第6話 決闘
死ぬかもしれんな、とリリーは不意に思った。
学院の授業には全くついていけない。
帝国というのは、女子にも学業を推奨する変わった国家だ。女帝の統治する時代が多くあったことから、他国よりも女性の地位は高い。
歴史の授業では大昔のエルフとの戦争の話を教師が垂れ流している。
隣の席に座る女がこちらを見ていた。視線を向けると、シャルロッテだ。
前を向いたまま「後で」と小さくつぶやく。
小さく頷いておく。
授業が終わるや否や、シャルロッテは食いついてきた。
「昨日はありがとうございます」
「ん、ああ。反省文だなんだと、そちらは大変らしいな」
「今、書いてます。リリーさん、どうして助けてくれたんですか?」
「助けたつもりは無い。ただ、フレンデル殿の通った道は私も通ったことがある。それだけさ」
「……カッコイイです」
「何がだ?」
「あなたが」
見つめ合うと、シャルロッテの瞳が潤んでいて、思春期の令嬢って面倒だな、と思うのだ。
「さて、少し用事があるので、私は学院を出る」
「え、でも午後の授業は」
「体調が優れぬとでもしておく」
と、席を立った。
「もし、リリー様じゃあごさいませんか」
別の声だ。
背筋がざわめく。
美しい、鈴を転がすような声音だというのに、産毛が逆立つような不快感があった。
「……そうですが、あなたは」
声の相手に向かえば、闇色の髪に闇色の目、抜けるような白い肌。そして、師を思わせる顔立ちの女がいた。同じ制服を着た異国人だ。教会にある聖女アメントリルの肖像に、肉の色香を加えればこんな女になるだろう。
「お初にお目にかかります。アヤメ・コンゴウ、教会の聖女候補でございます」
「異国人、か」
「こちらに渡り五百年の一族です。アメントリル様と共にこちら側にやってきた者の末裔ですわ」
ちりちりと、本能が危険を知らせる。
女の首にかかるネックレスには、教会のアミュレットがある。背後で影のように付き従う男は、彼女のものらしい聖杖を持っていた。
「……なにか御用か?」
「今宵、あたしが見届けます」
「手出しは無用である」
「ええ、もちろん。我々教会はこの件には手出し致しません。ふふふ、まさか、息吹の遣い手と会えるとは思ってもおりませんでした」
口角を上げたアヤメの口元からちろりと赤い舌が覗いた。濡れたような瞳は、魔性のものだ。男であれば、耳元で囁かれただけで絶頂を迎えるかもしれない。
リリーはじろりと、女を見据えた。
「……お前、見た目と違うな」
瞬間、アヤメの顔が凍りついた。だが、それは束の間のこと。
「うふふふ。では、楽しみにしております」
笑みを張り付けて、アヤメは去った。
シャルロッテがリリーに向き直る。
「コンゴウ様、いつ見ても怖いくらい美人ですよね」
「あいつ、嫌いだ」
シャルロッテはぽかんと口を開けて、この人もそんなこと言うんだ、と思った。
「少し、出てくる」
「リリーさんお礼がしたいんで、夕方になったら猫の靴亭に来て下さい」
確か、シャルロッテの実家だったか。
「では、また後でな」
「はい、お待ちしています」
席を立ち、教員に体調が優れぬと言えば、引き攣った顔で「休んで下さい」と言われた。嘘も方便である。
◆
岩人の鍛冶屋で剣の出来上がる時期を尋ねれば、あと少しかかるという。
岩人は学院の制服で訪れたリリーに大げさに驚いてみせていた。
「いやはや、剣士殿がまさか御令嬢だったとは」
「隠すつもりはなかったがな。人食い姫の牙は、研ぎたくなかろう」
「あれだけの牙を研げるのは、岩人だけでございやすよ」
店の中は、作業場からの熱気が漏れて蒸し暑い。師から岩人の土地の話を聞いたことがある。
広大な地下道と溶岩の河。そこに彼らの王国はある。
エルフを嫌っている以外では人の好い者が多い。岩人だけが知る秘密の地下道には、邪毒石の密輸業者も少なからずいるそうだ。一度は行ってみたい土地である。
「もし、私が十日経って取りにこなかったら、サリヴァンの帝都屋敷に運んでくれ。こちらに書状もある。頼むぞ」
店主は髭に覆われた口元に手をやってから、じろりとリリーと目を合わせた。
「もしや、厄介事ですか」
「剣の道では珍しいことでもあるまい」
「へい。確かに承りました」
店主には多めの金を渡して、店を出た。
夕刻までにはまだ間がある。
帝都屋敷に立ち寄って、乗れと言うように体をこすりつけてくるミラールにまたがった。
走る。走る。走る。
風をきって、ミラールは走る。
帝都の城門を抜けて、郊外をぐるりと走った。
太陽の光、夏を目前にして、生命の気配を強める草木の匂い。何もかもが、生命に満ちている。
今まで、幾度か死は覚悟してきた。しかし、これほどに、怖いのか楽しいのか分からないというのは初めてだ。
準備などする時間は無い。いつも、戦いは場所も時間も選んでくれない。
愛剣であるドゥルジ・キィリの仕上がりにはまだ数日かかる。ならば、木刀で戦うしかない。
戦いとは、持分の全てを使うことだ。
「ミラール、私と共に死んでくれるか」
一際高く、ミラールは啼いた。
エルフたちがスーガ・ハラを信仰するには理由がある。かの大鹿は、言葉を持たぬが理解してるとしか思えない振る舞いをするのだ。導きの精霊であり、命の継続を意味する婚姻の立会人として、森の奥深くで敬われている。
聖女アメントリルとの講和以前、森に住まうエルフは、スーガ・ハラに乗って人間に矢を射掛ける悪魔でもあった。
◆
猫の靴亭はすぐに見つかった。
冒険者の類を寄せ付けない商人宿である。
帝都商業区の外れに位置し、歴史を感じさせる宿の前には荷駄の護衛を務める衛士の姿もあった。腕の立ちそうな何人かはリリーに鋭い視線を送ったが、声をかけることはなかった。
学院の制服は貴族との繋がりの証でもある。
中に入ると、旅の歌い手がリュートで何事か吟じながら演奏していた。明るい曲ではないが、落ち着く音だ。
「リリーさん、来てくれたんですか。っていうかケモノ臭ッ」
シャルロッテが小走りにやって来た。彼女も制服姿だ。
「ミラールと走ってきたのでな。……風呂は借りれるか」
「えっと、お父さん、この人がリリーさんなんだけど、お風呂」
「ああ、金は払う。三助の小者や下刈屋はいらん」
彼女の父親は厨房から顔を出していた。鍛え上げた形の残る肉体をした中年男で、似合わない髭を生やしている。飄々とした雰囲気があった。
「なら、半銀貨を」
「あらまあ、シャルロッテとアー坊にエル坊を助けてくれたんでしょう。それくらいサービスするわ」
横から声をかけたのは、シャルロッテを釣り目にしてそのまま大柄にしたような女性だ。
目元と体型は父親に似たか。
「御母堂か、感謝する」
宿の風呂とは、部屋に湯の張ったたらいを持ってきてもらうことだ。
宿によっては専用の部屋もある。そして、猫の靴亭は風呂部屋のある宿だ。
「気にしないで。キレイにしたら、後はご飯も作ってやるからね。ああ、あとお家の遣いの人から着替えと弓を預かっているから」
ウドのやつめ。気が利きすぎる。
リリーは頭を下げて、笑んだ。
ああ、こんな風に柔らかく笑うこともあるのだな、とシャルロッテは少し感心した。今まで、どこか怖かったり自嘲的な笑みが多かった。
リリーは旅のさなか、懐が温かい時には商人宿に泊まったことがある。
庶民の風呂も最初は慣れなかったが、今となっては勝手も分かっている。
実家や帝都屋敷で侍女に洗ってもらうのも悪くないが、一人の方が色々と考えられることもあり、これはこれで良いものだ。
火は、人の造り出したものだと師は言う。
何もかもは火から産まれた。
剣も、人の歴史も、戦いも。
◆
アーベル・バルシュミーデとエルマー・バルシュミーデの双子は、そわそわと落ち着かない様子で椅子に座っている。
シャルロッテの誘った人物は、リリー、双子、フーゴだ。
リリーの風呂上りを待つ四人は、ぎこちない会話をしている。謝罪は済ませたが、双子とフーゴは少し気まずい。家同士の争いには発展しなかったが、父上母上らの間では何事か今も調整が行われているはずだ。
リリーの叔父であるヴィクトールも尻拭いに奔走している。
本来は家から出られない彼らだが、サリヴァン侯爵家の遣いだという小男のおかげでここに来られた。
時代が時代なら、男子は全員詰め腹を切らされていたかも知れない。
双子に関しては、家同士の話し合いの結果によっては魔術師の巣に放り込まれる。
若さゆえの暴走からなってしまったことで、狂熱の冷めた今となっては皆、気まずい。そして、不安がのしかかっている。
引き分けとなったのはいいことなのか悪いことなのか。
宿の扉が開いて、リリーが現れた。
制服は脱いで、エルフ様式の服を着ており、腰には虎の毛皮を巻いている。
シャルロッテにとっては、初めて会った時の姿だ。そして、少年たちは初めて見る武士、剣士としてのリリーである。
「待たせたな。お前らもいたのか」
リリーは取って付けたような話口ではなく、素のものであるらしい口調である。シャルロッテにとっては、こちらの方が印象深くて、自然に思えた。
「あ、ああ、昨日は、なんといっていいか」
と、フーゴは敗者である自分の口から自然に言葉を出せたことに驚いた。
完膚なき敗北。
どこかに手心があれば、憎悪が生まれていたはずだ。フーゴの気質にもよるが、今は、リリーに対する憎しみは、自分でも驚くほどになかった。
対する双子は、普段の威勢が無い。
「あ、ひ、人食い姫っていうから、どんなスゴい美人か醜女かと思ったがそうでもないじゃないか」
アーベルの言葉は震えていた。
「そうだね、兄さん」
エルマーにも、氷と呼ばれるほどの鋭さと冷たさは無い。
シャルロッテが、二人の頭に拳骨を落とした。ゴッと鈍い音が鳴る。手加減してない音だ。
「もう、二人とも、そういうのやめなさいって言ってるでしょ」
「よせよせ、せっかく戦った後で話せるのだ。フーゴ、十年前の誕生日の宴以来だな、遅れてしまったが再会を祝おう。そして、バルシュミーデの兄弟も今は『はじめまして』だな」
「あ、ああ、俺はアーベルだ」
「僕はエルマーです」
毒気を抜かれてしまったのかも知れない。
シャルロッテの母が料理を運んできた。
今から戦いに赴くため、重いものと酒は採らない。
「少し所要があってな、重いものは遠慮しておく。果物を頂く」
「せっかく用意したのに」
「すまんな。服を運んできたヤツは気が利く男だ。あいつに持ち帰らせてやってくれ」
ウドのことだ。その辺りもぬかりはあるまい。
「そのう、サリヴァン殿、見事な拳であった。私も未熟と思い知らされました。師にもきつく説教をされましたよ」
と、フーゴは畏まって言う。武の道で先にいる者に対する敬意があった。
「師匠というのは、どこも口うるさいものだね。フーゴ殿も立派になられた」
「そ、そうか。やはり師匠というのは、あの誕生日の宴で舞われたお方か」
「その通りだ」
あの場にいた誰もが魅了されていた。
胸が、ちくりと痛む。
「アーくんとエルくんのこと、許して頂けますか」
と、そこにシャルロッテが横から口を挟んだ。
「ああ、剣を交えたのだ。もう良い。ただ、茶を零すのはやめてくれないかな」
と、フーゴは小さく笑って言った。
修行の行き詰まりで芸術へ逃げていた。決闘などと言い出したのは自身の弱さゆえだ。
「悪かったよ」
「兄さん、言い方が……」
アーベルとエルマーは、リリーとフーゴに一定の緊張を保っていたが、シャルロッテに小突かれて態度を和らげた。
他愛も無い話をして分かったのは、彼らも普通の少年少女だということだ。
リリーは、友のことを思う。
ザビーネがいれば、ここで彼女は何を言っただろうか。
物思いに沈んだリリーの前に、リシオンの果実の皿が置かれた。
「みんないい子たちね。なのに、どうしてあなたは悲しいことを思い出しているの?」
と、シャルロッテの母は小さく言った。
シャルロッテたちには聞こえない程度の声だ。
「私は」
「何か大切なことがあるのね。友達がいるのはとてもいいことよ。きっと、大人になった時に、それは大切なものになるから」
「御忠告、ありがとうございます」
「あなたは不器用そうだから。誰かと仲良くなるのは怖いことだけど、一歩を踏み出す勇気だけで、あとはとってもカンタンだから、ね」
勇気だけか。
確かに、そうかもしれない。
その後は、他愛もない話をした。
「では、所要があるので私はここで」
リリーは立ち上がる。
それを、シャルロッテが止めた。
「せっかく集まったんですから、わたしたち、もう友達でいいですよね?」
双子は「それは不味い」という顔だ。それもそのはず、貴族というのは家によって様々なしがらみがある。フーゴもどうしたものかという顔だ。
「そうだな、私の友になってくれるか?」
「喜んで」
シャルロッテは華のような笑みを浮かべた。
「うむ、友となれるのは有難い」
フーゴは照れ臭いのか、仰々しい物言いだ。
「頼まれたからには、俺も問題ないぜ」
「あ、僕も」
双子も素直ではない。
「そうか……、また会おう。叔父上にも書状は遺してあるでな。家のことは任せておけ」
リリーは今度こそ、席を立った。
さて、行くか。
外に出ると、ミラールに残った果物を食べさせる。
「ミラール、いい子だ」
鼻先を撫でると、ミラールは満足げに啼いた。
またがろうとしたら、シャルロッテが追いかけてきた。
「リリーさん、これ、お返しするの忘れちゃうとこでした」
と、そこには決闘の時に貸した短剣がある。彼女の手には大きすぎて似合わないものだ。
「ああ、そうだったな。せっかく買ったのに、私が使っていなかった」
受け取ると、確かな重さがある。
「リリーさん、これから、何か大事な用があるんでしょう」
「まあ、な」
「上手くいくように祈りを込めておきました。これでも聖女候補ですから」
「はは、ありがとう。百人力だ」
「上手くいくと思いますよ。それじゃあ、また学院で」
また、か。
「ああ、また会おう」
シャルロッテは勇気がある。
何の臆面もなく、今を変えることにためらいが無い。
負けるのを恐れていたのだな、と思った。
◆
約束の場所には、かがり火が焚かれていた。
ウドが用意したのだろうか。いや、あの男はこのような無粋なことはしない。
「お待ちしておりました。リリー様」
闇夜から現れたのは、闇に溶け込むような黒髪を揺らしたアヤメ・コンゴウである。教会の聖女候補らしく、制服ではなく司祭服を着ている。そして、その背後には四人の教会騎士がいた。
フーゴの師である大男とは違う、重装甲で相手をなぎ倒すことに特化した教会の戦鬼であった。
「見届け人を頼んだ覚えはないが」
「わたくしは見物人ですわ。見やすくさせて頂きました……。それにしてもそのお姿、まるで下賤な傭兵のようですわね。森の民から剥ぎましたか」
服のことを言っているのだろう。
「譲り受けたものだ」
「……ふ、ははは、まるで聖女様のようなことを」
アヤメの聖女然とした顔が崩れた。
昏い瞳だ。ザビーネのものとも違う、昏い炎が瞳の中にある。
「信じられぬならそれでよし。だが、邪魔はするな」
「家名に誓いましょうか?」
「いや、お前はそんなことを気にはせんだろう。無駄なことはせんでいい」
ああ、私は、こいつが嫌いなんだな。
と、リリーは思った。そして、アヤメもまた同じことを思っている。水と油のように、分かりあえない相手だと、互いが互いに感じている。
「人食い姫様、息吹の技、見せて頂きます」
「好きにしろ」
さて、どんな思惑があるのか。
リリーは自分が賢くないことを知っている。どうにも、勉強は子供のころからダメだ。だから、お家や政(まつりごと)のことは分からない。ただ、大貴族の令嬢である。教会の聖女候補というのが、大変に闇の深いものであるのは分かる。
無粋な連中は無視して、息を整えた。
弓を背負い、木刀を手にして待つ。
刻限の暮れ八つの鐘が遠くで響いた。
馬の駆ける音が響いてくる。
「あれが古の教会騎士……」
軍馬が架けてくる。
大男の身体を支えるのは、北方産まれの軍馬だ。
甲冑姿の男は、背中に旗よろしく連接棍を背負い、その手には馬上槍があった。
軍馬は速度を緩めない。突進の勢いである。
アヤメと教会騎士は面食らった。古式ゆかしく、決闘の名乗りから始まると思っていたが、
「騎士の勝負とはこれなりっ。いざアッ」
リリーもまた面食らっていた。
まさか、あの大山のような男が、自身と同じことを考えていたとは。
自然と、口に笑みが浮いていた。獅子の笑みだ。
「応ッ」
正面から騎馬を受け止めるともなれば、恐竜人(ザウロス)の戦士でもなくばできることではない。
勝負とは、己の持分をぶつけ合うことである。
装甲馬でなくてよかった。
リリーは指笛を鳴らす。
かがり火の奥からミラールが駆けた。
突進するものというのは、側面からには対応できない。
ヴォォというミラールの鳴き声に大男は槍を向けようとしたが、飛来した弓に気づいてそれを打ち払った。
ミラールは頭から伸びた角を騎馬の横っ腹にぶち込んだ。たまらず倒れる軍馬に対して、大男は馬上槍を捨てて飛び降りた。巨体ながら、その動きは見事の一言。自身の魔力を用いた教会騎士の秘術で、落馬の衝撃を殺している。
「いざあああ」
リリーは叫びながら駆けた。
立ち上がろうとする大男の頭目がけて木刀を振り下ろす。
「ギィ・トゥ・ジ」
大男は力ある古代の言葉を行使して、魔力障壁を展開した。木刀が魔力の障壁を打ち破る一瞬の間に後ろに転がり立ち上がる。
その隙を逃さず肉薄するリリーだが、大男は背中のフレイルを手に構えた所だ。木刀の打ち下ろしを連接棍で受け止められる。
シィィィという呼気はリリーのものだ。そして、相対する大男は魔力を使う余裕が無い。落馬と障壁、この時に使いすぎた。
大男が石突を逸らせてバランスを崩した。その瞬間、を逃さず大男の胸に木刀の突きが打ち込まれた。だが、大男の身体は微動だにしない。
「オオオオ」
悪鬼の如き雄叫びと共に、連接棍の石突が振り上げられた。のけぞってかわそうとしたが、左肩を掠める。血の華が咲いた。
左手は使い物にならん。
リリーは舞うように後ろに下がった。
それを追うように大男の連接棍の連撃。
逃げの一手を打つしかできないリリー。今や、形勢は逆転した。
兜に包まれた大男の口元から、青い燐光が漏れる。教会騎士が使う秘薬、聖光丹の過剰摂取による副作用だ。
この一撃の一つ一つ、その全てに、命を削っている。
「我が業は、貴公に届くかッ」
「届いているともっ」
師と最後に剣を交えた時も、こうだった。
体にある余計な力が霧散している。それは相手も同じだろう。
「幾度この時を願ったか。このために業を磨いたぞ」
大男の連接棍もまた、その想いに応えるかのように自在に動く。そして、リリーの木刀もまた同じくして動く。
左手には、力が入らない。
今を逃せば打ちすえられるだけだ。
勇気がいるというのは今のような状況だろう。
ザビーネは肩口から斬られてなお、諦めなかった。
「シッ」
リリーは鋭い呼気と共に木刀を投げた。
剣の投擲術によるそれは真っ直ぐに大男に向かう。大男はこの好機に反射的に体を動かし、止められなかった。
投げた木刀を追うようにリリーが距離を詰めてくる。右手には、大ぶりな短剣があった。
木刀を叩き落とす連接棍。穀物と呼ばれる先端部と長柄を繋ぐ継手に、リリーの短剣が振り下ろされた。
連接棍の強みとは変幻自在の動きにある。故に、継手の部分は鎖とになっている。
息吹の理術は、兜を割る。
「きえぇぇい」
リリーの裂帛の気合は、猿の絶叫にも似ていた。
師と同じ腕前には至っていない。鋼にどれほどの力を乗せられるか。
『人と物には縁がある』
岩人の鍛冶屋はそう言っていた。
シャルロッテの祈りには確かな効果があったのかもしれない。
大男は見た。
鉄が鉄を斬る瞬間を。
連接棍の先端が落ちる。
「なんと」
「おおおおお」
リリーは短剣を捨てて大男に肉薄する。
奇しくもそれは、大男の弟子であるフーゴに放ったのと同じ業であった。
息吹の秘拳。師は技につける名前を嫌っていたため、その名は知らない。だが、これは鎧の内側に息吹を伝える業だ。
リリーの右手が、大男の水月、みぞおちに当てられた。
右手一本で倒せるかは賭けだ。
リリーの手に、甲冑とは違った冷たい感触が、添えられた気がした。
息吹は徹った。
リリーはこの時、忘れられない匂いを嗅いだ。
「み、見事」
大男は微動だにせず、そう言った。そして、動かない。
「……、良き死合いでした」
気を失ってなお、大男は倒れない。見事な騎士姿であった。古の教会騎士とは骨の髄まで武士である。
ふらつくリリーにミラールが駆けより、その体で支えた。大鹿の毛の感触が、ひどく懐かしい気がした。
今すぐにも倒れたかったが、そうするのは大男に失礼だと思った。
「ミラール、よくやってくれた」
すう、と息を吸うと、ひどく左肩が痛んだ。
「さすがは人食い姫様。お見事です。それに比べてこの男は……古の秘術を使ってこのていたらく」
アヤメの纏う不快な空気にリリーの柳眉が顰められる。
「おい、何をするつもりだ」
「いえ、この男は教会の縁者。連れ帰るのですよ。リリー様の手当も行いましょう、さ、こちらへ」
「それ以上、その方を侮辱するなら、殺すぞ」
リリーは自分でも思いもよらない言葉が出たことに驚いた。それほどに、どうしてか、アヤメが不快だ。
「ふふふ、息吹の理術もその体では万全ではありますまい」
「試してみるか」
アヤメの背後の教会騎士が動く気配を見せた。
その時、騎馬の駆ける音が聞こえた。
「お嬢様。そろそろカンカンに怒った叔父上様がいらっしゃいやすよ」
小柄な下男といった様子の男が馬にまたがって声を張り上げる。
「ベルンハルト伯が来られるなら、心配はいりませんね。では、わたくしはここで失礼させて頂きます」
「できれば、もう会いたくないな、アヤメ殿」
「ごきげんよう、人食い姫様」
闇色の女は騎士と共に去っていく。
「ウド、見届けたか」
「へい。年甲斐もなく、滾りやした」
「……あの一撃、ザビーネが力を貸してくれたものだ」
鼻をくすぐった匂いは、死臭だ。
内腑を生きながら腐らせて死神と化したザビーネの、友の匂いだった。
一人では勝てなかった。
リリーは小さく笑って、目を閉じた。
「少し眠る。叔父上が怒ってなければいいが」
ウドが何か言った気がしたが、リリーにその声は届かなかった。
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