第三章 予定外のイベント 1
倉ノ下櫻子との食事会という本日のメインイベントは、大変和やかなムードの中行われていた。
田中は、目の前で笑いながら食事をしている櫻子に見とれて、自らの食事は全く進んでいなかった。
六時から少し遅れて会場のレストランに入ってきた櫻子は、ゴスロリ風の出で立ちで、安易な表現にはなるが、まるでフランス人形のようだ。
櫻子はある程度自分の食事を終えると、各テーブルを廻りながらファンににこやかに話し掛けている。
及川守のテーブルに順番がきた際には、他のファンよりも少し砕けた感じで話していた。
及川守自身が言っていたように特別な感じがして、田中は少し悔しかった。
櫻子が隣のテーブルにきた時、あまりの緊張に汗が噴き出してきた。ポケットの中のハンカチを探している最中に不意に声を掛けられた。
「少し暑いかな?この会場」
櫻子が真横に立っていて、手に持ったハンカチを田中に向けていた。
「あわわわっ」田中はあまりに焦って奇妙な言葉を発してしまい、更に汗が噴き出してきた。
「ぷぷぷっ。田中さん『あわわわっ』って、そんな漫画みたいなリアクション」と言いながら手に持ったハンカチで田中の額の汗を拭こうと更に距離が近付いたため、慌てて椅子から転げ落ちそうになった。
そのあまりにオーバーなリアクションが可笑しくて、会場に笑い声が広がった。
「田中くん。いくらさくちゃんが可愛すぎるからって、そんなコントみたいな事には普通ならないよ」
及川のコメントに会場内は更に笑いに包まれた。
「田中さんが会場を温めてくれたんで、一曲サービスしちゃおうかな?」
櫻子は会場の隅に待機していた遠藤美紀に目配せした。
遠藤美紀はアコースティックギターを持ってきて、櫻子に手渡した。
「では、盛り上げてくれた田中さんに敬意を表してリクエストをお聞きしますが、何にいたしましょうか?」櫻子が田中を見つめて曲を要求してきた。
「僕がですか?えっ、えっと、どうしようかな。好きな曲がありすぎて……、迷うな、う~ん……」田中は真剣に悩んだ。
「田中くん。サッサと決めたまえ。どの曲を選んでも誰も文句なんかいわないよ」及川が笑いながら言った。
「では、お言葉に甘えて。『卒業』をお願い出来ますか」
「田中さん、分かってますね。実は私もそれを歌おうと思って、ギターを復習してきました」櫻子のコメントに会場内は更に和やかなムードになった。
アコースティックギターが静かに奏でられ、櫻子の歌声が会場に響くと、その透明感に誰もが惹きつけられた。
真横で聞いていた田中は正に夢心地だった。
櫻子の歌の凄さは勿論知ってはいたが、現実に目の当たりにすると、そのあまりの存在感に圧倒される。
少女のように幼い雰囲気が顔を出したと思った次の瞬間には、驚くように妖艶な雰囲気を見せたりする。囁くように歌ったかと思えば、遙か空の彼方に響かすように歌い上げたりもする。歌に対する真摯な態度がそのまま歌声に乗って人々の心をうつのだと田中は改めて思った。たとえ歌詞の意味の分からない人間が聞いたとしても心に響くだろうと感じた。声を聞くだけで自然と瞼が熱くなった。
歌が終わり、一瞬会場に静寂が訪れた後、拍手が鳴り響いた。
「やはり素晴らしいですね、倉ノ下さんの歌声は」会場の入り口から拍手をしながら、久我山信明が歩いてきた。
「皆様、お楽しみのところ部外者がお邪魔してすみません」
「いえいえ、部外者なんてとんでもない。久我山社長のお心遣いで、このような素敵な会場を用意していただいて」櫻子は深くお辞儀をした。
「そう言って頂けると私も嬉しいかぎりです。選りすぐりの倉ノ下さんのファンの皆様に集まって頂いているところで、皆様に是非とも体験して頂きたい施設があります。お付き合い頂きたいのですがいかがでしょうか?」
会場にいた櫻子ファンはお互い顔を見合わせたが、特に反対する者はいなかったので、全員で移動することとなった。
一度一回のロビーに降りて、客室に移動するエレベーターではなく、建物の一番奥まった場所に荷物を搬入するような大型のエレベーターがあり、それに全員が乗り込んだ。
「このエレベーターは地下の施設に行くための専用エレベーターになっています。地下の施設は大人数で楽しむ物なので、沢山の人間が一度に移動できるように、このような大きさのエレベーターを用意させました」操作パネルのボタンを押しながら信明が説明した。
櫻子はあまりに大きなエレベーターに興味津々でキョロキョロ見回している。
周りにいる人間はその櫻子に興味津々でソワソワしている。
客室用のエレベーター同様に静寂性は素晴らしく、動いているのが分からないほどだ。
エレベーターが止まり静かに扉が開いた。
扉が開いた前の空間は広く、その先に大きな木製の扉が見えていた。重厚な造りの立派な扉だ。
他の階と同じように、鏡のようなパネルに地下一階と表示されている。
信明がその扉の引き手部分を押し込むとその部分が跳ね上がり中に鍵穴が見えた。
「本当なら手を翳すだけで空けることができるのですが、今日はマスターキーで開けさせて頂きます」そう言って鍵穴にキーを差し込み扉のロックを解除した。
重厚な扉をゆっくりと押し開くと、そこには小ぶりな劇場が姿を現した。
扇形に配置された臙脂色の客席がすり鉢状になっていて、一番低い所に小さめのステージが見える。客席数は大体百席ぐらいだろうか。
「皆様はご自由にお座り下さい。倉ノ下さんは私とこちらへ」そう言って舞台袖の扉を開けた。
田中は他の人間から少し離れた場所に腰をかけた。
招待客は各々好きな場所に座っている。及川守は一番前の真ん中に座っている。不動峰子の姿は見つける事ができなかった。
しばらくしてスピーカーから信明の声がした。
「それでは皆さんステージをご覧下さい」
その声と同時にステージ上に櫻子が現れた。
現れた櫻子は何やらキョロキョロ周りを見回している。
するとその櫻子が突然二倍ほどの身長になった。その瞬間会場から驚きの声が上がった。
「凄い。もしかして映像なの?」及川がステージを見つめて言った。
すると今度はその櫻子がもの凄いスピードで回転し始めた。まるでフィギュアスケートの選手のようだ。
回転がゆっくりになって止まると、身長も通常の櫻子のサイズになった。
「及川さん。代表してステージに上がって近くで確認してみてもらえますか?」信明の声が再びスピーカーから聞こえた。
及川は言われた通りステージに上がり、間近で櫻子を見た。
「凄い、本当にさくちゃんがここにいるみたいだ。触ってみてもいいですか?」答えを待つまでも無く、手を伸ばして触ろうとしたが、その手は櫻子の身体をすり抜けた。
「嫌だ、マモさんのエッチ」スピーカーから櫻子の声がした。
「そんなつもりじゃないよ、さくちゃん」及川は慌てた様子で顔を赤らめた。
「これって、さっきみたいに身長じゃなくって、胸だけ大きくとかできます?」櫻子が真剣なトーンで尋ねている声がスピーカーから聞こえた。
「できなくは無いですが、それだと、このシステムの本筋から外れてしまうのですが……」
「嫌だな~、冗談ですよ、冗談。久我山社長本気にしないで下さい」櫻子が慌てた様子で否定した。
櫻子のファンはみんな、櫻子の発言に笑顔だったが、チーム櫻子の面々は全員が苦笑いだった。
劇場内にまだざわめきが残っている中、信明と櫻子が舞台袖から揃って出てきた。
「どうでしたか?目の肥えたファンの皆様から見て、鑑賞に堪えるものだったでしょうか?このように別室にいる倉ノ下さんをそこに居るかのように体験できるのがこのシステムです。これと同じシステムを離れた場所に構築することによって、同時に離れた場所でライブを体験する事が可能になります。将来的には大きなサイズの会場での運用も視野に入れていますので、スポーツ観戦や舞台演劇などにも応用が可能です」信明が熱の入った口調で説明した。
「私はエンターテインメントが人に与える可能性をとても高く評価している人間です。多くの人に身近に素晴らしい芸術を見て頂きたい。そのためにこの会社を作りました。ここにいる倉ノ下さんのファンの皆様は、その事を大変深く理解されておられる方々だと思います。その人達のお眼鏡にかなう物ならば、全ての人々に満足して頂ける物だと確信できると思い、この度この施設のオープン前にご招待した次第です」
熱意に溢れた信明の姿は、ある意味、子供じみているともとられるだろう。しかしそのような姿を羨ましいと捉える者も多い。田中もそちら側だった。自分の中にも子供の時のような、こんな感情がまだあったのかと少し驚いた。
理想だけでは生きていけないのが現実だということは十二分に理解してもいたが、反面このような気持ちも、人が生きていくには必要な物だと改めて気付かされた。
誰かが拍手をした。
それにつられるように、何人かが拍手をした。
櫻子も信明を見つめて拍手を送っていた。
「ありがとうございます。これで、私も部外者では無くなりましたかね?」照れたような表情で信明は拍手に手を上げて答えた。
「では、お仲間として認められたお返しに、私が皆様にお飲み物でもご馳走しましょう。皆様、最上階のレストランに戻りましょう」
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