魔法陣恐怖症

綿野 明

第一章 ひとりぼっちの一座

一 吟遊詩人



 馬車の戸を開けると、思ったより分厚く雪が積もっていた。石畳の上は真っ白なふわふわが乗っかっている部分と、踏み潰されて灰色の濁った氷になっている部分、水溜まりが凍ってツルツルになった部分で三色のまだら模様になっている。

 ロゥラエンは一度ほうと息を吐いて白いもやが宙に浮かぶのを見守ってから、そっとまだ踏まれていないふわふわの部分に足を乗せた。雪道にはあまり慣れていないので、凍ったところを踏むと転びそうだと思ったのだ。


 扉に鍵をかけてから、慎重に早朝の屋台を目指す。すると雪かきに出ていたらしい宿屋のおかみさんが、道の端をそろそろ歩く少年に「ちょっと、坊や」と声をかけた。ロゥラエンはさっと笑顔を作って、元気よく振り返る。


「おはようございます! ロシエルタのおかみさん」

「おはよう。朝ごはんを買いに行くんだろう? うちに寄って行きなさい! まかないで良かったらお代はいらないから。いまお湯を沸かしたところだからね、洗面所も使ってお行き」

「えっ、いいんですか? でも……」

「いいのいいの、子供が遠慮しない。どうせ旦那と息子達と四人分作るんだ。四人も五人も大して変わんないからね」

「ありがとうございます、それならおことばに甘えます」


 とびきり嬉しそうに見えるよう、歯を見せてにこっとする。耳にタコができるくらい繰り返し聞かされた、父さんの言いつけを守って。


──膨れっ面で街を歩いてはだめだ、ロゥラエン。私達吟遊詩人は、どんな時でも愛想良くしていなきゃいけないよ。興行の時より、むしろ街で偶然すれ違うような時の方が大切だ。そういう時に素敵な人だと思ってもらえれば、元々興味がないような類の人間でも歌を聞きにきてくれる。そうすれば後は、とびきりの歌で夢中にさせるだけさ


 実は結構粗野な性格をしているくせに、うっかり人前で見せないようにと普段から綺麗な口調で喋る人だった。どこの国に行ってもその国の言葉でペラペラ話して、誰とでもすぐに仲良くなって、そういうところに憧れていたけれど……それを言葉にすることは二度とない。


 考えながらも笑みは崩さず、案内されて宿屋の裏口へ向かう。そこにはおかみさんの家族が勢揃いしていて、事情を聞いたご主人がおざなりな笑顔で「たくさん食べて行きな」と言い、二人の息子はちょっと嫌そうな顔をした。宿屋の子のくせにプロ意識がなっていないな、と思う。


 おかみさんが厨房の方へ消え、何かを炒めるような音がした後、次々に食卓へ皿が並べられた。焼き立てのパンに、鶏肉と野菜のスープ。目玉焼きと、刻んだ芋を甘辛いソースと一緒に炒めたもの。


「卵以外は、お客さんに出してる朝食とおんなじものだからね。うちは朝は泊まり客にしか出さないんだけど」

「ありがとうございます、いただきます」


 ロゥラエンは礼儀正しく言って、皆に合わせて食前の祈りを捧げると食事に手をつけた。「どうだい、うちの味は」と尋ねてくるご主人に「やっぱり、すごくおいしいです」と笑いかける。


「ん? 前にも食わせたことがあったのか?」

 ご主人が不思議そうにおかみさんへ訊く。するとおかみさんは笑いながら首を振った。

「やだねえ、坊やは時々食堂へ食べに来てくれるじゃないか。ちゃあんとお金を払ってね」


 その言葉に、ご主人は気を良くした様子で顎髭を撫でた。

「へえ、常連さんだったか! そういえば見たことある気がしたんだ。坊主、うちの味が好きか?」

「ええ、とても!」


 嘘だった。確かに見た目は美味しそうだが、味なんてしない。正確に言えば芋と肉の味の違いくらいはわかるけれど、「美味しい」という感覚はどこかに置き忘れてきてしまったようだ。何を食べても、砂を噛むのよりは少しましという程度。ここ最近のロゥラエンにとって食事とは、ただ生きるために流し込んでいるだけのものだった。


 灰色の味がする朝食を終え、洗面所を貸してもらう。お湯で顔を洗って歯を磨き、油と櫛で丁寧に髪を整える。家族がいた頃は子供だから必要ないと言われていたが、ここ二週間くらいは父さんの真似をして前髪を全部上げるようにしていた。


 小指を使って目尻に細く金のラインを入れ、幾何学模様に染められたリボンが下がる耳飾りを着けて戻ると、食後のお茶を飲んでいた子供達が少し驚いたような顔をしてこちらを見た。浅黒い肌に、金茶色の髪。風変わりな化粧が映える薔薇色のマントに、背には大きな楽器の鞄。気取った様子でハープを奏でているこの辺りの吟遊詩人とは一味違う少年。ほら、もの珍しいだろう? とロゥラエンは微笑みながら心の中で言った。


「……やっぱり、南方の生まれなのかい?」

 ご主人がカップのお茶をスプーンでしつこいくらいかき回しながら尋ねた。


「父と母はそうですけど、僕はこの国の生まれです」

「へえ! ここから近いのかい?」

「そこの神殿で生まれたんです。旅の途中だったから、神官さまが助けてくださって良かったと母が言っていました」

「旅……もしかして、最近広場の方に来てるっていう吟遊詩人の一座のとこの子かい?」

「馬鹿! あんた、ちょっと──」


 その時おかみさんが小声で怒鳴るようにしてご主人の袖を引き、耳元でこそこそと彼に言った。

「あんた知らないのかい? 先月……その一座をやってる家族が皆殺しにされたって。この子はその生き残りだよ。母親が馬車の物入れに隠して、自分の死体で蓋をしてさ、ひとりだけ生き延びたんだって話だよ」


 小さな声だったが、人よりちょっと耳の良いロゥラエンには大体全部聞こえていた。けれど彼は笑顔を崩さないまま礼儀正しく聞こえないふりをして、ご主人が段々気まずそうな顔になってゆくのも気づかないふりをした。


 食卓の椅子に腰掛けて鞄からルェイダを取り出していると、目を泳がせたご主人が「ああ、ええと……リュートかい?」と訊いてくる。


「いえ、ルェイダって楽器です。リュートに形は似てますけど、音はぜんぜん違いますよ」


 そう言っていくつか和音をかき鳴らすと、仄暗くひび割れたような独特の響きが部屋の空気を震わせた。子供達が目を輝かせてこちらへ体ごと向き直り、おかみさんが驚いたように少し仰反のけぞる。


「おやおや、小さいのに器用なもんだ! 坊や、歳はいくつだい?」

「八つです」

「へえ、しっかりしてるねえ……」

「よく言われます」


 そう言って一際大きくにっこりすると、おかみさんがくるりと後ろを向いてハンカチを目に当てた。やだなあと思ったが、それを顔に出すのは我慢して、明るく口上を始める。父さんが宿屋での興行でお酒を奢ってもらった時なんかによく言っていたやつだ。


「すてきな朝食のお礼に、一曲おきかせいたしましょう。一座の故郷ヴォーガリンのげんふうけい、を歌う、げんとうてき?な歌です」


 手早く音を合わせて、前奏を奏でる。ロゥラエンはまだそんなに速弾きができないが、それでも人がうっとりするような音を出す才能があると、家族には言われていた。歌だってそうだ。彼は何の練習もしなくたって、どんな女の子にも負けないくらい高くて澄んだ声を出すことができた。


 一曲丁寧に歌い上げ、夫妻の顔が憐れみから賞賛に変わったのに満足すると、ロゥラエンはもう一度礼を言って宿屋を出た。広場の端っこに停めてある馬のいない馬車に戻り、戸を開けてぴかぴかに黒く塗られた木の椅子を引っ張り出す。馬車の側面に大きく「ラゥガ一座」と飾り文字で書いてあるので、看板は必要なかった。


 椅子を置いたら金属の台を組み立てて、小さな篝火かがりびを作る。これがないと、指がかじかんで楽器なんて弾けやしない。仕上げに父さんの帽子をひっくり返して石畳の上に置き、椅子に座り込んでルェイダを膝に乗せた。と、学者らしい通りすがりの男が帽子の中へ銀貨を一枚放り込んでゆく。


「ありがとうございます」


 努めて、明るい声で言う。四角っぽい帽子を被った男は少年の視線を避けるようにして、足早に広場を横切って行った。ロゥラエンはその姿を見送って、静かに目を閉じて深呼吸すると、燃え上がる怒りを押し殺した。


 僕は物乞いでも、みなしごでもない!


 本当はそう叫んでしまいたかった。「家族四人の一座」が「ひとりぼっちの一座」になって以来、こういう大人は入れ替わり立ち替わり現れて、ロゥラエンの誇りを踏み砕いていった。両親に教わり、兄と共に学んだ歌をどんなに綺麗に歌っても、歌詞の中身が彼らの心に届くことはなかった。みんな「かわいそうに」「親をなくして」「あんなに小さいのに健気に頑張って」と、そんな気持ちでしかロゥラエンの音楽を聞かなかった。


 また一枚、まだ口上すら始まっていないのに銅貨が投げ込まれる。パン代と引き換えに彼の吟遊詩人としての心を突き崩してゆく大人達が、ロゥラエンは憎くて憎くて仕方がなかった。足元へ投げ返してやりたい気持ちを堪えて、震える声で「ありがとうございます」という。泣き出しそうにも聞こえるその声を聞いた通りすがりのご婦人が、また銀貨を入れていった。


 もう無理だ──


 ロゥラエンは一瞬そう考えて、すぐにその考えを捻り潰した。旅の吟遊詩人だった家族をある日突然、全員殺されて、残ったのはこの馬車だけ。一人で旅をする目処なんか立たないので、できるだけ大切にしてくれそうな人に馬を売って、でも皆と暮らした馬車まで売ることはできず、この広場の隅で細々と興行をして暮らしていた。


 けれど、こんな場所に馬車を置きっぱなしで生活させてもらえるのも、あと数日だった。事件のあった日からぴったり一ヶ月経ったら、彼はここから立ち退かなければならない。そう騎士達に言われていた。でも、この先どうしたらいいかなんて、八歳の少年には見当もつかなかった。


 それでも彼は、大人達に言われるまま孤児院へ身を寄せるなんてまっぴらごめんだった。ロゥラエンは吟遊詩人だ。ずっと家族と一緒に音楽で人を喜ばせて生きてきたのに、ただ見知らぬ大人に世話をされるだけの無力な子供になんてなりたくなかった。


 もう一度目を閉じて、深く深く息をする。そうすると気持ちが静かになって、そして体の奥の方から音楽が湧いてきた。そう、今日の歌は久しぶりに妖精の恋物語にしよう。人間の女の子に恋をする、背中に蜂の羽が生えた美しい妖精の歌。父さんは「恋の何たるかが全くわかっていない」と首を振ったけど、母さんは「歌声が妖精そのものだわ」と褒めてくれたあの歌だ。


 そう決めて、ロゥラエンは始めの口上を述べるために大きく息を吸った。



  さあさ、お耳を拝借

  ラゥガ一座の歌物語の時間だよ!

  青い森の地ヴォーガリンから北へ北へ

  遥かこのリオーテの街まで旅し、

  仕入れた素敵な物語

  我ら家族が音楽と──



「あっ」


 家族、じゃなかった。


 間違いに焦って一度言葉を止めてしまったら、先を続けられなくなった。「よわい八つの吟遊詩人ロゥラエンが」と替えの台詞を決めておいたのに、昨日まではそれでちゃんとできていたのに、耳に馴染んだ通りに言ってしまった。


 立ち尽くすロゥラエンを見て、正面の女性が痛ましそうに眉を下げた。チャリンと、硬貨の音がする。



  チャリン、チャリン、チャリン



「──続きを忘れたなら、歌に入ってくれないかい?」


 白く染まった広場に静かな声が響いて、ロゥラエンはハッと我に返った。首を巡らせて探すと、引きずりそうに丈の長い灰色のローブを着た男性が、人だかりの端っこに立っている。彼は腕を組んだまま口の端だけで微笑んで、楽器の方に顎をしゃくった。


「好きなんだ、それ。ルェイダ」

「ちょっとあなた、知らないの? あの子はね──」


 隣に立っていた女性が囁き声で小言を言おうとしたが、男は耳の横でさっと手を振って、優しそうに目を細めながらいかにも紳士的な声音で言った。


「私は歌を聞きにきたんだ。あなたの世間話じゃなく」

「まあ、なんて失礼なの!」


 女性が顔を真っ赤にする。喧嘩になりそうだ。


 こんな時、ロゥラエンは器用だった家族と違っていつも困り果ててしまう。とりあえずルェイダをじゃららんとかき鳴らすと、二人が揃ってこちらをパッと見た。うん、このまま始めてしまおう。妖精の恋物語にしようと思っていたが、違うのがいい。真っ直ぐ音楽を聞いてくれそうな、あの男の人が気に入りそうな感じの曲。周りにはデリカシーがないと思われたみたいだけど、僕は嬉しかったから。


 じいっと男を観察する。学者にしては服の丈が長いけど、もしかして魔法使いだったりして。あちこち旅をしてきたロゥラエンも流石に本物は見たことがなかったが、この国のどこかには魔法学校があると聞いたことがあったし、そこの先生だったりするかもしれない。


 ロゥラエンは膨らみすぎた自分の想像にふっと笑って、ルェイダを構えると八歳にしては少し背伸びをした複雑な前奏を奏で始めた。織物を織るようにいくつもの音の連なりを重ね合わせながら、太鼓代わりに指先で楽器の胴を素早く叩く。左足のかかとを石畳に打ちつけて、太ももに巻いたベルトの鈴を鳴らす。寂しい独奏に聞こえないように、ひとりきりでもちゃんと「一座」に聞こえるように、弦を爪弾き太鼓を叩き鈴を鳴らしながら、自慢の澄んだ高音で歌う。



  真実は木の実の殻のなか

  かたく閉ざされ、石で打てど砕けぬ

  されど僅かな水と土、春の陽射しで

  容易に内から開かれる



 叡智を求めた賢人が、旅をしながら自然の中で知識を得てゆく物語だ。どこか不気味にも聞こえる低いルェイダの音色と妖精めいた高い声の組み合わせに人々が息を呑み、推定魔法使いの男が目を丸くする。


 古めかしい選曲で驚きを与えた後は、思い切り可愛らしい恋の歌にした。立ち去ろうかどうしようか迷っていた女性客が足を止め直す。向こうの方に宿屋の兄弟が見えたので、彼らに向かって軽く手を上げてから、朝と同じ歌を更に華やかな伴奏で。ロゥラエンの合図に何人かが振り返り、兄弟は自慢げに「あいつ、今朝うちで朝食を食べたんだ」と笑った。


 それからもう何曲か歌ってお辞儀をすると、拍手を浴びながら朝の興行を終えた。そのまま去ってゆく客も多いが、それなりの人数が帽子へ硬貨を投げ込んでゆく。意外なことに、宿屋の兄弟達も銅貨を入れていった。


「……ごまんぞくいただけましたか」


 魔法使いが立ち去らずにこちらをじっと見ているのに気づいて、ロゥラエンはそっと尋ねた。すると彼はとても優しそうな顔でにっこりして大きく頷いた。


「驚いたよ。吟遊詩人の歌はそれなりに聞いてきたけれど、君のが一番格好良かった。特別な価値のある音楽だ」

「えっ、ほんとうですか」


 ふわふわと足元から浮かび上がるような感じがして、ロゥラエンは久しぶりに作って貼り付けたのでない笑みを浮かべた。じわじわと頬が熱くなったのを両手で押さえていると、楽しそうに笑った魔法使いが懐から財布を取り出して、チャリンと、金色の光を帽子の中へ落とす。


「えっ! これ、金貨、こんなに──」


 こんなにいただけません、と言いかけながら顔を上げると、そこには人の影も形もなかった。あまりに突然消えた男を探してきょろきょろと広場を見回すが、ローブの縁の房飾りすら見えない。


「……ほんとに魔法使いだったんだ」


 そう呟いて、帽子の中に輝く金色の硬貨を見つめる。こんなところでこんな大金を持っているのを見られたら危険だと思ったが、幸いなことに、興行を終えて後片付けをしている八歳の少年に注目しているスリの類はいないようだった。そのことにほっとして、もう一度ちらりと腕の中の金色を見下ろす。


 これは、絶対使わずに取っておこう。だって、魔法使いが僕の歌に価値があるって認めてくれた証拠だもの!


 ロゥラエンはそう考えて、帽子をさっと馬車の中に持ち込むと、素早く金貨を首から下げたお守り袋の中へ滑り込ませた。袋はずっしりと重くなって、胸元でここにあるよと存在を主張した。


 父さん……僕、歌で金貨を稼いだよ。


 緋色の革袋をそっと握って、ロゥラエンはそう一言だけ心の中で呟いた。そして背筋を伸ばすと、昼には何を歌おうかと考えながら、楽器や椅子を片付けるために馬車の外へ出て行った。





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