第17話 王都西門

 「ねーねー、神殿からもさあ、人くるんだよねえ」


 まだ朝日の差し込んでいない、しかし、空の色は変わりつつある時間帯。

 西門へと続く聖騎士通りは、すでに人の往来が始まっている。


 もちろん、押し合いへし合いするような多さではない。

 だが、四人の冒険者が横一列になれないくらいには人通りがあった。


 旅支度の商人や傭兵、冒険者の姿も見えるが、一番多いのは農具を担いだ農夫たちだ。


 彼らは王都で暮らしているが、畑は城壁の外にある。

 毎朝夜明け前に門へ向かい、夕暮れ、城門が閉まる前に家へと戻る。


 こっくりこっくり舟をこぐ農夫を乗せた荷馬車を避けながら、ファンは頷いた。


 「その人たちの護衛だからな。俺たち。っと、よしよし…俺の髪は干し草じゃないぞ」


 慣れた様子で道を行く馬が、長い首を巡らせてファンの頭に顔を近付けた。

 いつもならば淡い金の髪が馬の鼻息で揺れただろうが、今はフェルトの中折れ帽の下に隠されている。


 「ほら、先へ行きな。ご主人の目が覚めたら、鞭をもらってしまうかもしれないぞ」


 得物を握っていない右手で馬の首を軽く叩くと、馬は再び首を前に向けて歩き出した。

 それでも耳は後ろを向き、広い視界で自分たちを見ていることに、ファンは口許を綻ばせる。


 ぽっくぽっくと暢気な音が夜明け前の大通りに響く。

 馭者台の農夫は夢の中のままだ。


 「馬はやっぱり可愛いなあ。コロスケは元気にしてるかな」


 「ころすけ?」

 「俺の馬の名前。ヒタカミ語でまるまるとしていて可愛い男の子、的な意味の名前らしい」

 「誰がつけたの…」

 「母方のばーちゃん。ヒタカミ人なんだ」

 「まったく可愛げのない馬だがな」


 うんざりとした声は、ファンとヤクモの背中越しに投げかけられた。


 クロムの武装は神殿に行った時と大差はない。

 違うのは、胴当ての下に鎖帷子をつけていることと、左手に円型の盾が括り付けられていることだろう。


 その隣のユーシンも、今日は袖のある上着を身に着け、筒型の帽子を被っている。


 荷物は全員、背嚢バックパックを背負い、手を塞いでいるのはファンの布に包まれた得物…弦をかけていない弓…とユーシンの槍だけだ。


 「アスラン馬は基本的に小柄でがっしりしているが、コロスケはファンが乗っても釣り合う巨体でな。さらに人を蹴り殺すことを一切躊躇しない」


 「人聞きの悪いことを…コロは人を蹴り殺したことなんてないぞ」

 「かなり本気で蹴り入れてくるだろうが!」


 クロムの反論には経験者の重みがあった。

 主とその家族以外が近付くのを許さないあの馬に、何度も狙いすました一撃を繰り出されている。

 すべて避けてこられたのは、最初の一撃は幸運によって、後の攻撃は最大限の注意を払っていたからだ。


 一応、クロムに攻撃するたびにファンが怒るので、手加減(足加減?)している様子もある。

 クロムはなんとか免れているが、骨をへし折られ、砕かれた馬泥棒は片手の指では足りない。


 「ぼく、近付かないことにするね!」


 被っている帽子を更に下へと引っ張りながら、ヤクモはきっぱりと宣言した。

 普段は帽子ではなく額当てを付けているが、どちらにせよこんな防具では気休めにもならないだろう。

 奮発して買ってもらった革の胴当てにしても、どれだけ骨や内臓を守ってくれるかわからない。


 「そうしろ。コロスケに限らず、アスラン馬にはホイホイ近付くなよ。未去勢の牡馬には特にな」


 「どーやってみわけんの?やっぱり、なんかキリリっとしているとか?」

 「去勢すると鬣を切るから、長い鬣をそのままにしていたり、編んでたりする馬には注意だな。

 特にそのままにしている馬は、ほとんど野生馬みたいなもんだから。

 牝馬でも、鬣が伸ばしっぱなしの馬は近付かない方が良い。子育て中か、胎に仔馬がいるから気が荒くなってるってことだし」


 ヤクモは先ほど荷馬車を曳いていた馬の顔を思い出した。

 茶色と白の斑模様の顔に、もう少し明るい茶色の鬣が掛っていた。


 「さっきの馬も、ファンじゃなかったら危なかったの?」

 「さっきの子はアスラン馬じゃないし、危なくはないと思うぞ。もう少し手入れをしてあげてほしいけどな」

 「アスラン馬じゃなくても、馬の後ろには立つな。

 馬の蹴りがまともに入れば、人間の頭なんぞスイカも同然だ」


 「ぼく、そのスイカって言うの見たことないな~。どんななの?」


 東方諸国では夏場の水分補給として重宝されているスイカだが、北方育ちのヤクモの記憶にはない。


 「緑で、赤くて、つぶつぶだ!」

 槍をファンと同じく肩に乗せ、ユーシンは両手で何かこねこねと形作っている。

 どうやらスイカを表現しているらしい。


 その動きだけを見ると、なんだか凸凹とした不思議なもののようだ。


 「え…ちょっと、気持ち悪いんだけど…」

 「んーと、ウリ科の野菜で、大きさはいろいろあるが、よく見かけるのは、俺の掌よりちょっとでかいくらいかな。ああ、カボチャをもっと丸くした感じだ」

 右手で何かを持つようにして、ファンがもう少し詳しい説明を始める。


 「カボチャならわかるよ~。甘くておいしい」


 「あれをやや楕円形にして、皮はずっと柔らかくて薄い。

 割ると、果肉は赤くて、種がたくさん散らばって入っているんだ。味はうっすらと甘い。ほとんど水だけどな」


 「つぶつぶって、種のこと?」

 「そうだ!口に含んで飛ばす!より遠くまで飛ばした方の勝ちだ!」


 唇を尖らせて、ユーシンは何かを吹き出す仕草をした。こうやって種を飛ばすということだろう。


 「それってお行儀悪くないの?」

 「良いか悪いかで言えば悪いけど、スイカ自体がお行儀よく食べるものじゃないからなあ。適当に割って、そのまま果肉にかぶりつくものだから」

 「へー、食べてみたいなあ」


 「俺は負けんぞ!」

 「うん。種の飛ばしっこはユーシンの勝ちでいいよ」

 心底どうでもいいと顔に書いて、ヤクモはにっこりと笑った。目は笑っていない。


 「まあ、やってみたら案外楽しいかもしれないぞ」

 「そーかなー」


 ぷうぷうと、空気を吹き出してみてヤクモは首を傾げた。

 面白そうな要素が見当たらない。息が苦しいだけな気がする。


 「まず、種を飲まずに頬に貯めておくのが難しいけどな~」


 「うっかり飲み込むなよ。尻からスイカの蔓が生えてくるぞ」

 「えええ?!」

 「何!?もう百個は飲み込んでいるぞ!!いつ生える!スイカはなるのか!?」


 「クロム、嘘を教えない。つか、なんでユーシンまで信じる」


 そんな雑談をしているうちに、夜の黒さは青に変わり、そして、白く移ろっていく。


 夜明けだ。


 西門を目指しているから、朝日を背中から浴びるかたちになる。

 伸びる四人の影の先に、イシリスの城壁が見えてきていた。


 大通りに面した商店が扉を開け放ち、開店の準備を始める。

 これから野良仕事や旅に出る者向けの軽食を売る屋台がぽつりぽつりと現れ、荷台に積まれたパンが売られていく。

 いつもと同じ、夜明けの光景。


 朝食を食べてなかったら間違いなく引っかかっていただろうなと、ファンは胸を撫で下ろした。

 屋台ごとに買う買わないの問答をしていたら、間違いなく遅刻だ。


 宿に置いておいた荷物や食料は、全て冒険者ギルドに預けてある。

 朝食もギルドで食べてきた。

 こうした早朝出発の冒険者にも対応できるように、ギルドは閉まることはない。

 さすがに職員は多くても三人程度だし、依頼の受付はしていないが、荷物の預かりくらいはちゃんと対応してくれる。


 帰還予定日から二十日以上たっても戻らなければ、預けた荷物は売却され、その金で冒険者たちの実家(あれば、だが)に死亡通知が届けられるのだ。


 もちろん、ファンは自分たちの荷物をギルドに寄付するつもりはない。

 背後に太陽のぬくもりを感じながら、視線を上げる。


 朝日に照らされて、西門がその威容を見せていた。


 王都イシリスをぐるりと取り囲む城壁は、西の方が東よりも高い。


 アスター大神殿を真っ先に朝日が照らすようにと、わざと東の城壁が低く作られているせいであり、今は東のアスランより西の諸王国の方が警戒すべき相手となってるせいでもある。


 その西の城壁に唯一開けられているのが、西門だ。


 城壁に直接扉があるわけではない。

 砦が張り出し、その城外側と城内側、両方に巨大な扉が備えられている。


 有事の際にはその通路に敵を一部誘い込んで殲滅できるように、外側の扉とは別に、鉄格子の落とし戸が存在していた。

 扉が閉められなくとも、鉄格子の落とし戸は支柱を抜き、支えている鎖を切れば相応の衝撃を伴って落下する。それ自体が武器にもなるのだ。


 今頃、係の兵たちがハンドルを全力で回してその落とし戸を引き上げているのだろう。ギリギリと言う音が微かに響いていた。


 丈夫な樫の木で作られた扉は、開け放てば馬に乗った騎士十人が横並びに通ることができ、二階建ての建物の屋根よりも頂点は高い。その巨大さと重さが防御力そのものとなっている。


 今はまだ固く閉ざされ、衛兵たちが立ち塞がっていた。

 開門まではもう少し。朝日が王城の尖塔を照らし出してからだ。


 「神殿からくる人ってさあ、どんな人だろー?綺麗なおねーさんとか、可愛い女の子だったりするかもだよねぃ!?」

 口許を緩ませて、ヤクモは西門を見上げた。


 「そんな子をこう、かっこよく助けちゃって、恋が始まっちゃったり!?」

 「ねぇよ、盛ってんな。アホ」

 「昨日夜まで帰ってこなかったクロムに言われたくないですぅー!」

 「俺は盛っているわけじゃない。すっきりしてきただけだ」


 ファンとヤクモがギルドから戻ってきて前金が分配されるなり、クロムは夜の店に消えていった。


 帰ってきたのは三人が早めの就寝準備をしている時で、安い香水の臭いにユーシンが盛大に顔をしかめ、珍しくファンが主としてクロムに命令を出した。


 いますぐ、外で水浴びしてこい、と。


 「もーさあ、クロムはナナイのこと好きなんでしょー?悪いって思わないのー?」

 「まったく思わんが。商売女とやるのは自分で発散するのと大差ないだろ」

 「???ナナイに悪いのか?あの臭いは確かに、不快だが」


 「さて、もうすぐ西門だ!どこにいるんだろうなあー!」


 朝から話す内容じゃない。


 西門が近付くにつれ人の密度も増していく。

 まだ、開門していないからだろうか、門前広場は混雑していた。


 中には微妙な年ごろの子供連れもいるのだし、人様に聞かせられるような話ではない。

 婚前交渉をはしたないとは思わないが、やはり夜の話題は夜にすべきだ。


 大袈裟にきょろきょろとしてみせると、さすがにクロムとヤクモは黙った。

 ユーシンだけ、納得できない様子でヤクモの袖を引きつつ、何やら質問をしているが。


 見渡す限り、多いのはやはり農作業へと向かう人々。

 先ほど追い抜いて行った荷馬車も見える。


 あくびをかみ殺す同業者ぼうけんしゃもいれば、大きな荷物を背負った商人、簡素な旅装の一団もいる。


 大陸交易路からは外れているため、王都イシリスは交易で栄える街ではない。

 だが、それでもやはり、街から街へ旅をする人々はいるのだ。


 アステリアの交易都市として名高いのは、東西の国境の街だ。

 西門からは当然、西方国境の街カレルに続く街道が伸びている。


 鳥の視点で見れば、東方国境都市ラバーナと王都イシリス、西方国境都市カレルは二等辺三角形を街道で描くような位置にある。

 大陸交易商人は底辺にあたる街道を通過して東西を結び、王都へは両国境都市から商人が往復する。


 東の品物は西の果ての方が高く売れるし、逆もまた然り。


 その為、王都では大陸交易を行う商会ではなく、個人で貿易を営む商人が多い。


 西門へ向かう商人らしき人々も、馬車を何十台も連ねるような隊商キャラバンの姿はなく、目につくのは農作業へと向かう荷馬車だ。

 なので、見渡すのに支障はあまりない。


 「お、あそこかな」


 開門を待つ人々は、当然ながら皆一様に西を向いている。


 しかし、その一段だけは東を向いていた。朝日の方へと顔を向け、祈りを捧げていた。

 裾の長いローブを纏うのは二人。その後ろに、袖と裾の短い神官服を纏っているのが四人。


 その更に後ろに、鈍く金属鎧を朝日に光らせる男が一人。


 「あ、ウィルさんだ!」

 その中に、痩せた神官見習いの姿があった。


 「あの人たちで間違いないな。行こう」

 混雑していると言っても、ぎゅうぎゅうに詰まっているわけではない。

 少しは嫌な顔をされたかもしれないが、ファンたちは人の流れを渡り切り、ウィルたちへと近付いた。


 ウィルたちがいるのは、門から少し外れた馬場だった。


 馬場にはたくさんの馬車や馬が繋がれ、藁の臭いが充満している。

 大きな馬車の荷台にせっせと荷物を積み込む商人たちや、馬の世話をする馬丁たちで忙しない。


 祈りを捧げる神官たちの傍らにも、立派な客車を備えた馬車が二台並び、ちょうど馬丁が馬を繋いでいるところだった。


 繋がれた二頭ずつ、計四頭の馬は周りの馬と比べても体が大きい。

 鬣もきれいに編み込まれ、眼にはブリンカーを付けている。


 バレルノ大司祭が金に糸目をつけず良い馬車を雇ったのは明白だった。


 「あ…」

 だが、ファンの視線はその立派な馬ではなく、その横に繋がれて干し草を食んでいる小柄な馬たちに向いていた。


 周りの馬と比べてもやや小さく、毛足が長い。

 鬣は短く刈られているが、尻尾は地面につきそうだ。

 背に鞍を付けているので、荷馬ではなく乗用馬だとわかる。


 「アスラン馬だ…」


 ファンの声が上ずる。

 交易路周辺の都市では違うのだろうが、王都イシリスまではアスラン商人が来ないせいもあり、その足となるアスラン馬も見かけなかった。

 まして、冒険者は馬と縁遠い。


 ほとんど一年ぶりに、ファンはその懐かしい姿を見た。


 「え、あのちいさめの馬?なんかモコっとしているし、おとなしそうじゃない?」

 「そう思うなら近寄ってみろ。神官もそばにいるから即死しなきゃ何とかなるんじゃないか?」

 「うむ。ヤクモ、せわしなく駆けまわっている馬丁どもをよく見ろ」

 「ん?」


 飼い葉を運んだり、鞍を直したりと忙しそうな馬丁や、馬慣れしていると思われる商人たちは、見事につながれた四頭の馬の周りを避けて通っていた。

 傍にいるのは、馬たちに干し草を差し出す青年だけだ。


 「きれーに、逃げてるね…あの人は平気なの?」

 「アスラン馬だって自分の飼い主には攻撃はしない。アイツが慣らすまで、絶対に馬に近付くなよ」

 「慣らしてもらったら、ほんとーに大丈夫なのぅ!?」

 「馬丁の力量次第だな!だが、去勢済みの馬のようだし、ファンがいれば問題は無かろう!」


 祈りを捧げる神官たちの邪魔にならないように、ファンは西側から馬たちに近付いた。

 本当は先に声をかけるべきなのだろうが、祈りを邪魔しちゃ悪い、と自分を誤魔化す。


 接近者の気配に、真ん中に繋がれた鹿毛の馬が顔をあげた。

 鼻面に一筋、白が入っている。流星ハルザン、と呼ばれる特徴だ。

 耳を動かし前足で土を蹴る。その警戒を露わにした様子に、残る三頭も口を止めて顔をあげた。


 「おい、あんた!ちょっとこれ以上近寄るな!」

 干し草を持つ馬丁が、慌てて制止する。


 それでもファンは足を止めなかった。


 「クロム、大丈夫なのぅ?」

 「俺が行ったら馬を余計に警戒させる。大丈夫だ。アイツ、もう唄を歌っている」

 「え?唄?」


 「鳥の声みたいな音がしてるだろ」


 耳を澄ませると、確かに鳥の声のような、笛の音のような音がしていた。

 だが、それはどう考えても人間の口から出る音には聞こえない。


 「え、これってファンが出してるの?!口笛でもないんだよねぃ?」

 「俺もアスランの遊牧民じゃないからよくわからんが、口笛とは違うらしい。喉の奥から気管を使って出してるって言ってたな」


 それは既に声とも違う気がするとヤクモは思ったが、馬たちの反応は顕著だった。


 苛立つように地面を蹴っていた脚を止め、首を伸ばしてファンに顔を近付ける。

 その鼻面にファンの手が置かれると、うっとりと目が細くなった。


 ファンの唄はまだ止まっていない。

 不思議なことに、馬車に繋がれた馬や、他の馬場にいる馬は耳を少々傾けるくらいで、大きな反応はない。

 アスラン馬たちだけが、耳を動かし聴き入っていた。


 「アスラン馬は仔馬の時からあの唄を聞かせて育てる。懐かしい子守唄ってところだな」


 馬はさらにファンの胸に顔を寄せ、額をこすりつける。

 その様子を見たほかの馬たちも、鼻面を伸ばしてファンをつつきだした。どう見ても攻撃ではなく甘えている。


 『タタルの風はよい風だ、西へ東へ北へ南へ、山へと河へと、星をも超えて吹いていく。見渡す限り何処までも、天尽き地終わるまで、何処まででも』


 笛の音のような唄は止み、変わってファンが呟くように歌ったのは、タタル語の歌だ。それが久しぶりに同郷の者にあった時に歌われるものだと知っているのは、クロムだけだった。


 アイツ、やっぱりなんだかんだでしんどかったんだな。


 主の心中を察しきれていなかった自分に、クロムは内心舌打ちをした。


 命を狙われて故郷を離れて、何でもないようにふるまってはいるが。


 当然、楽しいだけの日々ではないだろう。

 ファンの抹殺くだらないことを思いついて、実行に移した奴のことを心底許せない。


 ファンのことを、「友」と呼んだはずの男だった。

 士官学校時代を共に過ごし、兵役も馬を並べて乗り切った男だった。


 それだけ長い時間を共に過ごしたなら、「友」が後継者として祭り上げられようとしても、全力で拒否する人間だとわからなかったのか。


 追手として追撃してきた男を、クロムは斬ることができなかった。


 明らかに、相手の力量の方が勝っていた。

 もうしばし、打ち合っていたら斬られて地に伏すのはクロムの方だっただろう。


 その、自分の弱さが一番許せない。


 様々な思惑が絡まりあって、罪を問うことはできないのだとしても。

 だが、守護者スレンである自分が斬れば、問題はなかったのだ。


 主を狙われたから、返り討ちにした。


 そこに政治的な要素は全く必要がない。

 守護者とは、そういうものだからだ。


 喩えアスラン王が相手でも、主を守る為なら剣を向ける。


 アスラン開国以来…いや、更にその前から、すべての守護者はそうして生きて、戦って死んだ。

 クロムがそこに加わることに、なんら問題があろうはずはない。


 結局は、主が全力での離脱を命じたことで、自分も相手もまだ生きているけれど。


 今の暮らしは、それなりに平穏ではある。


 ユーシンを拾い、ヤクモが加わってからは、夜中にうなされることもなくなり、良く眠っているようで、傷は徐々に癒えていったのだと判断していた。


 だが寂寥感が、生乾きの傷を隠す瘡蓋のように張り付いていたのかもしれない。


 許可のない慣らしを行うなど、非常に失礼な行為だ。

 お前はこの馬の主に相応しくないとケンカを売っているようなものでもあるし、下手をすると、馬を買い取らなくてはならなくなってしまう。


 アスラン馬は主には従順だが、その分主を選ぶ。

 元の主の言う事を聞かなくなれば、もうその馬は肉になるか、ファンが責任もって買い取るしかない。


 それでも吸い寄せられるように近寄って唄ってしまったのは、アスラン馬はまさに故郷アスランそのものだからだろう。


 「ありゃあ、あんた、アスラン人か」


 馬丁はかぶっていた帽子を脱ぎながら、気の抜けた声をあげた。

 馬車に馬を繋いていた馬丁もどうしたことかとやってくる。


 「あ…」


 その声に、ファンも事態を把握したようだった。明らかに顔が引きつっている。

 「あああ、すいません!許可を取らずに慣らしちゃって…」


 馬丁はそっと鹿毛に手を伸ばした。ちゃんと馬の視界に入ってからの動きだ。

 返答は、だん、と地面に振り降ろされた後ろ足。


 「買い取り、できるかい?」

 二人の馬丁は顔を見合わせた。完全に、馬は馬丁を拒否している。

 試しにもう一人が手を伸ばすと、一番右端にいた馬が容赦なく噛みつこうとした。間一髪腕が引かれ、がちん、という物騒な音が鳴り響く。


 その様子に、ファンの顔から血の気が引いた。

 当然アスラン馬の気性については、ファンが一番理解している。


 こうなったアスラン馬は、決して拒否した人間に慣れることはない。

 馬丁達については、主とまでは思っていなかったのだろう。

 だからといって、馬丁に責任は問えない。間違いなく、無責任に慣らしを行った自分のせいだ。


 「あ…あははははは…おいくら?」


 馬の相場は、実はよく知らない。

 ファンにとって、馬とは「自分のうちで飼っている馬から産まれてくるもの」であり、買うものではないからだ。


 他の馬が欲しい場合には、遊牧民同士で馬を交換する。

 馬車を曳くのに向いた力の強い馬が欲しいから、うちの足の速い馬と交換してくれ、というように取引をするので、売ったこともない。


 ただ、非常に高価だということは知っている。


 「一頭、金貨1枚」

 「あ、あははははははははははは」


 それが高いか安いかはわからないが、甘えてくる馬たちはいずれも馬体のバランス、筋肉の張りがいい、良い馬だ。

 もしかしたらもっとするのかも知れない。


 もう、乾いた笑い声をあげるしかない。


 「…どーすんの?あれ…」

 「どうしようもないな。爺に必要経費ってことで金出させるか」


 クロムはため息とともに首を振った。


 馬がいること自体はむしろ好ましい。だが、馬と言うのはアスラン以外で飼うと、ともかく維持費がかかるのだ。


 「出してくれるかなあ?」

 「借りるくらいはできるだろ。アスラン行ったらアイツの貯金から金返せばいいんだしな」


 冬至に帰るとしても、できれば直接大都にいかず、まずはファンの祖父のもとに行って、安全を確保してから向かいたいとは思っていた。


 問題は、遊牧しているファンの祖父を徒歩で見つけるのは不可能だということで、それを考えれば馬を買うにはいいタイミングかもしれない。


 なにせ、馬に乗れないド素人を、全力疾走する馬の背にしがみ付いていられるくらいには鍛えなくてはならないのだ。


 時間はむしろ足りない。


 冬至に間に合わせるなら、この依頼が片付いて少し休養を取ったら、すぐに向かうべきだ。


 ファンの買いたがっている下着肌着も、大都で買った方が安い上に質もいいのだし。

 安いからと言って変な柄の物を買おうとしたら全力で止めなくてはいけないが。


 「な、なに?クロム?何でぼくをじっと見るのぅ?」

 「いや、何回くらい泣くかなと思って」

 「え、なに?なんなの?何の話?!」

 「こっちの話だ」

 「ちょっと!怖いよ!教えてよ!」


 「ファン!クロムが馬を買っていいと言っているぞ!俺は左端の奴がいい!」

 アスラン人ほどではないが、キリク人も騎馬の民だ。山地を馬で駆け巡る事なら、アスラン人よりも巧みだ。当然ユーシンも馬は慣れ親しんだものだ。


 「で、買えるのけ?」

 「ぶ、分割とか、ききます?」


 馬丁は首を振った。無理もない話だ。

 よほど名の知れた冒険者でない限り、基本的に根無し草に対する商売は現金一括のみである。


 「おい、こいつの身元は大神殿のバレルノ大司祭が証明する。っつか、金はあの爺から取り立てろ」


 「い、いや、成功報酬!成功報酬で払うので、ちょっとだけ待ってください!」

 成功報酬は全員で金貨五枚。確かに払える。


 『クロム、ユーシン!実家に帰ったら必ず返すから、ちょっと貸してくれ!』


 『俺は金に興味はないから構わん!』

 「おい、ヤクモ。ファンが成功報酬かしてくれとさ」

 「うん?僕は別にいいよ。大金貰ってもどうやって使っていいかわかんないし…って、クロムは?」


 「ありがとう、ユーシン、ヤクモ…必ず返すからな」


 どうやら金を払う当てがあるらしいと判って、馬丁は胸を撫で下ろした。

 金貨一枚は、実はでまかせだ。

 いくらで売ればいいのかは彼らが決めることではない。だが、売れなくては馬主に怒られてしまう。


 「えっと、馬たちは貴方の馬なんですか?それとも別に馬主が?」


 「おいらは雇われてるだけよ。

 まあ、金貨一枚は値引いてまけもらえると思うぜ。おいら達もご主人もちょっと持て余し気味だったしさぁ。

 今回は大司祭様たっての注文でお声が掛ったけど、借し馬でアスラン馬はあんまし使えないからね」


 入念に慣らさないと客を背に乗せない馬は、確かに持て余すだろう。


 「そんじゃ、おいらは馬車馬の方だけ面倒見っから。こいつらは頼んだよ」

 さっさと馬の蹴りが届く範囲外に逃れると、馬丁は帽子をかぶりなおした。


 「いやあ、さすがはアスラン人だねえ」

 「いやはや、まったくだ」


 その後ろから、笑い声を含んだ声が投げかけられる。


 ぎょっとした様子で見上げる馬丁の後ろに、金属鎧を纏った男が立っていた。


 短く刈り込まれた金髪と髭は、ファンのそれよりも色が濃い。

 首から下げた女神アスターの聖印が、横から差し込む朝日を反射して輝いていた。


 「よう、ファン。うちのお師匠おっしょうに尻撫でられたって?」


 「エディさん!ああ、そういやアスターの神官戦士でしたっけ!」

 「そういやは失礼な。敬虔なアスターの使徒を捕まえて」


 がはは、と豪快に笑う男は、三十半ばくらいだろう。

 ファンに並ぶ長身で、巨大な戦斧を担いでいる。


 その姿はギルドでよく見かけたし、一年の間には名前と顔を一致させられるくらいには互いに顔見知りになっていた冒険者どうぎょうしゃだった。


 「昨日、俺たちゃ王都に帰還したっつうのに、いきなりお師匠に呼び出されてな。ンなもんで、うちの一党は疲労が抜けてない。もし、道中なんか出たら任せるわ」

 「それはかなりの無茶ぶりですね…」

 実際、エディの目の下には隈ができ、疲労している様子が見て取れた。


 通常、冒険者はよほど金に困っていない限りは連続で仕事を受けない。

 体を休め、疲労を抜くことも仕事の一環だ。


 エディたち一党は中堅どころの実力派で、山賊退治から荷物の護送まで引き受け、指名されることもよくある。

 ここまでくれば、食いっぱぐれることもないし、無理に連続して依頼を受けるほど困窮していない。


 「まあ、師匠には逆らえんからな。ジョーンズ司祭は怒らせたらオーガより怖い」


 おどけたように肩を竦めるが、本当に怖いから引き受けたわけではないだろう。

 お師匠、と呼ぶ声には隠し切れない親しみがこもっている。


 「ジョーンズ司祭のお弟子だったんですか」

 「おう。二十年前、ガキだったころ、領主に無理やり戦に駆り出されてな。死にかけたところを助けてもらって弟子入りしたのよ。

 …村に帰ったら、なんもなくっていたしな」


 最後の湿った空気を払うように、エディはニッと歯を剥きだして笑った。


 「うちの連中は馬車ン中で寝てる。まあ、皆知った顔だよな」

 「コルムもいるぅー?」

 「当然。うちのチビ助もヤクモと仕事できるって張り切ってたぜ?」


 「つまり、俺たちは疲れ切ったおっさんらの護衛、もし、現地で何かあれば後はおっさんに報告して終わりって事でいいんだな?」


 「おう。お前さんたちは気付いたことがあれば報告してくれりゃそれでいい。あとは、まあ、儀式が失敗したら、それについて聞きに来る奴がいても、口をつぐんでいるのが仕事だな」


 法外な報酬は口止め料も兼ねるのだと、暗に念を押す。


 「それはもちろん。沈黙は金と言うしな。金さえ払ってくれりゃ文句はない。ついさっき、必要な金になったしな」


 「あ…あははははは…は、反省しています」


 落ち込むファンの肩に馬が顎を乗せたり、頬を鼻面で押したりしている。

 すっかり懐いているその様子に、ヤクモとエディはほぼ同時に感嘆のため息をもらした。


 「すごいねぃ、ファン。アスランの人ってみんなそうなの?」


 「いや、今は一生馬に乗らないアスラン人の方が多いよ。遊牧しているのは国民全体の一割程度じゃないかな。

 大都に住んでいる人は乗合馬車があるから馬自体は見慣れているけど」


 「あ、あの、ファンさんは大都の人じゃないんですか?」

 おずおずと掛けられた声に全員の視線が向く。


 粗末な神官服を纏った痩せた青年は、見る間に耳まで赤くなった。


 「あ、あの!」

 神官服の裾を握りしめ、さらに顔を赤くしてウィルは口を閉口させる。

 緊張のあまり言葉が出ないのと、何と言っていいのか決めあぐねているようだ。


 「言いたいことがあるならさっさと話せ。野郎がもじもじしていても薄気味悪いだけだ」


 「女の子がもじもじしていてもウザいって言うよね?クロム…」

 ヤクモのツッコミを、クロムは「当たり前だ」と偉そうに切って捨て、腕を組んでウィルを見下ろす。


 「こいつの言うことは気にしないくて良いからねぃ」


 「い、いえ、はっきりしないのダメだって、良く言われますし!

 えと、あの!役立たずとは思いますが、雑用係として同行させてもらいました!よろしくお願いします!」


 地面に額をぶつけるんじゃないかと言う勢いで、ウィルは頭を下げた。

 左方に属するウィルが、右方の手配した援護班に加わるのは、いろいろと大変だったのではないだろうか。


 そんな懸念が伝わったのか、ウィルは顔をあげると真っ赤になった顔で笑った。一点の曇りなく、きっぱりと。


 「もともと雑用係は命じられていましたので!」


 実際は、ものすごく怒られた。

 商人に信仰を買われたかと罵られ、懺悔をしないならお前の居場所は大神殿ここにないと師父に詰られた。


 だけれど、ウィルは今、西門ここにいる。彼の人生で初めて、怒られても罵られても命じられても、意志を貫き通した。


 破門されても、大神殿を追放されても、生きていれば働ける。

 働いて、金を稼いで暮らしていけばいい。


 神官見習いでなければ死んでしまう病にかかっているわけではないのだし。


 一昨日の夜、粗末な寝台で転がってそう思ったとき、真夜中だったけれど、ウィルは確かに夜明けを見たのだ。


 閉じ込めらていた夜を終わらせる光…その光に包まれたように感じながら、ウィルは眠りについた。

 その時、誰かがそっと頭を撫でて誉めてくれたような気がして、ますます嬉しくなる。

 大神殿に来て初めての幸せな眠りだった。


 翌朝、朝の勤めを果たすと、朝食をとらず真っすぐにジョーンズ司祭に会いに行き、同行を願い出た。

 

 そして今、ウィルはここにいる。


 「こちらこそ、改めてよろしく。ウィルさん」

 「はい!」


 「ねーね~、ウィルさん」

 「はい?」

 「他の神官さんって、女の子?かわいい?きれい?」

 「え?!」

 

 「コイツの戯言も聞き流せ」

 ごん、とヤクモの頭にクロムの拳骨が落ちた。


 「いたいってば!クロムだって気になるでしょ!」

 「ならねぇよ。やれるわけでもない女がどうだろうと関係ない」

 「さいてーだ!クロムの方がひどいよ!」


 ごんごん、と音が二回続き、クロムとヤクモは頭を押さえて黙った。 


 「えーと、アレな連中ですみません…でも、挨拶しとかないといけないので、ウィルさん、紹介をお願いします。ユーシン、ちょっとこれ持ってて」

 「わかった」


 左手にずっと握っていた得物をユーシンに渡し、拳骨を食らわした右手を振るファンに、ウィルはこくこくと頷いて見せた。

 心なしか、拳骨をしたファンの方が痛そうである。二人とも、結構な石頭なのかもしれない。


 「あの、ファンさんの武器って、あの棒なんですか?」


 ユーシンが受け取ったのは、ファンの身長よりも長い、布に包まれた棒状のものだ。

 「いや、弓ですよ。まだ、弦を張っていないだけです」

 ぽん、とファンは腰に吊るした長方形の箱を叩いた。


 ぱかり、と蓋が開き、ぎっしりと詰まった矢羽根が現れる。

 もう一度蓋を閉めると、また何の変哲もない長方形の箱に戻る。

 ただ、普通の矢筒よりもずっと縦に長い。


 「俺は弓使いですからね」


 「あんなに大きいんですか…」

 「シドウの大弓と言いまして、うちの氏族だけが使っている長弓です…ていうか、この弓しか俺は扱えないんですけどね」


 「で、でも、僕はなにも扱えませんから!あ、あの、ファンさんたち来てくれました!」

 ウィルの声に、東を向いていた一団が振り返る。


 「まあ、よろしくお願いいたします。アニスと申します。大神官を拝命しておりますわ」


 緩やかに手を広げ、おっとりと膝を曲げて一礼したのは、四十過ぎに見える、ふくよかな女性だった。


 丸くやわらかな曲線で構成された顔はにこにこと笑っていて、ファンに向けられた掌もぽってりと温かそうだ。

 その手を取って膝を曲げて額をつけると、「まあ!」と弾んだ声がした。


 「あらあら、ジョーンズ司祭に自慢しちゃいますわよ!」

 「え?自慢になるんですか?」

 「そりゃあもう!ジョーンズ司祭だけじゃなくて、同期の皆に自慢いたします!若い素敵な殿方にこんなことされちゃったって!あらあら、私、はしゃぎすぎかしら!」


 「そうよ、はしゃぎすぎよ!順番待ちしているこちらの身にもなって!」


 「あら、ごめんなさいね!」

 ころころと笑って、アニスは一歩横にずれた。ぽよん、と言う音がしそうだ。


 「あたしは、シャーリー!同じく、大神官です!」

 かわって進み出てきたのは、小柄だががっしりした、同じく四十前後に見える女性だ。


 期待に目をキラキラさせて差し出された手を取って、同じように額をつけると、きゃあきゃあと華やいだ声が上がる。


 「…おい、なんだこれ…地獄か?」

 「かわいいしんかんさん…」

 「遠慮せずに恋を始めろ。ファンの盾になれ」

 「むりです」

 「…?頼りがいのありそうな御婦人かと思うが?」 

 後ろの三人の声に、大神官二人は顔を向け、そしてまたきゃあと悲鳴を上げた。クロムの頬が引きつる。


 「まあ!ジョーンズ司祭のおっしゃったとおり、皆さんとっても素敵!」

 「あらー!見てるだけで目が洗われるわよ!」


 「師匠…お願いだから落ち着いてください…」

 「まったくです」

 きゃあきゃあと手を取り合ってはしゃぐ女性二人を嗜めるのは、三人の男性神官だ。彼らはまだ二十代から三十代前半だろう。


 「私たちは、アニス大神官とシャーリー大神官に師事しているものです。私は、ロット。アニス先生を抑えているのが、テリー。シャーリー先生を抑えているのがデイブ。いずれも身分は神官です」


 「あ、はい」


 「なんというか、右方は全員あんな人だとは思わないでほしいところですが…お二人とも、治癒の御業に関しては大神殿でも有数の使い手なのです」

 「皆さんも?」

 「いえ。我々は『聖壁』や『加護』を得意とします。万が一の場合は、村を守れるようにと」


 治癒と防御の御業を得意とする神官を惜しみなく派遣するのは、それだけバレルノ大司祭が危機感を持っているからだろう。


 その危機感の中に、自分たちが撤退不可能な状態になることも含まれているのは、ファンにもよくわかっている。


 武運拙く敗北し、マルダレス山に屍をさらす羽目になったとしても、それで大神殿にファンやユーシンの家族が何か言ってくることはない…だろう。


 だが、感情は悪化する。それは避けたい。


 エディとも、何時迄に戻らなければ突入するかを話し合っておかなくてはなるまい。


 満月花が咲くまでは戻れないから、あと三日。

 馬車と馬で移動するなら、今日どこかで宿をとっても、マルダレス山には明日の昼前には到着するだろう。


 となると、満月の翌日、日暮れまでに帰ってこなければ救出隊を出してもらうか。


 だが、迂闊に踏み込めば犠牲者を増やすだけになる。やはり、自分たちがある程度情報を持ち帰るしかない。


 そう算段を付けていると、ゴーンと鐘の音が響いた。


 「お、開門だな」

 エディが首を巡らし、西門を見る。


 開門を待っていた人々が、ゆっくりと動き出していた。


 基本的に、門は出入りするところだが、出るのは特に手続きなどはなくても、入るためには衛兵に通行証などを見せる必要がある。

 その為、開門した際はまずは出る者が優先され、その流れがある程度収まったところで、時間のかかる入場が開始される。


 逆に言えば、もたもたしていると入場待ちの人に悪い。


 「おねーさん方、ロットたちも馬車に乗った乗った。ファン、お前さんらはどうする?」

 「ヤクモは馬に乗れませんから、そっちの馬車にお願いできます?」


 「あいよ。ヤクモ、こっち来い。ウィル坊やもこっちだ。あっちはお一人で二人使う方がいるからな」


 「まあまあ!ごめんなさいねえ~。痩せなきゃって思うんだけど、この年になると息を吸うだけで太ってしまいますの!いやですわよねえ~!でも、ご飯が美味しいものだから、つい食べちゃいますし!」


 ころころとアニスは笑い声をあげた。高いが、聞いていて不快ではない。むしろ、こちらの口角もついつい上がってしまうような声だ。


 「まったく同感だけどねぇ、アンタ!お尻大きすぎよ!中に入れないじゃない!」

 「違うわ、シャーリー!お腹でもう、つっかえているのよ!」

 「やだわもう、この人ったら!」


 シャーリーも笑いながら、客室に入るのに苦戦する同僚の尻を押し上げた。

 押し上げるというよりは押し込む、と言った方が正しいかもしれない。


 エディの手招きに、ヤクモが頷いて駆け寄った。馬車のドアを馬丁が開ける。


 ちらりと見えるのは豪華な内装と、死んだように座席に張り付くエディの一党の姿だ。

 前後の座席に分かれて沈没する三人は、扉が開いてもピクリともしなかった。


 「うちの連中が占拠しとるがな。あっちにするかい?」

 「あっちの馬車にのったら怖そうだから、こっちがいいです。絶対に。コルム~、ちょっとどいて~」


 ぴょいと馬車に乗り込み、ぐいぐいと眠っているエディの一党を端に押し込んで、ヤクモはウィルに手を差し出した。

 少々躊躇ったのち、ヤクモの手を取ってウィルも馬車に乗り込む。


 それを見て、馬丁とエディは御者台に座った。

 神官たちの乗る馬車の御者台にも、もう一人の馬丁とロットが腰を下ろす。


 客車からは賑やかな笑い声と、神官たちのげんなりした声が漏れていた。


 「いきますぜえ」


 先頭は、神官たちの乗る馬車だ。


 ごとり、と車輪が動き、二頭の馬は難なく馬車を曳いて歩き出す。

 その後ろに、冒険者たちの乗る馬車が続いた。


 「城外に出るまでは騎乗はできないし、馬は引いていこう。ユーシンは、この黒鹿毛だな」

 馬を繋ぐ柵から手綱をほどき、四頭分の手綱を取ってファンは歩き出した。

 馬たちは何の抵抗もなくその後に従う。


 「おう!」

 ファンから手綱を受け取り、ユーシンは逆に預かっていた弓をファンに渡した。

 黒鹿毛の馬はユーシンとファンを同時に見ているが、暴れる様子はない。大人しくユーシンに従って歩き始めた。


 「クロムはどっちに?」

 「その粕毛ボラルを」

 「ほいよ」


 差し出された手綱をクロムは受け取った。

 これをおろそかにすると、馬はクロムを乗せない。

 主が手綱を渡すことで仲間だと認識するのだ。


 さらに必要があれば、主と借主が交互に乗って慣らしていくのだが、その必要はないだろう。

 既に馬たちはすっかりファンを信じているし、クロムもユーシンもアスラン馬の扱いに慣れている。

 万が一、馬が反抗してもすぐに宥める自信がある。


 手綱から伝わる馬の歩調は落ち着き、クロムが手綱を持つことで苛立つ様子はない。

 一度信じれば愚鈍なまでに心を預けるのもアスラン馬の特徴だ。

 あとはこの馬の主を、ファンから自分になるように接していけばいい。


 開け放たれた門をくぐり石造りの砦に入ると、人と馬の臭いが充満していた。


 両方から差し込む日の光と、途中に取り付けられたランタンの灯りでは隅々まで照らすとはいかず、どんよりとした暗がりがわだかまっている。


 だが、それもほんの僅か。


 西風が、暗がりから出てきた人々の顔を撫でた。


 明るい秋の日差しに照らされて広がるのは、種まきを待つ麦畑。

 城外に出てきた農夫たちはさっそく自分たちの畑へ繰り出し、耕し始める。

 霜が降りる前に種を撒き終えるため、これから一月は目が回るほど忙しい。


 なだらかな隆起を描きつつ、畑は見渡す限り広がっていた。

 それを貫くように、街道が伸びていく。


 西へ進めば、アステリア第二の都市であり、西方国境の街カレルに到達する。

 だが、今回の目的地はカレルではない。

 途中枝分かれした道を北へ。


 遥か彼方に黒く蹲って見える…女神の裳裾、マルダレス山だ。


 「もう騎乗しても良いか?」


 「そうだな。エディさん、ロットさん、こっちも乗馬しますね」

 「おう。あんま先行するなよ?」

 「しませんて」

 苦笑しながら、ファンは右手を馬の鞍に置いた。

 

 次の瞬間、その長身は馬上にある。


 「鞍と鐙はこっちの西方式か。まあ、一日中駆けさせるわけじゃないし、問題ないか」

 「なんか違うのぅ?」

 客車の窓を開け、ヤクモが顔を出した。


 「アスランの鞍は基本的に立って乗るように作られてるんだ。こっちのは座って乗れるようになっているからさ」


 クロムとユーシンも騎乗しているが、馬たちは振り落とす気配はない。

 問題なしと見て取って、ファンは軽く膝で馬の腹をつついた。


 その合図に、馬は軽やかに歩き出す。むしろ、駆けだしたくてうずうずしている。


 「まだ、ダメだ。人がいっぱいいるからな」

 何より、馬車の警護が仕事なのに、馬車を置いて行ってしまっていては本末転倒である。


 「エディさん、マルダレス山に行くまでに、危ないところや出そうなもんって何かあります?」

 「道を分かれた後だな。ちょっとした森があるんだが、あそこはよくゴブリンどもが棲みつく」


 どこにでも現れる醜悪な種族の名に、ユーシンが顔をしかめた。

 なにしろ、ゴブリンは臭いのである。

 鼻の良いユーシンにとってはなるべく近付きたくない存在だ。


 「今はどうですかね」

 「さてな。討伐依頼は出ていなかったから、今はいないか、棲みついたばかりかってとこだ。まあ、いると思った方が良い」

 「了解。近付いたら先行します」


 ゴブリンは多少の知性がある。

 少なくとも、立派な馬車を襲うと、中には女性が入っていることが多いと学習するくらいには。


 護衛の数が多ければ身をひそめ、やり過ごすこともできる種族だが、今回護衛のように見えるのは三人。

 ゴブリンが一匹でも多ければ、襲ってくるだろう。


 「ゴブリン出たら僕も戦う?」

 「お前まで回さんから、取りこぼしが襲ってこないか見張ってろ」

 「うん!やったー、臭くならない!」


 喜ぶヤクモに、ユーシンが少しばかり口を尖らせた。


 「うー、そんな顔しないでよー。じゃあ、ユーシンの槍、ぼくが洗ってあげるね!」

 「本当か!」

 「うん、約束~」

 「絶対だぞ!やっぱりやめたは無しだからな!」


 ゴブリンの体液がついた後の武器は、それはもう悲惨な状態になる。

 剣ならば斬りぬくことで体液を付着しないようにもできるが、槍は基本的に貫く武器だ。

 貫いた挙句、内臓まで破いてしまうと、悪臭はより一層悲惨なことになる。


 「俺の剣は…使いたくないな。ヤクモ、お前の貸せ」

 「嫌に決まってるでしょ!!!」


 「クロム、ちゃんと自分の使え。どうしてもって言うなら、俺の手斧を貸すから」


 「手斧は自分の手が臭くなるから断る」

 「我儘だなあ…」


 「お前は弓だからいいけどな」

 「矢、再利用するぞ?もうそんなに予備はないし」


 弓の最大の欠点は、射れば矢が尽きることだ。

 アステリアで買える矢は、ファンの扱う大弓に適した矢ではない。

 それでも無理やり使っているが、それだって無料ではないのだ。


 「本来の矢はあと何本だ?」

 「30ってとこだな。できれば山に入るまでは使いたくないけど…」


 使う時は出し惜しみはしないと言外に伝えて、ファンは弓を包む布を外した。

 馬が驚かないように、広げずに皮をむくように畳んでいく。


 アスラン兵の主武器が、弓だ。

 馬を駆りながら放たれる弓の一斉射撃が、アスラン軍を大陸最強の軍団としている。

 だが、通常扱うのは、この大弓の半分もない複合弓コンポジットボウだ。


 シドウの大弓と呼ばれるこの弓は、ファンの先祖が遠い異境より伝えたものだと言われている。


 パーツは分かれておらず、弦を外すと棒のように見えた。


 実際には三層構造になっており、芯材の両面を別の素材で挟みこみ、蔓を等間隔で巻き付けることで固定している。


 素材は西方諸国このあたりでは見かけず、アスランでも一部の地域にしかない植物を使って作られている。

 シドウとは、その素材の一つの蔓を幾重にも巻き重ねることを言うのだと、この弓の名と共に伝わっていた。


 他の弓と違うのは、その素材や製造方法だけではない。


 握りグリップが、中央より随分と下にあるのだ。


 それについて、特に疑問が持たれたことはない。

 シドウの大弓とは、そういうものとして伝わっているからだ。


 決してこの形を崩さないようにと、弓師たちはその教えを守って作っている。


 あまりにも特殊構造すぎて、最初の一張を手本にして作られて以来、少しでも製法を違えれば使い物にならないからだ。


 特殊な材料、製法の為、量産はできず、この弓を作れる職人はアスランでも十人もいない。

 アスラン人であっても、シドウの弓の名は聞いたことがあっても見たことがないものが大半だろう。


 この弓だけを握って倒れていたという先祖。

 彼がどこから来たのか、それはもう推測しかできない。


 ただ、ヤルクト族の族長の娘にして巫女だったライマラルに助けられ、離散寸前だったヤルクト氏族を束ね、復興させた男の故郷には、星の飾りオドンチメグの花がが咲いていたのだろう。


 その花を象った紋章を、握りに巻く鹿革を止める環に刻むのも製法の決まりだ。

 三つの花が草の葉の上から顔を出しているその可憐な意匠は、先祖が持っていた大弓にも施されていたという。


 腰のポーチから外しておいた弦を取り出し、弓に張る。

 弦は麻紐に漆を塗ったものだ。

 その為、弦は黒くなり、シドウの大弓の別名をヤルクトの黒弓とも言う。


 ファンの武装は、アスラン風ではない。

 中折れ帽に革のジャケットとマント、中に着ているのも麻のシャツに鎖帷子と革鎧。ズボンもブーツも、全てイシリスで買い求めたものだ。


 だがそれでも、大弓を携え、馬に跨れば、故郷に帰ってきたような気さえする。


 馬の体温。歩行に合わせて伝わる振動。ほんの一年前までは、毎日感じていたもの。


 (アスランへ帰るためにも、今は…)

 この依頼を、完遂させて生還しなくては。


 (依頼失敗したら…この馬たちのお金、払えないしな!)


 浴場に通うのは、お預けにして。

 とりあえず、下着肌着と馬を買って、当面の生活費が残ることを喜ぼう。


 だけど、一度だけ、疲れて帰ってきたら、一度だけでも、浴場に行こう。

 そう決心しつつ、ファンは馬の足を少しだけ速め、一番前に出た。


***


 ファンが一番前に出たのは、無駄遣いの後ろめたさからではない。


 鷹の目、とはアスランの遊牧民の視力を称える表現だが、誰もがその卓抜した視力を持っているわけではない。

 そう呼ばれるのは、はるか遠くを見ることができるだけではなく、その対象に焦点を合わせることができる者だけだ。


 その鷹の目が捕えたのは、前方にこんもりと出現した森と、その森の横を通る道に陣取る一段の姿だった。


 太陽は中天に差し掛かり、王都イシリスはもう影も見えない。

 少し早い昼食を取り終え、緩んだ空気が一行を覆っていた時分である。


 「ちょっと停止を」

 右手を挙げて馬丁に合図を送る。


 それほど速度を上げていなかったこともあり、馬車は緩やかに停止した。

 その動きを見て、後続の馬車もその隣に停まる。


 「どういたしました?」


 ロットがやや上擦った声をあげた。

 口許をこすっているのは、眠気に襲われていたからだろう。


 「森の手前に、武器を持った集団がいます。数は…十三人」


 「ゴブリンか?」

 ファンの隣に馬を並べ、クロムも目を凝らした。

 森は見えるし、その前に何かいるのもわかるが、どう見てもただの点にしか見えない。


 「違うな。人間だ」


 「ふむ!賊か?」

 「ゴブリン退治に来た同業者の可能性もある」

 「…ゴブリンってことにしてやっとかないか?」

 「…いや、ダメだろ」


 後続の馬車の御者台では、エディが盛大に寝こけている。

 起きる気配は…ない。


 それをちらりと見て取って、ファンは十秒ほど考え込んだ。

 客車の中では大神官たちと冒険者たち…含むヤクモ…が眠っている。


 起こすか?いや…

 それには、及ばない。

 

 はるか先を見つめるファンの満月色の双眸から、するりと穏やかな気配が消えた。

 

 「ロットさん、『聖壁』の御業はできますか?」

 「はい。連続で行うのは難しいですが…」

 「いや、発動は30数える間だけで十分です。俺が合図したら、前面に展開してください。できれば、なるべく広めに」

 「わかりました」

 緊張した面持ちで、ロットは頷く。


 「クロム、ユーシン。俺は側面。お前らは正面。いいか?」

 「おう」

 「むう、俺が一番槍ではいかんのか?」


 ぷ、と頬を膨らませたユーシンに、ファンは苦笑を向けた。


 「陣を崩すのはまずは弓兵。そこへ突っ込んでこそ陥陣だろ?」

 「弓を使うほどの相手か?」

 「分らないから使うんだよ。まあ、矢は惜しむけど」


 矢筒からファンが取り出したのは、大弓に相応しい長さの矢だった。

 その矢を右手の親指と人差し指にはさみつつ、アステリア製のごく一般的な長さの矢を二本、左手の指に挟む。


 「速度は遅めに。大丈夫、危険はありませんから」

 「へ、へい!」

 青ざめた馬丁が、なんとか頷いて手綱をしごく。馬は再び歩きだし、馬車もゆっくりと進み始めた。


 「挟撃の可能性は?」

 「ないとは断言できないけど、どうかな?ユーシン。そんな気配はするか?」

 「ありえん!」


 断言しつつ、ユーシンは槍の鞘を外した。

 ベルトの留め具に吊るすと、抜身になった槍の穂先を地面に触れさせる。


 『イダムよ、ターラよ、照覧在れ。ヘルカよ、ウルカよ、この戦いを捧げよう』

 祈りの言葉を神に捧げ終わると、ユーシンの口許を獰猛な笑みが覆う。


 対人間との戦いは、ユーシンの最も得意とするところだ。


 血が熱くなり、感覚が研ぎ澄まされるのを感じる。

 その感覚が、敵は前だけにいると教えていた。


 挟撃を狙われている時の、背中を針で突かれたような気配がない。


 自信をもってユーシンはその可能性を否定した。


 「なら、決まりだ」

 「なるほど。確かに同業者に見えなくもないな。あんな大人数でゴブリン退治をする間抜けがいれば、だが」


 距離が縮まり、クロムとユーシンの目にも、黒い点が武器を持った男の集団に見えてきた。


 あちらもこちらの接近に気がついたのだろう。

 道に座っていた連中が立ち上がり、横の草むらに身を屈める。


 一応、伏兵のつもりらしい。

 こちらが見付けているとは微塵も思っていないのだろう。


 「気付かれる前に攻撃すれば一番手っ取り早かったな」

 「百に一つでも同業者の可能性があるなら、それはできないよ」


 集団から目を離さず、ファンはクロムを嗜め、そして笑った。


 「それに、あの程度、不意打ちしなくても十分だろ?お前らなら」

 「違いない」


 主の信頼に笑みを返し、クロムも腰の剣を抜いた。

 鋼の鈍い輝きが、中天の日差しを受けて揺れる。


 じりじりと距離が縮まる。


 ロットや馬丁の目にも、不自然に揺れる草叢が見えてきていた。


 「まだですか…!」


 ロットの額を脂汗が伝う。『聖壁』の御業を授かり、今までも何度か使ったことはあるが、対人戦は初めての経験だ。


 心臓が痛いほど胸筋を叩き、聖印を握りしめる手は震えが止まらない。


 「大丈夫です。俺を信じなくてもいい。女神アスターを信じてください」

 わずかに振り向いたファンの声は、煩いほどの鼓動を越えてロットの耳に届いた。


 女神アスターの聖名に、手の震えが少しだけ小さくなる。


 「さて。相手が弓を撃ってきたら敵と見做す。

 もう一度言うぞ、俺が側面、お前らは正面だ」


 ファンの目は、冷静に相手を見ていた。


 ニヤニヤ笑いながら、十三人のうちの約半数、六人がクロスボウを手にしている。


 弓は飛ばすこと自体が難しいが、弩ならば撃てればひとまずは前に飛ぶ。

 そしてやや高価な上に矢は再利用が難しい。


 男たちの粗末な身なりにそぐわない武器だ。


 また一歩、距離が縮まる。

 弩の射程範囲にはとっくに入っている。


 いつ、撃ってきてもおかしくはない。だが、ファンは指示を出さない。


 『聖壁』の御業は強力だが、出現している時間は短い。

 発動しても目には見えないから気付かれはしないが、消える瞬間に光る。


 それを見て攻撃できるような連中ではないと踏んではいるが、油断する気はなかった。


 狙うのは、相手が攻撃に移る、一呼吸前。


 御業はその一呼吸があれば発動するのをファンは知っている。

 消えるのには、百を数えない。

 それは使い手の技量にもよるが、それほどの時間をかける気はない。


 弩を構える男の指が、引き金にかかる。粗末な剣やら槍を構えた連中が、立ち上がった。


 この瞬間を、ファンは待っていた。


 「ロットさん!」

 「女神アスターよ!その裳裾にて我らを守り給え!」


 かけられた声に、弾かれた様にロットは御業を願った。馬車の全面に、不可視の巨大な壁が出現する。


 「え…?」

 その壁に阻まれ、打ち込まれた矢が空中で一度止まり、はらりと落ちた。


 その矢が落ちるよりも早く、騎馬の三人は動く。


 じりじりとしていた先ほどまでの時間がおかしいほどの一瞬。

 両者の距離は消えてなくなる。


 男たちはあっけにとられ、真横を駆け抜けたファンを見ていた。


 いや、正確には、その気配を垣間見た。


 「あ」


 駆け抜けながらの一射。


 それは、もたもたしていて矢を発射し損ねていた男の首を切り裂き、その隣にいた男の喉に突き刺さる。

 その衝撃で、殴られたように男はよろめき、仰向けに倒れた。


 矢じりは男の喉を横に貫通し、ぽたりとその先端から、赤い雫がしたたり落ちる。


 「…ッ!…!!」

 切り裂かれた男の首からは、雫どころではなく血が吹き上がった。


 口を大きく開けた男は、きっと何かを叫びたかったのだろう。

 だが、その叫びは矢が切り裂いた部分から更に血と空気を噴出させただけで、なんの言葉にもならない。


 その、ほんの数呼吸の間に起ったことに、男たちはついていけなかった。


 駆け抜けたファンが弧を描きながら反転し、彼らの真後ろから次の矢を番えたことも。

 ファンを矢を撃った正面、彼らからすると真横から、新たな二騎が突撃を敢行したことも、解っていなかった。


 理解したわかったとしても、彼らの行く末は同じことだっただろうが。


 完全な無防備になっていた後ろから、立て続けに二射。


 立ちすくんでいた射手二人の胴を矢が貫いた。

 背中から胸にかけて矢が貫通し、男は自分の胸から飛び出した矢じりを見て、目を限界まで見開く。


 今度は口から、絶叫が挙がった。


 「うるせぇ」

 その首を、駆け抜けざまにクロムの剣が跳ね飛ばす。


 突進する方向の側面にファンが回り、クロムとユーシンは正面から突撃する。


 相手から見れば、背後と側面を挟撃される形だ。


 二方向からの攻撃は、戦慣れしていても体制を整えるのは難しい。

 まして、まさに破落戸ごろつきと言った風情の統率の取れていない集団が、持ちこたえられるはずもない。


 駆け抜けざま、クロムの剣は二人、ユーシンの槍は三人の人生を鮮血で終わらせた。


 集団の中を突っ切り、馬首を巡らせてファンに合流する。


 すでに三人とも、男たちの攻撃範囲から離れていた。

 だが、三人がすぐ手の届くところいたとしても、男たちに反撃することはできなかっただろう。


 十をゆっくり数えるほどの時間でしかなかった。


 弩を撃って一人か二人を落とし、あとは押し囲んで殺す。

 それしか考えていなかった男たちは、状況を把握できたかどうかすら怪しい。


 彼らにわかるのは、十をゆっくり数えるほどの間に、半数が死体に変わっていたという事。


 「う、うわああああああ!!!」

 一人が恐慌の叫び声をあげ、武器を捨てて森へと飛び込む。

 それに数人が続き、後には死体と、一人、腰が抜けて動けない男が残された。


 「おい」

 「ひ、ひいい!」


 身を隠すものを探して腕をばたつかせ、何かを掴んで男は自分の前にそれを掲げた。

 涙でぼやけていた視界が、それが何であるかを男に見せる。


 ついさっきまで無駄口を叩いていた奴の血走った目が、男を見下ろしていた。


 「ぎゃああああああああ!」


 叫びながら男はそれ…切り落とされた生首を投げ捨てた。

 血がまき散らされ、生臭い匂いが周囲を包む。

 それ以前に、男の失禁による悪臭で耐えがたい空間となっていたが。


 「ゴブリンではないのに臭い」

 風上に避けながら、ユーシンが顔をしかめる。


 だが、その臭いは、彼のよく知る戦場の臭いでもある。


 失禁せずとも腹を切り裂かれれば糞小便は撒き散らされる。

 血と泥とそういった汚物の混じる臭いは、馴れた悪臭だった。

 臭くはあるが、耐えられないものではない。


 「まったくだ。なるべく近付かずに済ませるか」

 剣についた血を払いつつ、クロムは馬を進ませた。

 軍馬として育てられたわけではないだろうが、血の臭いにも馬は落ち着いている。

 誰も乗っていない一頭も、手綱も何も掴まれてはいないが、ファンの後ろに従っていた。逃げる気配はない。

 

 思わぬ拾いものだったな、とクロムは口の端を上げた。


 アスラン馬は気性が荒いが、それでも馬は元来臆病な動物だ。

 血や戦いの臭いに怯え、逃げ惑う馬もいる。

 生まれつきそうした恐怖に耐性を持つ馬は、珍重される。


 自分たちが乗る以上、血の臭いからは無縁ではいられない。

 いい馬だ、と改めて思う。


 購入資金を援助するつもりは、毛頭ないが。


 「誰に雇われた。素直に答えれば見逃してやる」

 「ああ、ああ!言う!いうから殺さないで…」

 「だから、答えれば見逃すと言ってるだろうが」


 うんざりとしたクロムの声に、男は頭を下げて地面に額をこすりつけた。

 自分の排出したものの悪臭が口いっぱいに広がるが、それに気付く余裕もない。


 「ど、どっかの貴族様だ!それ以上は分からねぇ!あの馬車の神官を痛めつけろって言われたんだ!」


 男の必死な声に、クロムは眉を寄せた。


 おそらく、男は本当に何も知らないのだろう。

 金で雇われ人を襲う冒険者か傭兵崩れの破落戸が、雇い主の裏を取るようなことはすまい。

 この程度の連中、安酒場で銀貨を見せればいくらでも釣れる。


 「いいだろう。お前もさっさと失せろ…と言っても動けんか。まあ、いい」


 クロムは改めて一瞬の戦場を眺めた。

 男たちが伏兵の真似事をしたせいで、道は開いている。これならば迂回しなくても通れるだろう。


 「…あのクソ野郎の差し金じゃあなさそうだ」


 「アイツなら、自分で指揮しているよ。左方の嫌がらせだろうな」

 「まあ、そんなとこだろう。矢を回収してくるか?」

 「頼む」


 馬を降り、クロムは横向きに倒れている血塗れの死体に歩み寄った。


 首に生えた矢は、汚れてはいるが折れてはいない。

 男の肩を踏んで矢を引き抜き、ついでに男の腰に括り付けられていた水袋を逆さにして矢と自分の剣についた血を流す。

 仕上げに、死体の服のなるべく汚れていない部分で拭い、鞘に納める。


 財布を漁ったら、さすがに小言が降るな。


 王の許可がない略奪は、アスランでも厳罰の対象である。

 どうせそれほど持ってもいまいと結論付けて、クロムは仲間の元に戻った。


 「ほれ」


 「ありがとう」

 差し出された矢を受け取り、ファンは矢筒に戻した。

 少しだけ矢羽根が上に出るように納め、次もまたこの矢を取り出せるようにしておく。さすがに再利用は二回までとしている。


 「馬車を誘導して先に進もう」

 「ああ、そうだな」


 「追討を行わんでいいのか?」

 ユーシンの槍はむき身のままだ。

 血がこびりついた様子はなく、白刃が陽光に輝いている。


 「この森は、ゴブリンどもの住処だ」

 先ほどの男にも、見逃すとは言った。助けるとは言っていない。


 「あの意地汚い連中が、仕事をしてくれるだろうよ。金で雇われて人を襲うゴブリン並みの連中だ。小鬼のクソになったとしても、文句は言えまい」


 腰を抜かしている男も、日暮れ前に移動できなければ思い知ることになるだろう。

 ゴブリンが襲うのは、家畜や女子供だけではないという事を。


 「まあ、それであいつらの数が増えたら俺たち冒険者の仕事も増えるわけだがな。おっさんどもが頑張ればいいんじゃないか?」


 「おいおい、簡単に言ってくれるなよ、アイツらクセェんだから!」

 ようやく起きたらしいエディが大股で歩み寄ってきた。

 草叢の惨状に、うげぇと顔をしかめる。


 「お前ら、ほんと、えげつなく強いな」


 「当然だ!強くなるために槍を振るっているのだからな!」

 ふんす、と胸を張りつつも、むしろこれは戦いではなく蹂躙だとユーシンは思う。

 こんなものを捧げてヘルカとウルカが気を悪くしなければいいと、少々申し訳なくなる。


 「ま、今はゴブリンの心配してる場合じゃねぇやな。なんかやって来るかとは思ったが、ここまであからさまに手ェだしてくるかね」

 「そうですね。いくらなんでもやりすぎな気がします」

 「お前らにゃ言われたくねぇだろうなあ。ま、いい。先を急ごうぜ」


 馬車に戻りながら、エディはそう結論付けた。

 少々腑に落ちない点を抱えてはいたが、ファンも頷く。


 エディが御者台に乗り込むと、先ほどより速足で馬車は進みだした。

 馬丁としては一刻も早くこの場所から遠ざかりたいのだろう。


 「ここで油断させといて待ち伏せ…は考えすぎだろうが、気を引き締めて行こう」

 「ああ」

 クロムも再び騎乗し、一行は血臭漂う空間を通り抜けた。


 「…」

 「どうなすったね?神官様。しっかし、御業ってのはすげぇなあ!矢が落ち葉みたいになってたね!」


 恐怖を紛らわせるように、馬丁は横のロットにまくしたてた。

 その声に、ロットは目を瞬かせ、頷く。


 「アスター様の愛の賜物です。でも…」


 「でも、なんだい?」

 「いつもより、はるかに範囲が広く、強力だった…」


 『聖壁』の強度も範囲も、ロットを上回るのはそれこそジョーンズ司祭くらいだろう。

 だが、それにしてもあそこまでの範囲と強度は、通常出ない。


 (この一件…まさか本当に女神の御意志が…?)


 聖女拝命を行うという神託を疑っているわけではない。だが、それ以上の女神の意志が関わっている可能性もあるというバレルノ大司祭の言葉が、脳裏に浮かぶ。


 (だが、そうだとしても…この運命に立ち会えることを、女神よ、感謝いたします)


 聖印を握りしめ、ロットは感謝の祈りを捧げた。


 御業を齎し、自分らを守っていただけたことと、ほんのわずかであっても、女神の意志に関われること、その両方に。


 その運命が待ち受けているであろうマルダレス山は、その峰の形までくっきりと見える位置にまで、近付いてきていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る