陰鬱の谷【短編集】

睦月文香

正樹


 彼の体にはたくさんのあざがあった。体育の授業の時とか、プールの授業の時とか、皆が気づかないはずはなかった。彼には僕以外に友達がいなかった。彼はどこか皆と違う空気があって、皆彼を遠ざけていた。

 僕は自分が、彼と皆の中間に立っていることを知っていた。僕はいわゆる「普通の人」の言っていることが分かったし、先生の言うこともよく聞いていた。でも、その「普通の人」とか「先生」とか「常識」とかが僕そのものじゃないことも感じていて、自分が彼らとは違う生き物のように感じていた。呼吸の仕方が違うような気がしていた。発達障害の子が、運動会の時皆とは明らかに違う走り方をしていたけれど、僕はその子と生き方が「皆と違う」という点では同じだと思った。だってそれがその子にとって自然な走り方で、同じように、僕の感じ方、空気の受け取り方が僕にとって自然なあり方なのだから。


 彼はとても勉強ができる子だったけど、それを誰にも言わないし、人に見られると恥ずかしさではなく心底申し訳なさそうに頭を下げるから、気のいい子が彼にちょっかいを出そうとしても、すぐに意気をくじかれてしまい、仲良くなることはなかった。彼は誰にも心を開かなかった。


 そんな彼と僕が友達になれた要因は、ともに沈黙が苦じゃなかったこと。お互いに、お互いのことをどうでもいいと思ったま、傍にいることができたこと。

 それは四年生の一学期のことだった。

 うちの学年は男女比が少し偏っていて、僕と正樹は誰もやりたがらなかった新聞係を押し付けられた。普通男女一人か二人ずつなのに、僕たちだけが男同士で進めることになった。僕は別にそんなことはどうでもよかったんだけど、周りはやはり「人と違うこと」が嫌いな子が多くて、それを何度かからかわれた。嫌な気持ちにはなったけど、慣れていた。僕は自分が周りとは少し違うことを自覚していたし、それが彼らにとってぎりぎり許されるラインであるのも分かっていた。僕が多少変な反応をしても、彼らはそれほど驚かないし、イジメようとも思わない。僕はそういう場所に立っていた。

「ねぇ正樹君。最初はどんな記事を書こう? 夏休みまで、三回は記事を書かないといけない」

 正樹は困ったように笑うばかりだった。僕もそれにつられて困って笑った。そのまま、その日の係決めの時間の残りは過ぎていった。十五分間くらい、僕らは向かい合って、気まずくもなくただお互いの感情を楽しんだ。それが、僕にとっても彼にとっても初めての経験だったみたいで、嬉しかった。僕は、彼と友達になれると思った。


 正樹は、二人きりの時以外は全くと言っていいほど喋らない。それを前に尋ねたとき、彼はこう答えた。

「俺も本当は話したいんだけど、俺が話したって……余計苦しくなるだけだって分かってるんだ。だってそうだろう? 俺はつらい事や、嫌な事ばっかり思い出してしまう。それを口に出せば……お前みたいに変なやつでもない限り、俺のことが嫌いになる。だって人は、自分を嫌な気持ちにさせた人を嫌いになるから」

 正樹がネガティブなことを言うたびに、僕はただ頷いて、少しだけ正樹の近くによった。それは僕が言葉にできなかったことだったから。僕だって、いろんなつらいことを感じてるし、思ってる。でもそのほとんどは伝えるどころか、形にならないし、ただ心の奥底で嫌な目をして僕のことを覗いている。それを、正樹がまっすぐこの世界に、存在していいものなのだと言ってくれるような気がして、心が解放されるような気がするのだ。時々僕は、正樹の言葉で静かに涙を流してしまう。僕らは二人きりの教室で、肩を寄せ合って何度か涙を流した。その時だけは、学校という場所が本当に良い場所なのだと思えた。


 本当の意味で友達と言えるのは、彼だけだった。他のみんなとも僕はそれなりに友達だったけれど、それはしょせん遊ぶための、生活するための都合のいい存在だった。実利的なギブアンドテイクの関係だった。


「俺さ、両親に虐待されてるんだ」

 それを教えてもらったのは、六年生のころだった。僕は、返事ができないときは返事をせずに、ただ頷いて先を促す。

「別に、珍しい事でもないし。俺はずっと内向的で……いや違うな。本当はわかってて。俺は、お父さんの子供じゃないんだ。お父さんは、自分の機嫌が悪い時、俺に当たる。それで、ついでに母さんにも当たる。それで、終わった後はお父さんはスッキリして、俺のことを抱きしめたりする。すると、次はお母さんが俺のことをいじめる。言葉で。暴力で。俺、お父さんのことは恨んでないし、仕方ないと思う。でも母さんは許せない。だって俺は母さんの子なのに、母さんは俺を愛するどころか憎んでて……しかも、俺が一番つらいと思うことをしてくる」

 正樹が一番つらいと思うこと。

「あいつは、俺に向かって『あんたは誰にも愛されないのよ』とかって、笑いながら言うんだ。それで、俺の腕をつねったり、尖ったもので叩いてきたりする。お父さんは俺に怒るだけだけど、母さんは俺を憎んでるんだ。だから、頭を使って俺を苦しめてくる。そうすることで、母さんは、綺麗なまま現実で生きられるってわけだ。許せないよ。許せないよな」

 それは、正樹が初めて僕に対して同意を求めてきたことだった。僕は分からなかった。「その通りだよ!」と言うことは、どこか嘘くさいような気がした。僕は正樹の味方でありたかったけれど、どうやったら嘘をつかずに、本当の意味で味方になれるかわからなかった。僕はそれが一番悲しくて、自分のために涙を流した。どうすればいいのか分からなくて、涙を流した。僕はただ「ごめん。ごめん」と謝りながら正樹の腕にすがることしかできなかった。本当にただ、どうすればいいのか分からなくて、つらかった。

 僕にどうこうする力はなかった。頼りになる大人なんている気がしなかった。僕の両親はいわゆる「普通の人」で、正樹みたいな子供のことは「かわいそう」とだけしか思わない人だった。先生たちも、そういう人たちか、あるいは僕のように自分の無力を嘆くことしかできない人だった。

 でもこんな、こんなどうしようもないことをどうにかできる人なんているんだろうか? そんなのは、神様でもない限り無理だ。

 だって正樹は、その両親に育てられて、その両親のお金で生活してる。僕の他に、正樹が言葉を伝えられる相手はいない。伝えたって、拒絶される。分かってる。僕だってそれくらいわかってる。「きっと大丈夫」とか「力になれることがあったら言って」なんて言葉は全部、自分自身への慰めに過ぎない。本当に苦しんでる人は、そんな言葉は全部空っぽに聞こえる。だってそうじゃないか! 「お前なんかに何が分かる」という話だ。だって、そんなこと言える人は、死んでしまいたいほど苦しんだことがない人なんだから!


 とにかく、僕らは中学生になった。学校というのは、なんだかんだ子供のことをよく見ていて、最低限のことはしてくれる。小学四年生になってから、ずっと僕らは同じクラスだった。正樹が孤立しないように、配慮してくれたのだ。彼は優秀な生徒だったし、親に虐待されていることも学校は知っていたのだと思う。

 正樹も言ってた。それっぽいことを遠回しに尋ねられた時、こう答えたという。

「放っておいてください。どうせ俺が一時保護してもらったところで、彼らは復讐心を募らせるだけです。それで、戻ったときに俺は今よりもっとひどい目に合わされる。いいじゃないですか、虐待は犯罪じゃないんだから」

 教師は、それを聞いて一瞬だけホッとしたような顔をしたという。正樹は心の底から、この世の中を憎んでいると言った。人間というものを憎んでいると言った。憎まずにいられないと言った。きっと言わないだけで、正樹は僕のことも憎んでいたんだと思う。分かってる。それも、仕方ない事なんだ。


 中学生になると、中途半端に大人になったような子たちの声が大きくなった。

「ルールを守れ」「犯罪は悪い事」「勉強ができる人が一番かっこいい」

 どうでもいいことだった。正樹も僕も勉強はよくできたが、勉強というものを心底軽蔑していた。それができて何になるだろう? そもそもこんなものに必死になること自体が馬鹿馬鹿しい。ただ他にすることがないから、やってるだけ。くだらない。本当は、やりたくない。でも、僕らは子供で、大人の言うことに黙って従うしかない。だって、学校に行くのをやめることは、義務教育に反してる。僕たちは最初から、奴隷のように生きることを決められている。

 奴隷をやめるには戦うしかなかったけど、武器も、強い体も、強い心もなかった。ただ傷つきやすく感じやすい魂しかなかった。そんなものは、戦うためには何の役にも立たなかった。人を殺すことすらできない。世界を変えることも、楔を断ち切ることも、できるわけがない! 逃げることより人の命を奪うことの方がずっと簡単なのに、それすらできなかったんだから。


 人間には暴力の衝動がある。誰かを殺したいと思うときがある。本当の意味で人を憎むと、人を殺したくなる。どれだけ言葉でごまかしたところで、この燃え滾るような怒りがなかったことにはならない。僕はずっと、『殺してもいい』と言えるような機会を待っていたような気もする。正樹がどうだったかはわからない。もうそんな段階はとうに超えていたかもしれないし、僕以上にそう思っていたかもしれない。わからないけれど、とにかく気持ちだけで動けるほど人は軽くない。動くためには、力と、立場と、権力と、金と、人気と、……もういいじゃないか! もういいじゃないか……

 僕たちには何もなかった。それに、それを手に入れたところで、何かが変わるような気もしなかった。たとえば正樹がこの先ビジネスか何かに成功して、お金持ちになって、たくさんの女の子からモテて、誰からも羨まれるような地位を手に入れたとして、正樹が心から人生を喜べるだろうか? 正樹が傷ついた分の補償として、足りるだろうか? 足りるわけがない! もう、全部遅いんだ。遅かったんだ。すでに損なわれてしまったもの、傷ついてしまった心は、もう二度ともとには戻らない。ただ僕らに許されたのは、慰め合って涙を流す至福だけ。それだけが、僕らの生きる意味だった。それ以外、何ができるだろう? それ以外に、僕たちは何に価値を求めればいい? こんなに生きているだけで苦しいのに……


 許せるわけもなく。この人生を許せるわけもなく。僕はずっと怒ってた。


 それで、中学三年生の四月、つまり今から半年ほど前。ほとんど何の前触れもなく、正樹は死んだ。

 一度も学校を休まなかった正樹が何の連絡もなく学校を休んで、教師たちもその時点で何かを察したようだった。僕は正樹の家を知っていたから、その日の帰りに寄っていくことにした。もう僕の心は荒み切っていて、嫌な予感が恐怖に変わることはなかった。もし正樹が生きていなかったら、僕はきっと……僕はきっと、正樹をもう一度殺してやろうと決めていた。理屈じゃなくて、そうしなくちゃいけないような気がした。いろんな方法で、正樹の苦しみを……いろんな方法で、僕がずっとできなかった……僕が、僕を、許すために……一緒に罪を抱えるために? 何のために? わからないけれど、ただ僕は、正樹が生きていてほしいとは、うまく思えなかった。そう思いたかったけれど、どうしても、そう思うことができなかった。


 それで、僕は正樹の家に一人で入った。鍵は開いていた。玄関は不気味なほど静かで、靴は一足も出ていなかった。夕焼けが窓から廊下にさしていて、ここは地獄だと思った。真っすぐ進んで、リビングに入ると、部屋の角に、正樹がいた。近くにはへこんだ掃除機、テレビのリモコン、綺麗な絨毯があった。正樹の首は赤くなっていた。きっと締め殺されたのだろう。父親の方か、と思った。おかしいほど、僕の頭は冴えていた。いつかこんな日が来ることを分かっていた気がする。こんな風になる前に、僕が彼の両親を殺していたら、こんな風にならなかったかもしれない。でも他に、止める方法なんてなかったじゃないか! こんな風に思ったっていいじゃないか! どうして僕が人を殺しちゃいけないんだ!

 僕が殺すべきだった。でも、力は入らなかった。ただ、僕は、正樹の首にそっと手を添えて、優しく絞め殺すことしかできなかった。もうすでに息はなかった。冷たかったし、ひどい臭いがしていた。この世の終わりみたいな悪臭だ。これは人生の臭いだ。糞の匂い。最低だ! 最低だった……この怒りをどこにぶつければいいだろう? 僕はこの先どうやって生きればいいだろう? 気を失ってしまえるならば、そうしたかった。でも僕の足はしっかり立っていた。頭は、ぐるぐると不愉快な言葉で溢れていた。正樹は死んでいた。誰も慰めてくれる人はいなかった。殺さないといけないと思った。誰を? 正樹を。だって他にいないじゃないか。正樹を殺したやつは、もう逃げた。それに、あいつらを殺したところで、正樹が許されるわけでも、生まれ変わるわけでもない。次の人生があったとして、それがいいものになるわけでもない。いや! もしそれがいい人生ならば、それは正樹じゃないんだ!

 正樹は、死んでしまった。ひどい殺され方をして、何の救いもなく……僕が正樹を救うためには、僕が正樹を殺すしかなかったのかもしれない。それも、後悔だった。だってそうじゃないか。どうせ殺されるなら、怒りとか憎しみではなく、愛ゆえに、慰めゆえに殺されるべきじゃないか。僕はこうなる前に、正樹を殺しておくべきだった。


 今何を考えたって仕方がないことだ。僕はその時、いろいろ躊躇ったりうろうろしたりして、ただ静かに時を過ごしただけだった。あの時の気持ちは今でも鮮明に思い出せるし、このように文章にすることも容易いけれど、もう涙も出ない。僕が涙を流すのは、正樹が話していた言葉だ。僕の言葉でも嘆きでもなく、生きていた正樹のぬくもりだ。


 大人たちは随分遅れてやってきた。正樹の両親は見つかってない。最初は僕が殺したんだと疑われて、警察の人に意味の分からない尋問をされたけど、どうでもよかった。それが僕の心を今更痛めつけられるだろうか? 正樹以外に、本当の意味で、僕を苦しめることのできる人などいただろうか? 全部、くだらない。


 そうして僕は、ただ言葉を繋いでいる。何のためにそんなことをしているかと問われれば、僕のためにとしか言いようがない。

 僕はたった一人で、この世界を許す方法を探してる。僕自身を許す方法を探している。正樹のことを思い出すこと。それを文章にすること。涙を流すこと。

 僕はもう少しで、大人になれる気がする。大人になるまで、生き延びることができる気がしている。



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