第一章 アンファン・テリブル

第2話 豊中駅で

 あれは確か九月の初旬だったと思う。


 「残暑」という時候の挨拶が使われる頃だけれど、いつも通り日本は長びく夏に辟易していた。


 それはもちろん僕も同じで――


 阪急宝塚線豊中駅で雲雀丘花屋敷行きの電車を降りて、帰るためにバスターミナルに向かうか、それともこの辺りで昼食を済まそうか……


 そんな、どっちでも良いようなことを、僕はだるような暑さの中で考えていた。もちろん決断する意志も乏しく、結局のところ、アスファルトの上の陽炎のように、ただゆらゆらと揺れるだけ。そんな僕は、ボーッとした状態で駅の東側に向かう。


 目標が定まったわけでは無い。


 思い返せばカレーを食べる気になっていたのかも知れない。


 カレーがどうこうと言うより、単純によく効いたクーラーの涼しさを求めて。


 駅の東側は、大きな道路があるせいなのか、随分歩道が狭い。


 それで階段を降りて――豊中駅の改札は高い場所にある――銀行横の狭い歩道に降りていった。


 正直この場所への階段設置は無理があると思う。そのせいで歩道の見通しが悪くなっているし。


 ただ、この時刻に限って言えば日陰になってるのが有り難い。




 ――だから彼女も、そこにいたんだと思う。




 狭くて急な階段を降りた場所で、彼女はタウン誌を広げ、さらにはその上下左右をグルグルと回していた。添えられている半分落書きみたいな地図を、どうにかして読み取ろうとしているのだろう。


 少しだけ見えてしまったけど、彼女が開いているページで紹介されているのは「黒獅子」というラーメン店のようだ。


 その店は確かに豊中駅の東側にある店だから、今のところ彼女は“正解”に近付いてはいる。


 けれど、駅を降りてすぐ、という場所にあるわけでは無い。


 階段を降りてきたことで、僕は特に見るつもりも無いままに、そんな情報を得てしまっていた。


 だからと言って彼女に「黒獅子」の場所を教えようなんてことはチラとも考えたりはしない。


 その時の僕は「黒獅子」よりもわかりやすい場所にある「信玄」に行ってみようかと、思っていたせいもあるだろう。


 夏用の新メニューがあるかも知れないと、そんなおぼろげな希望だけで、僕は行動を決めた。




 けれど――




「――すいません。このお店わかりますか?」




 どうしたわけか彼女から話しかけられてしまった。


 その時の僕は、どうしたって女性に声を掛けられる風体では無かったのに。








 件の「黒獅子」は銀行横の細い歩道を南へ進めば、自然と着く場所に建っている。


 だけど途中で歩道は途切れているし、さらに歩道に復帰したところで、その狭さに辟易するような有様だ。そのせいで彼女も疑心暗鬼に陥ってしまったのだろう。


 こうなっては仕方が無い、と僕も「黒獅子」へ案内する方法を考えてみたんだが、すぐに口で説明するだけじゃ無理だろうと判断する。


 そんなわけで僕は彼女の先に立って「黒獅子」へと向かうことにした。実は「黒獅子」のはす向かいにはチェーンのカレーショップがあるので、予定をちょっと変えれば済む話だったことも僕の判断に影響与えている。


 実際、それほど駅からは離れてはいない。だが駅前と強弁するには少し躊躇うような距離だ。


 それに加えて――


「え? こんな感じ……だったんですね」


「ああ、そうですね……大きくは無いですね」


 到着早々、彼女が戸惑うのも無理は無い。


 目的地の「黒獅子」は驚くほど小さな店だからだ。しかも店全体が店名にあやかってのことか、外観は真っ黒。


 だが店の前のベンチには、並んで座るサラリーマン。


(……実際この店は旨いんだよな)


 そんなタイミングで、店から出て行く二人一組の客。


 店内には、カウンターによく並んでも四名。そして二人だけが座れるテーブル席が一つだけ。


 そういう店なのである。


 そして漂ってくるのは、濃厚な豚骨の香り。


 この店のスープは呆れるほど濃い。半分、固体かと思ってしまうほどに。そんなわけでこんな暑い日には、ちょっと遠慮したいところだ。


 僕が昼食候補に「黒獅子」は入れてなかった理由もこの“濃さ”が原因。


「あ、こちらでお待ちいただけますか? すいません」


 店先に出てきた揃いの黒Tシャツの店員さんが爽やかに告げる。


 こんな外観の店なのに、この店の店員さんは皆こんな感じ。


 良い店であることは間違いない。


 ただ今は、暑さだけが問題。豊中駅前って何故か、他よりも日差しを強く感じてしまうから一際。


「……それじゃ、ここに座って待ってれば良いと思いますから」


「え?」


 女性は意外そうな声を上げる。


 だけど、僕が一緒に「黒獅子」に入る、とか思われていた方が、よほど意外だ。




 一体、この女性は何者なんだろう?




 僕は改めて、彼女を観察してみた。話しかけられたときは薄暗い路地。その後は先導して歩いていたから、今まで目に入らなかった……と、言い訳しておこう。その点、今はとにかく明るさだけは申し分ない状況だ。それに比例して、ひたすら暑くはあるのだけれど。


 彼女の出で立ちは、空色のブラウス、ベージュのキュロット、何だか大袈裟にも思える大きさの、パステルカラーのショルダーバッグ。


 髪はブラウン系に染めて、肩口まで……いやそれよりは短いかな?


 顔は……そうだな。多分、美人と言うよりも可愛らしい感じ。多分、表情が良く動くせいだと思うけど。


 その彼女も、しっかりと“らしい”表情をつくって僕を見上げている。


 繰り返しになるけど、僕なんかかなりどうでも良い格好だったから、いきなり女性に頼りにされるなんて展開がまずおかしかった。


 となると、反対に僕が彼女を胡散臭く思っても仕方の無いところだ。


 幸い、今ここで姿を消すのにうってつけの状況になっている。


「あ、空きましたよ。そこの椅子にお掛けになって」


「あ、はい」


 そこで彼女がしっかり腰掛けたことを確認して、僕は軽く頷いた。


「それでは失礼します」


「あ、あの……」


 この辺りの歩道が狭いことも幸いした。


 すぐには動けないだろうし、駅に向かって引き返せば撒くことも出来るだろう。


 僕はスタコラと歩を進め、彼女がついて来ないことを確認して胸をなで下ろした。


 どうやら普通の人だったようだが、それならいきなり「一緒に食べる」なんて選択肢は出てこないと思うんだよなぁ。


 僕はそこに疑問を感じながらも、改めて“何を食べるか”の検討に移行する。


 「黒獅子」の狭さで「ショウマル」の狭さを思い出してしまったらしい。


 口の中が完全に「台湾まぜそば」になってしまった――こんなに暑いのに。


 しかし、それも仕方が無い。


 「台湾まぜそば」の常習性はかなりのものだし。その上「ショウマル」の「台湾まぜそば」は確実に一級品だ。


 問題は……何故「ショウマル」は大きな店で営業してくれないのか? という今更ながらの問題だけだな。


 あの店、何より狭さが本物だもの。店はひたすら細長くてテーブル席なんて置けるスペースも無い。


 果たして、クーラーは点いているのだろうか? もっと言えばクーラーが点いていたとして、それに意味がある構造だっただろうか?


 僕はそれを確認するためという理由をでっち上げて、一番近道になるだろうと再び陸橋を登り「ショウマル」へと進路を向けた――

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