第37話 妻のよそ行き顔は秘密!


 神妙寺雪江は僕、秋津俊介の妻だ。


 彼女は映画を中心に人気上昇中の女優だが、僕と知り合った頃はまだ、駆け出しの新人女優だった。ある時、共通の知人を介して知り合った僕らは、何がきっかけということもなくごく自然に恋に落ちた。


 僕らはまだどちらも無名に近く、そのまま勢いにまかせて結婚してしまったのだった。


 その後、雪江はいくつかの出演作品が評判となり、徐々に人気者の階段を上がっていった。僕は二作目の『ひゃくえんせんそう』がそこそこヒットしたものの、雪江の知名度に比べればただの名もない男に等しかった。


 僕は「もう少し自信を持って名乗れるようになったら二人のことを公表しよう」と言った。


 それから数か月が過ぎたが、いまだに一部の親しい人たちを除いて僕らの関係は伏せられたままだ。


 こんなふがいない夫に対し、雪江は文句ひとつ口にしたことがない。僕にできることと言えば彼女の仕事を尊重し、なにがあっても彼女を信じ続けることだけだ。


 だがそんな決意を曇らせてしまうのが、今回の撮影と正木亮の存在だった。その事を思うと、かけがえのない女性との唯一の誓いすら守れない自分に嫌気がさしてくるのだった。


               ※



 リフトを降りて私道を歩き始ると、薬草畑の傍らに手持ちぶさたで佇むみづきが見えた。


「やあ、もう戻ってきたのかい。麓はどうだった?」


 僕が声をかけるとみづきははっとしたように振り返り「それなりって感じ」と言った。「それより見て、玄関のところ。ドラマのクルーがロケハンに来たの。監督と役者さん」


 みづきが囁き、僕は思わず玄関前を見やった。ワゴン車の前で、数名の機材を抱えた人物が言葉を交わしている様子が見えた。


「明後日、お屋敷か敷地内で数カット撮るそうよ。それから麓の神社に行くと言ってたわ」


「明後日……じゃあ締め切りも早まるってことか」


「おそらくね。私は今日中に仕上げるつもりだけど」


「なんだい、それじゃ僕のビリは決定だな」


 僕がそう言って肩を竦めた時だった。ふいに背後で「何がビリなんです?」と声がした。


「あ、ミド……執事さん」


 僕らの背後に立っていたのはミス・ビリジアンだった。


「神谷先生から、泊り客の皆さんに伝言です。監督の要望で締め切りが一日早まったので、明日の昼までに作品を提出して欲しいそうです」


「やっぱりそうか。……仕方ない、今夜は徹夜を覚悟するか」


 僕がそう言って、どれが監督だろうと玄関の方を見やった時だった。ワゴン車の傍らにいた人影がふいにこちらを向くのが見えた。


「雪……」


 人影――雪江は僕とみづきを見た途端、さっと身を翻して足早にワゴン車に乗り込んだ。


「今の、神妙寺雪江よね。……よく目に焼き付けておかなきゃ」


「どうしてだい?」


「これから書くラストシーンのためよ。一応、恋愛要素も入ってるんだけど、頭の中では正木亮と神妙寺雪江になってるから」


 僕が続けざまのパンチに打ちのめされていると、撮影クルーを乗せたワゴン車が埃を巻き上げながら去っていった。僕は振り返ってミス・ビリジアンに「さっき一瞬、神妙寺雪江がこっちを見た気がするんだけど、どう思います?」と尋ねた。


「……見たかもしれません。……が、この状況ならすぐ逃げだしたくなるでしょうね」


「どうしてそう思うんです?」


「落ち着かないからです。クルーの前では女優の顔、知人の前では別の顔、そんな風に気持ちを揺さぶられたら、逃げだしたくなるのは当たり前です」


「知人って……誰のこと?」


「その質問にはお答えしかねます。私の思い込みかもしれませんので……あしからず」


 ミス・ビリジアンは無表情で言うと、ぺこりと頭を下げて僕らの前から去っていった。

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