五話:桃原心愛の追憶①――その時、世界の色が変わった気がした――


 高校で初めての夏休みが迫っていたとある日の昼休み。教室は騒がしかった。



「夏休みどうする?」

「私、合宿ある」

「海行くっしょ⁉」



 本を読んでいても周囲の声は聞こえてくる。いかにも友達っぽいやりとりに疎外感を覚える。図書館に行けばよかった。静かに本を読んでいる時よりも騒がしい教室で誰とも喋らずにいるほうが孤独を痛感する。私以外は夏に向かっているのに、自分だけは皆や季節にさえも取り残されているような気分になる。



(夏休み……なにしよう)



 誘ってくれる友達はいない。声を掛けてみようとしたことがあるが、緊張して口籠もっているうちに不信そうな顔をしてどこかに行ってしまう。

 でも、それは普通の反応だと思う。だって、小学校でも中学校でも皆がそうだったから。でも、だったらどうすればいいんだろう。



「なに読んでるの?」



 声をかけられた気がして振り向いた。隣の席の女子――香坂こうさかさん――が別の女子生徒――如月きさらぎさん――に話しかけていた。


 なにを勘違いしてるんだろ。今まで全然話したことなかったのに急に話しかけてくれるわけないのに。


 自分自身に呆れて溜め息をついた。そんな私を変に思ったのかもしれない。香坂さんと如月さんが私を見て微妙な顔をしていた。



「……ぁ」



 二人と目が合って反応に困る。こういう時、『なんでもないよ』とか『ごめんね』とか言えればそれで済むのに。でも、自分でも本当に情けないけど話そうとすると緊張してしまってうまく喋れなくなる。ただでさえ人見知りなのに緊張して体が震えてきて、変な汗が出てくる。そんな私に不審な目を向ける周囲に、ますます緊張して喋れなくなる。



「………ッ」



 私は慌てて本に視線を走らせた。隣で香坂さんと如月さんが私を気味悪がっていたらどうしよう。そんな考えが邪魔をして本の中身が頭に入ってこない。



(なんで、私ってこうなんだろう?)



 普通に話したいだけなのに。なんでこんなに緊張してしまうんだろう。頭が真っ白になってしまうんだろう。



(私は……ただ、友達と…………普通に、仲良くしたいだけ……なのに)



 自分の不甲斐なさに少しだけ泣きたくなった、そんな時だった。



「なに読んでるの?」



 またしても、そんな声。今度は勘違いしてはいけない。そう思って反応しないように意識する。



「あれ? 聞こえてない?」



 その言葉に戸惑う。



(もしかして、私に話しかけてくれてる?)



 勘違いかもしれない。でも、本当に話しかけてくれたなら?



桃原ももはらさん? それとも心愛ここあさんて読んだ方がいいかな?」



 私の名前だった。咄嗟に顔を上げる。



「話すの初めてだね」



 向日葵みたいに笑う可愛い女の子がそこにいた。見ているこっちが嬉しくなるような眩しい笑顔だった。



「……ぁ…………っ…………」



 私はうまく話せなかった。



「私、篠崎しのざきさくら。クラスは隣。なに読んでるの?」



 さくらと名乗った女の子は口籠もった私に優しく笑いかけてくれた。



「……っ…………ぁ…………」



 喉が震えた。頭が真っ白になって何も考えられなくなった。変な汗が出てきて体が熱くて息苦しい。



「っ…………ぁ……っ……」



 それからしばらく私は混乱していた。多分、二分くらいは経ったと思う。でも、篠崎さんはそんな私を見ても不審がらずに、前の座席に座って優しく囁いた。



「全然喋らない子がいるって聞いたの。もし、嫌じゃなかったら話さない?」

「……っ」



 言葉が出てこなかった。それでも、なんとか頷いた。



「よかった。それ、なに読んでるの?」



 本のことだ。何度も読み返した本なのに、内容が頭から飛んでしまった。



「え、と…………わから、な……です」



 篠崎さんが不思議そうに首を傾げた。



「わからないの? 読んでるのに?」

「え、えと……そ、その……緊張、して」



 私がしどろもどろに言うと、篠崎さんは何度か瞬きしてから穏やかに笑った。



「緊張してるんだ? じゃあ、全然話さないのはそのせいなの?」



 私は思わず頷いた。ちゃんと受け答えできない自分が情けなくなったけど、こうやって自分の気持ちをちゃんと伝えられたのは小学校以来な気がする。



「ちょいと失礼」

「あ……」



 篠崎さんが私の持つ本の背表紙を見た。



「『猫から見上げる私の世界』かぁ。面白い?」

「は、はぃ……」

「どんな話なの?」



 私は必至に頭を働かせた。せっかく話しかけてくれたのだ。なんとか思い出して、篠崎さんともう少しお話を……。


 そう思った矢先、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ショックだった。高校で初めてちゃんと話ができた。とても優しそうな女の子で、もしかしたら……そう、友達になってくれるかもしれないのに。



「チャイム鳴ったね」

「……ッ‼」



 その言葉に私はなんだか泣きたくなった。自分でも情緒不安定だと思ったけど、でも体が勝手にそんな反応を起こしてしまった。



「ちょっと。どうして泣くの? 私が泣かせたみたいじゃない?」



 篠崎さんがポケットからハンカチを取り出して私の目元にあてがった。



「桃原さんてだいぶ変わってるね。あ、悪い意味じゃないよ」



 そう言って立ち上がる篠崎さん。



「え、あ……ハン、カチ…………」

「次の休み時間に取りに来るから。またね」



 そう言って、篠崎さんは教室を出ていった。



(あとで……? またね?)



 その響きに驚愕した。それって、つまりまたあとで話してくれるっていうこと?


 信じられない。だけど、夢じゃない。だって、私の手には篠崎さんのハンカチがある。薄い桃色の綺麗なハンカチだった。



「席に着け」



 先生が教室に入ってきた。それでも、私は夢でも見ているような感覚でそのハンカチを見つめていた。

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