7 祈り

 ロッヒはまっすぐにネルを目指して歩いてきた。

 必然的にルード達の会話は減り、一体何事だろうと不思議そうにしながら、ロッヒが立ち止まるのを眺める。


 ロッヒはネルを見下ろす。その目は、荒野のように生気を失っていた。


「どうしてここにいる?」


 その問いかけは、なぜ家にいるのではなく荒野までやってきたのか、という意味では無かった。そもそもネルがこの地へ足を踏み入れた理由を尋ねていた。それに加えて、ここにいるべきではないと責めるような響きもあった。


 ロッヒを前にして、ネルには逃げ場も見当たらない。隠す意味なんて無いんだ。そう思いながらも理由のわからない不安に喉を押さえつけられてしまって、すぐに返事をする事が出来なかった。


「幽霊が出るって、聞いたから」


 周りの三人の男も黙ったまま、ネルの話をじっと待っている。


「『時計塔の街』で聞いたんだ、『北の森』には幽霊が出るんだって……自分のよく知っている、死んでしまった身近な人と会えたって話を、いくつも聞いたの。だから……」

「違う、その話じゃない」


 心の底を見透かされたのかと思った。すうと身体の中を冷え切った風が通るような感触。ちらりと見上げたロッヒは表情を変えていない。


「親はどこだ。兄弟はどこだ。家はどこにある。友人はお前を探している。お前は子どもだろう。ここに来る必要が無いはずだ。ここに来るだけの罪を背負ってはいないはずだ。それでも何故、いるんだ」

「お母様もお父様も、もういないわ」


 ネルは、言った。

 ロッヒの顔に初めて表情が浮かぶ。僅かだが、驚くように眉を動かしたのだ。


「家が燃えてしまったの。半年くらい前に、火事になって。お父様の仲間うちで揉め事があったんだって、私はそれ以上の事は知らない。でもとにかく、お父様のお友達だった人が家に火をつけて、お母様とお手伝いの人が亡くなったわ。私とお父様は劇場に行っていたけど、お母様は体調が宜しくなくて一緒に出掛けられなかったのよ」


 ネルの瞼に映るのは、一瞬だけしか見る勇気の無かった、変わり果てた母の姿である。そして父の泣き崩れる、声にもならない悲鳴が耳にこだまする。


「お父様も、死んでしまったわ。お酒を飲んで、自分から川に飛び込んだのよ。……それからは叔母様の家に住んでる。叔母様の家は『時計塔の街』にあるの。『穴の生まれる荒野』と『穴埋め人』の話を聞いたのは、叔母様の家に住み始めてからよ」

「……森で、親には会えたのか」


 ネルは、返事をする声が僅かに震えるのを隠しきれなかった。


「いいえ。……幽霊どころか、鳥すら見ないうちに、こっちに出てきちゃった。それどころじゃなくて……。道に迷っていたから。川で水を飲んだだけで、お腹が減っていたの」


 ロッヒは黙っていた。誰も何も言わなかった。

 風が砂を巻き上げながら通り過ぎ、日よけの布がはためいた。ネルはロッヒの目を見つめ返す事が出来ず、代わりに彼の手に、指輪がはめられているのを見つける。細い金の指輪。一体何のためだろう。


「ねえ、うわさは本当なの?」


 今度はネルが問いかける番だった。


「幽霊の事、ロッヒは知っているんじゃないの?」


 指輪を見つめながらネルは言う。もしロッヒが本当だと頷いたら、自分は森に戻って両親の影を探すつもりなのだろうか。ネルはロッヒに向けてだけではなく、自分にも心の中で問いかけていた。


 金色の光がさっと消えた。ロッヒの手が服の袖の中に隠されたのだった。逃げるな、と言われている気がしてロッヒを見上げた。灰色の目はネルを厳しく映していた。


「幻覚だ。『病気』の空気に溺れた者が見る、幻。ここに来るまでに、何か気配がおかしいと感じただろう、それの見せる幻覚だ。幽霊などいない」


 ネルは明らかに自分が失望した事を感じた。だが、どこかできちんと納得もしていた。ロッヒの言う通りの気配に気づいていたからである。


「お前は引き寄せられたのか。早く去れ。お前が埋めるべき穴などここには無い」


 ネルが黙っていると、ルードの声が話に割って入った。


「パウエルに連れて行ってもらうつもりだ。それが難しければ穴の無い日に私達で連れて行く。必ずだ。だから、放っておいてやってくれ」


 ネルは思わず振り返った。ルードはネルの方を見ず、ロッヒを見つめている。

 ロッヒは何も言わないまま、こちらに背を向けて、どこかへ歩き出した。


 ネルは悪夢から覚めたような心地で皆を見回した。どうやら皆も同じような心境らしい。ほっと息をついている。


「あいつ何だよ、やっぱり薄気味悪いな。忠告でもしてくれたつもりなのか?」

「まあ、番人だから気になるよね。いきなり女の子がいたら」

「もし口説きでもしたら、ぶん殴って穴に放り込んでやるつもりだったぜ」


 アレクの言い方に、ポルックスが噴き出した。ネルも笑いを堪えられなかった。


「……それにしても、不思議な人だね。怖いっていうか、人間じゃないみたい」

「長い間ここにいるからな。いつ頃からだ?」

「さあ……俺達が来た時には、もうロッヒだったよな」

「そうだね」


 結局どれだけ番人をやっているかはわからないが、少なくともほんの二、三年という話ではなさそうだった。


「お前、『時計塔の街』に住んでんだな。叔母さんには……」


 アレクがそう言ってネルの顔を見る。沈黙がしばらく続いた。アレクが少し怒ったように言った。


「言ってないのかよ! 心配してるだろ!」

「ごめんなさい……」

「まあ、うん、あの街の人に、森に行くなんて言えないよね」 ポルックスが頷きながら言う。

「早く戻るのが一番だな」


 叔母は『時計塔の街』にずっと住んでいる。もしかするとネルが幽霊の噂を聞いて、森へ行っている事に感付いているかもしれない。しかし姪が荒野までたどり着いて、まさか穴埋め人達に心配されているとは、叔母も予想だにしていないだろう。

 そう考えると、ネルは荒野の真ん中で、申し訳無い気持ちをようやく感じるのだった。


「やべえ、急がねえと休憩終わるぞ! 全然ゆっくり出来てねえ!」


 アレクが叫んだので、慌ててネルは残りの昼食に取り掛かった。

 休憩が終わってからも仕事は続いた。延々と地道な作業を繰り返す穴埋め人達。シャベルで土を放り込む事を続けていると、ゆっくりだが着実に穴は浅くなってきて、そのうちに単なる大きな凸凹となり、そしてとうとう、地面は平坦にならされた。

 穴は見事に姿を消していた。大量の土と石とで埋められたのだった。

 もう一方の穴はそれよりも早く埋め終わっていたらしい。これで今日の仕事は完了となる。

 ネルは働いてこそないものの、仕事を終えて安堵の表情を浮かべる穴埋め人達を見て、同じように達成感と安心感を覚えた。日は既に暮れ始めていて、森に着く頃には暗くなっているだろうと思われた。


 そして帰り支度を手伝っていた時ふと、穴埋め人が一人足りない事に気づいた。

 ルードの大きな身体が見当たらない。

 アレクに訊くと、妙に真面目な顔で、黙ってどこかを指差した。

 先程埋め終わったばかりの穴の方向。

 ネルはそこに、人影を見つけて歩いていった。


 朝には大きな空洞だった場所、周りとは土の色が違う平らな地面にルードが立っている。作業の時の砂に汚れた服装では無く、質の良い素材でできた紫色のマントを着ている。『時計塔の街』では普通、聖職者だけが着る事の出来るマントである。彼がそのマントを持っているとネルは知らなかった。荷馬車の雑多な荷物にまぎれていたのだろう。


 何をしているのかよく見えないので駆け寄ろうと思ったが、マントを着たルードの後姿は、気軽に近づいて良いようには見えない、普段とはまた異なる静けさを背負っていた。

 そして思いがけない事に、そこにはロッヒもいた。ルードから距離を置いた後ろに、番人は立っていて、身動き一つせずルードを見つめている様子は、まるで自分が動けば何もかもぶち壊しにしてしまうと思っているかのようだった。


 ネルは静寂の中をそっとロッヒに近づいた。やはり番人には表情らしいものは欠片ほども見当たらない。番人は細い瞳で黙ってネルを見下ろした後、またルードの方を向いた。


 ルードは祈っていた。

 膝を折るでもなく、大きく手を開き祈りを唱えるでもなく、ただ頭を垂れるのみ、無言のうちにその祈りは捧げられていた。ネルが今まで見た中で最も簡潔であり、それでいて最も荘厳で、純然としていた。

 何に向けられての祈りかは、考えるまでもなく気づいていた。

 今はもう僅かなくぼみもない地面。

 埋められた、穴に捧げる祈り。

 ネルはロッヒと共にいつまでも立っていた。荒野の中央で、ルードの祈りは風にも揺らぐ事なく、静かにそこに在り続けた。

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