#13・・・ヴァルプルギスの夜

 焼け付くように熱いシャワーを浴びる。壁にもたれかかりはせず、直立したまま浴び続ける。全身に染み渡るように。髪をかき上げ、その身体にこすりつける。汚れを落とす。ありのままの自分になれ。私は生まれ変わる、いや、元の状態に戻るのだ――ゼロに。


 魔法を使うのをやめたことで、成長が再開し、おとなになった身体。でもこれからは、また止まる。歪な状態に、身体が悲鳴を上げることだろう。だがそれが、魔法少女という『種』としての在り方だった。彼女はそれを享受する。これからおとずれる、小さな胸、やわらかいおなか。ヘアのない秘部。抱きしめる――すべてを。すべてを。



「げほっ、ごぼっ」


 私室に据え付けられたベッドに吐瀉物を吐き散らす。そしてクローゼットに体当たり。倒れ込む。異常を察知した部下がドアを叩いたが怒号して追い返す。彼女は苦悶のまま咳き込み、部屋中を駆け回る。そのままベッドの汚れの中に顔ごと突っ込んだ。

 震えは、泣いているのではなく笑っていた。フルゴラは、笑っていた。狂ったように。


「っははは、もうすぐ、もうすぐで先輩に……!」



 身体を拭いて、裸のままで鏡の前に立った。

 その際、レジの傍にあった写真を持つ。火を付けて、そこに置き直した。

 床へ――炎が、広がっていく。さっき油をまいていた。

 割れた鏡……何重にも映るすべての自分を見つめながら、彼女は髪を乾かして、化粧品を手にとった。全身に、それからその顔に、装飾を施していく。

 口紅をとった。誰も居ない廃教会で、こっそりと二人だけの結婚式をあげた――その翌日に貰ったものだ。大事にしすぎて、なかなか使えなかった。フタを開けると、とてもいい発色をしていた。彼岸花のような。ふっと笑って、唇に色合いを添えてゆく。



 空の酒瓶を投げ捨てると、すでに転がっているものに当たって音を立てた。

 ケネスはひどく動揺し、恐れていた。部屋は荒れ放題。部下共は煙たがって、誰も近寄ってこない……コアトリクエ以外。


「くそッ、くそッ、もっと、もっとだッ……」


 どれだけ飲んでも収まらない。涙と鼻水が止まらない。彼は上半身裸のままで、暴れ狂った。そのまま記憶が途絶えてしまえばよかった――あの、ガキを殺した感覚とともに。

 彼は知らなかった。あの日、ボスに火傷を刻まれた日まで。言われるがままに振る舞うことが、こんな体たらくを招くということなど、彼は知らなかった。


「畜生、俺は怖い、畜生……俺は知らなかった、お前らのことを何も知らなかった。助けてくれ、なぁ、助けてくれよ、俺は逃げたい、逃げ出したいんだっ……」


 彼は、影のように何も見ず佇んでいるコアトリクエに抱きつき、汚物まみれのその顔を押し付けて泣き叫んだ。

 彼女は、そんな男の震える頭を撫でた。黙り込んだまま、仮面のような無表情のまま。



 煉獄のように拡散していく炎の中で、彼女はトランクの中身を取り出した。

 魔法衣。二度と袖を通すことがないと思っていた。

 髪を整えて、その後、順番に装着していく。ハイドという煙草屋の主人は、もう居ない。ここに居るのは、魔法少女――ヴァルプルギス。

 いま、炎の照り返しが彼女に迫っていた。じりじりと、その背を焦がしていく。

 ……その焦熱を間近に感じながら、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。

 まるで、この炎そのものを歓迎しているかのような――凄絶な笑みだった。



 カレルレンと、複数の幼い少女たちの笑い声が、部屋の中から聞こえてくる。

荒い息の狭間に吐血が混ざった……しかし、誰も助けに来なかった。



 ひときわ大きな炎が、倒壊した商品棚を包んだ。隣接する何もかもを呑み込んで、橙色の波の中へと連れ去っていく。

 周囲に同色の燐光を纏いながら、彼女は現れる――すでに、変身を完了していた。写真はとうに燃え尽きているだろう。後ろを振り返ることすらしなかった。

 彼女が店を出る瞬間、十年暮らした建物を支えていた最後の柱が燃え落ちて、轟音とともに灼熱の中に崩れ去っていった。



 現れた彼女を前にして、ルシィの思考は一瞬からっぽになった。

 その姿が、自分の知っている『ハイド』という存在からかけ離れていたからだ。


 折り畳まれた羽が頭を垂れたかのようなフリル――それが全身にあしらわれた漆黒のドレス。四肢のラインを生地で覆い隠しながらも、その至る所に薄紫のアクセントがちりばめられ、ライン状に伸びている。

 カラスの濡れ羽のようだった髪はソバージュにまとめられ、衣装と印象を同一化させている。そしてひときわ目立つのは、色濃く、はっきりと塗られた真紅のリップだった。

 ナカミは、何も変わらないはずなのに。全身の印象がまるで違う。喪服姿の寡婦にも見えれば、肉体を得た死に神のようにも見える。彼女はただ、その真っ赤な唇を引き結んだまま、まっすぐにこちらを向いていた。

 かつて、そんな風に自分を見てきた彼女はどこにも居なかったはずだった。自分の知っているのは、どこか諦観の滲んだ、いつも伏し目がちだった彼女。それが今は――。


「――綺麗」


 いつの間にか、そんなことを口走っていた。

 すぐそれに気づき、ぼっと顔を赤らめるのを感じる。馬鹿か私、状況を考えろ――。


「ルシィ」


 名前を呼ばれた。


「は、はいっ」

「案内して。出来てるんでしょ、用意」


 最小限の、言葉。

 何が、とも言わなかったが――それだけでルシィには分かった。

 唾を飲み込んでから頷き、漆黒の魔法少女――『ヴァルプルギス』を、階下へといざなった。



「ここよ。今は虚栄の市」


 ルシィは肩をすくめて言った。

 絶望も罪悪感も、今は通り過ぎていたはずだったが、語尾の震えをおさえられるほどには、割り切れていなかった。


 かつて『神聖同盟』などという放課後の集まりが行われていたその場所は、巨大な工作機械が通り過ぎたかのように蹂躙され尽くしていた。至る所にガラスや金属の残骸が散乱し、壁面には無数の弾痕。さらには、拭き取り切れていない血しぶきの痕が一面に残っていて、それがなまぬるい臭気を放っている。


「死体の回収は、『ドブさらい』にお願いしたわ。あいつら、私が警察だって知ってたら、どんな顔をしてたんだろう」


 笑おうとする。くそっ、うまくいかない。

 身体の震えをごまかすように、大げさな動きで後ろを振り返った。

 ヴァルプルギスはそこにいて、ただ、全てを見ていた。

 何も浮かべない表情。筆舌につくしがたい、超然とした雰囲気がそこにあった。ああ、この人は本当に魔法少女なのだ――その姿が何よりの証拠となって、すぐそばにあった。

 彼女はしばらくの間、その有り様を見ていた。それからたった一言、小さく、寝る前の子供に囁くようにして、言った。


「つらいわね」


 感情を込めるわけでも、責めるわけでもなく。

 彼女はただ、そう言ったのだ。

 ルシィの中にこみ上げるものがあった。胸のあたりで爆発を起こして、溢れそうだった。


「よしなって。私のつらさなんか」


 再び、慌てて顔を背けて、彼女を違う場所へ案内する。


「それよりも、こっちへ。たぶんあなたがここにきたのは、これが理由なんでしょうから」


 彼女は何も言わず、着いてきた。

 あまりにも、多くのことがあり過ぎた。

 それが皮肉にも、二人の間にある暗黙の了解を強固なものにしていた。

 ヴァルプルギスは『それ』を求めてここにきた。ならば、魔法少女の支えとなるべき自分は、それをただ差し出せばいいのだ。


 弾痕にまみれたラックに掲げられているのは、いくつかの武装。周辺に、無数の残骸。


「たったこれしか、残らなかった」


 ヴァルプルギスが近づいて、確認する。

 長銃、ロケットランチャー、それぞれ二挺ずつ。詠唱機構も含めて、無事なのはそれらだけ。

 だが、そこにあるのは……ヴァルプルギスの、かつての仲間たちの力。


「いいえ。これだけでも十分な戦力になる」


 そう言った。

 しゃがみこんで、その黒檀の銃身に指をふれさせる。悼むように、労るように。


「だけど、どうするの。劣化コピーとはいえ、そこに宿ってるのは本当の魔法少女の力よ。幾ら貴女でも、その全部を使うのは無理なんじゃ、」

「方法は、ある」


 やおら立ち上がって、ヴァルプルギスは言った。


「無駄にはしない」


 その言葉が、自分に向けられたものか、それともかつての彼女の仲間に向けられたものなのかは、分からなかった。



 祭壇の供物のように並べられた銃器の前に、ヴァルプルギスはひざまずく。

 空気が冷え切る感覚があった。ルシィは息を呑む。

 魔法少女は、しゃがみ込んだ姿勢の状態でゆっくりと目を瞑り、そっと床に指を添えた。


「……」


 ルシィの感知し得ない呪文が、その口から流れ始める。韻律を伴った聖句となり、空間を漂い始める。そうだ、魔法少女の呪文とは――祈りだった。歌だった。

 囁きと共に、変化が、起きる。

 指先に、ごく小さな魔法陣。そこから、蔦のような植物が床をつたい始める。

 それは蛇のように彷徨った後、横たえられた銃器へと到達。ゆっくりと、絡みつき始める。

 ヴァルプルギスの言葉が少し乱れ、その額に汗を浮かべる。

 蔦は4つの銃器それぞれに纏わりつき、全体を覆っていく。抱擁するように。

 サイトはその様子をただ見ていたが、そこでさらなる変化。

 蔦が、銃器のサイド部にある詠唱機構に到達。

 その瞬間、ヴァルプルギスはかっと目を開けて、苦痛に身体を反らせ始めた。


「が、あああ、ああああ……」

「ハイドっ!」


 思わずその名で呼んでいた。絶叫しながら、目を血走らせる。

 ――しかし彼女は、手を差し出してルシィを制止した。

「ああ、あああああ……」


 そのまま、苦痛の渦中に飛び込み、身を浸し始める。

 ――スパークする。彼女の頭の中に、いくつもの情報の奔流が流れ込んでくる。その奥へ、その奥へ、容赦なく。

 激しい痛みが痙攣と嘔吐を引き出して、その場から逃げるように忠告してきた。だが彼女は逃げなかった。挑みかかるように、銃器に……その奥に残る仲間たちの力に意識を集中させる。


 ――かつての仲間。名を知っていた者たち。あるいは、一度見ただけで、二度と出会わなかった者たち。彼女らの叫びがそこにあった。

 力を剥ぎ取られ、生きたまま腑分けられ、いびつな形へと変化させられた苦しみ。信仰を、信念を打ち砕かれ、苦痛の中で膝を折っていく痛み。多くの血を見てきた悲しみ。そして、その連鎖の果てに得たものは何も、何もなかったという虚無。

 全てがそこにあった。彼女たちは血を流しながら叫んでいた、叫んでいた。存在の何もかもを賭けて、ハイドという器に食らいつき、その空白を満たそうとしてきた。彼女は逃れたかった。

 時間が、過去が……原色で色づいて、絶対的な真実として迫ってきた。ああ、なんという感情の濁流。あなた達は、こんな中に、ずっと――。


 だが、ハイドは――ヴァルプルギスは逃げなかった。

 いいでしょう、受け入れる。私は、あなた達の苦痛、全てを受け入れる器となる。怖がらなくていい。私の中に入ってきて。そして、私のぽっかり空いた穴を、その激情で満たしてほしい。かつては怖かった。でも今はもう、失うものは何もない。だから。

 私は、なる。なってみせる。魔法少女そのものに。あなた達全ての代弁者として、この地に再誕する。ハイドという名の無知な愚者ではなく、ヴァルプルギスという存在として。


「終わらせる、終わらせるッ……」


 蔦が暴れ狂いながら、ヴァルプルギスに同期していく。その力が銃器に流れ込み、浸透し……やがて、同化していく。

 ルシィから見ても、分かった。

 彼女は、背負うつもりだ。魔法少女の怒りを、悲しみを、無念を。


 


 絶叫――変化が終わりを告げる。遂に、彼女の蔦が、兵装の全てを走査し終えたのだ。


「待たせたわね。もう、大丈夫」


 ヴァルプルギスは立ち上がって、言った。

 その後方に横たわる銃器に、もはや赤錆色に変化した蔦が、まるで脈打つ血管のごとく絡みつき、一体化しているのが見えた。



「連中にとっては『アンチ=バベル』が一番大切。だから今回は、貴女の襲撃に合わせて、過去最大の防御態勢を取ってくるはず。数日前、複数の中小傭兵雇用会社をまるごと買い取ったって情報が入った」


 ルシィはノートパソコンを開きながら説明する。

 画面には『ファフニール』の見取り図。まず一階にはホール、その奥にエレベーターや小部屋。それらが取り囲むようにして、『アンチ=バベル』のコントロールルームがある。それは最上階まで吹き抜けの形で続いている。


「傭兵一人ひとりを律儀に相手している暇はない。その意味は」

「上位魔法と下位魔法、その違い」

「正解。さすが、よく知ってるわね」


 上位魔法とは、ハイドやフルゴラがおもに戦闘で使用する魔法のことである。通常一人一種類のみ与えられている――フルゴラであれば電撃、ハイドであれば『生成』。使用には必ず『マナ』を消費するため、無尽蔵ではない。

 だが、それとは違い『回復』『防御』の二種類からなる下位魔法は、その根源をマナに依拠せず、行使者の体力・精神力がある限り使用できる。上位魔法と併用できないというデメリットはあるが、最も扱いやすい魔法がそれである。

 しかし、そこが問題になってくるのだ。多勢に無勢の場合は。


「どうする? 抜け道はない。正面突破では、消耗が……」


 敵が、カレルレンが、逃げていくハイドをそれ以上追わなかった理由。こちらの居場所を知っているにもかかわらず、これだけの準備を自分たちにさせている理由。

 彼らは待っているのだ。ヴァルプルギスが襲撃をかけてくるその時を。

 そして、その時に起こる戦いこそが、アンチ=バベルに必要な糧となる。


 何故なら、今まさに彼女は激情で満たされているから。イグゾースト・マナを生み出す余地は、いくらでもあった。まさに、向かう先は鳥籠。何もかもが、あの男の思惑通り。その後で、ヴァルプルギスという魔法少女が居なくなってくれれば、万々歳というわけだ。


「それでも、やるのね」

「私にはもう、それしか残されていない」


 短いやり取りだった。

 ルシィには、それ以上何も言えなかった。

 彼女の背負っているものを肩代わりすることも、一緒に担ぐことも、自分には出来ない。

 しかし、その中でも、出来ることがあった。もう既に決めていた。ならば、やるだけだ。


 ヴァルプルギスは装備を整えたのち、その黒い魔法衣を翻し、ルシィに背を向けた。

 彼女は、往く。戻ってくるかどうかを考えるのは、不要なことだった。


「行くわ。手伝ってくれて、ありがとう。それから」


 そこで魔法少女は、ふっと笑顔になった。

 ……幼い容貌に宿った、ぞっとするほど深い年月を感じさせる笑み。


「ルッカを守ろうとしてくれて、ありがとう」


 その心中は既に、煮えたぎっているはずなのに。彼女は今、そんな顔をするのだ――。


「っ、でも私……」


 追いすがるように、ルシィは言う。


「私。実は、ずっと盗み聞きしてた。だから、あなたが何を見て、何を思ったのかも――」


 そこでヴァルプルギス――ハイドは、ルシィの口に指をそっと押し当てた。

 そこで、また、あの笑み。

 もうそれ以上言わなくていいという、無言の知らせ。

 たったそれだけで――ルシィの中で、重いものがほんの少し減った。

 今まで見てきた何よりも、それこそが魔法のようだった。


 彼女は去っていく。黒い喪服を翻し。

 階段を上がると、そこにあるのは無限の闇。彼女の姿は溶け込むようにして見えなくなる。

 通りには人が居ない。ファフニールが手を回したのかどうか。分からないが、夜が彼女のために道を開けているように、ルシィには見えた。

 夕闇はとうにはけていた。これからは――彼女の時間だ。


「気をつけて」


 声を掛ける。彼女は頷いて……漆黒の中に消えていく。あとには、雨の墓場のような薫香が、風に運ばれて香った。


 そしてルシィもまた、翻ってアジトに戻る。

 自らのやるべきことをするために。



「ねえお母さん」

「なぁに」

「ちょうちょは、どこまで飛んでいけるのかな。僕、ちょうちょになりたいな」

「知らないわ。ちょうちょなんて、長い口を持ってるし、粉だらけだし、汚いだけよ」

「じゃあ、鳥は。鳥はどこまで行けるの」

「さてね……でも、蝶よりは遠くに行けるかもね」

「なら、僕は鳥になる」

「やめておきなさい」

「どうして?」

「電線にかかったり、銃で撃たれたりするからよ」


 どこにでもある、『普通の』親子の会話。

キッチンの奥に座り込み、何かを書いている母親。書類のようなものはまとまらず、何度も書き直されている。

リビングに居る小さな息子は、薄汚れてひび割れた木製のおもちゃで遊んでいる。


 刑事だった夫が死んでから、生活の向きが急に苦しくなった。単に稼ぎが一人分減っただけではない。セントラルが、彼女たちの暮らしに圧力をかけてきたのだ。そして二人を、この狭苦しい集合住宅に押し込めた。

 理由なら知っている。夫はセントラルに嵌められたのだ。重税、体制、それらに巣食うものに近付こうとして、死んだ。

 夫が死んだ時、彼女を包んだのは、諦観だった。夫のような街の去り方をする人間は、セントラルにはありふれている。皆、知っている。その諦観の理由を。皆、この街には恩義があるのだ。遺伝子に刻まれている原始からの恩義が。

 息子の前で流しっぱなしになっているテレビは、さかんに魔法少女の報道を繰り返している。つまり、それが理由。


 セントラルは、人々を魔法少女の脅威から守護することを約束した。そして、そのためのあらゆる介入も。

 だから逆らえない。逆らおうとする前に、気力が、意欲が削げ落とされる。それだけの機構が街に出来上がっている。魔法少女との戦いが、その仕組を強固にして、盤石なものにしたのだ。そして、人々を教化し――ある思想を植え付けた。

 ――『魔法少女さえいなければ、こんなことにはならない』。

 あらゆる不満も怒りも、街のいたるところで流されるトートロジーめいたそのメッセージに吸収されていく。魔法少女を許すな、総ては彼女たちのせいだ……。


 だから、少年の母も、諦観と一緒に持っていたのは、漠然とした魔法少女への恐怖と憎しみだった。幸いにも彼女が幼い頃には、主だった魔法少女狩りは大方片付いており、その存在についての実際はほとんど知らなかった。ゆえに、その感情は補強された。

 自分が街の言いなりになっているのは分かっている。だが、その思考に身を浸すことで得られる平穏というのも手放し難いものだった。もう彼女は何も失いたくなかった。なら、この冷たい思考停止に浸ることも許されてほしかった。それを、残った我が子に押し付けることも……。


「これで、良いのよね。あなた。魔法少女さえいなければ――」


「ねえ、お母さん」

 しまった、聞かれていたか。

 はっとして顔を上げる、息子は窓の外を見ていた。

 そこに、水滴。雨。嫌なものだ、よく眠れない――。


「お母さん。来るよ。何かが」


 何を、と言おうとした時。窓が揺らいだのを感じた。がたがた、がたがた。

 得体の知れない恐怖を感じる。なにこれ、何かがおかしい――。

 そしてその時、ケージに入れられた子猫が、歯をむき出しにして、窓の外に向けて獰猛な威嚇をむけた。


 次の瞬間、叩きつけるような豪雨が窓の外を覆い始めた。

 風が窓を打ち据え、轟音が沸き起こる。それだけじゃない。雷だ。唸るような音の次の瞬間には、鋭い白光が視界を覆い尽くす。それが数度繰り返される。

 彼女はとっさに息子に駆け寄って抱きしめた。なにこれ、突然。天気予報では、こんな――。

 震えながら、そっと窓の外を覗いた。

 同じことをしている部屋が幾つもあった。複数の明かりが点いている。

 そして目撃する。

 

 一人の女が、通りの真ん中、嵐の只中を歩いている。


「ッ……!」


 彼女は、全身が針で刺されたような感覚に陥る。ああ、あれは。あの女は……。

 その女は闇に溶け込む装束を着て、葬列のようにゆっくりと、前に進んでいる。そしてその足元にざわついている水の流れのようなもの。

 いや、それは雨粒ではない――鼠だ。

 地面を覆い尽くすほどの鼠が、狂乱しながら地面を疾走しているのだ。彼女の靴の代わりとなるように。

 抱きしめている息子の表情など、もう彼女には見えていなかった。体が動かない。恐怖で歯がガチガチと鳴り、全身がわななく。ああ、あれは――あれは……。



 魔法少女――ヴァルプルギスは、全ての漆黒を従えながら進んだ。

 街の中心へそびえ立つ尖塔。その只中へと。

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