煙草

「いっそ、死んだら楽なのかな」

隣で彼女はそう呟いた。

お風呂上がりで少し湿った髪は色気を帯びて、その匂いをこちらの鼻へ届けた。

「どしたの急に。会社でなんかあった?」

「また言われたよ」

「私たちのこと?」

「うん」

「そっかぁ・・・」

ベランダから紫煙が飛ぶ。

横でハイボール缶をすする彼女を見て私は胸がチクリと痛んだ。

「後悔、してるかな」

「なにが?」

「私たち、こういう関係になったの」

私たちはそう。言えば夫婦みたいなもの。

どちらも夫でどちらも嫁。

特に複雑な事情なく、普通にレズビアンとバイセクシャルで結ばれたって、ただそれだけ。

高校時代からの付き合いで、私はバツイチ。最近・・・っていっても三年前に一緒になった。

二十代も後半に差し掛かり、女で二人暮らしで、この子はわりと男が嫌いなのがバレてて、会社で結構言われるようだ。

それを直接言ってくることはないらしいが、結構給湯室みたいな場所で話題にされるらしい。

この子、なまじ可愛いから、男受けも割といいので的になりやすいのだ。

そうして言われて帰ってきた彼女はいつもより一層、弱々しく、小さく見えて、なお愛おしくなっていく。

そうして私は彼女の肩を抱き寄せた。

「・・・ヤニ臭い」

「我慢してよ。私が精一杯慰めてるんだから」

「慰めになってないよ」

「なんで」

「下心丸出しだもん」

「しまった」

こんな意味が分からないおかしな会話をしててもお互いにクスリともしない。まあ、お互いを貪っている時も、笑うことなんてそうないし、日常会話もこんなもんだ。

「・・・そっちは?」

「なにが」

「そっちは言われないの?、私のこと」

「いやぁ、私作家だし。会う人少ないし、編集ちゃんも理解ある人だし、クソ親は振り切って来ちゃったし・・・今更だな」

「さっすが」

そう、心にもない称賛をしてハイボールを口に流し込んだ。

「・・・さすがに寒いなぁ」

「まだ三月入ったばかりだもの。寒さ」

缶を握り潰し、寒いといった彼女を私はより強く抱きしめる。

「あったけぇ・・・やっぱ体温高いのね」

「そんなことないと思うけど、この時期に外で風呂上がりならそう感じても仕方ないんじゃない?」

「湯冷めしたなぁ」

「言わんこっちゃない」

「言われてないよ」

私はもう一本煙草に火をつけた。

すると決まって彼女は顔をしかめる。

そんな顔も可愛らしい。

「臭いつくじゃん」

私は黙って吸った。代わりに肩を抱くのを止めて少しだけ離れた。

少しだけ寂しそうに新しい缶を足元から拾う。今度はビールだ。

こいつ、なぜかヤなことがあるとこうしてベランダに酒を持ち込んで引きこもる習性がある。

私はそれに合わせて外に出ては話を聞く。いつもの流れだ。

「・・・最近どうよ」

「なにが?」

「売れ行き」

「短編集のか」

「そう」

どうやら今日は誤魔化したい気分らしい。たまにある、聞いてほしいくせに回り道をしようとする。

「上々・・・というか給料明細見せたじゃんかよ」

「そうだけど、なんか気になって」

口を尖らせて、小鳥のような声で言い訳をする。ピーピー鳴くのはいつものことだ。

「大丈夫だよ。貯金もしてるし、ワンチャンそっちが仕事辞めても、再就職するまでのお金はある」

「そいつはありがたいね。いつかやめてやろうかと思ってるからさ」

「いつかって言ってたらいつまでも辞めれんだろうに」

「知ってる。でも、辞めるの」

「そっか。がんばれ」

会話が途切れて、煙草を加えて吸う。

始めたきっかけは前の旦那。よく吸うヘビースモーカーだった。

酒はあまり飲まない。

飲めないわけじゃないが、煙草で酔って、満足してしまう。

それに、そんなにいい思い出がないから。

私の分までこの子が飲んでくれるから。

「本当に美味しそうに飲むよね」

「お酒?」

「おう」

「だって美味しいもん。美味しいのをマズそうに飲むのっておかしくない?」

「それはそうだけどさ、ほら、食レポとかでも美味しいもの食べてもなんか美味しそうに見えない下手くそなやつとかいるじゃん。それの逆さ」

「褒められてる?」

「超褒めてる」

「ありがと。飲む?」

「少しだけ頂戴」

彼女からビールを受け取って口をつけて流し込む。

苦みと麦の匂い、炭酸が一気に口の中を支配してヤニを流した。

「どうよ」

「・・・え?」

「美味しい?」

覗き込むように聞く。無邪気な目が刺さる。

すごくいじめたくなる。

「・・・間接キスへの興奮のが上」

「うへぇ、変態くせぇ」

思ってた反応と違ったのかまたも顔をしかめた。だが先程と違って少し楽しそうだ。

たまに見せるこんな子供のような態度が、私の興奮を加速させる。

なんとなくその艶のある唇が目に映って

「っん・・・」

奪ってやった。



いきなり口を塞がれた私は動揺する・・・と思っていたがそうでもない。

よくよく考えたらいつものことで

私は彼女のヤニ臭い口を、逆に貪ってやった。

「うっ・・・はっ、まさかやり返してくるなんて・・・」

少し紅潮した頬を眺めて私は口角が自然と上がる。

「どうよ。私だってやられっぱなしじゃないんだぜ」

「そっちだって顔赤くしてるじゃん」

「これはお酒のせいだよ」

「じゃあ私もお酒のせいだね」

そう言ってお酒を押し付けるように返してきた。

そして誤魔化すように、また煙草を加えて息をゆっくりと吸う。

呼吸のように紫煙を吐いた。

「・・・やっぱくっさい」

「そんなに嫌ならやめようか?」

「え?」

「煙草。やめようか?」

突然の言葉に私は困惑する。

彼女と再会したとき、彼女はとても煙草の似合う女性だった。

なんなら興奮までした。性的にだ

私は別に煙草が嫌いなわけじゃない。単に気に食わない

付き合う前、まだ私が片想いだと思っていた時期。何気なくなぜ煙草を始めたのかと聞いたことがあった。

『あぁ、彼氏・・・今の旦那の影響でね。ヘビースモーカーなんだよ、あの人』

そう遠くを見つめながら言う彼女がどこか遠い存在に見えて、私の知らない彼女がいて。

怒りは、嫉妬はその男からもらった煙草に向いた。

それがダラダラグダグダ、今の生活まで続いている。

「・・・いいよ」

「なんで?、嫌なんじゃないの?」

「別に、私、煙草嫌いなわけじゃないし」

「えっ、そうなの?」

不思議そうな顔で私を覗く。同い年なのに、妙に大人っぽい。

「私、貴女の煙草吸ってる姿は嫌いじゃないの」

「へぇ?」

あっ、今ちょっと嬉しそうな顔した。

「じゃあなんでそんな嫌うわけ?」

「それは・・・」

まさか、過去の旦那の影が見えて嫌だとか言う下らない理由を馬鹿正直に言うわけにはいかない。

というかこの人の場合、無理してやめかねない。

別に、そこまでしてやめてほしいとは思わない。なんならさっき言った通り好きなのだ。煙草を吸っている、その姿が

「・・・一本頂戴」

「は?」

「いいから、一本頂戴よ。煙草」

いっそ、私で上書きしてやろう。

「いいよ。でもあんた、吸ったことないよね?」

「だから初体験、頂戴?」

「おっ?、そんな誘い方されたら興奮するじゃん」

そう言って小さな箱から見慣れた煙草を一本取り出した。

私はそれを受け取りとりあえず咥える。

なんか、紅茶の茶葉を超発酵させたようなにおいが少しだけする。

「火、どうする?」

「・・・そうだあれにしよう。動かないでね」

私は煙草を手で押さえて待つ。

彼女は目を瞑り、火のついた煙草を咥え、私に顔を近づける。

・・・あっ、これ知ってるな

そう、これは

煙草の先と先が触れ、ゆっくりと熱が共有される。

そして匂いがつき、熱が伝わり、顔が離れた。

私の咥える煙草から紫色の副流煙が夜空に落ちるように流れる。

「・・・シガーキス」

「おぉ、知ってるのか」

「ドラマで見た。えっちいやつだ」

「ハハハッ、そうだね。最高に興奮する。濡れたよ」

愉快そうに頬を染めて笑う彼女は、私の中にある煙草の中の世界一憎い男を秒で消し去った。

「吸ってみ」

言われた通りにゆっくりと吸ってみる。

「・・・ぐっ!?、ゲホッゲホッ!」

勿論咽た。当たり前だ、慣れないことをするとこうなる。

口を中心にして体の中に温かい何かが流れ、強いハーブのような香りが脳すら侵す勢いで支配した。

「どう?、初体験のお味は?」

「・・・処女捨てた時と同じ感じ」

大爆笑だった。訳するなら苦しい。ただそれぐらい

これで体に悪影響があるなら、マジでただの有害物質だ。

「その表現、こんど小説で使っていい?」

「いいよ。コンプラ引っかからん程度にね」

私もなんだか楽しくなって苦笑交じりで笑う。

私たちが会話でこうも笑うことなんてそうないから、なんだか少し新鮮だ。

「・・・ねえ」

「なに?」

突然、彼女が神妙な顔で口を開くものだから、びっくりして顔を見る。

先ほどと変わって、すごく大人な目をしている。いまだ明るい街を眺めていた。

「最初さ、死んだ方がいいかな的なこと言ってたじゃん」

「そうだね。それは、高校時代から幾度なく思った、私の鳴き声のようなものだよ」

「死なれたら、困るんだよね」

「どうして?」

「私がまだ生きていたいから」

「・・・どういうこと?」

「あんたのいない世界で生きていける自信ないけど、生きていたいから。あんたにはまだ死なれちゃ困るのさ、私が満足するまでね」

なんとも自分勝手な理由だった。

そんな自己中心的な理由が妙に輝いて見えて、彼女らしさが際立って、愛おしくて

「・・・じゃあ、生かしてよ」

「そうだなぁ・・・これは私の考え方というか、消化の仕方なんだけど」

彼女は、吸ってる途中の煙草を指で挟み、持ち上げる。

「人間って煙草と同じでさ、酸素吸って二酸化炭素吐いて、有機物食っては毒物を吐くんだよ。それってさ、本当にただの有害物質じゃね?」

「そういわれてみればそうかも」

「ね?、じゃあ、そんな有害物質なんて、この世に何十億といる煙草なんて気にするだけ面倒じゃん。人類みな煙草なんだよ」

「・・・ハハッ、わけわかんない」

「私も言っててちょっとわかんなくなった」

そう言ってお互いに笑った。本当にこんなに笑ったのはいつぶりだろうね。

「じゃあ、貴女も煙草ってことだよね」

「そうだねぇ・・・えっ、もしかして嫌い?」

その問いに私は苦笑して、だいぶ灰の比率が高くなった手の中の煙草を咥える。

ゆっくりと吸って、脳に、肺に紫煙を回す。

今度は咽ない。

「・・・愚問」

私は吸殻をベランダの床に捨てて彼女の首に手をまわす。

「この煙草は、大好き」

「そっかぁ、私も好きだよ」

そうして二人でゆっくり、お気に入りの煙草を吸う。

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