第一章 脅迫状 7

 倉ノ下櫻子は強めの近視だ。

 

 裸眼では近くの物しか見えず、仕事中はコンタクトレンズなのだが、プライベートではほとんど眼鏡姿だ。残念ながらプライベートなファッションセンスは絶望的なので、普段着の彼女と街ですれ違っても大抵の人間は芸能人倉ノ下櫻子と気付く者はいない。正にナチュラルな変装とでもいうべきか。

 

 そのようなニュアンスでマネージャーの松本祥子に励まされた水尾だったが、内心自分の刑事としての眼力に自信を無くしていた。

 

 何度思い直しても、今、目の前のステージ上で華やかにファンに向かって手を振っている女と、先程の家出少女風の女が同一人物だと認識することが出来ない。

 

 倉ノ下櫻子は先程、女性司会者に紹介されて、白いファーの付いたトップスと、裾の大きく広がったスカートが目をひく衣装でステージに登場して、今はファンに向かって声を掛けたり、手を振って声援に応えたりしている。

 

 会場は櫻子の登場に大きな声援が上がり、かなりの盛り上がりを見せていて、あちらこちらから「さくちゃん!」と叫ぶ声や、櫻子と目が合ったファンからは「可愛い……」と感嘆の声が上がっていた。

 

 ステージ上の櫻子が会場のファンに目配せして、人差し指を形のいい唇に当てて、「静かにしてね」と小さな声で言い、ファンに静寂を促した。

 

 会場が静かになったところで、優しい口調で櫻子が語り出した。


「今回は皆さんの応援のおかげで、念願のベストアルバムをリリースすることが出来ました。本当にありがとう。このアルバムには私がデビューしてからの歩みが全て凝縮されています。デビューした時は何も分からず、只がむしゃらに歌っていましたが、色々な経験をさせて頂いて私も成長出来たと思います。その成長は皆さんの支えあっての事です。私のその成長を皆さんにお聞かせしたく、デビュー曲を今の私なりに歌い直させて頂きました。私のこの数年の成長を聞いて下さい……。『ラブレター』」

 

 いきなり櫻子がアカペラで歌い出した。

 

 その声は驚くほど会場に鳴り響いた。ファンの静寂と、櫻子の情熱的な声が心地よく混ざり合い、その空間にいる誰もがステージ上で歌う櫻子の姿に釘付けになった。

 

 水尾は驚いた。正直なところ今回のイベントに集まるような人間は、ただ見た目の可愛い女に群がる輩だとバカにしていた節があった。今、櫻子の歌声を聞いて、その考えは消え去った。


「これは、本物やな……」

 

 思わずそんな言葉が口から漏れた。


 アップテンポな曲を二曲歌った後、ファンからの質問にいくつか答え、今はこのイベントの目玉でもあるハイタッチ会が和やかな雰囲気の中行われていた。

 

 ステージ下で荷物をスタッフに預けてから一人ずつ壇上に上がり、櫻子とハイタッチをしながら一言二言の会話を交わして、再びステージ下で預けた荷物を受け取るという手順だ。

 

 ステージ下で荷物を預かるスタッフは二人。一人が遠藤美紀で、もう一人がスタッフに扮している元平だ。

 

 吹き抜けの二階部分から階下のステージを見ながら水尾は独り言を呟いた。


「あいつ、なかなか様になっとるな」

 

 元平はどこからどう見てもスタッフにしか見えない程溶け込んでいた。

 

 櫻子はファン一人一人と目を合わせながら、にこやかにハイタッチを繰り返している。 それをじっと見ていた水尾はあることが気になっていた。


 櫻子はファンとコミュニケーションを取る際、その人物の名前か、もしくはニックネームを最初に言っている。ハイタッチを終えているファンは既に二百人を超えているにも関わらずほぼ全員にだ。名前やニックネームを言わなかった人には最初に名前を聞いている。


「まさかな……」と半信半疑に呟いた水尾に後ろから声が掛けられた。


「さすが刑事さんですね。お気付きになられましたか?」声を掛けてきたのは松本祥子だった。 


「もしかして全員の名前を記憶しているのかと考えていらっしゃるのでしょう?」


「いやいや、まさか、さすがにそれは無いでしょう?先程の倉ノ下さんの言葉が嘘だとはいいませんが、ファンの名前を全部覚えているなんてそんなこと……」


「科学的には証明されていないらしいですけど、櫻子は『睡眠記憶』という能力を持っていて、一度眠ると、その日に経験した事象を強く記憶しておくことが出来るのです。顔と名前、それに声などを紐付けて、一人一人をファイリングするように覚える。それに加えて彼女は聴力も人並み外れていて、音に関しては映像よりも強く覚えることが出来ます」


 笑顔で話す祥子を見て、水尾は自分がからかわれているのだと思った。


「嘘じゃありませんよ」

 

 祥子の言葉に、心中を悟られたような気がして、水尾は目を逸らしてわざとらしい咳払いをした。

 

 水尾がハイタッチ会の会場に視線を戻すと、並んでいた人間はもうそろそろ最後になろうとしていた。その一番後ろにいる人物に水尾は見覚えがあった。及川守だ。


「一番後ろに並んでいる彼は、何かファンの間では有名らしいですね。そういった人は普通最初の方に並びたがるんじゃないんですか?」


「マモさん……、及川さんはいつもこの様なイベントがあると一番後ろに並ばれてますね。締めは自分がするみたいな感じなんじゃないですか?」と今までで一番の笑顔で答えた。その笑顔に少しドキリとした水尾は更にわざとらしく咲き込んだ。

 

 どうやら一回目は何事も無く終わりそうだった。

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