第19話 マルダレス山 麓の村2

 村の広場に置かれたテーブルには、所狭しと食べ物が並んでいた。


 山積みのミートパイに、腸詰を挟んだパン。

 籠から零れ落ちそうな焼きたてバゲットの薄切りに、ボウル一杯のレバーペースト。 

 水滴が陽光にきらめく、そろそろ最後の収穫になっただろうトマトに、酢漬けのキャベツ。

 まだ湯気を立てるスコーンの横には、これまたボウルからこぼれ出るようなクリームと、蜜を滴らせるハチの巣。

 大皿には適当に切られたチーズが盛られ、蜂蜜のようなとろりとした黄色が鮮やかだ。


 ウィルたちが馬車の整備をし、大神官とファンたちが村長の話を聞いていた時。


 村人たちはせっせとテーブルや椅子代わりの樽や藁束を並べ、料理を運び込んでいく。それらは主に、村の女たちが楽しそうに行っていた。


 話題は当然、村を訪れた神官と、その護衛の冒険者たちだ。


 特に話題になっているのは、まあ当然にというかユーシンの顔立ちで、あんなに綺麗な顔立ちの男がいるわけはないから、きっと女だと力説する老婆もいる。

 若い娘たちには、てきぱきと神官団を指揮していたロットが人気のようだ。


 そんな女性たちのおしゃべりに苦笑しつつも、男たちは近くに石を運び込み、老人たちが手慣れた手つきでくみ上げていく。簡易的な竃が見る間に複数完成した。


 そこに薪を子供たちが持ってきて、老人たちはその薪を受け取り、一緒に火を熾す。


 男たちが石の次に運んできたのは鉄串にささった肉。

 薄く切られた肉を重ねたものと、玉ねぎが交互に刺さっている串と、同じように交互にベーコンとジャガイモが刺さった串だ。


 それを竃の上に橋渡しにすると、途端に脂が焦げる匂いが広がった。


 その様子を、広場の端でウィルは見ていた。

 すぐ傍には、馬車馬とアスラン馬を放してある馬場と馬小屋がある。


 村の馬はおらず、ここは村を訪れた巡礼用なのだと、手伝ってくれた村人が教えてくれた。


 馬達は人間の騒ぎを気にすることなく、飼い葉を食んでいる。

 肉の焼ける良い匂いに反応したのは、一緒に作業をしていた冒険者たちの方だ。


 「うわー!なにあれ!すごい!」


 ヤクモがはしゃいだ声を上げ、とてて、と串を並べる男たちに駆け寄る。


 「すっごく美味しそう!そのお肉、何のお肉ですかぁ?」

 「豚だよ。うちの村自慢の豚さ!今日、大神官様たちがいらっしゃるとお聞きして、昨日から準備してたんだよ」

 串を並べつつ、男の顔も嬉しそうだ。村全体が何だかはしゃいでいる。


 (故郷の、収穫祭の日みたいだ…)


 ウィルの実家の領地は小さな村が三つほど。

 領主であるウィルの家ですら、まともな肉料理など何かのお祝いや来客のあった日しか並ばない。


 まして、村人がベーコンと干し肉以外の肉を食べる日は、収穫祭などの祭りの日くらいだった。


 その時並ぶ料理も、精々ちょっと厚くなったベーコンとソーセージと豚肉のパイくらい。

 それでも、村はこんなふうに笑い声と明るい空気に包まれていた。

 普段は背中を丸めて過ごしていた、ウィルやすぐ上の兄姉も、この日ばかりは一番継ぎの少ない服を着て、村人たちと踊ったり歌ったりしていたことを思い出す。


 楽しくて、一日中笑っていられた特別な日。


 今でも、故郷ではそうやって兄姉や甥姪が笑っていられるだろうか。

 もし、大神殿を放逐されたら、一度だけ戻ってみたい、と思う。


 いくつもの竃のうちの一つに、どん、と大きなフライパンが置かれた。

 子供の拳ほどもあるバターが置かれ、いい香りと共にまんべんなく表面を潤していく。

 それを見届けて、うむ、と老婆が頷くと、フライパンからはみ出すほどの鱒が乗せられた。


 「…タム…ラ…」

 「え?」


 小さな呟きに横を見ると、顔半分を手で覆って、ユーシンが背を向けていた。微かに肩が震えている。


 「え、ええ?だ、大丈夫ですか?ご気分でも…」


 「…だめだ…」


 「はい?」

 「見て、嗅いだら…駄目だ…」


 「も、もしかして、肉や魚の臭いがお嫌いなんですか…?」

 「ちげーヨ」


 すぽん、とユーシンの頭にどこからか持ってきた麻袋をかぶせ、コルムが首を振る。


 「逆、逆。我慢でキなくナルかラ、目と鼻ニ入れないヨーニしてルのサ」

 こくこく、と麻袋が頷いた。


 確かに、肉や魚の焼ける匂いは胃袋を容赦なく攻め立てる。

 村の子供たちも竃の周りをちょろちょろと周りだし、大人たちに叱られていた。


 そのなかの一人、いかにもこの村のガキ大将であるらしい少年が、ぱっと手を伸ばして肉の串を掴んだ。

 しかし、少年が勝鬨をあげるよりも早く、無慈悲な鉄拳がその脳天に落とされる。

 串を取り上げた女性は少年の母らしい。

 息子の腕を捻り上げつつ、串を竃に戻して周りの村人たちに謝罪する。


 息子にも謝るように促すが、子分たちの前で謝るのはガキ大将のプライドが許さないのだろう。少年は誇り高くそっぽを向いた。


 その反乱を黙って許すようでは、母ちゃん失格である。

 溜息一つと共に、息子を小脇にぎっちりとホールドし、勢いよくズボンを降ろした。

 ここでようやく、少年は己の敗北を認めて母ちゃんごめんと叫ぶが、母の制裁は止まらない。


 スパンスパンと音が響く。少年はついに泣きべそをかいて謝りだし、ようやく母の腕は緩んだ。

 それを見ていた大人たちは母の剛毅さを笑って褒め称え、子供たちは尻を抑えて微妙に涙目になる。

 ズボンをあげながらしゃっくりあげる少年を囲み、黙ってその痛みを共有しているようだった。


 「あーあ。痛そうだなあ…」


 「あ、ファン、おかえりー!」

 「ただいま…でいいのか?んで、なんでユーシンは…いや、いいや。察した」


 声は、背後から掛けられた。

 振り向くと、武装を解いたファンとエディが歩み寄ってきていた。

 その後ろに続くクロムも、腰に剣を下げているだけの軽装だ。


 「村長さんが部屋を貸してくれるって。お前たちも装備を外して来たら?」

 「そだねぃ。ユーシンは離れないだろーから、置いてっていい?」

 「いいぞー。暴走したら抑えておくから」


 麻袋からは、何やらぶつぶつと異国語の呟きが漏れている。


 「何いってんだぁ?こいつは」

 「ラヤ教のお経ダナ!」


 「なるほどなあ。チビ助、マクロイとオルソンも部屋にいるはずだから、外出て来いって伝えてくれ」

 「合点!行こうゼ、ヤクモ!」

 「うん!」


 軽い足音と共に二人が駆けていく。

 外す装備もないウィルはどうしようかと一瞬迷ったが、このままここにいることにした。


 ファンに、聞いてみたいことが、ある。


 昨日の襲撃について、ウィルも聞いていた。

 だが、見てはいないし、聞こえてもいない。


 完全に気付かず、寝こけていた。


 そんなことがあったのだと知ったのは、町に着いてから。

 顔色が悪いロットの体調を尋ねたら、そんなことがあって御業を使ったのだと教えられたのだ。


 賊は十人以上いて、弩弓で武装していたこと。

 その射撃をロットの聖壁が防いだこと。

 そして、その聖壁が消えるよりも早く、ファンたちが賊を倒したこと。


 ロットはその強さを称えていたが、ウィルにはいまいち納得できなかった。


 ファンの人柄と、問答無用で「敵を殺した」という行為が、結びつかない。

 少なくとも、最初は説得なりなんなりをして、応じなければやむなく交戦するとしても、殺すまでには至らないのではないか。


 そんなふうに思ってしまう。


 「あの…ファンさん。その…」


 「ん?どうしました?」

 駆け寄ってきた馬の首を撫でながら、ファンはウィルに視線を向けた。

 冒険者ギルドで会った日と変わらない、穏やかな視線と声。


 とても、躊躇いもなく人に向けて矢を放つようには見えない。


 なんと聞けばいいのだろう。

 なんで殺したのかと、そのまま聞くのは憚られた。


 それに、たぶんそれはウィルの知りたいことではない。


 「昨日…あの、襲われて戦ったって…」

 「戦ったって言うか…一方的に蹴散らしたって感じですけどね」

 「その…話し合いとか…」


 言ってから、しまったと顔を顰める。

 まるでこれでは、ファンを非難しているようではないか。


 それでは、アスランは野蛮人だと喚く大神官と変わりない。酷い失言だ。


 「そうですねえ。まあ、俺は脳みそお花畑とよくコイツに言われていますが」

 だが、答えるファンの声は、気にした様子もない。声も表情も、穏やかなままだ。


 「自分たちより数の多い武装集団が攻撃を仕掛けてきた場合は、初手で殲滅を狙います」

 「せ、殲滅ですか…」


 「初手で、殲滅だ。間違えるな」

 クロムの声は若干硬い。


 主を馬鹿にされていると取られたのかもしれない。

 クロムの顔を見上げる勇気が出てこなくて、ウィルは視線を地面に落とした。


 「相手が弱くて、こっちが強くても、人間は三人以上に囲まれたらほぼ勝てないんです。

 どこかに必ず死角ができる。

 そうならないよう、初手でなるべく数の優劣を減らす。できれば逆転する。どうにもできなければ逃げる。

 それを判断するのがリーダーの務めだってことくらいは、俺も心得ていますから」


 「三人…ですか?」


 変わらないファンの声に少し安心してその顔を見ると、大丈夫ですよ、と励ますようににっこりと笑われた。

 ぎこちないながら、なんとかウィルも口の端を持ち上げる。


 だが、自分が三人いても、ファンたちに勝てるとは思えない。

 ウィルの疑問を読み取ったのか、エディが苦笑しながらくるりと周りを指さした。


 「例えばさ、今、ファンを囲むように俺たちは立ってるだろ」


 「は、はい」

 「俺とユーシンが両脇から飛びついたらさ、ウィル坊かクロムの攻撃は必ず当たっちまうわけよ。

 両手が塞がっちまっても、前後どっちかには対応できるかもしれねぇ。

 が、どっちもは無理だ。

 そうならんように、常に位置取りするのが基本のキってヤツだわな」


 なるほど、とウィルはようやく頷いた。具体的に言われてみればわかる。

 多勢に無勢というのは、英雄譚や武勇伝ではよく出てくる状況だが、具体的にどうやって切り抜けたかまでは書かれていない。


 大勢で卑怯だと思うが、それはやはり有効な手段なのだ。


 「あと、説得と言うか、取引が可能な相手かどうかは流石に見ます。

 昨日の襲撃も、ちゃんとした傭兵団とかならまずは交渉してたと思うし」

 「人の言葉を話すだけのゴブリンに交渉してもな…時間の無駄だ」


 「えと、どうやって見分けるんですか?」


 「大神殿の旗を立てた馬車に向かって問答無用で矢を射込むようなヤツぁ、堅気じゃねぇな」

 とんとん、と首から下げた聖印を示しながら、エディが答える。

 「そうですね。と言うか、まともな人は馬車襲いませんから」

 「ちげぇねぇ!」

 エディの呵々大笑と交代するように、ふ、とファンの顔から笑みが消える。


 「人を殺して何とも思わないのか、当然だと思っているのかと問われれば、答えは否です」


 笑みは消えたけれど、声は穏やかでウィルを咎めるようなものではない。

 弁明でもない。


 それはきっと、今までに何度も自問自答を繰り返してきた答えなのだろう。


 「人を殺して、楽しいわけはない…けど、俺はやりたくないから誰かやってくれと逃げ出せないくらいには、矜持ってもんが俺にもあるんです」


 やりたいことではない。だが、やらなければならないとき、自分の手で行うことを躊躇わない。


 それは、ファンの覚悟だ。


 「す、すみません!僕、すごく失礼なことを…!」

 自分の勝手な思い込みで、その覚悟を咎めていたことを、ウィルは恥じた。


 ふう、と溜息をついたのは、クロムだった。

 その溜息は、冷たい、ウィルを嘲笑うようなものではない。


 ただの願望…自分に都合のいい解釈かもしれないが、顔をあげるとウィルにとって初めて見る、穏やかな笑みを浮かべたクロムの顔が見えた。


 「ま、コイツは敵にも甘そうなヤツと思われても仕方がないな。日頃の行いが行いだけに」

 やれやれ、仕方がない。肩を竦めながら、クロムはなんだか嬉しそうだった。


 「…それって褒めてる?貶してる?」

 「心当たりのある方で取ってくれ」

 「わかった。誉め言葉と取っておく」

 「…どうしてそうなる」

 主に向けた溜息は、先ほどの物よりよほど剣呑なものだったが、それでもクロムの表情はまだ、柔らかく緩んでいた。


 「クロムはファン大好きだもんなァ。その情をもっと別の奴にも振り分けてくれりゃあ、少しは愛想もよくなるかもね?」

 「何故、どうでもいい奴に愛想よくしなければならん。俺に愛想よくされたければ、金か食い物を持ってくるんだな」

 「持ってきても不愛想だろうがよ!お。チビ達もうきたか。早いな。扉の前に装備投げ捨てられてなきゃいいんだが」


 馬小屋の先、村長宅から元気よく走り出してきた二人を見つけて、エディが苦笑する。


 「学校帰りの子供が、家のドア開けて鞄放り込んで遊びに行くようなもんですかね」

 ファンも振り返り、手を振った。


 ヤクモが大きく手を振り返し、数歩手前で急停止する。

 完全に止まれず、くるりと一回転した。


 「やったー!僕の勝ち!」

 「アー!くっソ!油断シタ!」

 ほんの一瞬遅れたコルムが、大袈裟に悔しがる。どうやら競争してきたらしい。


 「アスランじゃ庶民の子供も学校行くんだっけか」

 「大都や大きい街ならですが。俺も大都に引っ越したのは10歳ごろなんで、学校には行ってないんですよ」

 ファンの言葉に、コルムが目を丸くする。


 「ソうなノカ?せんせー、いつ学者ニなったノ?学校行かナイとナレないよナ?騙り?」


 「大都だと、7歳から10歳までの子が行く読み書きと簡単な計算、アスランの歴史を教える学校があって、そこには行ってない。

 遊牧しながら、できる大人に習ってたんだ。

 10歳以上で入学できる高等学校には通って、そっから士官学校行って、18歳で兵役終わった後大学行って、20歳の時に学者の称号を授与されてって感じかな」


 「勉強好キだナー」

 「嫌いだったら学者にならないって」


 「大都の子供は、みんなそうするんですか?」

 ウィルも、学校には行っていない。

 そもそも、アステリアでは学校と言う施設はもっと大きくなってから行くものだ。


 手習い所ならどこの町にもあるが、大抵は神殿が兼ねている。

 自分の名前に書き方や、聖句の読み方を教わる程度だ。


 商人や職人になればもっときちんと読み書きできることが必要になるので、そちらの道に進み始めたら改めて学校にいくなり、親兄弟や先輩から習う。

 大きな商家なら、専用の教師を雇っているところもある。


 だが、農民なら簡単な読み書きができれば問題はなく、地方へ行けば完全な文盲も珍しくない。


 ウィルも今では聖句や教えを読み書きできるし、もっと分厚い本だって読めるが、それは神殿で学びだしてからだ。

 貴族であっても、読み書きは祐筆に任せている者も少なくはない。

 実家の父も、今のウィルほどには読み書きはできないだろう。


 「最初の学校は義務なので、皆行きます。

 俺みたいに10歳以上で引っ越してきた場合は、見合った学力が身についていれば任意です。高等学校まで行くのは全体の七割ってところですかね」


 「お金がないお家はどうしたら…」

 子供に手習いをさせないのは、不要だからと言うだけではない。

 手がかからなくなった子供は、重要な労働力でもある。

 労働力と金銭を取られるのは、貧困家庭にとっては致命的だ。


 「お金はかかりませんよ。授業料、教材費、昼食はすべて国費で賄います」


 「国が?」

 「アスラン…特に大都は、移民が多いんです。

 元の国の習慣や言語を持ち続けられると、移民だけのコミュニティが形成されてしまって、大都の中に小さな国ができてしまう。

 それを防ぐためにも、均一的な学習を行って、最低限アスランの公用語であるタタル語は習得してもらうんです。

 タタル語の読み書きができないと、その後就職するときにもできる職業が限られてしまいますからね。

 そうするとますます、同じ国出身者で固まってしまう。アスランは法治国家なので、アスランの法が及ばない場所が王都にあるなんて、許容できるものではないですから。

 アスランの法を守ってくれれば、どの国出身だろうと問題ないんですが」


 「小カーランか。結局、見せしめデ処刑だっケ?」


 「ああ。六代大王ハーンの御代のころだな」

 「小カーラン…ですか?」


 カーランと言うのは、アスランの東にある大国のことだというのは知っている。

 文化も風習も人種すらも、アステリアとは全く違う国。


 師父が、そのカーランから渡ってきたという皿を大切にしていたのを思い出す。

 泉のような翠の色を、とても美しいと思った。

 ガラスではない、磁器なのに透き通るような印象で、触れれば指が沈みそうだと感嘆した記憶がある。


 「六代ダト、今の前の前?」

 「現大王が八代大王だから、そうだな」

 「何しちゃったのぅ?そのひと」


 「その人がって言うか、カーラン皇国から移住してきた人がどんどん身内を呼び寄せて、カーラン人しか住んでない一帯を作っちゃったんだよ。

 言葉もカーラン語しか話さなくて。役人が調査に行ってもタタル語ワカラナイネーでカーラン語で捲し立てて協力しない。

 アスランは移住してきたときに役所に登録が必要で、一年様子見して、問題ないならアスラン国民として認められるんだけどさ。

 登録もしないでどんどん人が増えて、何人いるのかどんな人がいるのかも把握できなくなっちゃってな」


 そんな一帯ができれば、付近の住民は不安がって逃げる。

 空いた場所に、さらにカーラン人が呼び寄せられ、大きくなっていく。


 「治安もその一帯は大きく低下してさ。

 何せ、その付近の守備警護を担う衛兵もカーラン出身者が集められてたんだから。

 他の区画で強盗や殺人を犯しても、そこに逃げ込めば知らぬ存ぜぬで捕まえることもできなくて、他の衛兵が調査に入ったらそのまま行方不明なんてことすらあって。


 最終的に、王都の守備にあたる将軍まで関わっていたことがわかって、一緒に処刑されている」


 「今は、ないんですか?」


 「六代大王の王命で近衛軍が動いて、住民をいったん大都の外まで連行。徹底的にその区画を更地にしました。

 その際、抵抗したり、何か犯罪に関わっていた様子があれば基本は処刑。

 アスラン人としての登録がなければ国外追放。軍が連行して、カーラン皇国に引き渡しになりました。

 記録だと、住民は二万人ほどで処刑されたのはそのうち三千人ほど。自分たちで穴を掘らせ、そこに落として矢を射かけてから埋めるという、カーラン式の処刑だったそうです」


 「二万人…」

 アステリア王都イシリスで言えば、五分の一を不法滞在者が占めるようなものだ。

 大都の人口は百万近くだとファンは言っていたが、それでも途方もない数には違いない。


 「アスラン国民として登録していたカーラン人は戻ることを許されましたが、処刑された人数よりも少なかったそうです。

 むしろ、後からやってきた同郷人にいいように搾取され、虐げられていたようで…事態の把握も彼らが隙を見て脱出し、王に直訴したことでできたんですよ。

 今でもそのあたりは彼らの子孫が住んでいて、カーラン風の街になっていますが、それを売り物にしている観光地ですね。もちろん、厳重に監視されています。


 子供を学校に通わせるというのは、家族や人数の把握にもつながりますから。


 子供は子供同士、どこに同じ年ごろの子供がいるか詳しいし、学校に通わせていないのは何故か、と言う名目で調査に入りやすい。

 アスランの…大都の問題はここ数十年、移民難民ですからね」


 「詳しいんですね…すごい」

 神官は世俗から離れた身とは言うが、ウィルはアステリア聖王国の施策や問題について何も知らない。

 歴史についても何が起こったのが何時の王の御代で、などとスラスラと出てこない。最後の聖女王が何代目かも、よく考えたら知らなかった。


 「ファン、虫について詳しいだけじゃなかったんだねぃ」

 「そもそも、俺は虫の専門家でもないけどな?博物学者なだけで」


 博物学とは何ですか、と尋ねてみようかと開きかけた口を閉じさせたのは、こちらに向かって歩いてくる、一組の男女だった。

 恐らく夫婦だろう。荷車を夫の方が引いている。

 荷台に乗っているのは、樽だ。


 宴の用意をしていた村人たちが、村長、と声をかける。


 「みんな、麦酒も持ってきたぞ」

 おお、と村人たちが歓声を上げて荷車に駆け寄る。


 「さっきの麦酒は美味かったな。まだ飲めるなら楽しみだ」

 「ぼく、麦酒苦手~。お茶あるかなあ」

 「子供もいるし、お茶はあるんじゃないか?」


 村人たちはワイワイと騒ぎながら焼きあがった肉や魚を皿に乗せ、テーブルを更に埋めていく。男衆がビール樽を持ち上げ、別のテーブルに設置した。


 「良く、村長さん荷車に乗せられたなあ」

 「そりゃ、オルソンらが手伝ったんだろ」


 軽くエディが手をあげ、村長たちの後ろからやって来る二人に合図する。

 どうやらマクロイも歩けるくらいには回復したらしい。

 杖にすがりながらではあるが、ちゃんと自分の足を動かしていた。


 「ごくろうさん」

 「いや…」


 厳つい顔を緩めながら、オルソンは首を振った。

 武装は解除しているが、シャツの胸や腕は、盛り上がる筋肉ではちきれそうだ。


 「マクロイさんが、軽量化デクリーズ・ウェイトを掛けたから…」

 「おう、腰にこなかったか?」


 「三回失敗したわい」


 腰を摩りながらも、マクロイは嬉しそうに麦酒の樽を見ている。

 「ここの麦酒は、カラハナソウをちゃんと使ってるんだと。味見させてもらったが、美味かったぜ」

 「俺らもさっき、話聞きながら貰ったが、あれなら樽で行けるな」

 「ちげぇねぇ」


 いしし、と笑い合うおっさんたちに、コルムは舌を出した。あの苦みは、好ましいものではない。

 「俺も茶ノほーガいいナ」


 「ユーシンが勧められて一気飲みしないように気をつけないとなあ」

 「そうだねぃ。そろそろユーシンから麻袋とる?」

 ファンの頷きを確認して、ヤクモはユーシンの頭を包む麻袋を一気に抜きとった。


 「ニク…ハラへる…」

 爛々と輝く目と涎を垂らしそうな口許は、野良犬とかそういう類いの生き物だ。


 「ほんと、なんでコレがモテて僕がモテないんだろう…」

 「顔の差だナ」

 年少組がしみじみと呟いたところで、村長たちが隣に並んだ。


 「さあ、もうすぐ準備もおわります。皆さん、たくさん召し上がってください!」

 「ありがたくいただきます」


 代表してエディが答え、膝を曲げてアスター信徒の礼をおくる。


 村長の笑みが、大きくなった。

 「みんな…最近怖がって沈んでいましたから。本当に、皆さんが来てくれて嬉しいんです」

  夫の言葉に、妻も大きく頷く。


 冒険者たちの失踪は暗雲となり、村人たちの精神を陰らせていた。


 山の奥まで村人が入ることは滅多にないが、冒険者たちが踏み込んだ場所もそう山奥ではない。


 山奥、というほど険しい場所があるような山でもないのだ。

 朝、登り始めれば、日が暮れるまでには反対側の登山口に至る。

 そんな程度の山なのだ。


 村の誰かが帰ってこないのなら、冒険者ギルドへ依頼をすることも考えただろうが、帰ってこないのは村人ではない冒険者。逃げたのでは、と言われてもおかしくはない。


 何がいるのか、何が起こっているのか見当もつかず、亡霊の噂を思い出し、どうしよう、どうしたらと悩むだけの日々。


 それは、じりじりと精神を蝕む。

 村の若手有志で山に登ろうかと言う話すら出始めていて、村長は必死に押し止めていた。

 もう少し、大神殿から連絡が来るのが遅ければ、血気にはやった若者が山へ入っていただろう。


 そして帰ってこなければ、恐怖と不安はさらに増す。


 顔見知りでも、冒険者は「よその人」だ。だが、村の誰かが帰らなければ、その帰らない誰かは自分の友人か、親戚だ。


 いや、そもそも、冒険者が帰ってこない原因になった『何か』は、村へと降りてこないという保証はない。


 もし、目が覚めて、村の誰かが…あるいは自分が、消え失せていたら。


 確かめに登った村人が…あるいは自分が、帰ってこなかったら。


 だが、その不安も、もう終わる。大神殿が任命した冒険者が二組も来てくれたのだ。

 さらには、大神官様も…小さな町の神殿なら、神殿長になれる身分だ…来てくださった。御業を授かった神官様も一緒だ。


 もう、大丈夫。暗雲は必ず払われる。


 今までの不安を吹き飛ばすように、村は明るくはしゃいでいた。

 糠喜びになるかもしれないなど、誰も言わない。

 彼らが信じる夜明けの女神アスターは、夜の闇を退ける希望の女神でもあるのだ。


 その女神が遣わした戦士が、失敗するなどあり得ない!


 それは、そう思うことで不安をかき消す自己暗示ではあったが、同時に、村人たちの素朴な信仰心のあらわれでもあった。

 悪に染まらず正しく生きる信徒を、女神は必ずお救いくださる。

 その純粋な女神への信頼が、村人たちの希望の灯となっていた。


 村長たちと共に広場へ進んだ冒険者を、村人たちは歓声で迎える。

 どの顔も笑っていて明るい。

 先ほど尻を叩かれて泣きべそをかいていた少年も、目を輝かせてご馳走と冒険者たちを交互に見ていた。

 冒険者はいつだって子供たちの憧れなのだ。彼もあと数年したら、冒険者ギルドの大扉をくぐるのかもしれない。

 少なくとも今夜は、そんな自分を思い描き、剣を掲げる夢を見るだろう。


 神官たちもちょうど広場の反対側からやってきていた。

 ご馳走を見てアニスとシャーリーが明るく驚き、笑う。

 村人たちは嬉しそうに、彼女たちに麦酒が継がれたマグカップを配った。


 ファンたちにも、麦酒がなみなみと入ったマグカップが渡される。

 ヤクモとコルムのカップには、薄い赤で色付いた水が入っていた。


 「これ、なんですか?あ、良い匂い」

 「この辺りで採れる、ベリーで作ったお酒を水で薄めているんです」

 村長の妻が答える。赤い飲料からは、さわやかな香りがした。


 「あ、すいません。コイツにもそっちを…」

 「あら、麦酒は駄目でした?」

 「飲めるんですが…麦酒が苦手なのと、派手に酔っぱらうんです」

 ユーシンを指し示し、ファンが苦笑いする。ユーシンの分のマグカップは、ひとまず持たせているが、カップの縁に噛みつきそうだ。


 「そうでしたか。誰か、ベリー水を」 

 「はい!」


 返答は何人もの娘の口から上がった。競うように、自分の手に持つマグカップを掲げてやってくる。

 さすがにいくつものカップを差し出されて、ユーシンの目に食欲以外の光が点った。何度か瞬きして、ファンを見上げる。


 「お前の麦酒と交換してくれるって」

 「そうか。それはありがたい。苦いのは好かん」


 だが、誰のを受け取っていいのかの判断は着きかねるようで、眉が寄る。

 それを見て、村長の妻が苦笑しながらユーシンのカップを受け取り、代わりに一番近くにいた少女のカップを手に取った。


 「どうぞ」

 「ありがたく」


 カップを受け取って笑顔になったユーシンに娘たちがさざめく。

 きゃあきゃあと声をあげる彼女らに、村長夫妻は顔を見合わせて苦笑を深くした。


 「お客様にみっともないところを見せないの!さ、皆、戻りなさい!」

 「はーい!」


 「ふこーへーだ…」

 「やっパリ、顔カ…」


 「ま、まあまあ!それよりほら、食前のお祈りみたいだぞ?」

 アニスたちが一歩前に出る。大神官二人は、手を組み合わせた。


 「…こっから食事前の説教とかせんだろうな…。長くなるならおれは先に食うぞ」

 クロムがぽそりと不穏なことを口走る。


 だが、大神官の祈りは、実に短かった。


 「女神アスターへ感謝を!こんなご馳走をご用意くださった皆様にも感謝を!」

 「冷める前に、いただきましょう!あたし、お腹がさっきから鳴りっぱなしよ!」


 宣言するなり、シャーリーは手に持ったカップから、麦酒を喉へ流し込んだ。

 「ああ、美味しい!」


 わあっと歓声が上がり、皆大神官に習ってカップを傾け、飲み干していく。もちろん、冒険者たちも例外ではない。


 ただ、ファンとクロム、ユーシン…それにコルムは、まずは指を浸し、酒の雫を上と下に弾く。

 雫が地に落ちたのを見届けてから、カップに口を付けた。


 「お、チビ助もいっちょ前にやってるねぇ」

 「うっせーナ。ファンせんせーとカ、やらないとうるサそージャン」


 「強制はしないぞ。さすがに…ああ、今のは、宴の際にはまずは酒を天地に捧げるっていう、俺達の礼儀です。いや、しかし、美味いですねえ」


 残った麦酒を煽り、ファンはうっとりと目を細めた。


 「麦酒もうちの村の自慢です。たくさん召し上がってくださいね」

 焼き立ての串焼きが乗った皿を、村人たちがニコニコと笑いながら冒険者たちの前に置く。食べて食べてと促すようなキラキラした目だ。


 「ありがたく!イダーラ照覧!」

 「だから、ちゃんと言いなさいって。どなただよイダーラって」


 が、と串を掴んで一瞬。串の三分の二を使っていた肉と玉ねぎが消えてなくなる。

 代わりにユーシンの頬がぷっくりと膨れ、それもまた見る間に小さくなって元に戻る。いつ咀嚼したのかと目を見張るような早業だ。


 「うまい!」


 実に端的かつ、全てを言い表したユーシンの感想に、そうだろうそうだろうと村人たちが笑い合う。

 自慢の料理を誉められて、これほど良い食べっぷりも見せてもらえば嬉しくなる。


 そうなればもっと食べて美味いと言ってもらいたくなって、さあさあと、更に串を差し出してきた。


 「っと、俺達も食べよう!ユーシンに全部食われる!」

 「どけ、貴様全部食う気か!」

 「そのつもりはないが、そうなったとしても仕方はないな!」

 「しかたないわけないでしょー!」


 すでに三本串だけにしたユーシンの食いっぷりに、慌てて冒険者たちは自分の食料を確保する。

 かぶりつけば、一昨日とは違う焼いた肉の香ばしさと玉ねぎの甘みが口いっぱいに広がった。

 その顔を見れば、感想は言わずとも伝わる。村人たちの目はしてやったりと輝いた。


 「冒険者さん、鱒も美味いですよ!」

 「パイもいかが?」

 「この、レバーペースト塗ったやつ、食ってみてよ!」


 次から次へと自慢の料理が差し出される。

 旺盛に冒険者たちはその攻撃を迎え撃った。


 とは言え、第二波、第三波を受け止められないものもいる。


 「こりゃ、ちょっと外れておくか。さすがにあのペースで食わされたらもたん」

 「そうですね」


 十代の食欲についていけない年長組は、そっとあれ食えこれ食え攻勢から離れた。


 食欲的には問題ないが、干渉を嫌うクロムもさりげなく付いてきている。

 手には、食べ物が満載された皿を持っているが。


 「最近、いい物ばっかり食べてるなあ。これになれて好き嫌いが増えなきゃいいんだけど」

 「ベーコンの切れっぱしと石になったパンを嫌うのは好き嫌いと言わん」

 「じゃあ、野菜食えよ~」

 「馬に食わすようなクズを塩で煮たところで、クズはクズだ!お前だって食う時に無になってるだろうが!」


 ふ、とファンの視線が下を向く。

 エディたちも、それがファンの答えにくいことを言われた時の癖とは知らなくても、誤魔化していることは察した。


 「ウィルさん、大丈夫かな。まあ、あの人は少し太った方が良いし」

 「そうですわねぇ。ウィル坊やに、私の余ったお肉、わけてあげたいわ!」


 村人にパイを勧められ、それに栗鼠のようにかぶりつくウィルに話題を移そうとしたファンに応えたのは、ゆさゆさと歩み寄ってきたアニスだった。

 その向こうで、ロットたちがやっぱり食べて食べて攻撃にあっている。


 「お食事一段落したら、ご紹介したい方が居りますの。少々お時間よろしいかしら~?」

 「今でも構いませんけど、食べ終わってからの方が?」

 「あら、じゃあ、ちょっとお連れしますね!アニス、あなたはここにいなさいな。村の方々をお肉で吹き飛ばしてしまうから!」

 「大丈夫!治癒の御業は心得ていてよ!」


 ころころと笑う声を背に、シャーリーがひょいひょいと村人を避けて広場の端まで行き、すぐに一人の女性を連れて戻ってきた。


 年のころは、大神官二人よりやや年嵩だろう。袖は短いが、裾の長い神官服を身に纏っていた。

 嫋やか、という表現がしっくりくる。上品に整った顔立ちは、もっと生まれたものより、重ねてきた年月によるものだろう。

 ただ、その右目は、白く濁っていた。


 「この方、聖女神殿にお勤めする神官なのですわ」

 「聖女神殿の…?じゃあ、建て直したとか道の整備とか…」


 「申し訳ございません。わたくしは、かつての聖女神殿ではなく、この村から少し山に登った場所にある神殿の者なのです」


 膝を深くおり、女性神官は一礼した。

 慌ててファンも…串焼き片手ではあったが…礼を返す。


 「かつての、聖女神殿の分所でございます。マルダレス山中腹の神殿の東西に、そのような分所がございました。西の分所はもうございませんが…」

 「そうだったんですか」


 顔を上げ、女性神官は微笑んだ。


 「元々、冒険者の方が満月花を摘みに来られるのは、わたくし共の神殿からほんの少し奥へ行った場所でございます。なにかお役に立てればと思いまして」

 「助かります。ありがとうございます」


 頭を深々と下げたファンを、女性神官はじっと見つめていた。

 クロムがその視線に気付いて、食べ物の乗った皿をエディに押し付けるくらいには。


 「あの…どうしました?」


 もちろん、ファン本人も顔をあげた時にぶつかった視線に、戸惑いを見せていた。

 女性から熱い視線を注がれることはそうそうない。

 つい最近、ジョーンズ司祭から似たような視線を向けられたが…


 「あの、もしかして、20年前の内乱で、うちの親父と会ってたりとか…」

 「いいえ」


 ふるふると首が振られる。だが、光を宿す左目は、ファンの姿を映していた。


 「貴方様は、アスランの方なのですね?」

 「ええ。そうです」


 そう尋ねるということは、30年前の生存者なのか。

 だが、彼女からは敵意などは感じられない。


 「あの、一つ、教えていただきたいことがあるのです」

 「はい、俺にわかれば、なんでも」


 女性神官は胸に手を当て、そっと口を開いた。

 とても大切なことなので、大きな声では言えないというように。


 「ダージナイ」


 「え?」

 「この、ダージナイとは、どのような意味があるのでしょうか」

 エディたちの視線は、ファンとクロムを交互に行き交う。

 タタル語ならば、クロムにも解るからだ。


 だが、クロムは肩を竦めて首を振った。


 「ダージナイ…ダジーナイ…」

 ファンも顎に手を当てて、考え込んでいる。女性神官の左目が、幽かに曇った。


 「やはり、わかりませんか。アスランの方にお聞きしたことは前にもあったのですが…」


 「えっとですね、どんな時にその言葉を聞いたんですか?」

 「命を、助けていただいたときです」

 彼女の瞳に光が戻る。


 「30年前…聖女神殿に聖女王国の残党が立てこもった折…私をお助けくださった、アスランの騎士様が掛けてくださった言葉です」


 残党、とはっきり彼女は言い切った。


 その侮蔑と憎しみに満ちた言葉の鋭さを手掛かりに、ファンの脳裏で30年前の記録を纏めたページがめくられる。


 「ああ…わかりました。貴女がどんな方で、それが何という意味か」


 30年前。大神殿や聖女王国軍の残党は、聖女神殿に立て籠もった。

 もとから、そこに暮らしていた神官たちから、奪い取ったのだ。


 聖女神殿はその名の通り、女性神官が多かった。

 そこに武装した男どもがなだれ込んでくれば何が起こるかは、言うまでもない。


 聖女神殿の神殿長だった大司祭は監禁され、アスラン軍が陥落させた後、地下室で遺体が見つかった。

 死因は、殴打などによる打撲に加え、水も与えず地下室へ放置したことによる衰弱死とみなされている。


 神殿に火をかける前に、元々聖女神殿に勤めていた神官たちの捜索はくまなく行われ、恐らく生存者は全員救出されている。

 百人を超す規模だった聖女神殿の生存者は半数もおらず、その半数についても記録はこう書き記していた。


 『皆、痛めつけられ、尊厳を踏みにじられ、衰弱していた』と。


 「ダージナイ。それはきっと、正確にはこう発音したはずです『だいじない』」


 「ああ」

 女性神官は口を手で覆った。

 光を宿す左目と、白く濁った右目を共に限界まで見開き、痩せた頬が紅く色付く。


 その反応から、ファンは導き出した答えが正しいことを知った。


 「これは、アスランの大祖クロウハ・カガンの使っていた言葉のひとつです」

 「ん?開祖じゃねぇのけ?」


 「開祖クロウハ・カガンは大祖の息子。

 息子が父の名前を名乗ったので、大祖と開祖と呼び分けるんです。大祖のことを、大クロウハと呼んだりもしますね」


 「んで、そりゃあタタル語じゃないのか」

 「ええ。大祖がどこから来たのか、それは誰にもわかりません。

 ただ、彼の使っていた言葉はいくつか残っていて、俺達ヤルクト氏族に伝わっているんです。これは、そのひとつ」


 おそらく、彼女が聞いたアスラン人とは、ヤルクト氏族以外だったのだろう。


 ヤルクト氏族は、老人赤子を合わせても千人もいない。

 その滅多にいないヤルクト氏族が、いまここで彼女に会っているのは、それこそ女神が敬虔な信徒に与えた奇跡なのかもしれないと、ファンは思う。


 そんな運命なら、喜んで協力するのに。


 「意味は、もう、大丈夫。心配はいらない。

 転じて、人に言う時は、必ず助ける。守る」


 タタル語ではなくわざわざこの言葉を使ったのは、大クロウハの遺した言葉は、ヤルクト氏族にとって特別なものだからだ。


 クロウハの遺語と呼ばれる言葉を使って話したことは、必ず実現させなければならない。

 有言不実行となれば、それは大クロウハへの侮辱とみなされる。


 そのアスラン騎士は、彼女を必ず助けると、大クロウハに誓ったのだ。


 「…30年間…」


 静かに彼女は涙をこぼした。

 祈りを捧げるかたちに手を組み合わせ、涙を流れるに任せている。

 宴の喧騒が遠ざかったようにすら思えた。


 「その方は…わたくしをお助けくださったあと、討たれました。

 部屋に潜んでいたけだものが、数人がかりで襲い掛かって…最後に仰った言葉が『ダージナイ』だったのです。

 恩人の最後の言葉の意味すら知らず、もし、わたくしに何か問い問いかけられたのであれば、答えることもできずに…女神の御許には行けないと」


 震えながら、唇が笑みの形を刻んだ。


 「ずっと…ここに」

 組み合わせた手を胸に寄せる。涙がぽたりと、その細く白い甲に落ちた。


 「貴女は今ここに生きている。それだけで、彼の命を懸けた行いは報われていますよ」


 多勢に無勢であっても守り通したのだから、彼女は今、ここに立っている。

 立派な勝利だ。クロウハの遺語を穢したと先祖に怒られることもないだろう。


 「はい。ありがとうございます」

 涙を流し続ける彼女の背に、そっとアニスとシャーリーが手を添える。


 「…ごめんなさい。楽しい宴だというのに…わたくし、下がらせていただきますね」


 泣いた顔を見られているのは、あまり嬉しいことではないだろう。

 そう慮り、ファンは頷いた。


 一人で、過去に向いて泣きたい時だってときもある。


 「あの、もう一つ、不躾ながらお願いが…」


 「はい」

 「宴が終わりましたら…わたくしどもの神殿にお越しください。お渡ししたいものがございます。

 それに、少しであれば、満月花を乾燥させたものをお分けできますわ」


 ファンとクロムは顔を見合わせた。それが本当ならば、最低限の依頼はこなせたことになる。

 もちろん、一本二本分では到底足りないから、量次第にはなるとはいえ、保証ができることはありがたい。


 「最悪、ナナイをがっかりさせないことはできそうだな」

 「もうそれ貰って帰ろうぜ?」

 「駄目だろ…」 


 大神殿からの依頼も、達成できていると言えばできている。

 だが、真の依頼は『何か』の情報を持ち帰ることだ。

 多少なりとも手掛かりや痕跡を見つけることもなく戻ることはできない。


 「行方不明になってる、この村馴染みの冒険者についても調べてもいいって、言ってたじゃないか」

 「…まーな」


 クロムを黙らせ、ファンは女性神官に向き直った。


 涙は止まりかけている。


 だが、これからきっと彼女はまた泣くだろう。

 死者と向き合う時、その感情が哀しみではなくとも、涙は頬を伝うのだ。


 「ぜひ、伺います」 


 「お待ちしております」

 微笑んで、女性神官は一礼した。アニスたちにも礼を述べ、しっかりした足取りで去っていく。


 「すげーな。30年の伝言か」

 「そうですねぇ。遺語だけ残すつもりはその騎士にもなかったんでしょうけど」


 きっと、安全なところまで連れて行って、今度は彼女にわかる言葉でもう大丈夫だと伝えたかったのだろう。

 それは叶わなかったが、彼の言葉は確かに成された。


 『ファン・ナランハルの名において、遺語を成し遂げたことを証言する。大クロウハよ、照覧在れ』


 遺語の成就は、誰かが認めなければならない。

 できれば、アスラン人で、ヤルクト氏族で、身分が上ならばなおいい。


 だからここに、ファンは名も知れぬ親戚の誓いが果たされたことを宣言した。


 国に帰って調べれば、彼の名もわかるかもしれない。

 そうしたら、遺族に彼が遺語を成就したことを伝えよう。

 その彼に妻子があれば、貴方の家族の最期は誇っていいものだったと教えたい。

 誇り高い死より、生存を望まれていたのだとしても…死者の名誉は生者の力になる。


 大クロウハの最期の言葉も、『だいじない』であったと、アスランの史書には記載されている。


 だいじない。今度は、子を守って死ねる。こんなに嬉しいことはない。


 そう大クロウハは、息子に言い残したのだという。


 味方のはずの部族に騙し討ちにされ、息子を馬に乗せて逃がし、たった一人で十数人を道連れに戦い抜いて討たれたその最期。

 決してその誉れは色褪せず、約二百年、八代の時を超えて語り継がれている。


 大クロウハのごとく死ね、とはヤルクトの男なら必ず言われる言葉だ。


 「クロウハ・カガンの名前は知ってるけどもよ、二人もいるとは初耳だわ」

 「あたしもですわ。それでは、アスランとはどこから?苗字ですの?クロウハ・カガン・アスランと」

 「確かに、アスランは王家の家名ですね。姓をアスランと名乗れるのは、王家だけです」


 本来、草原の民であるアスラン人は姓を持たない。

 同じ支族であれば親戚であるという緩い連帯感は持っているが、同族であると証明することにそれほど拘りがない。


 父親の名を名乗りに入れるのは、出会って気になった異性が母親が違うだけの兄弟姉妹ではないか、探りを入れる為である。

 誰の子であるか、アスランの遊牧民が気にするのは、この時だけと言ってもいい。


 王家だけが姓を持つのは、それだけその身に流れる、二人のクロウハの血を尊ぶからだ。


 「アスランは、開祖の名です。

 本来、彼はアスランと言う名でした。アスランは巨大な狼の意味であり、タタル高原に生きる遊牧民を示す言葉でもあります。

 これはまあ、侮蔑に近いですけどね。人より狼に近い、と。

 大クロウハの死後、クロウハの名を名乗ると開祖が宣言した際、母ライマラルに、せめてあなたの名を残してほしいと懇願され、いずれ国を建てることができれば、国名と王氏をアスランとすると決めたのだと伝わっています」


 その名の通り、彼は巨大な狼に成長した。鋭い牙は周辺部族を噛みちぎり、咀嚼し、己の身とした。

 力強い四肢は草原を縦横無尽に駆け抜け、当時ほぼカーラン皇国の占領地だったタタル高原を開放し、ついに歴史上初めてとなる、遊牧民の王国を興したのだ。


 その際、彼らを餓狼の群れアスランと呼んだタタル高原の定住民は飲み込まれ、今では遺跡と歴史書にその名を見ることができるだけである。


 それだけでは勢いは止まらず、高原を下ってアスラン軍は周辺を侵略し、征服した。

 開祖が五十代の若さで病に倒れなければ、この時に西方諸国は征服されていたかもしれない。

 実際、嵐のように押し寄せ、略奪して引き上げていったアスラン軍の記録が残っている。


 その後、百年の時を経て、再びアスラン軍は西方諸国に迫るのだが。


 「ほー。それほど父親を尊敬してたんだなあ」

 「それだけに、大クロウハの死後、開祖の性格は一変したと言われていますね。優しく穏やかな少年だったのが、苛烈に過ぎる人格になったと」


 「まあ…その後、家族ができた後は穏やかに過ごせましたの?」


 「最期も陣中だったというあたりから察してください…アスランが王国としてやっていけたのは、寧ろ二代大王の功績が大きいです。

 侵略戦争を停止し、王国としての体制づくりに励んだ方なので…その後、三代でちょっと火種ができて、四代で燃え盛って、五代で大爆発しますけど」


 ファンは、開祖についてはあまり好印象は持っていない。

 尊敬はしているが…苛烈すぎる性格や、様々な残虐非道の行いは、非難されても仕方がないと思う。

 絶対に近い親戚とか、知り合いにいてほしくない人物だ。


 だが、彼が歴史上でも類を見ないほどの傑物で、人間が文字を得てからの歴史を紐解いても、必ず名の挙がる王なのは間違いない。


 おそらく、千年先まで彼の名は残るだろう。アスランと言う国が滅んでも、きっと。


 「当代はどのようなお方なの?」

 「んー…基本は内政重視です」

 「そうじゃなくて、性格とか。見目麗しいかしら?」

 「もう五十過ぎのおっさんですけどねえ~。見た目…」


 ちらりとファンの視線がクロムに向く。


 「悪くはないが絶世の美男子でもない。そんなところだな。見た目は」

 「まあ、辛辣」

 「おいおい、聞かれたら磔になっちまうんじゃねぇか?」

 「悪口くらいでそんなことをする暴君ではないのは、美点ですかね」

 「なるほどなあ」


 まあ、王様なんて近くで見る機会はねぇやなとエディが呟き、それもそうねえとシャーリーが頷く。

 彼女は、聖王バルトについて輝くような白皙、かつ精悍な美丈夫だと聞かれれば答える。

 だが、実際に会ったことはない。新年の挨拶や建国際のパレードで遠くから見たことがあるだけである。もちろん顔についてはほぼ想像だ。


 ある程度辛辣に評価できるということは、近くでお顔を拝見したことがあるのかしらと好奇心が顔をもたげるが、それを言葉にする前にファンが口を開いた。


 「さて、クロム。飯を食い終わったらちょっと馬を走らせるから付き合ってくれ。その後、さっきの人の神殿に行こう」

 「分った。お前もちゃんと食えよ」

 「そろそろ、近寄っても食べなさい攻撃食らわないかな?さっきから、鱒も気になってるんだよなあ」


 ちらちらとテーブルを見れば、ご馳走は半分ほどになっているが健在だ。


 その視線を受けて、村長の妻が一つの皿に料理を集める。

 気になる鱒も、切り分けられて乗せられた。


 「どうぞ。マーサ様とお話をされておられましたね」

 「あ、すいません、ありがとうございます」


 ありがたく皿を受け取り、ファンはバゲットに乗せられた鱒のバター焼きを手に取った。バターの芳醇な香りと、魚の脂の匂いをまずは堪能する。


 一番の好物はと聞かれれば迷うが、ファンにとって、魚はご馳走感のある食べ物だ。

 肉は当たり前に食卓にあるものでも、魚はそうではない。


 ぱくり、と食いつくと、思った通りの美味が口いっぱいに広がった。


 ファンの表情に村長の妻が顔を綻ばせる。

 三口ほどで平らげ、少々行儀悪く指を舐めてから、ファンは先ほどの問いに頷いた。


 「はい。あとで神殿に来てほしいと。満月花をわけてくださるそうです。神殿はここから遠くはないんですよね?」

 慣れた道とは言え、片目の見えない彼女が一人で往復するなら、そう遠くはないだろう。


 「ええ。あそこに屋根が少し見えますよ」

 村長の妻が指さす先、木々の隙間に少しだけ、色褪せた青い屋根が見えていた。

 神殿の位置は山の中、と言うより、村はずれと言った方が正解かもしれない。


 「あの神殿は、マーサ様をはじめとする神官様と、神官ではないのですけれど、一緒にお住まいになってお世話をされる方がお二人いらっしゃいます。

 皆さん女性ですから、力仕事が必要なときは、村の男衆がお手伝いさせてもらっています。

 本当に、もっと奥でなくて良かったですわ。聖女神殿跡地の方にも、何人かお住まいとは聞いているんですが…ご無事、ですよね?」


 「行き来はないんですか?」


 「ええ。その…聖女神殿の方は少し、気難しいと言いますか…」

 「ああ、嫌なやつなのね」

 きっぱりと切って捨てる大神官の言葉に、村長の妻は吹き出した。


 「ふふ、そうですね。アスラン王国のことも悪く言いますし…私たちはマーサ様から、あの方を守って亡くなられた騎士様のお話を聞いていますから、何だか納得できなくて…。

 前は本当に誰もいなかったんですよ。一昨年くらいかしら…急にいらして。それまでは月に二度、新月と満月の時にマーサ様たちが祈りを捧げに行くだけだったんです。それももう、来なくていいと」


 「左方のこずるい連中がいるのねえ。でも、何してるのかしら?」

 「そうですわねえ。あ、そのパイひとついただけます?」


 どうぞ、と皿を差し出しつつ、ファンも内心首を捻る。


 聖女神殿が重要な聖地なのは間違いない。

 だが、麓の村に分所があり、通うことができる神官がいるなら、協力を求めるのが妥当だ。

 それを来なくていいなどと拒絶するのは、不自然すぎる。


 「亡霊騒ぎの時は?聖女神殿跡地ですよね?亡霊の声がするのは」


 「聞くのが憚られて…。本当に、聖女神殿跡地にお住まいなのかも実は知らなくて…ケニーおじさん…あ、村の猟師がいうには、あそこで人が暮らしている様子はないって言いますし。月に何度か村にこられて、食料を持っていかれるんですけど。ベーコンやハムなどを」


 買って行く、ではなく、持っていく、と言うところに、彼女がその神官たちをどう思っているかが伺えた。実際、金銭が支払われたことはないのだろう。


 「俺達向きの話になってきたか」

 皿の上から腸詰を摘まみ、クロムは獰猛な笑みを口の端に持ち上げた。


 「今までいた連中を遠ざけ、敵には知らせず何やらやっている。馬車が通れるような道まで整備してな。そうなると、答えは分かりやすいだろ」

 「まだ、結論を出すには早い」


 だが、それを仮説として打ち立てるには十分な要素はある。

 右方に知らせず、左方が何かを行っている事。

 今まで聖女神殿跡地を管理していた神官たちを拒絶したこと。

 道の整備や、再建の噂。

 そして戻らない、近くまで行った冒険者。護衛を連れた巡礼。


 何故、戻らないのか。


 それは、襲われたのではなく、不都合なものを見聞きして、消されたのではないか。


 不都合なもの。それは、例えば。


 神殿の再建に見せかけた、軍備。


 アステリア聖王国では、神殿が私兵を抱えること、武装することを禁じている。

 王都で行えば、必ず摘発される。

 大神殿と言う王権が届きにくい場所であっても、バレルノ大司祭が見逃すはずはない。


 だが、この場所はどうか。

 王都から、二日の距離。周りは農村で、軍の駐在はない。


 聖女神殿は廃墟で、細々とそこを守る神官が暮らしていると聞いたのは、どこで誰からだったかファンは記憶を探るが、明確な答えが出てこない。


 となると、何かの話の際に合わせて聞いた程度なのだろう。


 もしかしたら、山賊の痕跡を調べに行った冒険者どうぎょうしゃから聞いたのかもしれない。


 だが、大きく広まっている話なら、通りがかった旅人が近くで人を見たとしても、何の疑問も感じないだろう。

 ああ、住んでいるという神官がいるのか、で終わる。


 巡礼は頻繁に訪れるというが、本当にそれは巡礼だったのだろうか。


 不満を燻らせる貴族と大神殿を行き来する、間者だった可能性もある。

 兵を置くためには、砦がいる。

 現地の状況を確認し、設計するために訪れていたのかもしれない。


 亡霊のふりをして噂を流し付近の村人が近付かなくなったら、道の整備と言って資材を運び入れればいい。


 聖女神殿の再建ではなく、砦の建設に取り掛かるのだ。


 右方が探ってきても、表向きは神殿の再建だ。

 決定的な証拠を掴むまで、口を挟むことはできない。

 神殿の再建自体は、悪いことでも禁止されたことでもないのだから。


 (だが、もしそうなら)


 ドノヴァン大司祭は、どこまで知っているのだろう。


 月に一度訪れるという彼は、何のために?

 彼が首謀者だとするなら、それは一番シンプルかつ自然な答えである。


 しかし、そんな人だろうか。

 大神殿で邂逅したあの老人は、確かに得体のしれない恐怖を感じた。


 (いや、違う)


 軍備とは、つまり反乱の企てである。

 アステリアの平和を脅かし、再び大地を血に染める愚行の準備である。


 この穏やかな日々を、誰もが望む平穏を踏みにじり、己の正義だけを絶対と言い張れるのは、とんでもない愚か者だけだ。


 ドノヴァン大司祭が愚者かどうかはわからない。それを判断できるほど、ファンは彼を良く知らない。


 だが、そんなことを企む愚者を、バレルノ大司祭が「ものすごいお人」と評するだろうか。少し憬れるような口調で語るだろうか。


 何より、実は反乱を企てている程度で、あんなに自分は怯えない。


 あの老人に感じた恐怖は、もっと異質だ。

 背骨を直に冷たい手で触られたような感触。


 あれは、そんなにわかりやすいモノに対する畏れではない。神の残滓と言われて頷きはしたが、納得はできていない。


 「そうだと断言はできない。だけど、仮説として対策を考えておこう」


 「突っ込んでいってぶっ殺す。それだけでいいと思うがな。実践経験のない素人なんぞ、派手に十も蹴散らせば勝手に崩れる」

 相手が人間で、本当に整いつつあるだけの軍なら、亡霊などより、よほどやりやすい相手だ。数が多くても、いくらでもやり方はある。

 いつもの初手で殲滅を狙えば十分だろう。


 だが、まだ、当てはまらない断片がある。


 聖女拝命の儀。

 それを今、実行する意味はあるのか。


 計画は思ったより進まず、手っ取り早く聖女神殿を再建する口実として、聖女拝命の儀を行おうとしている可能性もあるが。


 (だけど、それをアスターが是とするか?)


 女神は、30年前の愚行を怒り、哀しんだ。

 恐らく、聖女神殿で行われたことに対しても、女神は深く傷付いたはずだ。


 その女神アスターが、反乱の企てに手を貸すような神託を下すだろうか。


 聖女拝命の儀の託宣が狂言であったとしても、その後ドノヴァン大司祭が女神の意志を問うている。


 女神の残滓を纏うことをあれほど誇らしげにしていた老人が、偽りの神意を騙るとは思えない。


 もしそうなら、女神は反乱の成功を祝福しているようなものだ。


 ファンは、明るく笑い合う村人たちを見つめた。


 もし、本当に反乱が起きれば、この村は間違いなく戦渦に巻き込まれる。

 男たちは殺されるか兵士として取り立てられ、女たちは…酷い目にあうだろう。

 それを、女神は望むだろうか。


 大神殿の目指すところが権威の復活なら、女神への崇拝は確かにもっと盛んになる。再び、アステリアから女神アスター以外の神は駆逐される。


 その代償が、女神を信じる村人たちの血だとすれば、女神はそれを受け入れるのか?


 30年前の惨劇を怒り、哀しみ、加護を取り上げたような女神が。


 (そうとは、思えない)

 そうとは、思いたくない。


 ファンは、特定の神に帰依してはいない。


 兄に刻印を与え、アスラン王国を守護するリューティンには祈りを捧げることもあるが、神殿に入って仕えたいとか、その言葉や御心に触れて感動のあまり涙を流す、なんてことは多分一生ないだろう。


 だが、知り合えたたくさんの人が、女神を信じている。愛している。


 今、同行しているエディやアニスたち。大神殿のバレルノ大司祭、ジョーンズ司祭。そして、ウィル。


 彼らが愛する女神は、そんな彼らと同じものを愛すると思うのだ。


 日々の小さな幸せを。

 時には哀しみ、怒り、疲れ…それでもまた、笑いあえる日々を。


 そうした日が今日も始まる夜明けを、女神の信徒は愛している。


 夜明けの女神アスターも、きっとそんな信徒たちを愛している。


 その女神が、再び己の名のもとに血が流れることを望むわけがない。


 (…逆か。女神が、反乱計画を阻止したくて、女神拝命の儀を命じた?)


 だがそれならばなおさら、ドノヴァン大司祭はどういう立ち位置にいる?


 もちろん仮説だ。

 反乱の準備など、何もない可能性だってたっぷりある。

 だが、良からぬことが聖女神殿跡地で行われていることは、恐らく間違いない。


 (エルディーンさんとレイブラッドさん…無事でいてくれ…)


 聖女拝命の儀が、良からぬことを隠す為のデモンストレーションなら、きっと二人は無事だ。

 部外者に証言させることほど、信憑性を高めることはない。

 素晴らしい儀式でした。感動しました。女神を称える為、やはり神殿は再建すべきですと言わせればいい。

 彼女の実家から、寄付を募ることもできるだろう。


 そうならいい。それだったら本当にいい。聖女候補の少女たちも、それなら無事だ。

 でも、そうでないなら、

 

 ファンの鷹の目をもってしても、山の中腹にあるという聖女神殿跡地は見えない。


 そこに至るのは、明日。

 そうすると決めた事に、後悔はない。今日中に登山開始なら、こうして話を聞くこともできなかった。


 あの女性神官の心の重しを外す手伝いもできなかっただろう。

 それが、女神の意志でもあるというなら。何もないなら、それに越したことはないけれど。


 女神アスターよ。これがあなたの意志ならば。運命だというのならば、受け入れるから。


 あなたの信徒を。あなたを愛する信徒を、どうかお守りください。

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