第一章 脅迫状 5

「遅くなってすみません。電車の乗り換え間違えちゃって。タクシーを飛ばしてきました」

 

 聞き取れないラジオの音声のような、不明瞭なしゃがれた声で遅刻の言い訳をしながらスタッフルームに入って来たのは、櫻子のメイクを担当している南川小夜子みなみかわさよこだ。


 遅刻したと言いながらその出で立ちは、頭のてっぺんから足の先まで完璧にコーディネートされている。


「どうしたのその声。風邪?酷いわね」と祥子が心配そうに聞いた。


「花粉症が酷くって。寝坊したせいで薬をホテルの部屋に忘れてくるし」

 

 またもや全く聞き取れないガラガラ声で答えた小夜子に、子供が母親に甘えるように櫻子が後ろから抱きついた。


「小夜子さん、遅いですよ。自分でメイクしなくちゃならないかと思ってドキドキしちゃった」


「いや、それは無いでしょう」

 

 櫻子が言い終わるのを待たず、それに被せる様に祥子が言った。

 

 祥子がそう言い切るのには訳がある。

 

 それは櫻子のセンスに関することで、櫻子は女性として着飾ったり、容姿を整えたりする方面の能力に明らかに欠陥がある。

 

 私服を選ばせたら、お前はどこの田舎女学生だという物になるし、メイクをさせたら正に『おかめちゃん』になる始末。わざとやっているのかと疑いたくなる程である。


「大丈夫、大丈夫。この小夜子さんが来たからには、スパーアイドルにメイクアップよ!」腕まくりをしながら小夜子は言ったが、その内容はその酷い声のせいで、半分程も聞き取れなかった。


「はい、これ。櫻子が飲んでいる市販薬でよかったら。のど飴もあるよ」

 

 祥子がピルケースの入ったポーチを小夜子に投げて渡した。


「ありがとうございます、祥子さん。助かります」


「そういえば、今日はマモさん、来てたね」

 

 鏡の前で遅れた時間を取り戻すように、凄まじいスピードで櫻子の外見を整えながら、小夜子が櫻子に鏡越しに話し掛けた。

 

 マモさんとは櫻子がファンの一人である及川守に付けたニックネームだ。


「美紀ちゃん、さっきマモさんに声掛けたんだよね」


「はい、祥子さん。なんかしばらくインフルエンザで寝込んでいたらしくって、最終日の大阪になんとか間に合ってよかったって言ってました」美紀は櫻子が着る衣装のチェックをしながら答えた。


「それと、脅迫状の件で警察が来てるんだって?美紀ちゃん、あなたオドオドしてるから挙動不審に思われて、警察の人に職務質問されないように気を付けなよ」小夜子がクスクスと笑いながら呟いた。

 

 それを聞いた美紀は内心ムカッとはしたが、小夜子が美紀をからかうのはいつものことなので聞き流した。

 

 古株スタッフの遠藤美紀はイベントを行う際無くてはならない人間で、その出来る仕事振りとは裏腹に、見た目は典型的引きこもり系眼鏡女子(このような言葉があるかはさておき)だ。世間的にいうオタクといわれる見た目と、年齢よりも幼く見える容姿のため未成年と間違われることも度々あり、プライベートで警察に声を掛けられるのも一度や二度では無い。第一印象は必ずしも好意的には取られない。感情が読み取れない話し方をするので、会話をしても更に印象を悪くすることも多い。美紀自身そのことは自覚してはいるが、この年齢になってまで直すつもりは全く無かった。

 

 この後の段取りを自分のメモ帳で確認していると、櫻子のメイクもほぼ出来上がりスタッフの間にも少し緊張感のある空気が流れ始めた。


「そうそう、後で大阪府警の刑事さんが挨拶したいっておっしゃっていたから」そう言いながら祥子はドアの隙間から会場の様子を確認している。

 

 美紀も祥子の後ろから会場の様子を覗いた。午前中から続いていた列はショッピングモールの入り口付近まで長く伸びているのが確認できた。


「よろしいでしょうか?」と扉の向こうから男の声がした。


「どうぞ、もう少しで準備が終わりますので、そこにお掛けになってお待ちください」祥子が扉を開けると、スーツの男とスタッフジャンパーを着た長身の男が立っていた。


 二人の男が入ってくるのと入れ替わるように、イベントの最終準備のため美紀はステージ下に向かった。

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