第五章 家族の形 2

 多くの捜査員がしらみつぶしに建物内を探しているが、久我山信明の姿どころか、及川守の所在すら突き止めることが出来ないでいた。


 その状況に水尾のイライラも限界に達しようとしていた。怪しいと思っていた人物を自由に行動させていた自分の甘さに心底呆れていた。先程から水尾が発している空気の威圧感に、周りにいる人間も一言も発しない異様な雰囲気になっていた。


 建物内にいる警察関係者以外の人間が全員揃っている筈なのに、誰もいないかのように静まり帰っていた。


 それほどまでに水尾の発する殺気ともいえる雰囲気は凄まじいものだった。


 長い沈黙がしばらく続いたが、その沈黙を破るように秘書の坂本がスックと立ち上がり水尾の前に立った。


「坂本さん、どうかしましたか?」


「少し気になることがあって」


「気になること?」


「はい。私がスタッフルームで少し休ませて頂いていた時なんですが、部屋を出てすぐ社長の姿が目に入ったんです。その時はその、なんて言ったらいいのか、社長に会うのが何故か怖くて一旦部屋に戻ったんです。少し落ち着いてからもう一度部屋を出ると社長の姿は見当たりませんでした。その時不思議に思ったことが、社長の立っていた場所なんです。一階ロビーの端の何も無いような所に立っておられたので、何故か違和感を感じ単です」


「立っていた場所がおかしかったと?」


「そうです。ただ単に、人気の無い所で電話されていたということも考えられますが……」


「それは何処ですか?案内してもらってもよろしいでしょうか?」


「もちろんです」


 水尾が立ち上がって坂本と歩き出すと、当然というように田中と櫻子も後に続いた。


「止めても無駄やろうな……」


「そういうこと」田中は櫻子に視線を送りながら答えた。


 櫻子だけでなく、チーム櫻子の面々も後に続いた。祥子は勿論櫻子を見張るためだろうが、美紀と小夜子は明らかに興味本位の部分が多いように思える。


 全員がエレベーターに乗り込んで一階に降りる途中、水尾の携帯のバイブが着信を知らせた。携帯で話し終わった水尾の表情は先程にも増して殺気を帯びたものだった。


「何か分かったのか?」田中が尋ねると


「ああ、なんとなくこの事件の背景にあるものの形は分かってきた……。分かったからといって何か変わる訳でも無いがな……」


 先程までの殺気に満ちた表情が一瞬悲しそうな表情に変わったのを田中は見逃さなかった。田中はその後の内容を水尾に尋ねることは無かった。周りの人間もその空気を察してか、誰も言葉を発しなかった。


 エレベーター内は静まり返ったまま、階表示は徐々に少なくなっていき、誰も一言も発しないまま一階に到着した。


 坂本を先頭に受け付けロビーを横切り、建物の奥まった角になる辺りで坂本が足を止めた。


「この辺りに社長は立っておられました」坂本をその場所を指差しながら言った。


「確かに、わざわざここで何かをしていたというような場所には見えませんね」

 水尾は思案顔で坂本に話した。


「ここまできて、わざわざ携帯で電話というのも違和感があるな。これだけ広いロビーなら少し離れれば会話を聞かれることも無いだろうし、ましてやオープン前のこの状態で人目を気にする必要もそんなに無いだろうしな」田中が誰に言うでも無く、ロビーを見回しながら話した。


 水尾はいつも通りの鋭い視線で久我山信明が立っていたという場所を睨んだ。特に変わったところがあるようには見えない。しかし何か気付くことは無いかと、一度目を閉じて開けるを繰り返し、自分の思考をリセットするルーティンを繰り返した。何度か繰り返した時、何か引っかかった感覚があった。それを何とか捕まえようと、更に同じ動きを何度か繰り返した。目を見開き内ポケットに手を突っ込みシガレットケースを取り出すと、その中の一本を口にくわえ、更にポケットに手を突っ込み手探りで探したが目当ての物が見つからない。


「チッ」水尾は舌打ちをした。


「はい」と声がして火の付いたライターが水尾に差し出された。


「金田さん、ありがとうございます」口にくわえた煙草に火をつけながら、水尾は軽く頭を下げた。


 一度大きく煙草の煙を吸い込んでから、壁に近付き、ゆっくりと吸い込んだ煙を壁に吐きかけた。その動きを少しずつ移動しながら繰り返す水尾を、周りの人間はじっと見つめていた。何度かその行動を繰り返していた水尾の動きが一カ所で止まった。


「ここやな」


「なるほどな。その辺りに隠された扉があるってことか」田中は水尾に近付いてその壁を小突いた。


 水尾は壁に右手で触れて継ぎ目部分に左手を引っかけ、引いたり押したりしてみるが、壁に変化は無かった。


 隣に立った田中も背伸びをして高い部分を見たり、膝をついて足元を見たりしていたが、何かを発見するには至らない。


「何かおまじないでも言ってみます?」南川小夜子が少しからかうような口調で言ったが、それに反応する者はいなかった。


「押しても駄目、引いても駄目、横にスライドするわけでも無い。力ずくで開けれるような構造でも無さそうやしな……。さあどうしたもんか……」


「こんな所に扉があるなんて私は知りません。誰か他のスタッフに聞いてみましょうか?」坂本がスタッフを呼びに行こうとした。


「坂本さん。この建物に入った時みたいに手を翳したら開くなんてこと無いですか?」櫻子が壁を指差して反対側の掌をぶらぶらさせた。


「今はオートロック機能が停止している状態なので多分無理だと思いますけど」


「一度やってみてもらえませんか?」櫻子が言うと、坂本は水尾に尋ねるような視線を送り、それを受けて水尾は小さくコクリと頷いた。


 坂本が壁に向かって手を翳すとカチリと小さな音がして、壁に鋭利な刃物で切り裂いたような縦筋が入り静かに手前に開いた。


「機能は停止している筈なのにどうして?」坂本は困惑顔で周りにいる人間に尋ねた。


「この一連の機能停止はおそらく仕組まれたものだったということですね。機能障害では無く意図されたものだということです。そんなことが出来る人間は限られますがね……」水尾は鋭い視線で坂本を見た。


「こんなことが出来るのは社長以外あり得ません。高度なプログラミングの知識が無いとこの建物のシステムを書き換えることなんて出来ません」目を瞑って首をうなだれた坂本が消え入るような声で言った。


「さあ、何が出るかな?」田中が扉の奥に見える暗闇に視線を向けた。


 田中を制して水尾が先頭に立ち、扉の奥を伺うようにゆっくりと歩を進め中の様子を確かめた。奥に長く続く通路になっているようだが、照明がついておらず何メーターあるのかも分からない。どこかに照明をつけるスイッチでもあるのかと壁を手探りで探してみるがそのような物は無かった。ゆっくりとその暗闇に水尾が一歩踏みす出すと、その動きに反応したかのように通路に一斉に明かりがついて視界が一気に開けた。目の前の通路は緩やかな下り勾配になっていて二十メートル程まっすぐに続き、突き当たりには扉らしき物が確認できた。両サイドの壁にも突起物らしきものはなく横幅は五メートル程だろうか、天井自体が光を放つ仕組みのようで、天井にも突起物が無い。


 水尾は後ろを振り向くことも無く更にゆっくりと歩を進め、奥に見えていた扉の前に立った。扉にはノブのような物は無く、おそらく先程坂本がやったように手を翳すと開く仕組みのようだ。一度その扉に手をついてから自分の耳を扉に当てて中の音が聞こえないか確認してみたが、中の音を通すような柔な造りで無いのは、水尾自身もこのような行動をしながら分かってはいた。


「私が開けてみましょうか?」坂本が水尾に尋ねた。


 少しの時間思案してから水尾は一旦田中に視線を送り、小さな溜息をついてから坂本に視線を戻した。


「一般人がこんなに沢山いる状態で犯人がいるかもしれん扉の前にいるというこんな小説みたいな場面に自分がいることに少し笑えてくるな。俺はこんなに無謀だったかな。まるで誰かさんみたいや。本当ならあなた達にはここで引き上げて貰いたいのですが、おそらくこの扉は私では開けることが出来ないし、この先も坂本さんの手を借りなければならないかもしれない。優秀なボディーガードもいることやし大丈夫やろ……」


 坂本が水尾と代わり扉の前に立ち胸に一旦当てた手をゆっくりと扉に当てると、カチャリと僅かに音を発して壁が手前に開いた。坂本は一歩下がり再び水尾にポジションを譲った


 水尾はしばらく扉の奥を見つめてから、おもむろに開いた扉に手をかけて中に入った。部屋の空気は生暖かく、湿度も少し高めで、恐らく何かの機械が動いていると思われる音が僅かにしていた。


 先程までいた通路とは違い照明の明るさは少し抑えられた感じで、どちらかというと薄暗い。広さは相当広いということは分かるが、大きな機械が多く立ち並んでいるため実際の広さは分からない。目をこらして見回してはみるが、人のような何か動くような物は何も無かった。遮蔽物が多いために全てを見通すことは出来ないが、人のいる気配は感じられ無かった。


 神経を研ぎ澄まして音に集中したが、機械の作動音以外の音は聞こえない。


 水尾が振り返り田中を見つめた。その視線に対して田中はコクリと頷いた。


 水尾は地面を指差して小さな声で「皆さんはここでじっとしていて下さい」


 そう言って一人で薄暗い部屋の中をゆっくりと歩き始めた。機械などの陰に誰か潜んでいないか注意深く見て廻った。姿をくらましているところをみると相手は、警察が自分達に疑いを持っていることに気が付いている。そんな犯人が大人しく出てくる訳も無い。いつ襲いかかってくるかも知れないと考えながら慎重に目をこらしながら歩を進めた。右手はいつでも上着の内側の拳銃に手をかけられるように第二ボタン辺りに当てていた。


 かなりの時間をかけて一通り見て廻ったが、人は勿論、他の部屋に移動できそうな場所も見当たらなかった。


 少し緊張の糸を緩めて櫻子達のいる場所に戻った。


「只の機械室にしか見えんな。扉の所在を隠すような場所でも無いだろうに。更に隠された扉なんかがあるかもしれんが、流石にここまで広いと捜査員を総動員でもせんと見つけ出すのは無理やろな」


 櫻子が何度か見たことのある先生に質問するようなまっすぐに手を挙げる姿勢で話し出した。


「水尾さん、危険が無いということでしたら私達にもお手伝いさせて貰えませんか?」


「倉ノ下さん。後は私達に任せて貰えませんか?あなたに何かあったら私の首が飛んでしまいます。首にならないにしてもあなたのファンに殺されてしまいかねない」水尾は冗談を交えてやんわり断ったが、櫻子がこれ位のことで引き下がる訳が無いのはここまでの短い付き合いでも嫌というほど分かってはいた。


「まあ、聞かないんでしょうね……」


 各々がばらけるように広い部屋を手分けして見て廻った。


 坂本はどこかに隠し扉があるかもと色々な所に手を翳していた。


 チーム櫻子の面々は櫻子を先頭に物陰や置いてある荷物を動かしてみてその下を確認したりしていた。


 金田珠子はそんな面々とは正反対に微動だにせず何か遠くを見るような目で物思いにふけっているように見える。


 水尾はそんな中、田中の動きに視線を合わせていた。


 この田中という同期の男は確かにいけ好かない奴だ。しかしその感情が自分の中にある只の嫉妬心なんだということは水尾自身も十分に分かっている。自分の能力に自信が無い訳では無い。それどころか人よりも自分が優れていると思っているからこそ、この刑事という職業を選んだともいえる。犯罪に苦しめられている人々を救う為に自分のこの能力を生かしたいと小さな頃からなんとなく考えていた。努力すればなんでも人並み以上に出来たし、誰にも負ける気が無かった。そんな人間はその能力を人の為に使わなくてはいけないと親からも言い聞かされてきた。


 高校生になったころから現実的な将来として警察官を目指そうと考えていた。体を鍛えようと当時全国でも有名だった母校の柔道部に入り、当然のように頭角を現し柔道部のエースになった。一年生でエースは全国的強豪校では当然異例のことだ。水尾自身はそのことに関して何とも感じていなかった。自分の能力からして当たり前だと思っていたからだ。前年度に全国制覇していたチームに入ってきたゴールデンルーキーの登場に顧問も先輩連中も連覇は間違い無いと騒ぎ立てた。


 そんな水尾の前に田中は現れた。シード校である水尾の高校の二回戦の相手が田中のいる高校だった。田中の高校は強豪校では無かったが、ここ数年で全国大会に度々顔を出すようになった全国的にはさほど有名では無い関東の新しい高校だった。


 水尾のチームは伝統校らしく緊張感のある雰囲気で会場隅で準備を進めていたのだが、田中の高校は会場内でも浮くほど騒がしく、和気あいあいとした雰囲気でアップをしていた。その中で田中はふざけた態度で更に目立っていて、それを先輩らしき人間に注意されている、おおよそ柔道を真剣にやっているような輩には見えなかった。


 水尾達は二回戦で当たるかもしれない田中の高校の一回戦をスタンドで見ていた。


 田中の高校に興味があった訳では無く、その対戦相手が何度か対戦したことがある全国でも有名な強豪校だったためだ。


 この大会は勝ち抜き戦ではなく、先鋒から大将までが順番に戦い、先に三勝した方が勝ちのルールだった。もう一つの全国大会は勝った方が勝ち残り全員が負けるまで続けるルールだ。


 水尾は両チームのデータを手元で見ていた。強豪校である水尾の高校はどんな相手のデータでも集めて徹底的に分析し、今まで勝ち抜いてきた。相手がどんな弱小校だろうとここは変わらない。


 水尾は田中の高校のデータに目を通していた。先鋒のデータを見てから会場に並んでいる選手に目を向けた。


「あの先鋒の篠原という男が入ってからあの高校全国でいいところまで行くようになったんですよね」水尾は隣に座っていたキャプテンに尋ねた。


「ああ、あの男相当強いぞ。無差別級の個人戦でも全国三位だ。無差別級の中でも軽い方のあの体で相当凄いことだぞ。おそらく篠原で勢いをつけようって考えだろう」


 水尾が篠原に向けていた視線を横にずらし、反対側の端に座っている男の姿を見た。それから手元の資料に視線を落とし、もう一度視線をその男に向けた。


「あのふざけた男、田中というのか。俺と同じ一年で大将……」水尾が聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いた。


「このルールなら大将にいるからといって一番強いという訳じゃないだろう。逆にメンバーで一番下だからこそ大将というのも考えられる。それまでに勝負を決めようって考えも作戦の一つだ」キャプテンが水尾の肩に手を置いて言った。


 先鋒戦の選手がお互い一礼をして一回戦が始まった。始まってすぐ篠原が強引な姿勢から投げを打って相手の選手の身体が宙に大きく舞い上がった。


「一本!」審判の声が会場に響いた。


 その強引な勝ち方とあまりにあっけない結末に会場がどよめいた。水尾もその勝ち方に目を奪われた。この男相当強い。このチームが上がってきたらこの男を止められるのは自分しかいないと思った。


「さすが篠原先輩。その見た目通りゴリラ並のパワーですね」そう言いながら田中が畳から降りようとしている篠原の元に歩み寄った。


 篠原は振りかぶった手を田中の襟元に持って行き首根っこを掴むと、捕まえた小動物を運ぶように引きずり、元いた場所に田中を座らせた。


 そのあまりに滑稽でコントのような場面に会場に失笑ともとれる笑いが起こった。


 田中は正座させられこんこんと叱られている。


「ふざけた奴だな。初めての全国大会であれだけふざけられるのもある意味大物だな。やはり只の五番目って可能性が高そうだ」と隣にいたキャプテンが苦笑いを浮かべた。


 その後キャプテンが言ったとおり、篠原の勝利で勢いがついた田中の高校は、次鋒、中堅も勝ち、副将戦を待たずに強豪校を制し二回戦進出を決めた。


 副将戦は強豪校が意地を見せて取った。田中のチームの副将はこれまでの三人とは明らかに実力の落ちる選手だった。


「先行逃げ切り型の典型だな。三人強いだけじゃこのルールでうちに勝つのは無理だ」


「篠原と俺をやらせて下さい。俺が奴を止めればそれで勝負がつきます」


「俺もそれを考えていたところだ。恐らく奴らはまた篠原を先鋒で持ってくる。水尾、お前に任せたぞ。階級は恐らく相手が一階級上だが、奴を止められるとしたらお前しかいない」


 そんな話しをしていると、田中の試合が始まったので水尾は会場に目を向けた。


 試合が始まってすぐ、強豪校の大将が田中に対して良い組み手になり押し込み始めた。田中は上背はあるものの体格は細めだ。相手の選手は明らかに一階級は上のパワータイプだ。圧倒的に押しまくる相手に田中は畳際に追い込まれた。その瞬間強豪校の大将の身体が畳の外で仰向けになっていた。


「場外!」審判の声が会場に響いた。


 水尾は背筋に冷たい物が流れた。今のは明らかに一本だ。田中の足は場内に残っていた。あまりの鋭さに会場内のほとんどの人間が何が起こったのか理解できていない。それほどまでに鋭い技の切れ。この男何者?


「真面目にやれ!」篠原が大声で叫ぶ。


「真面目にやってますよ……もう……」不貞腐れたように畳の中央に戻る田中。


「はじめ!」審判の声がかかると同時にズドーンと凄まじい音が会場に響いた。


「いっ、一本!」旗が一斉に上がる。


「はい、真面目にやりました」田中がボソッと呟いた。


 会場はあまりの電光石火に静まり返った。


「先輩、前言撤回します。篠原は先輩がなんとかして下さい。俺はアイツを何としても止めてみせます」





「……さん、……さん、水尾さん」遠藤美紀の声で水尾は目を開けた。


「お疲れみたいですが大丈夫ですか?」松本祥子が続けて声を掛けた。


「どれぐらい眠ってました?」


「いえ、少し目を閉じておられただけで、二、三分だと思いますけど」祥子が答えた。


「さすがの水尾もお疲れのようだな。大丈夫か?」田中がいつものからかう口調で言った。


「うるさい、心にも無いこと言うな。お前に心配されたら俺も終わりや」


「手分けして色々調べてみたが、何も見つからないな。本当に只の機械室なんじゃないか?確かに入り口を隠していたふしがあるのは気にはなるが、あとは捜査員を入れて調べさせるしかないな」


 水尾は耳では田中の言ったことを聞いてはいたが、頭では全く別のことを考えていた。


 この建物を知り尽くしている久我山信明なら、警察の目を盗んでこの建物から抜け出す方法があるのではないか?そうなったら久我山信明の捜査範囲は外にまで広げなくてはいけない。そうなったら時間との勝負になる。ここは捜査方針の転換のタイミングなのではと考えていた。


 ふと、水尾が田中のいる方向に視線を動かした時、櫻子の姿が見えないことに気が付いた。


「倉ノ下さんの姿が見えないが?」


「本当だ、またあの子、何か機械に触って壊して無いでしょうね?」祥子が慌てて櫻子の姿を探した。


「うわ~。何か嫌な予感がする」美紀もそう言いながら櫻子を探した。


「さくちゃんならあそこにいるけど」南川小夜子が指差しながら言った。


 小夜子が指差した先にはランプやスイッチが沢山ついた冷蔵庫ほどの大きさの機械の上に、どうやって登ったのか櫻子が立っていて、耳に手を当てて目を瞑っていた。


 はー、と大きく溜息をついてから祥子は櫻子の立っている機械の前まで行って、その位置では頭の先しか見えない櫻子に声を掛けた。


「そこで何しているの?て、あなた、そこにどうやって登ったの?」


 祥子の問いかけが聞こえていないかのように、櫻子はその姿勢で止まったままだ。


 今度は小さな溜息をついてから、祥子がもう一度声を掛けようとした時


「この空気のダクトみたいな所から話し声が聞こえる」櫻子が言った。


「話し声?本当ですか?」水尾は近づきながら尋ねた。


「どこかで声がしているような気がして、それをたどって行ったらこのダクトから一番聞こえたので」櫻子が振り返り、ダクトを指差しながら言った。


 水尾は耳を澄ましてみたが、機械の作動音以外は聞こえ無かった。櫻子の脅威の聴覚があってこそ聞こえるレベルなのだろう。ダクトの行き先を目で追って何処に繋がっているのかを確認すると、そのダクトはまっすぐに壁突き当たり、そのまま壁の中に消えていた。突き当たった壁には扉のような物は無い。だが、この壁の向こうに部屋があり、そこに誰かがいるのは確実だ。


「倉ノ下さん。誰の話し声か分かりますか?話している内容は?」水尾は矢継ぎ早に質問した。


 水尾の質問を聞いてから少し間を置いてから櫻子は小さく首を振った。


「誰かが話しているのが分かるくらいです……」櫻子は水尾から少し目を逸らして答えた。


 壁の向こう側に行く方法が無いかと、ダクトが消えている壁周辺を念入りに調べてみるが何も見つけることは出来なかった。


「今度は念仏でも唱えてみます?」小夜子は悪気は無いのだろうが、空気の読めていない言葉を発した。


「小夜子さん……、ふざけるのは性格だけにして下さい。あっ、その性格だからですね……」美紀は突き放すような眼差しで小夜子を見て、突き放すような言葉を発した。


 少し離れた場所に立って、そのやり取りを見ながら何やら思案していた田中がおもむろに、ダクトが突き刺さった壁の右隣にあたる壁に備え付けられた先程櫻子が乗っていた物と同じような大きさの機械の前まで歩き、その前でまたしばらく思案したあと振り返って、部屋をグルリと見回した。


「やっぱり何か変だな」田中がボソッと発した言葉にすぐさま水尾が反応する。


「変って何がや?」


「いや、この機械、恐らく電気系統の機械に見えるんだが、ほら、あそこ。電気系統の機械はあそこに集められているんだ。なのにこの躯体だけこちらに設置されている。明らかに変だよな」


 田中の言う通り、電気系の機械らしき物は全て金網のフェンスで仕切られた中にまとめて設置されている。田中の前にある物だけがぽつんと孤立しているように見える。


 田中はその機械に備え付けられているハンドルのような物に手をかけて回してみようと試みたが、鍵がかかっているのか廻らなかった。恐らくこのハンドルを廻すと、前の扉が開き、中の設備を触ることができる構造に見える。


 田中は少し力を入れてガチャガチャとハンドルを動かしてみるがやはり動かない。少し考えたあと振り返って水尾に言った。


「もしも何も無かった場合は、大阪府警の方で弁償してもらえるよな?」


 そう言い終わるやいなや、足を大きく後ろに振りかぶり、勢いをつけてそのハンドルを蹴り上げた。


「なっ、お前何を」水尾が発した声と同時に飛び散ったハンドルが地面に落下するカラカラという音が響いた。


 そうすると、機械の全面にある鉄製の板がゆっくりと開き、中からもう一枚扉が現れた。


「当たりだな」田中はいつものにやけ顔で自慢下に水尾を見つめた。


「無茶しやがって。篠原さんが頭を抱えるのも無理は無いな」


 水尾は田中の肩に手を置いて溜息をついた後、田中を後ろに下がらせて扉の前に立ち、そのドアノブに手を掛けた。


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