愛依は本能で祝主を慕う


「で、俺はいつまでこの邑に居ればいいんだ」

 一方、据わった目でそう呟くのは祝主はふりぬし司凉しりょうである。


 ある日突然、ど田舎のむらに呼びつけられ、かれこれもう半月が過ぎようとしていた。

 すぐにでも御所に戻る気であったが、赤子の容態がなかなか落ち着かず、死にかける度、部屋に呼びつけられて祝血はふりちをやるという、司凉にとっては非常に不本意な生活が続いていた。


 昨日は初めて血を与えずに一日が過ごせ、ようやくお役御免かと安堵していたら、昼を過ぎてまた変な息をし始めた。

 母親の乳を受け付けなくなったと呼ばれて行ってみれば、どす黒い顔の愛依ういが司凉の訪れを待っており、指を裂いて口に突っ込んで今に至る。


 またかよ! と司凉は怒り心頭だが、放置するとこの愛依はあっけなく昇天するので血を分けてやるしかない。



 とまあ、こんな具合に日々を過ごしていたが、この辺りから翔士しょうしはようやく死に掛けるのを止め、ひと月が来ようとする頃には司凉なしでも何とか過ごせそうな感じになってきた。

 

 これでやっと手間のかかる愛依から解放される。

 司凉は爽やかな気分で帰還の日の朝を迎え、帰る前にちょこっと愛依の様子を覗いてみた。


 恐ろしい事に、どうやらこの愛依は司凉の気配がわかるらしい。

 他の人間の区別は全くつかないくせに、司凉が顔を覗き込んだ時だけ甘えたような声を上げる。


 傍から見ると大層可愛らしいが、司凉は全く心を動かされた様子もなく、「熱を出すなよ」と尊大な口調で愛依に命じていた。


「いいか、何があっても死に掛けるなよ。

 都からここまでは馬で半刻かかるんだ。余計な手間はかけさせるんじゃないぞ」


 そんな事を赤子に言い聞かせても無駄だろうと守役らは呆れ顔で見ていたが、言いたい事を言って取り敢えず司凉はすっきりしたらしい。

 愛依が急変した時のために真霊で作った符を三人に渡し、「何かあったら呼んでくれ」と殊勝な言葉をかけてきた。

 が、それはあくまで建前である。顔にはでかでかと「なるべく呼ぶな」と書かれていた。



 さて、翔士の方は大好きな祝主が遠くに行ってしまうなどとは微塵も気付いていない。

 祝主に会えた事でご機嫌になり、ばっぶーなどと言っている間に、さっさと祝主は御所に帰っていった。

 

 帰ってから二、三日は翔士も気付かなかった。

 司凉は具合が悪くならない限り翔士のところに近付かなかったから、いつもと同じくらいに思っていたのだろう。

 だが五日、六日と日が過ぎても、祝主の気配が一向に感じられないと知った翔士はだんだんとすさみ始めた。


 むずかって泣く事が多くなり、母親の乳も進まず、すぐに空腹となって夜泣きをするので当然、自分も睡眠不足。

 そういう状態であったからあっけなく風邪をもらい、半月と経たないうちに司凉が呼び出される事となった。


 縁の切れたと思っていたど田舎に再び呼びつけられて祝主は向かっ腹を立て、一方の愛依は祝主に会えて超ご機嫌だ。体中から幸せオーラを出していた。

 その温度差に架耶は思わず眉をへの字にし、妓撫は呆れ果て、宜張は腹を抱えて笑っていた。



 とまあこんな感じで、司凉は度々 泉恕せんどに呼びつけられるようになっていくのだが、司凉が御所から泉恕に向かう時は、随身ずいじん数名が必ず従った。

 別に司凉は単騎でも構わなかったのだが、万が一、裕福な貴人と間違われて物盗りなどに襲われては取り返しがつかない。

 その身を案じた父宗主から護衛だけは離すなときつく命じられていた。


 とはいえ、人相手なら随身は役に立つが、万が一鬼に襲われた場合は只人ただびとでは勝負にならない。

 司凉一人で鬼に対峙する事となる。


 筆頭格からは同胞をつけようかと聞かれたが、そちらは断った。

 司凉は自身の真霊の高さを熟知している。


 呪陣が決壊すれば一人では対処できないが、都と泉恕の間には危険な呪陣は存在しない。

 はぐれ鬼と遭遇しても、数匹程度ならば難なく倒す自信があった。


 それに、万が一のために筆頭補佐の成唯の符を持たされている。

 泉恕にいる守役の三人の符も持たされているので、いざとなればそれを裂けば良かった。


 それにしても……と、司凉は忌々し気に心に呟いた。

 生まれて十年は関わる気はなかったのに、何でこんな事になっているのだろう。


 一般に男の子はの子よりも体が弱いと言われているが、翔士の場合、そうした常識を遥かに超えてとことん体が弱かった。

 最低でもひと月に一回、お約束のように熱を出す。


 そして一旦熱を出すと喉が腫れ、母親の乳をすぐに受け付けなくなった。

 白湯を飲ませようにも、赤子が飲めるのは二口三口で、後はむずかって哀れっぽく泣き始める。


 赤子が呼んでいるのは、勿論祝主だ。


 滋養があり、まったりと美味しく、体が楽になる祝血はふりちを欲しがって、ふええんと泣くのだが、そのうち泣く元気もなくなって、今にも止まりそうな呼吸をし始める。

 で、お約束のように司凉が呼ばれるようになる訳だ。


 へにゃりと身動みじろぎ一つしなくなっていても、司凉が傍に近付けば、翔士は弱々しくその方に頭を向けようとした。

 祝主を恋うようにか細い泣き声をたて、口元に押し当てられた司凉の指に必死になって吸い付くのだ。


 高熱を出して顔を真っ赤にしている時も、取り敢えず司凉が胸に抱いてやれば、翔士はすぐにぐずるのを止めた。

 甘えるように司凉の胸に鼻先を埋め、小っちゃな手で袍を握り締めて、必死に大好きアピールをする。

 まことにけなげである。


 因みに翔士がぐずっている時は、司凉の深衣でくるんでやるだけでも絶大な効果があったようだ。

 くんと深衣に鼻先を埋め、翔士は取り敢えずおとなしくなる。


 衣の手触りが気に入っているのかと宜張たちが自分の衣で試した事もあったのだが、司凉以外の衣では効き目がない。

 むずかって唸り始めるらしいので、明確な違いがあるのだろう。


 という事で、翔士が夜泣きをする時の必須品はおしゃぶりではなく、司凉の深衣である。

 なので司凉は都に帰る前、着ていた深衣を問答無用で引っぺがされ、洗い立てのものに着せ替えさせられた。

 着替える事自体は構わないが、脱いだ衣の使用法を教えられた司凉の気持ちは複雑だった。

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