二話 太腿の火傷



(眠いけど、もう起きないと……)



 冷蔵庫の一ℓ九十九円の麦茶をコップに注ぎ、口内へ。冷たい麦茶で眠気を吹き飛ばした織成おりなし優太ゆうたは寝間着を脱いで、青いシャツを羽織り、ズボンを履こうとしていた。



 仕事の支度をしている最中である。今回の依頼人は少し特殊だ。ネチネチ文句を言われるとかそういった相手ではないのだが。



(よし。準備は寝る前に済ませたし、ドブには朝ごはんをあげたし、あとはズボンを履いて行くだけ……)



 その時、優太は自身の左腿に大きな火傷の痕を見つけた。少しだけ懐かしい傷跡。

 激闘の証、というわけではない。原因はドブだった。






 およそ二年前のことだ。ちょうど、一人暮らしに好調の兆しが見え始めた頃。いつもと違う贅沢をしてみようということで、紅茶を購入して上等なミルクを入れて、ミルクティーを飲んでみることにした。


 カップにティーパックを入れて準備をしていた時のこと。テーブル下にドブがいて、テーブル端からティーパックが垂れ下がっていた。ドブはそれが気になったらしい。猫じゃらしで遊ぶような感覚で猫パンチをお見舞いした。結果的に、カップが倒れて優太の太腿に熱い紅茶がかかった。



「くあッ‼」



 優太は奇声を上げながら立ち上がった。温度は熱湯に近かった。狼狽えて当然だったが、その時の頭に過ったのは保身ではなかった。


 真っ先に浮かんだのはドブのこと。



 上を見上げている状態でお茶が溢れたならば、頭から浴びた可能性があるのでは?



 その疑問に至った優太の行動は早かった。



「ドブッ‼ 来いッ‼」



 叫びながらドブを追い回した。その鬼気迫る様相にたじろぐドブを優太は逃さなかった。壁際に追い詰め問答無用で捕獲した。ドブは赤茶色の、を捩っていやいやと暴れたが優太の気迫に根負けした。



「大丈夫かッ⁉ 目に入ってないか⁉」

「…………みゃあ?」

「大丈夫なのかッ⁉ 本当に」

「……みゃあ」



 ドブは気の抜けた鳴き声で応答した。頭から熱湯を浴びればもっと痛がる。優太が冷静ならそれくらいわかるはずだが、その時は全く余裕がなかった。



「動物病院に電話しよう。タクシーで病院に行って、それから……」



 優太は病院に連絡して指示を仰ぎ、そのまま赴いて診察を受けさせた。結果的にドブは無傷だった。



 良かった。本当に。



 診察結果を受けて、優太が安堵の溜息をこぼした時だった。熱い紅茶を浴びた左腿をほとんど放置していたことに気づいたのは。



「あ……」



 人間とは不思議なもので無意識下の負傷には無頓着でいられる。いつの間にか指が切れていた場合などだ。優太もそれに当て嵌まった。しかし、経緯を思い出したあとで気にならないはずがなく、



「痛ああああッ…………‼」



 優太は病院にて思い切り叫んだのだった。






 火傷はそんな経緯でできたものだった。



「みゃあ」



 ふと、ドブの声。餌箱の前にて小馬鹿にしたような顔で見上げてくる。



「お前があの時にティーパックを引っ張ったせいだぞ。端っこに置いてたのは悪かったけどさ」

「みゃあ」



 ドブはどうでもよさそうに、あるいは『なんの話だ?』とでもいいたげに欠伸をかましている。相手は猫だ。紅茶をこぼしたことに罪悪感を覚えているはずもない。だが、本気で心配するくらいにはドブを大切に想っていることを理解してほしいし、少しくらいは感謝してほしい。



(いや、違うかな。。感謝してもしたりないくらい)



 ドブを見下ろしながら思う。優太はドブに恩を感じている。優太が今霊能力者として食い扶持があるのはドブの存在によるところが大きい。優太にとってドブは無二の存在なのだ。加えて、普段の生活でもドブに癒されることは多い。


 欠伸を終えたドブが立ち上がる。右前足に巻かれた紫の数珠は似合っておりドブの可愛さを引き立てているが、アクセサリーではない。とある霊術を封印した霊具である。

 ドブが尻尾を振りながら玄関へ向かう。



「ドブ、いつもありがとう」

「みゃあ」



 背を向けたままのやる気ないダミ声。そんなドブのいつも通り感に安堵している自分がいる。



「よし。今日も頑張るか」



 ズボンを履き終えて自転車の鍵を持ち玄関を出る。隣にはドブがいる。こうして今日も、織成優太の一日が始まる。


 

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