13 森の幽霊

 翌日、ルードがネルの同行を許さないのは、ネルとしても当然だと思えた。

 ロッヒに異様な変化が起き、おかしな気配が漂っている。たとえ気のせいだとしても用心に越した事はない。この場所はそういうところだ。今までネルが連れて行ってもらえた事の方が不思議に思えるほどだ。


 ネルは皆の出払った家で掃除を済ませると、見張り台へと向かった。もう日は天頂に差し掛かっている。それなのに森に降る光は心もとなく、木々は虚ろで、まるで絵でも並んでいるかのように現実味が無かった。


 見張り台の上で望遠鏡を荒野へと向けて覗き込む。すると、何か影が見えて、最初は虫がレンズにとまっているのかと思った。だが、理解した瞬間にネルはぞっとした。


 今までに見た事も無いような穴。

 大穴だ。この距離で輪郭が見えるのだから相当な大きさである。

 くっきりと真っ黒い口を荒野に開いている。見ている者に、不気味な恐ろしさを感じさせるほどの穴。


 ネルはその穴から目を離すことが出来なかった。恐ろしい、心の底が抜けて暗いものが湧き上がってくるような感覚に襲われる。恐怖ゆえに目を背けられなくなる。


 ロッヒの隠された左眼を思い出した。

 あれは予兆で間違いなかったのだ。


 一筋、強い風がネルにぶつかって通り過ぎる。風の音の中でネルは気づく。

 あの場所には、穴埋め人達がいる。そして彼らは今、ネルの感じた絶望よりなお深いものと、目と鼻の先で直面する事になっているのだ。穴埋め人達の事がとても心配になった。


 だが、自分にどんな力があるだろう?

 現れてしまった穴を前に、ネルも、そして今回ばかりは穴埋め人達も無力にしか思えない。人間など穴に埋もれた砂の一粒に過ぎない。いつもは荒野に現れる巨人の幻を、今日は目にする事が出来なかった。


 辺りが闇を深めても、まだ穴埋め人達は帰らなかった。

 迫る闇が一人きりのネルを覆い尽くそうとする。それに抗いながらネルは待ち、やっと荷馬車のふざけたような音が聞こえてきた時、待ちきれなくて駆け出した。


 男達はぎこちなく頷くだけだった。

 明らかに憔悴していた。恐ろしく口数が少ない。葬式のような夕食を終えて、皆は早々に眠った。


 穴の静かな拡大は穴埋め人達の考えを越えていた。

 翌日もまた、昨日現れた大穴に匹敵する穴が、その近くに出現していたのである。


 昨日の穴はまだろくに埋められていない。その上にこの現状は一体どうしたのかと、穴埋め人達は一様に顔を曇らせて、ロッヒに詰め寄った。それでもロッヒは穴を埋めるよう指示するだけだったという。もちろんネルは家に置いて行かれたので、これらの事は全て帰還したルード達から無理矢理に聞き出した。そしてこんな事は今までに例がないのだとも知った。


 穴埋め人達にも、突然の事態の原因はわからなかった。理由のわからない現象にどうして人間が振り回されないといけないのか。行き場の無い不安、しかしその不安すらも穴は飲み込んで、あとはただ狂ったように静かな闇が広がるばかり。


 広がる絶望は、人の心までもじりじりと浸食していく。

 穴埋め人達の帰還した宵の頃。ネルは馬に水を与えていた。前は馬の扱い方がわからなかったが、少しだけ慣れてきた。馬は時々、急に水桶から頭を上げて周囲をきょろきょろする。大切な水を横取りされないか警戒しているようにネルには見えて、つい笑ってしまう。しかしその後には、心細さが待っている。


 この森に一人でいると心細くなってくる。

 森の背後には、いつも穴の気配がある。ネルの背丈よりずっと大きく、今は緑の葉を茂らせている木も、いずれ全ての葉を渇いた風に散らされて、暗い穴に根っこから飲み込まれてしまうのだろうか。

 この森で感じる心細さは、常に終わりの光景を突きつけられてしまうからなのかもしれなかった。


 急に、周囲を照らしていたろうそくの光が、小さくなった。

 おかしな声を聞いた。

 言葉を発そうという試みに失敗してしまったような声だった。けげんに思って、家を回りこんで声の方へ向かうと、雑草の茂る地面に、ポルックスが腰を抜かしていた。


 薄い闇の中に浮かび上がる、血の気の引いた表情。

 ポルックスは目を大きく見開き、目覚めているのに悪夢を見ているかのよう。恐怖のあまり歯がかちかち鳴っている。立ち上がれないのか、それとも立ち上がろうと思う余裕さえ無いのか。しりもちをついたまま、地面をかいて後ずさろうとする。


 突然、彼の声が明瞭になる。


「来るな!」


 びっくりしてネルは足を止めたが、彼はこちらに気づいていなかった。ネルに向けて発した言葉では無かった。

 辺りの闇が声を吸い込み、いっそう静けさを深める。二人を取り囲んでいる木々の黒い影。


「俺は悪くないんだ! 悪くない!」


 逃げながら、手に触れたものをひっつかんでは前方の虚空に向けて投げつける。石や小枝が枯れ葉の上に落ち、その物音にポルックスの乱れた呼吸が混ざる。


 彼が平静を失っているのは一目瞭然であった。

 ネルは森の中に急いで目を走らせる。木々の合間に、ポルックスをおびやかすものの姿を探す。森は騒ぎから目を背けて、ただ落ち着きなく枝を揺らすだけ。


 影の中を、白いものが二つ、横切った。

 白く輝く人。髪も顔も、手足の先まで真っ白である。ふわりとした白の服をまとっていて、その裾を火のように揺らめかせながら、ぬるい風と一緒に通り過ぎていく。


 見落としようがないほどよく目立つ人影だ。しかし、探していないと気づかなかったかもしれない。この森の異様な雰囲気に溶け込んでしまっていて、これほど明るく輝いているのに何の違和感も感じられなかったのだ。


 だからネルは、その人影が誰であるかわかるのに、一瞬遅れた。

 そしてわかると同時に、すっと辺りの空気が冷たくなった気がした。


 声は喉元で勝手に止まった。

 そんな訳無いじゃない、と、頭の片隅で自分が叫んでいるが、ネルは有無を言わさずその声を森の中へと響かせた。


「お父様! お母様!」


 飛び上がるようにして白い人達の後を追った。


 幽霊の噂。街で耳にした、幽霊に会えるという噂。


 灯りを置いてきてしまったので、暗くて足元はほとんど見えないが、構わずに全力で走った。ネルがどんなに急いでも、二人の幽霊――父親と母親の後ろ姿はいっこうに近くならない。地面を飛んでいるように、もしくは、森の方が避けているように、二人はどんどん進んでいく。


 伝えなければならない、と思った。今を逃せば、もう、届かない。


「ごめんなさい!」

 白い幽霊達に向かってネルは叫んだ。


「ごめんなさい! 助けられなくて、ごめんなさい」


 そして木の根に足をとられて転んだ。

 起き上がって無意識に顔をぬぐった。その時初めて、自分が泣いている事に気づいた。


 人影は既に見えなくなっていた。


 ネルは座り込んだまま呆然としていた。乱れた髪の毛が顔にかかっていたが、邪魔だとさえ思わなかった。自分の息の音と、高い鼓動だけが聞こえる。風が、疾走する馬のように木々を揺らしていったが、すぐに収まる。


 再び木々のざわめきが大きくなった、と思えば、


「ネル、おいネル、大丈夫か!」


 アレクの声だった。ネルの前にしゃがみ込む。眉間にしわを寄せて、心配と怒りを混ぜ合わせたような顔をしている。ネルはアレクの視線を受け止める事ができなかった。


「お母様とお父様が、いた」


 自分の声は感情を失って平坦なものだった。アレクが眉をひそめたまま言い返す。


「そんなもん幻覚だ、危ないだろ、また迷子になったらもう助けられないかもしれねえんだぞ!」

「けど、謝らなきゃいけなかったの……」


 ネルはびくりとした。急にアレクの手がネルの両肩を揺さぶったからである。


「それで、なんか言われたか! 許してくれたのか! なあ?」


 アレクにそう言われても、口を閉じるしか無かった。いつの間にか風は止み、辺りには音が無く、自分の胸だけがどくどくと高鳴っていた。闇をベールのようにまとった木々は、そんなネルの鼓動に耳をそばだてているようであった。


 足元を見下ろして黙っていると、アレクはしびれを切らしたように舌打ちして、ネルに背中を見せた。顔だけ振り返って、つかまれ、と言った。

 ネルはアレクの背につかまった。アレクは家の方へ戻り始める。


 もう何も言わなかった。

 ネルは黙って、暖かな背中にしっかりしがみついていた。

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