(奇妙な村)

 ……それが歌だったかどうかは、はっきりとはしない。男の混濁した意識では、すべての境界が融解し、曖昧だった。もっとも基礎的な概念さえ形を失い、あらゆる事物の意味性は瓦解した。朝と夜が混じり、空と大地が溶けあった。そこに男の存在する余地はなかった。その意識は中心を欠いていた。

 だから、それが――手のひらで太陽の光を受けるような、木の葉がそっと地面に触れるような、水面に音のないさざ波が立つような――それが、歌だったかどうかは、さだかではない。布の切れ端から、元の服を想像できないのと同じで。

 けれど男は、それを確かに〝聞いた〟と思った。少なくともそれは、歌に似た〝何か〟だった。鳥の羽の重さや、夜明けに消えていく星の光や、そんなものに似た。それを聞くと、男の心は安らいだ。体の内側にある濁りや痛みが、静かに取りのぞかれていくようだった。

 男の意識はなおもしばらくのあいだ、夢の中にあり続けた。



「――!」

 男が目覚めたとき、とっさにとった行動は傍らの銃に手をのばすことだった。それは生き残るために身についた、長年の習慣だった。誰かに撃たれないためには、こちらが先に撃つしかない。

 だがそこに、銃はなかった。手は空を切った。それで男は、軽いパニックに陥りそうになった。急に足元の地面が崩れるような、眠っているときにどこか奈落へ転がり落ちてしまいそうな、あの感覚である。

 それでも、意識は次第にはっきりしてきた。《ここは、どこだ?》と男は思った。少なくとも、牢屋や拷問室ではなさそうだった。自分がベッドに寝かされていることもわかった。白い、清潔そうなシーツが敷かれている。

 それから、男はあたりを見た。どこかの家の、居間らしいところだった。《とすると》と、男は思った。《俺は民間人に助けられたのか?》。だが、詳しいことは何もわからなかった。部屋には誰もいない。男の記憶にあるのは歌だけで、二人の子供たちのことはなかった。

 立ちあがろうとして、左腕の痛みに気づく。焼けつくような、重い鉄球を埋め込まれたような、そんな感じだった。もちろん、まともに動かすことなどできはしない。見ると、黒々とした紋様が、奇妙な生き物のようにしてそこにあった。紋様は、今にも蠢きだしそうである。

《だが、妙だな》と男はかすかな違和感を覚えた。《前より痛みが和らいだ気がする……》

 男は床に立った。それで、自分が服を脱がされて裸なのだと知った。暖炉の熱を感じたが、そこに火はなかった。部屋の中は急速に温度を失いつつある。冬の寒々とした空気が、ついさっきまでそこにあったものをあっけなく奪い去ろうとしていた。

 ベッドのそばにある机には、男の服が――洗濯して、乾かされた服が――きちんと畳んで置かれていた。それから、食事も。パンに、チーズに、牛乳。あるのは、それだけだった。

 男は訝しみながらも服を着、食事をとった。まだ空腹を覚えるほどの力もなかったが、小さな鞄に無理をして荷物を詰めこむようにして、食事をかきこんだ。そうした行動と習慣に、男は馴れていた。

 牛乳はまだ、その新鮮さを失っていなかった。今朝とったもの、という感じである。チーズの酸味は胃に心地がよかった。パンの甘く芳ばしい香り。男は自分でも驚くほどすんなりと、食事を平らげてしまう。そうするとようやく、人心地ついた気分になった。

 するとあらためて、部屋の様子をうかがう余裕ができる。そこはごく当たり前の、農家ふうの家屋だった。年季を感じさせる、重厚な梁。荒々しくはあるが、野太い柱。木の床はきれいに掃除がされ、窓ガラスには罅も曇りも入っていない。そこには、そういう空間にありがちな、ある気配がある。誰もいなくとも、誰かがそこにいるような――

「…………」

 立ちあがって歩くと、少し立ちくらみがした。男は軽く頭を振って、深呼吸する。それで、いくらか楽になった。まだ覚束ない足どりで、玄関のほうへと向かう。

 外に出ると、一面の雪だった。降ってはいない。空には、毛羽立った絨毯に似た、灰色の雲が広がっている。珍しくもない光景だった。というより、もう十年近く、それ以外の景色を見たことがない。そのあいだ、ずっと戦争は続いていた。

 寒さに一度身を震わせてから、男はざくざくと音を立てて歩きはじめた。家の前には広い庭があり、家畜小屋らしいものもあった。前の道に出ると、やはりここが農村らしいことがわかる。木造の、比較的大きな家がぽつぽつと散在し、そのあいだに耕作地が広がっていた。

 男は歩きだして、だが奇妙なことに気づく。どこにも、人の気配がない。当然聞こえてくるはずの物音や、人声、動物の鳴き声がしない。そこには、生活の痕跡がない。いや、痕跡はいたるところにあった。ただ、それらは不自然な時間の経過を受け、ほとんどがもう死んでしまっているにすぎない。

 例えば、壁に立てかけられたままのハシゴ。畑の真ん中につき刺さった鍬。路傍には子供の玩具が放りだされていたりする。荷車が途中で行き先を失い、完成間近の小屋がそのまま放擲されていた。そこには人々の痕跡が残されていたが、どれもが不自然な死を迎えていた。

 男は思い切って、いくつかの家の扉を開けてみた。だがやはり、そこに人はいなかった。無人の家屋では、痕跡はますますひどくなった。火の消えた暖炉の上では、鍋が焦げついている。皿の上のパンには、カビが繁茂している。イスのすぐそばの地面に、毛糸の玉が転がっている。何か口をきこうとして固まってしまったような、開かれたままの本があったりもした。いずれも、相当な時間の経過をうかがわせる光景だった。

《この村は――》

 と、男は何かが崩れてしまうとでもいうように、そっと扉を閉めながら思った。

《一体、どうなっているんだ?》

 道に立って耳を澄ますと、どこか遠くから何かが聞こえるようだった。だが、それがどこからやって来るのか、どんな形をしているのかはわからなかった。沈黙が大きな音を立てていた。



「――動くな」

 二人の子供が家に入ってきたとき、男は制止した。二人は立ちどまった。男の手には、ライフル銃があった。イスに座って、それを構えている。ひどく疲れた様子で、銃を持つ手がいかにも重たげだった。

 子供たちのうち、少女のほう――アセリは、無造作といってもいい態度で、持っていた編み籠を床におろした。それには野菜がいっぱいにしてあった。ホウレンソウ、キャベツ、カブ、ネギ、いつまでも続く冬の季節にもとれる野菜。後ろにいた少年――ユニのほうも少女に従った。乾燥豆か何かの入った袋、ジャガイモ、ニワトリの卵、そんなものを慎重に床の上に置いていく。

 あらためて二人を観察した男の目には、隠しきれない戸惑いがあった。二人はいかにも幼かった。幼すぎるくらいだった。二人はどちらかといえば、痩せて粗末な身なりをしている。飾りけのない麻の服に、毛羽だったコートを着ている。

 男は戸惑いながらも、銃口は油断なく二人に向けていた。いくつかのことを思考し、推測し、逡巡した。だが、答えは出そうにない。そうして、訊いた。

「……お前たちは誰だ? 俺はどうして、ここにいる?」

 子供たちはじっと、男を見つめた。そこには銃口を向けられた人間が示す、当然な慎重さがあった。だが、恐怖はなかった。少なくとも、そうした感情に伴う動揺は。

「あなたは、雪の中に倒れてたのよ」

 実際にはそれほどの間は置かず、アセリが言った。

「それは、わかっている」

 男は苛立たしげに肯定した。疲労のせいで、感情がうまくコントロールできていない。

「俺は、つまり……俺はどうなっているんだ? ここは抵抗勢力のアジトなのか? 俺を拷問するつもりなのか?」

 男の言葉に、アセリとユニは顔を見あわせた。その目配せは、非常に誤差の小さな信号のやりとりを思わせた。ややあって、再びアセリが口を開いた。落ち着いた、はっきりとよく通る声である。

「いいえ、違うわね。ここはただの農村よ。わたしたちは、ここに住んでいるだけ」

 そこには、迷いやごまかしのような響きはなかった。だが、男は納得しなかった――

「ここは普通の村じゃない。何しろ、誰もいないんだからな。俺は見てきたんだ、この目で。もぬけの殻だ。それも、不自然な格好で。それでもお前は、ここがただの村だと言うつもりか」

「ええ、そのつもりね」

 アセリは静かに、不遜とさえいえる態度で答えた。

「――――」

 男は川が堰きとめられでもするように、口を噤んだ。

「……お前たちは、俺が怖くないのか?」

 ややあってそう言う男の態度は、自らの敗北を認めるかのようでもあった。

「怖くなんてないわね」

 少女の声には、かすかな憤りすら含まれていた。

「銃を持っているんだぞ」

「だから、どうしたっていうのよ?」

 まったく怯むこともなく、少女は言う。

「撃ちたければ、撃てばいい。わたしは少しも文句なんて言ったりしないわ」

 男は困惑すべきか、憤慨すべきか、迷う顔をした。曲芸師が綱の上で体重をどちらに移すべきか見失うような、そんな具合である。男には、はっきりしたことはわからなかった。子供の言うことを本当とも思えなかったし、また嘘とも思えなかった。

「……ここには、お前たちしかいないのか?」

 男は、やや調子を変えて訊いた。いくぶんか、譲歩した感じである。

「そうよ、今のところはね」

 少女は短い剣幕で答える。

「ほかの人間は――大人たちはどうしたんだ?」

 男の問いかけに、子供たちのあいだで何かが一瞬動いた。夜空を星が横切るほどのかすかさだったが、とにかく何かが。

 すぐに、アセリが口を開いた。そこには秘密から目を逸らそうとする、不自然な性急があった。少年のほう、ユニが余計なことを口走らないよう、掣肘したようでもある。しかし、余計なこととは――

「それについては、答える必要はないわね。あなたには関係のないことよ」

「…………」

 男はあえて詰問するようなことはしなかった。どんな質問をしても、この子供たちが何もしゃべらないであろうとことは想像がついた。固く口の閉じた二枚貝。薄くて、脆くて、何の役にも立たないが、とにかくそれは中身を守っている。

 それに、男は疲れてもいた。実際、座っているだけでたいした仕事なのである。銃を、震えないように持つのが精一杯だった。起きたばかりで、無理に歩きすぎたのである。ここはこのまま、互いに譲らない形のままにしておきたかった。

 だがそれでも、表面上は威圧の態度を維持しなければならない。まだ、わからないことが多すぎた。簡単に弱みは見せられない。

 そんな心境を察した、というのではないのだろうが、少年――ユニのほうが口を開いた。声の調子としては、まったく問題にならないほどの無邪気さだった。

「まだ、休んでたほうがいいよ」

 ユニは何の屈託もない笑顔を見せながら言う。

「さっき起きたばかりなんでしょう? ずっと寝てたんだよ。苦しくて、うなされてた。傷だってひどいし。ぼくたち、様子を見るためもあって戻ってきたんだ」

 それにお腹だってすいているはず、とユニはつけ加えた。心の底から心配している、というふうだった。男が何者で、何を考えているかなど、問題にもなりはしないというように。

 アセリはそんなユニの性格にはすっかり慣れているとでもいうふうに、軽く肩をすくめるだけだった。そしてそれですべての未解決は無効になった、とでもいうのか、彼女はその調子を一変させた。そこにはもう、対決はなかった。ただ、普段と同じ程度らしいきつさで言った。

「体が治るまでは、ここにいればいいわ。あなたが何者かなんて知らないし、知りたくもないけど、大人しくしていればそれくらいは許してあげる。ユニがどうしてもって、うるさいから」

 男は曖昧にうなずいた。結局のところは、ほかに仕様がなかったからである。左腕はろくに動かすこともできず、体力も衰弱している。感謝くらいは示すべきだったが、しかし相変わらず相手の正体は知れてはいない。しかも、この村は何かがおかしい。子供が二人だけしかいないなんて――

「そういえば、あなたの名前はなんて言うの?」

 アセリは事のついでというふうに、いかにも面倒そうに訊いた。ユニは興味津々といった顔で、男のことをじっとのぞきこんでいる。

「……トゥーラだ」

 男は答えた。そうして重い足枷でも置くようにして、ようやく銃を机に放る。「しばらくは、世話になる」

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