第16話 家なき子③

 2日後の明け方、リュウが帰宅すると、テーブルの上にメモと綺麗な紙袋が置かれていた。メモはもと子の字で丁寧に書いてあった。

「リュウさん、おめでとうございます。ささやかですがプレゼントです。よかったらもらって下さい。

冷蔵庫に小さいケーキがあります。」

リュウはテーブルの上の紙袋を開けてみた。中にはネクタイが2本。1つは紺色地に青、水色、白の巾の狭いストライプ、もう1つはエンジの地にグレーの細かいドット柄。落ち着きのあるビジネスの場面に似つかわしいものだった。高いものではないが、もと子が店員に相談しながら一生懸命に選んでいるところがありありとイメージできる。知らず知らずに微笑みが浮かび、心がホッコリした。リュウはもと子の眠る部屋の閉められた襖にむかい、小さな声で約束した。

「プレゼントのネクタイ、初日から使わせてもらうな。ありがとう、もとちゃん。」

仕事で疲れてささくれだった心がしだいに柔らかくなってゆく。

次に冷蔵庫を開けると丸いケーキが一つ。生クリームでコーティングされ、ケーキのまん中に白いチョコのプレートがのっており、プレートを掲げるようにたくさんのイチゴがトッピングされていた。プレートには「リュウさん、おめでとう!」と濃いピンクの文字でかわいらしく書かれていた。リュウは紅茶を入れ、ケーキと共にテーブルに置いた。もと子の部屋に向かって両手を合わせ、小さな声で頂きますと言うとケーキをひとくち、口に入れた。ほどよい甘さとイチゴの酸味が疲れた体に心地よい。フワフワのスポンジは口に入れるとスッと溶ける。思わず顔が綻んだ。もと子と暮らし始めてまだ数日。直に顔を会わせる時間もあまりない。それでも、もと子と過ごす時間は心からの笑いがあったりと心地よい。リュウはもと子との暮らしに癒されている事にふと気がついた。

もとちゃん、俺の方がありがとうや。試験、頑張りや。絶対合格やで。俺も新しい仕事、頑張るな。

心のなかでもと子に語りかけた。


 年が明けて2月。今日は看護師の国家試験。もと子は持ち物の確認をした。受験票、腕時計、スマホと充電器、ペンケースに鉛筆と消しゴム。鉛筆は多目に4、5本。鉛筆削り。それに、もし受験票に記載されている内容を訂正しなければならないときに使う黒いボールペン。お財布、ハンカチ、テイッシユ、飲み物はコンビニで買うとして、カーディガン、休み時間に見る参考書そしてリュウに買ってもらったお守り。持ち物の確認が終わり、もと子はカバンを持った。そこへ目の前にお弁当が差し出された。

「もとちゃん、お弁当!オヤツも入れといたで。」

「わあ、オヤツもあるんですか!楽しみです!ありがとうございます。」

緊張のあまり固い表情をしていたが、もと子は思わず声を上げた。じゃあ、行ってきます、と出ていこうとするもと子にフワリとマフラーがかけられた。

「マフラー忘れてる。風邪ひくで。」

「これ、リュウさんの。」

「試験に合格した俺のマフラー貸したろ。縁起ええやろ?」

リュウは片目をつぶって見せた。リュウの貸してくれたマフラーをクルクル巻くともと子は口元までマフラーに顔を埋めた。目を閉じて深呼吸するとリュウの匂いに包まれる。すっかり気分を落ち着けたもと子は仕事明けのままお弁当を作ってくれたリュウに再度行ってきます、と笑顔で言うとアパートの階段をパタパタとかけ下りた。


 もと子が駅に向かう姿を見送り、リュウは大きなアクビを一つした。布団を敷くと耳栓をしてリュウは真っ暗にした部屋で眠りに落ちた。

どれほど眠ったのだろう?玄関のチャイムを連打する音と激しくドアを叩く音で目が覚めた。

「誰やねん?近所迷惑やろが。」

ブツブツ文句を言いながら玄関の鍵を外すと外側からドアが開けられた。そこには白いカシミアのコートに身を包み、モスグリーンのストールを巻いたご機嫌ナナメのサナが仁王立ちしていた。


 サナはリュウの姿を認めると、低い声で唸った。

「アンタ、なんで何も言って来ないん?」

突然現れたサナに驚いたリュウは言葉に詰まった。

「話があるねん。上がらせてもらうわ。」

目を丸くしたリュウの横をサナはすり抜け、さっさと家に上がった。脱いだコートとバッグを足下に置いた。テーブルに手土産のホールのチーズケーキを置くと、綺麗なカッティングのワインカラーのスレンダーなワンピースの裾を優雅に揺らして椅子に腰かけた。

「サナさん、俺の住所調べたんや。話って何?」

「アンタが連絡くれへんからやんか。ああ、喉乾いた。紅茶入れて。」

サナの方を振り返り、振り返り、リュウは紅茶の準備をした。サナはリュウの後ろ姿を眺めてボツリと話しかけた。

「リュウは平日、会計事務所に行ってるんだってね。忙がしいの?」

「まあね、覚えなきゃいけないことがたくさんあるからね。」

リュウはサナのカップに紅茶を注いだ。

「だからって何にも言って来ないなんてひどいやん。」

チーズケーキも切るようにリュウに渡すとサナは拗ねるようにリュウを見た。

「まだ怒ってんの?この間のこと。やり過ぎたわ。ごめん。」

唇を尖らせてサナは悔しそうに謝った。チーズケーキの皿をサナの前に置き、リュウもサナの向かいに腰かけた。

「反省してんの?この間の事はもうエエよ。」

リュウもチーズケーキを食べ始めた。二人はお互い目を合わさず、しばし無言でチーズケーキをつついた。

「あのさ、アンタが税理士になったことをお父様に言ったの。そしたら会ってくれるって。お父様のお眼鏡にかなえばアンタを、うちが顧問契約してる大手の会計事務所に入れて、婿として認めるって。だから次の土曜の夜7時にお父様の会社に行ってほしいんよ。」

急な話にリュウはゲホゲホとむせて、胸を叩いた。

「ちょっと待ってサナさん。俺、今の事務所辞める気ないで。」

「大丈夫よ、アンタの社長にはアタシの方から話を通してあげる。何も心配しなくていいから。」

「そういう問題ちゃうし、第一、新しい仕事に着いたばかりで結婚するつもりもないで。」

「え,,,アンタ、アタシは31なのよ。結婚ぐらい考えるやんか。それとももうアタシの事を嫌いになった?」

サナはみるみる顔色をなくし、フォークを落とした。

「サナさんのこと、嫌いになったわけちゃうで。ただサナさんと俺、違い過ぎる。サナさん、結婚したいんやろ?でも俺らこのまま一緒に居ても幸せにはなられへん。わかってるやろ?」

「リュウ、そんなんわかるわけないやん!アタシはアンタが好きなんやで。リュウが居てくれるだけでエエんやんか。」

大きな瞳に涙が溢れてポロポロと大粒の涙が落ちる。涙を拭くことも出来ず、サナは声を震わせた。

「,,,ごめん。」

リュウはただサナを見つめるだけだった。

「アタシはアンタとずっと一緒にいたいねん。なんでわかってくれへんの?」

しゃくり上げるサナにリュウはティッシュを箱ごと渡した。

「サナさんの気の強いところ、姉御肌で面倒見のいいところ、好きやった。でもサナさん、俺は今、その気ないねん。」

「いつまで待てばいい?言って。」

「いつか結婚するかもしれへんけど、サナさんとはない。きつい事を言って、ごめん、諦めて下さい。」

リュウは頭を下げた。サナはリュウの次の言葉を待った。でもいつまでも頭を上げない。二人の間に重く静かな時間が流れた。サナはもうしゃくり上げてはいなかった。少し震える声で聞いた。

「,,,ほんまにもうアカンの?」

リュウは顔を上げるとまっすぐサナを見つめた。そして淋しそうな顔をしてうなずいた。


潤んだ瞳でリュウをいとおしそうに眺めていたサナはふと小さく微笑んだ。

「,,,はあ、もう仕方ないなあ、リュウは。」

「サナさん,,,」

「リュウに嫌われたくないから、嫌われる前に別れたげる。」

立ち上がるとコートを羽織り、玄関でストールと同じモスグリーンのピンヒールを履いた。くるりとリュウに向き直るとサナは玄関に来たリュウの頬を両手を挟んだ。今にも涙がこぼれそうな瞳でじっとリュウを見つめ、切なく微笑むと唇を合わせた。

「リュウ、すごく愛してる。でもこれで終わり。」

サナは豊かなカールした髪を揺らせ、ドアからするりと出ていった。


しばし、リュウは玄関で立ちすくんだ。大きなため息を一つ吐くと首を左右に振り、両肩を回し、思わず呟いた。

「疲れた。」

リュウはいつも店でゴージャスな美女達に囲まれていた。自覚は無いが、さんざん男遊びをしてきた彼女達が手に入れたくなるほどの佇まいがあるらしい。おかげでいままで付き合った女達は皆、リュウのために心から尽くしてくれた。しかしその尽くし方は服装や持ち物をプレゼントして自分好みにしたリュウを自分のテリトリーの店や遊び場に連れて行ったりと自分好みに変えようとするものだった。またプレゼントの服をデートでは着るもののキップスではリュウは着ないことから、キップスでは自分好みのコロンをつけさせて、今は自分の男であることを仲間内にアピールさせた。こういうことにこだわりがないリュウは彼女達が喜ぶならと言われるままやってきた。彼女達との日々は初めはスリリングで楽しいものの、自分たちに合わせようとするのが続くとウンザリしてくる。


幸せだった頃のサナの美しい笑顔を思い出したがリュウは二度三度頭を振ってサナの面影を頭から追い出した。ようやく流しに立ち、サナが使った食器を洗い始めた。もう一度、今度は自分のために紅茶を用意しながら、ケーキの残りを夕食後にもと子と食べようと皿を出し、切り分けていた。

「ただいま。」

玄関の方を見ると疲れた顔にコンビニ袋を下げたもと子が帰って来た。

「もとちゃん、お帰り。どうやった?って聞いてええんかな?」

もと子のカバンを持ってやり、椅子に座らせた。

「うーん、受験番号とか名前を書き間違えてなければ、行けそうな気がします。」

「おお!やったやん。まあ、合格通知を見るまでは落ち着かんやろうけど、とりあえず今日はお疲れさんやな。」

もと子は大きくうなずくとようやくニッコリと笑った。と同時に大きくお腹が鳴った。

「やだ。恥ずかしい。」

顔を赤らめてお腹を押さえるもと子の頭をワシワシとリュウは撫でた。

「了解や!もとちゃん、ホンマに正直やなあ。」

今から作るわ、と言いかけて、今日はサナが来たのでまだ買い物に行ってないことを思い出した。

「すまん、昼に急にお客さん来てな、まだ買い物行ってないわ。どうする外に食べに行くか?それともお客さんのお土産のケーキ食べながら晩ご飯できるの待つか?」

「ケーキ?ケーキ!ケーキ、食べて待ってます!」

もう歩けないから待つ、と口では言うもののケーキの話を聞き、踊り出さんばかりにもと子は喜んだ。紅茶と2人分のケーキを出してやり、全部食べていいから、ご飯ができるまで待つようにとリュウが言うと、もと子は子供のような笑みを満面に浮かべて何度もうなずいた。

「可愛いやっちゃな。ほな行ってくる。」

「あ、リュウさん、アイスは買って来ましたから。リュウさんのはストロベリーでいいですか?」

「おう、ゴチやで。じゃあ行ってくるな。」

リュウは昼間の疲れを忘れてドアを開けた。



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