二 通路の先 前編
地下へ向かう入り口は玄関ホールの隅、例のエルフト像の隣に口を開けていた。といっても隠し通路のように床に四角い穴が開いているのではなく、重厚な木の扉を開けて中の階段を下りてゆく感じだ。
「あ、そのままで。この子が開けるから」
先回りしてさっと扉を開けてくれようとする従業員を師匠が制止した。彼は今朝自分を引っ張って転ばせた師匠のことを覚えていたらしく、クスッと笑って「かしこまりました」と丁寧に胸に手を当ててから仕事へ戻っていった。
心躍らせながらも顔を引き締め、真鍮の取っ手を掴んで引っ張る。扉は軋むことなく滑らかに開いて、いかにも秘密めいた雰囲気の石の階段が姿を見せる。朝はここまで見せられてお預けになったので、ここに戻ってくるまで実に半日も我慢したのだ。
「よし……」
ロゥラエンはごくり、とゆっくり一回唾を飲んで、片手に下げたランタンを持ち上げた。宿の部屋に置いてあったもので、丸く磨かれた大きな透明の石が鉄製の枠の真ん中に固定されている。「魔導式」は熱くならないのでガラスの覆いがいらないらしい。魔法っぽくてかっこいい。
「これ、どうやってつけるんですか?」
ロゥラエンが尋ねると、師匠が「持ち手を握って魔力を流す」と言った。
「どうやって?」
「うーん……こう、血液をぎゅうっと押し出す感じで……口からじゃなくて、手のひらから息を吐き出すような」
「手のひらから、息を吐く」
さっぱりわからなかったが、とりあえず持ち手をぎゅっと握って「光れ!」と念を込めてみた。何かが起きている様子はない。
「出ないねえ」
「僕、魔力無いのかな……」
「いや、それは持っているような気がするよ。なんとなく、気配がある」
「気配?」
「うん。存在感が強いというか」
「存在感」
ロゥラエンはぽつりと復唱して、黒と金の糸で刺繍が入った真紅のマントを見下ろした。服の裾には金の房飾りがたくさん付いているし、いつも背負っている大きな楽器の鞄にもいろんな色でびっしり刺繍の模様が入れてある。控えめに言っても、彼は優雅なローブ姿の学者さんが多いこの宿でかなり目立っていた。その存在感というのは、本当に魔力の気配とやらなのだろうか?
思いついて、確実に魔力を持っている師匠をじっと見つめる。普通の人と……あまりにいろんなところが違っていて、参考にならない。
「今、何か失礼なこと考えなかったかい?」師匠が言った。
「いいえ、師匠は性格も特別な感じだから、気配が特別でもわからないなと思ってただけです」
「それ、暗に変人だって言っているような……」
「大人の中では特別まともですよ。変だけど」
にっこりして教えてあげると、師匠は少し困った顔になって言い聞かせるように言った。
「ロゥラエン、君は魔術師というものを知らないから……月の塔の人間の中ではかなり常識的な方だよ、私」
「嘘だぁ」
「嘘じゃないさ。君もあそこに住むようになれば、すぐ私以上に変な子になる」
「えっ、嫌です」
眉を寄せた顔を見合わせ、同時にクスッと笑った。師匠が「ほら、今は私が発現させてあげよう」と手を差し出したのでランタンを渡すと、彼は「ようく見ててごらん」とロゥラエンがやったのと同じように持ち手をぎゅっとした。するとそこに刻まれていた細かい線を伝って白い光が流れていって、石の上下を挟んでいるお椀型のパーツにみるみる魔法陣が浮かび上がると、ただの水晶に見える石がじわじわと青白い光を放ち始める。
「光った!」
「まだだ──そんなに近くで見ていると眩しいよ」
師匠が言って、もう一度持ち手を握る。すると魔法陣が強くチカッと光って、石の光が突然煌々と明るくなった。まじまじ見つめていたロゥラエンは目が眩んで、慌てて腕で光を遮ると顔をしかめて瞬きを繰り返した。
「だから言ったのに」
師匠が楽しそうに笑っている。ロゥラエンは頬を膨らませて師匠から奪うようにランタンを受け取ると「行きますよ!」と乱暴に言った。
「はいはい、足元に気をつけてね」
「わかってます!」
少し高めの石段を降りてゆくと、その先には真っ直ぐな一本道の通路があった。狭いと言えば狭いが、思ったよりは広々している。もっと迷路のようになっていると思っていたので、少しがっかりした。それに階段もそうだが、せっかくランタンを持ち込んだのに通路にはところどころの壁に光る石のランプが下げられていて、大して暗くない。向こう側にこちらと同じような階段が見えるだけだ。
「とにかく、向こうに行ってみないと……あの階段の先に何があるのか」
「……そうだね」
声を震わせながら師匠が言った。
「笑わないでください、僕はここに来るの初めてなんですから。慣れてる師匠とは違うんです」
「うん……ごめん」
片手で口を覆った師匠が、もう片方の手でロゥラエンの頭をポンポンと触った。やっぱり馬鹿にされている気がしたが、素直に謝ったので見逃してあげることにする。
カツンカツンと、ブーツの踵が立てる音が反響するのを聞きながら進む。神殿の地下と違って淡い色の石が使われていて、天井のアーチの形も華やかな感じだ。探検するなら向こうの方が面白かったかもしれないが、これはこれでどこかのお城の地下みたいで素敵だ。
地下通路は真っ直ぐだが、結構長い。宿の下にある部屋に繋がっているのではなく、どこか別の場所に向かう道のような気がする。
「あそこの扉は玄関に向かって右側だったから……庭の広さがたぶん、この辺までくらいで、鉄の柵があって」
地上の風景をよく思い出したロゥラエンは、口元に手を当ててじっと考えると、隣の師匠を見上げた。
「これって、隣の図書館に繋がってます?」
「さあ、それは自分で確かめてごらん」
師匠はニヤッとして通路の先の方に顎をしゃくってみせた。けれど一刻も早く自分の考えを確かめようとしたロゥラエンがランタンをガシャガシャ言わせながら駆け出すと、「走らない! 危ないから」と意地悪を言ってくる。
けれどむすっとした少年が隣に戻ってくると、師匠は「よし、偉いね」と言って特別優しそうににっこりした。それがなんだか自分の弟子というより息子を褒める父親のような顔に見えて、ロゥラエンは少しだけ目を逸らすと静かに深呼吸をして、彼の娘への嫉妬心を鎮めにかかった。魔術師の弟子として鍾乳洞の国ヴェルトルートへ行くのは楽しみだったが、そこへ行ったらきっと師匠は自分の娘を本物の父親の顔で可愛がるに違いない。それを目の当たりにしないといけないと思うと──
「どうした?」
急に楽しげでなくなった弟子に、師匠が優しく問いかける。どうせ娘と比べたら大したことない、ちょっと面白いと思って拾っただけの存在のくせに、彼はどうしてこうやって遊びに付き合ってくれたりするんだろう。いっそ、成人したらすぐにでもさよならして旅に出てやると思わせるくらい、ろくでもない大人だったら良かったのに。
「……別に、この石って水晶なのかなって考えてただけ」
ランタンを持ち上げてみせると、師匠は全然納得していない顔をして「いや、それは魔石だよ。魔力を貯められる性質を持っているんだ。だから魔力をずっと注ぎ続けなくても光らせ続けることができる」と言った。
「魔石?」
「死んだ生物のお腹から出てくる石だよ。魔力が強い生き物ほど粒が大きいから、その大きさなら魔獣だね。幻獣は狩っちゃいけないことになってるから」
「
少し思い当たることがあって尋ねると、師匠は頷いた。
「そう。人間のものは遺石と呼ぶんだ。死した後に遺された体という意味では同じでも、人間のものは死骸じゃなく遺体って呼ぶだろう? それと同じ」
「……動物だって、命があるのは同じなのに?」
そう言うと、師匠は「そうだね」と頷いた。言葉はそっけなかったが、彼はロゥラエンが感じた理不尽さのようなものを説明せずとも理解してくれていると、なんとなくわかる。
「父さん達の遺石……帰ったら見せてあげる。誰にも見せたことないけど、師匠は特別」
小さな声で言うと、師匠は「光栄だよ」とそれだけ言った。少しだけ覚悟していたが、痛ましそうな顔はされなかった。
◇
話している間に通路の出口へかなり近づいていたので、ロゥラエンは早足に階段の下まで行ってみると、ランタンを高く持ち上げて上の方まで照らした。長い階段の頂上に、宿側とは違った意匠の扉があるのが見える。木製なのは同じだけれど、こっちのは縁取りの装飾が植物ではなく幾何学模様だ。
「扉に何か書いてある……ほら、あの金属の板のところです。何だろう?」
扉には小さな真鍮の板が打ち付けられていて、そこに何か文字が彫ってあるようだった。指差すと、師匠は一度咳払いをしてから真面目な顔になって「行って、読んでごらん」と言う。
本当は一段飛ばしで駆け上がりたかったロゥラエンだが、そうするとまた叱られそうなので一段ずつ静かに上った。扉の前に立ち、背伸びをして、流れるような書体で書かれた小さな文字を読み上げる。
「リオーテ=ヴァラ、国立、中央……大図書館。やっぱり図書館だった! 予想通りだ! 師匠、僕の予想通りでした!」
後ろからゆっくり上がってきた師匠を振り返って言い、湧き上がる満足感に膝を曲げ伸ばしして体を揺すっていると、師匠はなぜか突然息が詰まったような変な音を出して、横を向いて激しく咳き込んだ。
「えっ、大丈夫ですか?」
「……やっぱり、女の子とは全然違うなあ」
「師匠?」
「いや、こっちの話だ。開けてみなさい、ランタンは私に」
「はい!」
こちら側の扉は、雰囲気たっぷりにギギィと軋みながら開いた。途端にふわっと、古い紙の匂いが鼻をくすぐる。
「うわ」
広い中央の吹き抜けを見上げて、ロゥラエンは驚きの声を漏らした。外観から大きな建物だとは思っていたが、こんな高級感のある雰囲気だとは思っていなかったのだ。背の高い本棚が赤い絨毯の上にずらりと並び、天井からはシャンデリアが下がっている。手摺り越しに見える二階と三階も、かなり広々としている様子だ。
「ここでは普通の魔導ランタンは使えない。魔力波を遮断する特殊ガラスで覆われた、専用のものを借りるんだ。本を傷めないように──あれ、ロゥラエン?」
受付のようなところで小さな置き型のランタンを受け取っていた師匠がきょろきょろして弟子を探した。ロゥラエンが「師匠、こっち!」と小さめの声で呼びかけると、早速壁際の本棚のはしごに登っている少年を見上げて苦笑する。
「気に入ったかい?」
「うん! ねえ、このまま上からあそこに飛び移って、それであの出っ張りを登ったら二階に行けそう!」
「絶対にやめなさい。まずは、三階の魔術書を見に行こうと思うんだけど、どうかな」
「行きます!」
梯子の五段目からぴょんと飛び降りると、師匠が「うわっ!」と慌てた様子で駆け寄ってきた。
「危ないだろう!」
「大丈夫ですよ、このくらい」
「いや、やめてくれ……私の心臓に悪い」
本気で嫌がっている様子に、ロゥラエンは「師匠は、僕が怪我をするのがそんなに嫌なのかな」と考えてにんまりした。
「……ふふ」
「笑い事じゃない」
「わかってます。ちゃんと気をつけますから」
差し出された小さなランタンを受け取って、豪華な装飾がたくさんついた螺旋階段を上がる。この図書館は建てられてもうすぐ四百年になるのだと歩きながら師匠が教えてくれて、ふうんと思いながら少し柱の彫刻を触ってみた。綺麗に掃除されているからか、古ぼけているような感じは全然しない。
到達した三階も、一階と同じく綺麗な深い赤色の絨毯が敷かれていた。毛足の長いふかふかしたそれは、踏んでも足音がほとんどしない。そのせいか室内は、棚の間にはところどころ人が歩いているのにとても静かだった。
「あちらの奥の方に、確か子供向けの魔術入門書があったはずだ。教育系の書籍は月の塔よりもずっと蔵書が多いから、色々借りてみて相性のいいものを探そう」
奥の方を指差しながら言った師匠を、ロゥラエンは小首を傾げながら見上げた。
「相性?」
「『魔力を流す』のもそうだけれど、魔術というのは論理的なようで感覚に頼る部分も多いからね。評判の良さや内容の充実度とは関係なく、選ぶ教科書は著者との感覚的な相性が重要になってくる」
「ふうん──あっ、すみません」
よそ見をしながら歩いていたせいで、ちょうど本棚の陰になるように置かれていた閲覧用の椅子にぶつかりそうになって、ロゥラエンは慌ててそこに座っていた人に小さな声で謝罪した。
「構わないわ、小さな吟遊詩人さん」
若い女性の声がそう言って、長い黒髪がさらっとかきあげられる。深い紫色のドレスを着たすごく綺麗な女の人が、濡れた黒曜石のような瞳でじっとロゥラエンを見た。
「こんにちは、広場の歌い手さんと灰色の魔術師さん。不思議な組み合わせね?」
そう言って黒髪の女の人は、細めた目で師弟を交互に見つめながら足を
「あら……ごめんなさい?」
一体何を謝っているのだろうと思ってロゥラエンが師匠を見上げると、彼は弟子を見下ろして「さあ?」みたいな顔で軽く首を傾げながら肩を竦めた。するとそれを伏し目がちに見ていた女性も、なぜか「あれ?」という顔になって眉をひそめた。
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