聖女と騎士のはなし

笑川雷蔵

第1話 それは、あえかな絆


 どこまでも澄んだ空だった。


 やわらかな青は雲居の果て、天にまします<母>の裳裾。ひよりひよりと響くのは、この地に春の訪れを告げる鳥たちの声だ。

 何事もないようにみえる、のどかな午後。渡る風さえも穏やかに、無駄のない足取りで回廊を歩みゆくひとりの騎士の黒髪に、そっと触れるだけで過ぎ去ってゆく。

 二十歳をいくつか越えたと思われる、若々しい横顔。夜のような双眸には、騎士の矜持と身を覆う鋼にも似た確固たる意志がある。ただ時折、そこには焦りとも不満ともつかない複雑なひかりがのぞくこともあったのだが。

「これは、エクセター卿」

 若い騎士の姿を見とめ、城壁塔につながる石段への入り口を守っていたふたりの兵士が、慌てて居住まいをただした。彼らの動きに合わせて、手にした槍の穂先が陽光を受けてぎらりと輝く。

「状況は?」

 あくまでも簡潔に騎士はたずねる。どこか突き放したようにも感じられる物言いだが、不思議と冷ややかな印象を与えることはない。

「上に待機するものたちからは、変わりなしとの報告が」

 壮年の兵士が答える側を、落とすなよと声をかけあいながら糧食や武器を運び込む下働きの男たちが通り過ぎていく。しばしその様子を見やると、若い騎士は父ほどの年齢であろう兵士へと続きを促した。

「先刻、砦に侵入したもの以外には、奴らとおぼしき影は見当たりません」

「ひきつづき警戒を。西塔から二人を新たに回すと騎士団長の仰せだ」

 そう。

 ここは、今まさにいくさの只中にある砦。軍馬の嘶きと人々の喧騒、鋼と革に身を包んだもののふたちが闊歩する場所なのだ。

 緑なすアーケヴ、<母なる御方>とその娘たる大地の精が愛でし我らが故郷。

 そう呼ばれていたくにが、突如として禍々しきものたち――魔族の侵攻を受けるようになって早や十数年。

 攻めては退き、また攻めては退きを互いに繰り返し。学者を夢みた子供を若い騎士へ、朴訥な農夫を歴戦の老兵へと変えるほどに長く続けられてきた戦いだ。人であろうと魔族であろうと、このいくさにまるで関わったことのない者など、アーケヴのどこを探しても見当たりはしないだろう。

「上がるぞ。火急の場合は知らせる」

 それだけ言い置いて、若い騎士が城壁塔へとつづく石段へと向かおうとしたときだ。


「ギルバート」

 いくさ場には似つかわしくない、伸びやかで澄んだ声が騎士の足を止める。

「よかった、やっと会えました」

 軽やかな足音とともに駆けてきたのはひとりの娘だった。騎士の前にたどり着き、しばらくの間乱れた息を整える。見ろ、ダウフトさまだぞと脇に退いた兵士たちがそっと囁きあい、ほほえましいものを見るかのように表情を和ませる。

「なぜここに、ダウフト」

「アラン卿にお聞きしたら、たぶんここだろうと教えてくださいました。暇さえあれば、書に親しむか剣の鍛錬か、城壁塔でぼうっと空を眺めているはずだからと」

 そう笑って娘が面を上げると、赤みをおびた栗色の髪が首筋でさらりと揺れた。

 年のころは十七か十八。やさしげな顔立ちの中、輝きにあふれた緑の双眸が若い騎士を見つめている。

 非力な娘でも扱えるようにと、特別にあつらえられた鎖かたびらに身を包み、騎士のようななりこそしているが、もとをただせば貧しい田舎村の生まれ。当然ながら、正真正銘の騎士であるギルバートと対等に話などできる身分ではない。

 そんな娘が、ぼろをまとった下働きの子供から緋色のマントをひるがえす騎士団長にまで憧憬のまなざしで見つめられ、いくさ姿で砦を自由に歩き回ることができるのは、その腰に佩いた一振りの剣のため。

 聖剣<ヒルデブランド>。

 危急存亡を告げるアーケヴに、突如としてもたらされし<母>の慈悲。

 抜けばまばゆき輝きが辺りを照らし、一閃であらゆるものを両断すると囁かれる剣の主は、裸足で野山を駆け周り、糸を紡ぎ羊を追い、仲間の娘たちとたわいもないおしゃべりに興じていた名もなき娘だったのだ。

 救国の英雄の正体に驚き、またひそかに妬みと蔑みの入り混じった視線を送った雲上人とは裏腹に、いくさ場で己が命を賭けるもののふや、魔族の影におびえながらも日々のつましい暮らしを営む人々は、彼女を髪あかきダウフト、剣に選ばれし不思議の娘と呼びその名を胸に刻んでいる。


「あの、ほんとうに怪我はありませんか?」

 まなざしにギルバートを気遣うこころだけをのぞかせて、ダウフトは問いかけてくる。先ほど砦に侵入したうえにダウフトへ襲いかかった魔物を屠ったとき、かの者が放った爪の一撃が彼の首筋をかすったことを気にしているらしかった。

「あの程度、何のことはない」

 黒い眼を娘からそらして、ギルバートはそっけない言葉を口にのぼせる。

 そう、何のことはなかった。

 鋭い爪は彼の黒髪をひとすじと、それをくくっていた紐を持っていった。その見返りに、鋼がいかに熱くまた冷たいものであるのかを、生命と引き換えに教えてやっただけのこと。

「救国の乙女をみすみす危難にさらしたとあっては、騎士の名がすたる」

「そうですか」

 花開くという形容がふさわしい笑みの中、瞳がほんのすこし翳りを帯びる。

「でも、ギルバートが無事ならよかった」

「……」

 ギルバートはダウフトの瞳が苦手だった。

 深く遠くとらえどころがないというのに、ひとが内に抱えたものを余さず映し出す曇りなき鏡のよう。心やましき者は、聖女の瞳を見ることすらかなわぬ。そんな噂が囁かれるのも分かろうというものだ。

 だが、誰も思いはしないだろう。ダウフトの傍らに控えた騎士こそが、その最たる存在であることに。

 魔族がもたらした災厄に、泥まみれで泣くばかりだった娘が<ヒルデブランド>をふるう時に見せるまばゆいばかりの横顔に、ギルバートが知らぬ女の表情をのぞかせるときに、苛立ちにも似た感情を覚えることに。

「用件は何だ。おぬしの側づきを命じられたとはいえ、俺とて暇ではない」

「あ、そうです」

 ぽんと手を叩き、ダウフトは腰に下げていた物入れを探りはじめる。どこにいっちゃったのかしらとしばらく呟いていたが――やがて目的のものを見つけたのだろう、目を輝かせた村娘が手にしたものをギルバートへと差し出した。

「何だ、これは」

「飾り紐です」

 鷹揚に答える娘に頭痛を覚えて、騎士はみずからの掌に乗せられた涼やかな色合いの飾り紐を見る。

「ギルバート、さっき髪留めの紐を無くしてしまったでしょう? 代わりに使ってください」

 どうやら、ダウフトは自分に気を遣ってくれているらしい。そう気づくまでにずいぶんと間があった。

「俺にはもったいなかろう。おぬしが使ったらどうだ」

 むしろダウフトこそ、こうしたものがいるだろうに。年頃の娘らしく身を飾りたいと思う気持ちには、城の姫君であろうと泣き虫の田舎娘であろうと変わりはないはずだ。

「そう思ったんですけど、ほら。わたしは髪が短いですし」

 笑ってみせるダウフトの、首筋で切りそろえられた髪が目について、騎士は己の迂闊さを呪った。出会ったころ、娘の髪がもとは背で軽やかにはずむお下げをつくっていたことを思い出したからだ。

「すまん、そんなつもりでは」

 ほろ苦い後悔が胸を満たす。ただの村娘が、髪を短く切りそろえ鎖かたびらに身を包むに至った経緯――灰燼に帰した村や、生きたまま魔物に裂かれた家族のことを口にする時に浮かべる悲しい顔を、知らぬ自分ではないだろうに。

「どうして、ギルバートが謝るんですか」

 きょとんとした表情で、ダウフトが問いかけてくる。どうやら辛いことを思い出さずに済んだらしいと胸をなで下ろす一方で、いらぬ心配だったかと少しばかり腹立たしくもなってくる。

「何でもない」

 そっけない口調とともに娘に背を向けようとして、掌の飾り紐の存在を思い出す。色違いの細い麻紐を丁寧に編み、先端に小さな蜻蛉玉とんぼだまを留めたそれは、武骨な皮手袋にはどうにもそぐわぬ気がしてならないのだが。

「おぬしがいいと言うなら、使わせてもらう」

「本当ですか。よかった、ギルバートならきっと似合うと思って」

 黒髪って、どんな色も映えるからすてきですねと無邪気に喜ぶさまは、遠い故郷で病身の母とともに自分の帰りを待つ幼い妹たちと何ら変わりはない。

「ダウフトさまーっ」

「ああっ、見つかったっ!」

 やや甲高い女の声に、聖剣の寄り代である娘は身をこわばらせる。それじゃわたしはこれでと早口でまくし立てるやいなや、あっという間に回廊を駆け出していく。引き留める間もなかった。

「もう、逃げ足が早い――まあ、ギルバートさま。お騒がせして申し訳ありません」

 にぎやかな靴音と共にやってきたのは、ダウフトとそう年の変わらぬ娘だった。みごとな金髪を結い上げて、砦の奥方に仕える侍女のお仕着せに身を包んでいる。騎士の姿を見とめて、少しばかり恥ずかしそうな表情をのぞかせた。

「また、ダウフトが何かやったのか。レネ殿」

 貧乏貴族の娘は、町を襲った魔族と対峙したダウフトの奇跡を目の当たりにした後――単身砦にやってきて、救国の乙女の側づかえを申し出た。

 しまり屋で知られる砦の家令をやりこめたときの鼻息の荒さときたらと、今だに笑い話として語られているほどだ。とはいえ、レネの屈託のない振る舞いが、時として重い役目に押しつぶされそうになるダウフトの支えとなっていることには間違いない。

「ダウフトさまったら、わたくしがお化粧をしてさしあげますと言ったら逃げてしまわれて」

「……化粧?」

「ええ、珍しく飾りものに興味をお持ちになられて。ダウフトさまも、やはり女らしい装いをなさりたいのだわと喜んだのですけれど」

 なのにあちこち逃げ回られてと、ぶつぶつ言っていたレネの鳶色の瞳が、ギルバートが手にしているものにとまった。次いでなあんだ、とでも言いたげな表情が広がる。

「ずいぶんと落胆しておられるようだが、レネ殿」

「ダウフトさまったら、市で何やら熱心に探されていると思えば」

 溜息をつく側づきの娘に、ギルバートはわずかに眉を上げた。

「市へ?」

「ええ。飾りものを扱う店で、麻紐と蜻蛉玉をお求めに。これにはどんな色が合うと思うとわたくしに何度も問われて」

 話しているうちにその時の光景が思い出されたのか、レネの口元が微笑みに彩られる。

「ダウフトさまにはずいぶん落ち着きすぎる色合いで、もっとはなやいだものをとお薦めしましたのよ。けれど、これにしますの一点張りで」

 そこでちらりと騎士をいたずらっぽく見つめ、

「ギルバートさまへの贈り物だなんて、ちっとも存じませんでしたわ」

「……ッ!」

 かあっ、と耳まで熱くなるのを感じる。

「いや誤解だレネ殿、ダウフトは」

 力いっぱい否定したものの、瞳を輝かせるレネに通じている様子はなかった。

「もう、水くさいんですからダウフトさまは。そうならそうと、はじめからわたくしに相談してくださればよろしかったのに」

 いや、いらぬ騒ぎを考えたからこそ言わなかったのだろうに。あえて口には出さず、騎士は心で反論する。

 何しろ砦の奥方に仕えたり、厨房や洗濯場で男顔負けの働きぶりとたくましさを誇る婦人たちの噂話と伝達力ときたら、軍の伝令すらかなわぬほどの素早さだ。

 そんな彼女たちの間で、剣に選ばれた娘と傍らに控える騎士――つまりギルバート自身が、絵物語に出てくる恋人たちのようと噂されていると知ったときには、あまりのことにひっくり返りそうになったものだ。

 いったい、どこをどう解釈したらそんな誤解ができるというのだろう。聖女らしくふるまえと小言ばかりを言っている自分と、それが気に入らなければ、やかまし屋のギルバートと舌を出すぐらいのことは平気でやってみせる、聖女らしからぬ娘のどこが!

 だいたい、自分は任務としてダウフトの側にいるだけだ。そうでなければ、棍棒も持てず驢馬にすらまたがったことのない小娘のお守りなど、今すぐにでも返上したいくらいなのだから。


 そう、あくまでも任務なのだ。


(いかに<母>の思し召しとはいえ、下賤の小娘が過ぎたる力を持つなどとは)

(よいか、あの娘がアーケヴに仇なす者とならぬよう見張るのじゃ。畏れ多くも、大公閣下より直々にそなたへと賜った使命であるぞ、エクセターのギルバートよ)

 大公の使いとして砦を訪れた、きらびやかな法衣をまとった司教たちの枯れた言葉と表情を思い出す。

 彼らにとって、ダウフトは駒だ。利用できるならばいくらでも祀り上げ、価値がなくなればいつでも切り捨てることのできる、それだけの存在なのだ。

 ギルバート自身も、はじめはそう割り切ることで意に染まぬ務めを果たそうと決めた。何の情も見せずに、聖剣の寄り代たる娘に接しようとした。

 そのはずだったというのに。


 掌で蜻蛉玉がちり、と涼やかな音を立てて転がった。いっそ棄ててしまおうかという考えが頭をよぎったが、それはすぐにダウフトの笑みに取って代わる。たかが髪留めの紐を失っただけの男のために、麻紐と蜻蛉玉を飾り紐へと仕上げていたであろう娘の顔に。

「ギルバートさま?」

 いぶかしげなレネの声に我に返る。

「失礼」

 騎士たるもの、ご婦人の前でぼんやりとするとは何事か。非礼を詫びたギルバートだったが、金髪娘はまるで気にしたふうもなく、いいえと笑ってみせる。

「ギルバートさまがそうしたお顔をなさるのは、たいていダウフトさまのことですもの」

「……」

 騎士の沈黙を肯定ととったのか、側づきの娘は先刻よりも瞳を輝かせてうなずいてみせた。

「こうなったら、ダウフトさまをあのまま放っておくわけにはまいりませんわ。もっとご自分を磨いていただかなくては」

「レネ殿」

「あら、ギルバートさまだって嬉しゅうございましょう? ああ、でも」

 くすくすと笑いながら、レネはちょっぴり意地悪そうに騎士を見やる。

「きれいになられたダウフトさまに、他の殿方が言い寄られては大変ですわね」

 もはや言葉も出ない。

 皆とも相談しなくてはいけませんわ、とレネはいそいそと去っていく。いずれ、妙な使命感に燃えた婦人たちにダウフトが捕まるのも時間の問題だろう。溜息とともに、ギルバートは掌の飾り紐をふたたび眺めやった。


 聖なる剣に選ばれし乙女。あまねく慈愛をもたらす御子。

 ひとはダウフトをそう呼ぶ。<母>の御使いという名のもとに、旗じるしとして魔族の前へと推し立てる。まるでそうすることで、忌まわしきものたちの憎しみを自分たちから逸らすことができるとでもいうかのように。

 盾の影に隠れる者は傷つかずにすむ。傷つくのは、盾となったものだ。

 ギルバートが見てきたものは、輝かしいばかりの聖女の姿ではなかった。

 雨に打たれ、血と泥にまみれながらも人々を鼓舞し、己の無力さに涙をこぼし。深手を負いながらも死にたくないと喘ぎ、静まり返った夜の聖堂で<母>への祈りを捧げながら、剣が秘める強大な力に恐れおののくちっぽけな娘。

 その一方で、砦のあちこちに顔を出してはあらゆる人々と陽気に笑いふざけあうただの娘。今ある生せいを、懸命に駆け抜けていくひとりの娘。

 ダウフトにあるのは、飾ることのない強い<おもい>だけ。それこそが奇跡へ、あのはかなくも神々しい横顔へとつながるのだ。

 聖女の輝きを見るたびに、みずからの程度をさらけ出され思い知らされるような気がして、何とも腹立たしくて。

 だというのに、どこか危なっかしい村娘の姿を見るたびに、つい手をさしのべずにはいられなくて。


「あの、エクセター卿」

 脇に退いていたふたりの兵士のうち、年配の者がおずおずと問いかけてくる。

「上がるぞ」

 つい先刻まで、この場で繰り広げられていたやりとりなどまるでなかったかのように――それについて口外はするなと暗に匂わせて、ギルバートは城壁塔へ続く石段を登りはじめた。最上階から吹き降りてくる冷たい風は、昂っていた気持ちを少しずつ静めてくれるかのようだ。

 最上階で、一度頭を冷やしてから修練場へ向かったほうがよさそうだ。

 剣技に打ち込めば、ひとの言葉に乱れた心も引き締まろう。それに何よりも、先刻のようにダウフトを魔族の爪などにさらすことがないよう、自らを戒めねば。


 手にした絆は、この飾り紐のようにか細く頼りないけれど。放さぬように、しっかりつなぎとめていようと騎士は誓う。


 ダウフトがアーケヴを守護する盾ならば、自分は剣として側に在ろう。

 いつの日か、緑なすアーケヴが解放されるとき――いまはまだ短いあの髪が、暁の輝きとなり背に流れるその日まで。

 誰に強いられたわけでもない、誰に告げるつもりもない。

 それは騎士自身の、秘めたる<おもい>。


 天にまします<母>よ、ご照覧あれ。

 聖なる剣にふさわしからぬ田舎娘と、運に見放された騎士とのゆくすえを。


(Fin)

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