第4話 想い出の場所

「どうしてこんなことに……」


 ガラス窓の向こうで佐恵子が印刷している姿を眺めていた。手にはリード。どんなに苦行でもコンビニの中に入れず、ここで待つしかなかった。

 遡ること数分前。


「え、えっと……迷子のビラ作ったから、貼りにいこうかなって」


 智紗都は嘘をつくわけにもいかず素直に事情を話した。すると佐恵子はこう答えた。


「ちょうどいいわね。ママ、ティーダの散歩にいこうと思ってて。智紗都も一緒にいこうよ」

「え……いや、そんなつもりじゃ」

「散歩だって飼い主探しの手がかりになるかもしれないのよ? それに一人で貼って周るよりいいでしょ」


 より確実な方法を提案されてしまったら、なにも言えない。智紗都は渋々頷くしかなかった。


「はあ……苦行だ」


 通行人に目を惹かれてウロウロするティーダのリードを強く握った。飼い主ではないが、粗相を起こさせるわけにもいかない。待ってる間に本当の飼い主に遭遇できることを願うばかりだった。


「お待たせ、智紗都。それじゃいこう」


 佐恵子がリードを手に取り、代わりにビラを手渡してくる。ティーダの面倒を見たいのか、厄介ごとを押しつけたいのか。あっさりした態度から母の本心はうかがえなかった。


「いくって当てはあるの?」

「うーん、ない!」


 先を歩いていた佐恵子の足が止まる。やはり深く物事を考えていないのだろう。智紗都は妙な安堵を感じた。


「駅周辺にいけば人通り多いと思うけど」

「でも散歩するような場所じゃないよねぇ」

「うん」


 町田の駅はJRと小田急線が並んでおり、人気が多い場所だ。その様子は都会と言っても過言でははい。

 しかし智紗都の自宅は駅からやや離れている。町田は駅付近こそ栄えているが、駅から数一○分歩くと人通りはたちまち少なくなる。栄えている範囲が狭い、二三区外の東京なのだ。


「じゃあ芹ヶ谷せりがや公園とかは? 今の時期なら人多いでしょ」


 芹ヶ谷公園は近所にある大きな公園だ。園内には約一〇〇本の桜が植えられており、『さくらまつり』も行われている。しかし彼女が提案したのには別の理由があった。


 ──あそこにいけば、きっとわかるはず。


「じゃあ、そうしよう……智紗都?」

「ううん、なんでもない。いこう」


 智紗都は我に帰り、慌てて佐恵子についていく。

 ビラを貼りながらの散歩はなかなか大変だった。人懐っこく、ティーダがすぐに歩いている人や散歩中の犬に向かっていくのだ。彼が吠えると『構って!』『遊ぼう!』という音声が流れる。何度も聞いていると、その声が脳裏にこびりついて離れなかった。どちらかと言えば控えめな性格だったアルトとは大違いだ。

 だが、好都合な面もある。通行人に飼い主に心当たりがないかを尋ねるきっかけとなるのだ。

 しかしそのたびに「本当ですか? いやぁ懐いてるように見えたからてっきり」と言われてしまう。はたから見ても智紗都と佐恵子に懐いているように見えるらしい。


「はあ……やっと着いた」


 ようやく芹ヶ谷公園に着いた時にはすでに二人はクタクタであった。『遊びにきた』というよりも『休みにきた』と言った方が適しているほどだ。

 目の前の池の中には妙なオブジェが見える。柱の先端を挟むように鉄筋が二本ついている。それぞれの鉄筋はシーソーのようにバラバラに動いていた。建造を放棄された構築物などではない。こういった初見だとよくわからないオブジェは駅前にもある。町田市民からしたら見慣れた景色だ。


「疲れたけど桜が綺麗で癒されるわー」

「それね」


 辺り一面は満開の桜の木で埋め尽くされていた。レジャーシートを広げている花見客や駆け回る子供の穏やかな日常のワンシーンを見ると、智紗都の心も和んだ。

 そんな静寂を獣の鳴き声が破る。


『ここ、お気に入り』


 『好き』ではなく『お気に入り』。意味ありげな翻訳だった。それが胸の中で突っかかる。


 ──やっぱり。


 智紗都は子供の頃、この公園でよく遊んだのだ。亡き飼い犬──アルトともに。


「誰といつもくるの?」


 初めてやってきて好意的な感情を『好き』と訳すなら納得できる。しかし『お気に入り』とはすぐにできるものではない。何度かきてこそ生まれる感情なのではないか。彼女は尋ねずにはいられなかった。


『ご主人!』

「それは私のこと?」

『うん!』

「って、おっ、ちょっと! ティーダ!? もう……」


 それだけ言うとティーダは駆け出し、佐恵子を引っ張っていく。その姿が記憶の中のアルトとオーバーラップする。

 一人取り残された智紗都は考えこんでしまう。


 ──本当に私の犬なの? アルトなの?


 もし、この翻訳機が一つも誤訳をしていなかったとしたら。もしこのまま飼い主が見つからなかったら。その時、自分はどんな選択をすればいいのか。


「怖がってるのは私がなにも変わってないから? 一歩踏み出さなきゃいけないのは私の方?」


 勇気を振り絞って吐露した独り言は桜吹雪とともにつゆと消えていく。

 やはりまだ怖い。また飼い主としてなにもできずにお別れの日を迎えるのではないか。智紗都は不安で不安で自信がなかった。

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