってるの?」
「今はこういう波風の立たない香りが人気らしいの」
アリスは香水の入った瓶を取る。アリスの瞳で香水が静かに揺れた。
アリスはトレンドと言った。でも、僕にはこれがトレンドだとどうしても思えなかった。それくらい芯のない香水だったし、それにアリスっぽくない。
はぐらかすな、と言われた以上僕には正直に伝える義務があった。これでも僕はアリスのパートナーなのだ。
「そっか。でも、僕には魅力が分からなかったよ。前の試作品と比べて、何も感じないんだ」
「悠は素人だから」
「ちが……いや、そうだけど。でも……アリス、本気? 本当に最高の香水が出来たと思ってるの。これは練習だよね」
「いいえ。本番よ。これで本審査に臨む」
「そんな。だって、この香水には何かが足りないんだ。僕みたいな素人でも分かっちゃう。何か大切な要素が。アリスだって自覚あるでしょ」
「嘘ね」
アリスは僕の意見を突っぱねた。背中に冷たい汗が流れるのを感じた。そんなに強く言われるとは思わなかった。
「どうして」
「きっと悠は嫉妬してるんだわ。自分じゃない別の材料を使ったから」
「違うよ。いや、確かに嫉妬はあるよ。僕は寂しかったから。でもそれとこれとは別問題だろう。僕は本心から言ってる。どう言ったら伝わるかな。――本当に、この香水にはアリスが見えないんだ。ねぇ、アリス。分かってるんでしょ。これじゃダメだって」
アリスはかぶりを振る。
端的に、アリスの香水はよくなかったと僕は感じた。何も知らないかつての僕だったら絶賛するだろう。でも、色々な香りを嗅いだ経験が僕にそうさせるのを許さなかった。試作品はアリスの良さである尖った感じがなくなっていて、かといって万人受けするかと言えばそうでもなく、厳しく言うなら安っぽいにおいになってしまっていた。優柔不断でどっちつかずの印象なのだ。アリスはさんざん既製品を非難していたのに、売れ線の香水を意識していた。それでいて売れ線にもなっていない。
明らかに宇緑さんの評価に引っ張られていた。アリスの香水にはアリスがいなかったんだ。
「売れるのはいつだって王道なのよ。尖ってるとね、最初は褒められるの。珍しいから。けど、しばらくすると批判される。みんな、分かりやすいのがいいの。そうやって世論は醸成されてくの」
アリスは投げやりに言った。
「アリスはそれでいいの?」
「いいわ」
でも、だったら――。そうやってそっぽを向くことないじゃないか。僕の目を見て話してよ。
アリスの輪郭にはいつも生命力があった。何かに熱中している人の強い線だ。なのに今、その線は薄く細く柔らかくなってしまっている。
僕にはアリスの言っていた言葉が本心にはとても思えなかった。
そう。まるで、妥協だった。アリスはたぶん気づいている。自分の香水が並のものだと。でも僕の手前言えないんだ。それに、この机の散らかりよう。転がった瓶、開いたままのノート、殴り書き。そういう苦労の結晶を見て、僕はアリスの迷いを感じずはいられなかった。
「アリスはどうして香水を作り続けてるの。既製品を作りたくないんでしょ。アリスが香水を作ろうって思ったのは王道や大衆受けが根底にあったからじゃないでしょ」
「悠に何が分かるの」
「分からないよ。分からない、全然……。アリスの一番の理解者はアリス自身しかいないんだから。でもさ、アリス、本当はアリス自身も気づいてるはずだよ。普通の香りだって」
「……」
アリスは答えない。
「アリス」
僕の問いかけに、やがてこちらを振り向く。
「……普通の香りよ」
「なら」
「でも、私はいつも人と違う香りを生み出そうとしてきた。それで――不本意だけど、上手くいかなかったのだから、ここらで方向性を変えてもいいかもしれない。宇緑さんの指摘は改善できたし、評価されるはずよ」
「それは宇緑さんの評価でしょ。世間の評価じゃない」
「宇緑さんの評価が、世間の評価を作るのよ」
「だからって迎合するなんて、アリスらしくないよ。若いからもっと挑戦すべきだよ」
「十数年しか生きてないのに」
「アリスだって――。僕は十数年しか生きてないからこそ分かることだってあると思う。真剣になれない気持ちとか、僕は挑戦しなかったからよく分かる。そういう気持ちがない人間からすれば、挑戦することはとっても貴重で、だからこそ維持すべきだと思うよ。それっておかしいことかな? アリスはアリスの道を歩けばいいじゃん」
アリスは弁が立つ印象で、僕が何を言っても返してくる。しかし、それは自信があったとか、あらかじめ答えを用意していたとかじゃなくて即興で思うままに答えている感じ。自分の成してきたところを否定されない、アイデンティティを保つための答えに思えた。
アリスは迷走していた。香りが空気中に分散していくように道筋を掴めないでいる。
僕はそのときアリスの気持ちが分かった気がした。もしかしたら、この一瞬だけはアリス以上に理解できたかもしれない。頭のなかで点と線が繋がったのだ。アリスがこうも揺らいでいる理由。それは――。
「ねぇ、アリス。アリスが欲しかったのはただ尖っているだけの香りなの? それとも万人受けする香り? 僕、ようやく分かったよ。アリスは何も求めてないんだね。本当はたった一人に響く香りが欲しいんだ」
僕は慎重に言った。
「どうして――」
アリスの目に光が宿った。
「アリスの話にはいつもお母さんが出てきたから。ひょっとしてアリスが香水を作るのは、ここまで執着するのは、お母さんに嗅いでもらいたいんじゃないの」
アリスから薄い呼吸が漏れた。
僕はアリスを待った。
「私はお母さんに認められたい」
アリスは静かに言った。その一言で僕は理解してしまった。アリスが抱えている欲求、葛藤そして劣等感。
「でも……もう時間がないの。見てよ、この有様。アイデアも枯渇してすっからかん。何が正しくて間違っているのかも分からなくなってきちゃった。悠に言われたとおり、そうよ。これは入浴剤でも代わりはきくくらいの普通の香水。こんなんじゃ審査に通るわけがない」
「分かってるなら作ろうよ。僕に出来ることなんか限られてるけど、今度はもっとアッと言わせるようなものを」
「無理よ。今更新しくアイデアを練り直すなんて無謀もいいとこよ。このままこの香水を出すか、一から作り直すかだったら安パイでもすでに出来ている香水を出すわ。一から作り直そうとして何も出さないよりかは幾分マシだから」
アリスは言った。一見、リスクを背負わないまともな選択に思えた。けれど、今作っている香水だってすでにバロン社にパクられているだろう。前科があるのだから、バロン社はきっと同系統の香水を仕上げてくるはず。下手したらアリスの香水を提出したとき、逆に盗用を疑われるかもしれない。
それに、僕はアリスに挑戦してほしかった。僕は挑戦するアリスが好きなんだ。
そのとき、ある考えが頭をもたげた。何気ない雑談で話そうと用意していたものが、こんなところで役立つとは。
「アイデアならあるよ」
僕はポケットに手を入れる。角張った感触が手に伝わる。
「何……これ」
「僕の香り。僕の思い出の」
アリスは小さな手で受け取った。
「探したんだ。アリスがあんまりにも香り、香りってうるさいから。僕も何か役立てないかって。良い匂いは普通の調香師なら誰でも知ってる。悪い臭いはアリスの専門だ。じゃあ、僕だけが知ってるにおいがあるかなって思ったとき、押し入れにね、こんなのがあったんだ」
「笛?」
アリスの顔が綻んだ。予想外のものが出てきて拍子抜けしていた。
それは鳥笛だった。竹でできた筒で、息を吹き込むと鳥の鳴き声が鳴る。その加減が難しいけど、慣れると本物の鳥の声がするのだ。僕は昔、恥ずかしくなるくらい愛用していた。
「うん、笛。ASMRって知ってるかな? 昔、ハマって色々探したんだ。変な楽器とか。これはその残骸」
「音は専門外よ」
「じゃなくてさ。このにおいの方」
「一旦待って!」
笛を渡そうとした僕をアリスは両手で制止する。
「大丈夫だって。一応、拭いたから」
「そうじゃなくて……まあいいわ」
アリスは大人しく手のひらを開く。僕はそっと載せる。アリスはゆっくりと笛を鼻に近づける。アリスの小さな鼻がつままれたようにひくひくと動く。それから首を横に振る。
「ごめんけど、私には分からないわ。長く光の届かない場所にしまわれてたにおいしか」
「もっと、集中してみて」
「そんなこと言われたって」
「いいから」
アリスは僕を訝しんだものの、再び鼻を近づける。目を瞑って集中している。僕は待った。しばらくすると、アリスの瞼が上がった。
「分かったでしょ。僕が持ってきた理由」
「悠……」
「だからさ、アリス。一緒に思い出の香水を作らない。お母さんとアリスの懐かしい香りを響かせるんだ」
僕はアリスに言った。それはアリスと出会ってから最も大仰な言い方だったに違いない。
「ありがとう……」
「お礼はまだ早いよ。勝ち取ってからでも遅くない」
アリスはうん、と小さな声で言った。
「ねぇ、悠」
「何?」
「悠は、弱気で、変態で、面倒で」
「ちょっ、ちょっと何だよ。人がせっかく」
「だけど、すっごく優しいね」
アリスの言葉は破壊力抜群だった。
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