第12話 アスター大神殿 庭園

 「やれやれ、爺の長話に突き合わせて悪かったな」

 紅茶を啜りながら呟くバレルノ大司祭には、さすがに疲労の色が見えていた。


 「いえ、こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました」

 ファンの礼に、大司祭は頬を緩める。


 背負った過去の真実も、今目の前にある難題も、何一つ解決してはいない。

 だが、どちらも今、前へ進みだしている。


 自分に残された時間が、あと10年はないことを大司祭は自覚している。

 余裕なんてひとつもない。どこにもない。


 やることは多い。多すぎる。


 かつてのアステリア聖女王国の腐敗について、世間に知らしめなければならない。それをせず、クトラの人々の鎮魂はならないだろう。


 大神殿の改革も、なあなあにされない程度には進めなくてはならない。

 中途半端にして自分が死ねば、かつての大神殿に逆戻りだ。

 少なくとも、貴族の子弟を送り込まれても実家を切り離せるようにしなくては。貴族社会の縮図のままでは、また同じ過ちを繰り返すだろう。


 神官見習いたちの奴隷のような待遇も改善しなくては。ウィルのように、痩せ細って水気の抜けたような若者をそのままにしておいてはならない。

 大貴族の子弟は丸々と肥え太り、貧乏貴族の口減らしで神殿にやってきた子供は痩せ細る。それを許して公正を司る神の名を語れるのか。


 そして、今回のこの儀式。


 無事に終われるのか。もし、行うことができなかったら、また女神は我らに失望するのか。


 されるのかもしれない。

 だが、儀式の成功よりも『何か』の調査を優先するべきだろう。


 きっと女神もそれを、望んでおられる。


 本当は、ファンの言う通り脅威を排除して儀式を行う方がいいに決まっている。

 今、この状態で聖女候補の少女たちを送り込むのは、死にに行け、と言っているのも同然だ。


 『何か』は何者なのか。

 わかっているのは、七人の冒険者が帰ってきていないということだけだ。


 駆け出しらしいが、一応武装もあり、健康な若者が七人。

 すべて殺されているとすれば、もしくは動けない状態になっているとすれば、『何か』にはそれをするだけの能力がある。


 それが、麓の村や街道を往く旅人に及んだら。


 それだけは避けなければならない。

 聖女拝命の儀式よりもなによりも、人々の暮らしと命を守ることが優先だ。


 最善を尽くすなら、もっと多くの冒険者を募り、山狩りを行うべきなのだろう。


 だが、あまり大きく動けば、必ず左方の妨害が入る。

 ただ、バレルノ大司祭が動いたからという理由で、反対する連中の妨害が。


 大袈裟だ、寄進で得た浄財を何だと思っている、冒険者を私兵として囲い込もうとしているのでは。


 そうやって非難ばかりをしつつ、『何か』をどうするかなど微塵も考えていない連中の声が聴こえるようだ。

 非難するだけならぎゃんぎゃんと吠えていればいいが、右方が兵力を持とうとしていると勝手に危機感を募らせ、実家に泣きつく可能性がある。


 それで私兵を動かされたら、どうなるか。


 右方と左方の対立に、王家を巻き込む可能性が高い。

 

 右方左方の対立は、国王派と貴族派の対立である、とも言い換えられる。

 貴族が中心となり政治を牛耳ってきた聖女王国時代と異なり、現在は国王が中心となり、官僚が実務を行う体制を目指している。

 これは、アスラン王国やカーラン皇国といった東方の国々のやり方を真似たものだ。


 とは言え、現在アステリアの政治を仕切り、主導権を握っているのは宰相を筆頭とする貴族達だ。

 聖王バルトの求心力と民衆からの支持で何とか拮抗を保っているが、次代もそうできるとは限らない。

 バルト陛下の御代のうちに変えていかなくては、聖女王国時代へ逆戻りしていくだろう。


 国とは貴族のためにあると思い込む、あの腐った沼地の亡霊のような連中に引きずられて。

 悪臭を放つ手は、いつでも聖王の足首を捕えている。油断はできない。


 この、一歩道を誤れば聖王国の運命を変えるような状況は、20年前の内乱と同じだ。


 あの時も、常に薄氷を踏んでいた。

 足を降ろす場所を少しでも間違えれば、冷たい水に沈んで二度と浮かび上がることはできない毎日。


 だからと言って立ちすくんでいては、結局凍死してしまう。

 そして、あの時も、今も。同じ瞳をした異国の友人が手を貸してくれている。


 「大司祭?」

 「おお、すまねえ。ちっと目え開けたまま寝てたかな」


 それを、運命と言わずして、何と表現をしたらよいのだろう。


 アスラン王国を守護する雷帝リューティンは女神アスターの兄神だから、女神が兄神に助力を頼んでくれたのかもしれない。


 「さて、ウィル坊や。ちっと立ちてぇんだ。手を貸してくれるかい?」

 「はい!」

 ぴょん、と立ち上がって駆け寄るウィルの手は、成人男性とは思えないほど細かった。

 だがそれでもしっかりと、バレルノ大司祭の体重を支え、立ち上がることを助けてくれる。


 「ありがとうよ。ウィル坊や」

 「いつでも仰ってくださいね!どこへでも駆け付けます!」


 最初のおどおどして委縮した様子はもうなく、お任せくださいと胸を張る様子は、老人の口許を更に綻ばせた。

 きっと、この若者は手を貸す相手が大司祭ではなく、雑用夫の老人でも同じように接するだろう。


 こんな気持ちの良い若者が、実家が下級貴族だからという理由で何年も神官見習いなら、やはりそれは間違っている。

 きっと彼は、信徒たちの悩みを聞き、一緒に考え、助力を惜しまない良い神官になれる。

 善良であること、それがまず、人々が神官に求める条件だからだ。


 「いきなり呼びつけて悪かったな。こんな体たらくなもんで、出歩くのはちっとばかり億劫でよ」

 悲鳴を上げる膝を折り、片膝をついてファンの額に触れる。


 「女神アスターよ、彼らの行く手を闇を払う夜明けの光にて照らし給え…女神の加護のあらんことを」


 「大司祭に加護を祈ってもらえるなんて、光栄です」

 額に触れた指が離れてから、ゆっくりとファンは立ち上がった。

 立つと、改めて彼がかなりの長身であることがわかる。大司祭より頭一つは確実に高い。


 その長身を折って、ファンは片膝をついた大司祭の手を取った。

 暖かい大きな手は、節があり、掌の皮膚は硬い。


 子供の時から何かを持ち、握り、振るい使ってきた手だ。

 かつて友人の危機を救いに駆け付けた、彼の父と同じ手だ。


 「ありがとうございます。あなたに紅鴉ナランハルの導きがあらんことを」


 「太陽を導く鴉か…やっぱり、お前さんはナランハルだよ」

 彼の一族での立場を表していることではないことは伝わっているはずだ。


 その証拠に、ファンは少し困った笑みを浮かべるだけで、ナランハルと呼ばないでほしいと口にすることはなかった。言葉に出したのは、別のことだ。


 「大司祭。俺は女神アスターの信徒ではありませんが、少々助言をもらえないでしょうか」


 「信徒でなくとも夜明けの光は注がれる。言ってみな」

 ファンの視線が揺れる。頼りなく彷徨う視線は足元に落ち、それから再び、大司祭に向いた。


 「…刻印を返還することはできるんでしょうか?」


 「刻印を?」

 思いもよらない質問に、バレルノ大司祭は内心目を瞬かせた。


 刻印が消滅する場合はある。


 先ほど話していたウルカの刻印は、体が大人になった時に消え去るようだ。

 聖女王ゼラシアは元は聖女だから刻印を持っていたはずだが、処刑された際には消えていた。

 彼女の体は隅々までアスラン兵によって見分され、刻印がないことを記録に残されているのだから間違いはないだろう。


 刻印を持つのに相応しくないと判断されれば、刻印は消滅する。

 刻印は神々の寵愛の証だ。

 神が取り上げようと思えば、人間側にはどうすることもできない。


 だが、ファンは返還と言った。


 つまり、人間の側から刻印を、神との繋がりを解消することは可能かと問うているのだろう。

 「すまんな、聞いたことがない。だが、できるできないで言えば、できるんじゃねぇかな」


 「どうやって?」

 鋭い声の質問は、いつの間にかファンのすぐ隣に立っていたクロムからだ。

 先ほどまでの無機質な双眸が一転、激しい光を湛えている。


 「実際にやったっつう話はしらん。だが、刻印は神が授けるもの。なら、返還も神に願い出るしかねぇだろうな。どちらの神の刻印だ?」

 「…すいません、それは言えないんです」

 実家に関わる事なので、と、とても小さな声が続ける。


 それならばファンがアスラン王国から逃げ出さなくてはならなかった、後継者問題に関することだろう。


 ファンの兄は、実に有能な男だ。

 5年前、アスラン王国を訪問した時にほんの短い時間会っただけだが、その短い時間でも十分にわかった。

 よくもこんなにできた子が、長子として生まれてきたと感心したものだ。


 大抵の後継者問題は、長男よりも次男が優秀だとか人望があるだとか、仲が悪いとか、どちらかの母親の寵愛が深いとかで起きるものだ。

 しかし、この兄弟に関して言えば母親も同じで二人とも両親に溺愛されてる。兄弟仲もとても良いと聞いている。


 一個人として言えば、恐らくファンの方が好かれるだろう。

 だが、人望、カリスマ、そういう面でなら、勝負にならない。


 一度目にすれば忘れられない。

 天を引き裂く雷の様に、強烈にその存在を焼きつけられる。

 ファンの兄は、そんな男だ。


 ファンを担ぐことで利益を得る連中がいくら騒いでも、その地位はゆるぎないように思えた。

 だが、それでも実際に何かがあったから、彼はここにいる。


 生まれの順、能力、人望に勝る兄を押しのけて、弟を後継者にと押し上げられる理由。


 「…まさか、お前さん、刻印を授かったのか…?」

 ファンたちにしか聞こえないような小声で、バレルノ大司祭はさらに問うた。


 その問いにしても、曖昧な笑みが戻ってくるだけで、返答はない。


 刻印は、神の寵愛を受けた証。

 特に強力な庇護を得る天神五柱の刻印を授かったのだとすれば、それは大きな理由になる。


 例えば、アスラン王国の守護神、雷帝リューティン。

 その刻印を授かったものは、『万軍の主』と言われる加護を得ると言われている。


 もっとも高名な雷帝の刻印を授かった者は、アスラン王国開祖だろう。


 草原の一部族の若者でしかなかった彼は瞬く間に周辺部族を従え、多くの国を切り取ってアスラン王国を建国した。

 その指揮する軍は異常なほど強く、生涯敗北を知らなかったと歴史書には記されている。


 ただ、雷帝の刻印が授けられたという記録はほとんどなく、アスラン開祖の他に確実なのは、100年前に多くの国を攻め滅ぼし、西方諸国に迫った五代アスラン王くらいだ。

 他にはカーラン皇国やヒタカミ諸島と言った国々で授かった者もいたらしいが、少なくとも大神殿の記録にはない。


 その刻印を授かったのだとすれば、担ぐものがいても何らおかしくはない。


 ファンは答えない。だが、ある意味その沈黙が答えともいえる。


 間違いなく、彼は兄を差し置いて自分が上に立とうとか、それこそ王になろうと思うような人間ではない。

 むしろ、今の冒険者という立場の方が落ち着く性質だろう。


 そんな人間にいくら得難い、尊いものだとしても、王になることが運命づけられるような刻印を授けられたら。


 迷惑以外の何物でもない。


 「…総本山だな。目指すとするなら」


 「総本山…」

 「おう。総本山っつうのは、利権や面子なんかでその看板が狙われるがな。もともとよ、奉る神とつながりやすい場所なのさ。ンで、おれらみてぇな神に声を届ける神官も多い。

 だがな、刻印持ちってのは、ある意味ご本尊みてぇなもんだ。下手に近寄るとそれこそ神輿にされちまう。信頼できる司祭を味方につけて、内密のうちにやるしかねぇだろうな」


 刻印の返還など、どんな事情があるにせよ、その神に仕える神官からすれば許しがたい話だ。

 間違いなく説得されて、次の日にはその神殿の神官全員に跪かれてうやむやにされるだろう。

 ファンなら、実家に迷惑をかけることもなく、神殿の奥で祀られてるだけならと即身仏にされても文句を言わずに受け入れるかもしれない。


 どこぞの神殿の奥地で豪華な衣を着せられ、何百年も干からびたまま座らされているファンを想像するのも御免だ。

 その時は横に控えるこの年若いスレンが、大反対してくれるとは思うが。


 「天神五柱の神殿なら、大抵のとこに伝手はある。いいか、やる時はまずはおれに一声かけてくれ」


 女神アスターの刻印なら、すぐにでも女神に返還を願ってやれるが、アスターの刻印は女性にしか授けられない。ならば間違いなく別の神だ。


 「ありがとうございます。その時は、是非に」

 「おう。スレンの兄ちゃんも、嫌だろうがまずはおれに言ってくれ。裏から手を回さなきゃいかんことだぜ、コレは」


 「覚えておこう」

 こくり、と頷く。

 ほんの少し眉間の険しさが揺るぎ、口許に笑みらしいものが浮かぶ。

 そうしていると、本当にまだ若い。


 「…ん?」

 「あん?」

 ほんのわずかに記憶をよぎった感触に、バレルノ大司祭は首を傾げた。


 「いや、お前さんとどっかで会ったような気がしてな…」

 「ああ、それなら5年前、俺と一緒に会ったんじゃないですかね。あの頃のクロムはまだ学校に行ってなくて、俺が学校休みで実家にいるとよくくっついて回ってましたから」


 言われて思い起こせば、まだ少年の面影があったファンの後ろで、こっちを見ていた子供がいたような気がする。


 「あー、そうかもな!ああ、あの女の子みたいな顔した坊やか!すっかりまあ、なんていうか…」


 「男前になっただろう」

 にやり、と口角の端を持ち上げてみせる。


 「えー、まあ、クロムの成長については、なんていうか、ご両親ののびのび育てるという教育方針によるものなので…」

 「まあ、頼りになるならいいんじゃないかね?ちっとばかり曲がっているが腐っちゃいえねぇと見た」


 「ええ、そうですね。もっとも、俺は曲がっているとも思いませんよ。昔っからちょっとばかり頑固なだけです。俺がすぐ日和りますから、こういう守護者でちょうどいいんですよ」

 うん、と背中を伸ばし、ファンは今度は曖昧な笑みではなく、にっこりと笑った。


 「そうだな。さて、引き留めて悪かった。日があるうちに帰んな。リタ、ウィル、送ってってやれ」

 「え、大司祭様をおひとり残しては…」

 「大丈夫ですよ、ウィル」

 その声を待っていたかのように、ドアがノックされた。いや、実際、ずっと部屋の外で待っていたのだろう。


 「どうぞ」

 「失礼いたします」

 ドアを開けて入ってきたのは、ファンたちを案内してきた女性神官だった。


 「セーラ、私たちはお客様のお見送りにいってきます。お爺ちゃんをお願いしますね」

 「かしこまりました」

 「ったく。ガキじゃあるめぇし御守はいらねぇっつの…まあいい。おれぁ、ちっとここで一眠りしていく。ファン、クロム、ユーシン、ヤクモ。明後日、よろしく頼む」

 「ええ、ゆっくりお休みください」

 再びソファに大司祭は腰を沈め、目を閉じる。ほどなくして、小さな鼾が部屋に響いた。


 「ずいぶんたくさん話してくださいましたものね」

 「無理させてしまってませんかね…?」

 「したくてした無理ですもの。お気になさらず」


 何より、寝顔はとても穏やかだ。

 ここ数日、大司祭は明らかに疲れ切っていた。それなのに休めていないのが見て取れて、右方の司祭たちは皆心配していたくらいだ。


 もともと、人前で寝れるほど警戒心が薄い人でもない。

 疲労と安堵がようやくこの老人を寝かせてくれたのなら、寧ろファンたちに感謝したい。


 「あ、そだ。机と椅子戻しますね」

 ファンの声に、仲間たちは立ち上がって脇に寄せていた家具に取り掛かる。


 「いえ、そのままに。私たちで直しますわ」

 「え、でも…」


 「ファン様、お客様に家具を動かさせたうえに直させたら、私たちの面目が立ちません。もうすこしだけ、招いた側の面子というくだらないものも慮ってくださいな」


 「…ハイ。反省します」

 おそらく、同じことで怒られたことがあるのだろう。ギクリ、とした様子を見せて頷く。


 「それに家具を動かしてガタガタさせたら、お爺ちゃんの目が覚めてしまいます。部屋を直すのはあとにして、参りましょう。門までお送りいたしますわ」


*** 

 

「明後日出発かあ。間に合いそうなのぅ?」

 依頼を受けて、例の他言無用の回廊を抜け礼拝堂に戻ってくると、差し込む光はうっすらと橙色に色づいていた。


 ウィルは冒険者一行に混じりながら、礼拝堂を見回した。


 幸い、師父や兄弟子の姿は見えない。

 師父や兄弟子に見つかれば嫌味が降ってきて、夕飯抜きになりそうではある。

 だが、たんまり食べたクッキーは胃を幸せに満たしていたし、これっきりファンたちと会えないのは寂しかった。


 冒険者ギルドへ足を運べば会えるかもしれない。だけど、そう簡単に外出はできない。

 初めて触れた異国に、知り合えた人に、もう少し触れていたかった。


 「結構強行軍になるなあ。俺たちだけなら問題なくマルダレス山まで辿り着けるだろうけど、どうせ行く方向一緒だしってことで聖女候補の女の子もいたら間に合わないかもしれない」

 マルダレス山までは約二日。聖女神殿跡地まで行くならもう半日から一日。次の満月が五日後なので、余裕は一切ない。


 「そいつらの面倒を押し付けられたわけじゃない。俺らは俺らのペースでいいんじゃないか?」

 「ええ。そこまでお願いすることはありませんわ。ただ、明日いきなり出発では援護部隊の準備に間に合いませんの。

 本当はもう五日は余裕があったのですけれど…護衛は自分たちが決めると左の方々が仰られて、それがなかなか決まらなかったものですから…」


 ジョーンズ司祭は困ったように笑いながら愚痴を漏らしているが、あまり目は笑っていない。大人しく右方に任せておけばもう出立していたはずなのだ。


 ただ、そうなるとファンたちの出番はなく、お互いのことを知らないまま行動していただろう。

 それを思えば寧ろ状況は好転している。


 だが、そうであっても腹ただしいことに変わりない。


 そんな彼女に、同じく困った顔をしてファンは相槌を打った。

 「まあ、最初に聞いた金額は子供のお遣いのお駄賃でしたからねえ…」

 「いくらだったんだ?」

 「アンナさんからくれた資料によると、一人小銀貨3枚成功報酬なし」

 「死ねばいいのに」

 「クロム、ここ神殿…」


 神殿でなければ唾を吐き捨てていただろう。全身から苛立ちが発散されている。

 「厄介な『何か』がいなくても、なんだそれは。一人くらい聖女候補の女を売ってようやく採算がとれる金額じゃねぇか」

 「だから、ここ神殿…」


 「売るの?どこで売れるの?人って売れるの?って、売れるかあ。僕も危うく出荷されるところだったしねぇ」

 「売られた…んですか?」

 「んーと、まじで売られるちょっと前だったねぇ。

 あと、ウィルさんと僕なら、僕の方が年下だよねぃ。ふつーに話して?僕さあ、あんまり難しい言葉だとわかんないし。

 言葉遣いもちょっとヘンでしょ?頑張って勉強はしたんだけど、どーしても訛っちゃうんだよねぃ。

 僕ね、お家出てきたのはいいけど、なーんにも考えてなくて。お金あっという間に無くなっちゃってっていうか、泊った宿屋のおっさんに騙されて、すんごい宿泊費請求されてさあ。払えないなら人買いに売る~みたいな」


 「要するにアホだな。見捨てときゃよかったのに…」

 はあーと溜息を吐くクロムにファンが苦笑する。


 「いいじゃないか。仲間はいたほうがいいだろ?」

 「いないよりはましかもしれん。だが、世間知らずのアホ二匹引き取るってお前やっぱり自虐趣味あるのか?」

 「ねぇよ!ほんとどうしてそんなにクロムは口が悪いんだ…女神アスターに祈っておこうかな。コイツの口を少しなんとかしてくださいって」


 肩越しに振り返り女神の像を見るファンはファンでだいぶん不敬な気はするし、そんなことを祈られても女神はお困りになるだけだろう。

 女神アスターの司るものの中に上品な口の利き方はなかった…はずだ。


 僕も少し、不敬でしょうか。女神アスターよ、お許しください。

 こっそりと胸の中で祈りを捧げる。


 神は見てくれている。

 必ず。常にではないが、祈りを捧げることで神と通じることができる。


 30年前の話は、正直どうやって受け止めていいものかまだ分からない。


 本当にひどい話だ、と思う。

 クトラ侵攻の理由は、アスランとの緊張が高まり、先んじてアスランの友好国クトラへ攻め込んだのだと習っていた。

 だが、その侵攻で一国が滅び、たくさんの人々が亡くなったことは知らなかった。


 アスランが大虐殺を行ったと、教えられてきた。

 大神殿を踏みにじり、神官たちを凌辱し殺したと。


 だが、おそらく、そうやって犠牲になった人よりもはるかに多い人を、アステリア聖女王国は殺していた。


 多い少ないは問題ではないと言われるのかもしれない。


 たった一人でも殺せば大きな罪だ。

 だが、より多くの人を殺しておいて、自分たちがやられる側に立てば、悪魔だ何だと罵るのも違うと思う。


 だから殺されても仕方がなかったのだ、と言われるのも違う気はする。


 だが、それならどうやって償わせればいいのかと言われても答えは出ない。

 わかるのは、多くの人が亡くなった。それを忘れてはならないということだ。


 「クロムはファンの守護者スレンなのだから、ファンがしっかり命じれば改めるだろう。

 つまり、ファンは神頼みをする前に己を律してクロムを甘やかさないようにすべきだな!」

 わはは、と快活に笑うユーシンの声が、ウィルの思考の泡を弾けさせる。


 ユーシンは年齢も身長もウィルとそう違わないように見えた。ファンのように、見上げてしまうような長身ではない。


 だが、頭が小さくて手足が長いせいか、間近で立たれなければもっと背が高いと思ってしまう。横に立つと、ウィルよりも腰の位置が拳一つほど高かった。


 横を通る参拝に訪れた女性はもとより、女性神官ですら足を止めてユーシンを見ている。同じように、クロムも視線を集めていた。


 普段は男など毛虫のような生き物だと言っている女性神官が、頬を赤らめて凝視しているのは、女神の御怒りに触れないのだろうか。

 それともやっぱり、女神も思わず見てしまうのだろうか。


 その様子を見て、ヤクモがわざとらしく溜息をついた。

 「あーあ。ほんとなんで、こんな賊と五歳児がモテて僕はモテないんだろう…」


 「顔も体も強さも俺より勝っているところはひとつもない癖に何寝言ほざいているんだ?」 

 「そういうところだよッ!クロム!もう、ファン!ちゃんと命令して!」


 だんだん!と足を踏み縄して怒るヤクモを見下ろし、クロムは心底勝ち誇った笑みを浮かべた。


 「ふん。お前らみたいな有象無象にですらクソ甘いこの男が、俺に厳しくできるとでも?」


 「言っていることは最低なのに何一つ反論できないよ!」

 「お前らそろそろ俺に謝れ?」

 「ふむ、よくわからんがファンがそう言うなら謝っておこう!すまん!」


 あー、と力なく呟いて頭を抱えたファンの背に、そっとジョーンズ司祭が手を置く。

 「いつでも女神は、あなたの悩みをお聞きしますよ?悩みではなく、泣き言でも愚痴でも…」

 「おい、五十路。背中触りすぎだろ、手つきが若い姉ちゃんの尻触ってるおっさんの動きだぞ」

 「あらあら、そんなことは…」

 うふふ、と笑いながらも、ジョーンズ司祭の手はファンの背中から離れない。


 「くさいっ!」

 その動きを止めさせたのは、ユーシンの一言だった。


 思いきり顔をしかめて、眉を寄せている。

 間違いなく変顔にもかかわらず、周りの女性陣がどよめいた。

 憂いたところも…なんていう声が聞こえてくるが、これは憂い顔なのだろうか?


 「僕知ってるよ。お母さんのお乳からさ、ご飯食べ始めたばっかりの赤ちゃんが、嫌いなものお口に入るとこんな顔するよね。んべって。洗濯屋さんとこの赤ちゃんがこんな顔するもん」

 「あー、舌で口をガードするよな」


 赤ん坊扱いされた当人はしきりに拳で鼻をぬぐっている。本当に悪臭を感じているようだ。

 すんすんと息を吸い込んでみたが、ウィルには何も感じられなかった。

 強いて言えば、たくさんの人がいるから汗のにおいや体臭はあると思う。

 だが、さきほどまで何も言っていなかったのだから多分違うだろう。


 「ヤクモが屁でもこいたんだろ」

 「こいてないよ!何で僕なの!」

 「ユーシンの前にいるからだが?」


 「ヤクモ、お前…」

 ぱっちりと目を見開いて、ユーシンがヤクモを凝視する。


 「お前、こんな臭い屁をするのか…?何を食ったらこんな屁がでるんだ…?」

 「お前と同じものだし、オナラしてないよッ!!」


 「うーん、そのさ、ユーシン。どんな臭いだ?腐臭とか、下水の臭い…はユーシンにはピンとこないか。糞尿の臭いみたいな?」

 ファンの質問に、ユーシンは首を傾げた。記憶から、似たような臭いを探しているのだろう。


 「近いのは、桃が腐った臭いだ。昔、お前からもらった桃をすっかり忘れて腐らせたときにこんな臭いがした…と思う」

 「あー、食べたかったのにって、お前とユーナンが大泣きしたときな。となると甘ったるい臭いか」

 僅かに上を向き、ファンは空気の臭いを嗅いでいるようだ。

 ウィルも、もう一度真似をするが、やはり何も感じなかった。


 「あー、これかなあ。外からする」


 「ユーシンはアレだけど、ファンも鼻いいよねぃ。僕、全然わかんないや」

 「アスランの遊牧民の方は、鷹の目、狼の鼻、梟の耳と言われますが、本当なのですね」

 「さすがにそこまでは…目は良い方だと自負はしていますけどね。弓使いですし。それに正確には、アスランは鷹の目、キリクは狼の鼻、クトラは梟の耳、ですね」


 苦笑しながらファンの視線は、臭いの元を探しているようだった。

 つ、とそれが止まったのは、大きく開け放たれた扉の先。


 開け放たれ、橙色の光が差し込む扉の先に、小さな花をつけた薔薇の生垣がある。

 逆光でシルエットになっているため、はっきりとはわからないが、十人近い集団がそこにいるようだった。


 「うむ。あちらからだな」

 「あれは…ああ、それならおそらく、香油の匂いですわ」

 「香油?」

 「ええ、あちらにいらっしゃるのは左方の方々のようです。

 左方の方は祈りの際に香油を用いるのです。高価なものですから、司祭以上でなければ使用できませんが」


 それを聞いてウィルも得心した。

 確かに、司祭様は甘い臭いをさせているときがある。

 鼻の奥にツンとくるような臭いだ。鼻のいい人からすれば、悪臭になるのかもしれない。


 「この薔薇園の薔薇から精製した香油です。少々癖がありまして…私は付けないんですが」

 「右方は用いないんですか?」

 「ええ。うちのお爺ちゃんがそんなもんに金をかけるなら食い物を買えと…実際、女神の経典に、香油を用いて祈るとはないですから。200年程前からの伝統だそうですけれど」


 何ともなしに全員の視線がその集団に向かい、ついくんくんと鼻を動かす。クロムだけはしかめ面のまま睨んでいるだけだったが。

 クロムはファンの護衛のような立場らしいので、きっとアスラン人なのだろう。なら、彼はもう臭いを掴んでいるのかもしれない。

 そう思い、ウィルはおずおずと口を開いた。


 「あの」

 「あ?」

 ぎろり、と目だけを向けられた。


 「い、いや、あの、クロムさんも、臭い、わかるんですよ、ね?」

 そのまったく親しみを感じさせない視線に怯みつつ、問う。

 「分らんし分かりたくもない。なんで俺がおっさんの臭いを嗅がなきゃならん」


 よく見れば、その集団は若い女性神官数名と、男性神官数名で構成されているようだった。

 その中に、朝冒険者ギルドまでウィルを引っ張っていった大神官の太った姿もあるようだ。


 「ウィル、下がりますか?」

 「いえ、どうせ僕の顔は覚えていませんから…」

 見覚えくらいはあるかもしれないが、どうせその程度だ。


 だが、ファンの顔は覚えているかもしれない。

 また、ひどいことを言うのかもしれないと思ったら、胸のあたりが冷たくなった。


 「抜ける道はここしかないし、まあ、気付かれないかもしれない。行きましょう」

 スタスタとファンが歩き出す。

 その前にするりとクロムが出て、ファンを背中に守る形で足を進めた。


 その様子は、まさに主君を守る騎士だ。


 きっとクロムは否定するのだろうけれど。

 スレンと騎士は、違うものだとファンも言っていた。

 だけれど、主を守り剣を振るうのは騎士でいいんじゃないだろうか。


 ちらりと傍を歩くユーシンを見上げ、ウィルは勇気を振り絞った。

 胸の中の冷たいものも一緒に押し出せるように。


 「あ、あの!スレンと騎士って、そんなに違うものなんですか?!」


 ウィルの決死の問いかけに、ユーシンはあっさりと頷いた。

 「うむ。ファンが違うと言っていたからな。違うのだろう。俺はお前らの言う騎士がどんなものか知らんから断言はできないがな!」

 「え、えっと、ここでは騎士は領地を持たない貴族…かな?違うかな…」


 「アスランでは騎士とは職業だ。クロムのように、アスランでは騎士でありスレンであるものもいる。資格があれば騎士だからな。だが、クロムは騎士としてアスラン王国に仕えているのではない。

 守護者スレンと騎士が違うのは、スレンは部隊を持たない。アスランでいう騎士とは、言わば士官だ。騎士の資格を得れば、最低でも百人隊の隊長になれる。スレンが主に捧げるのは己の身一つだ」


 「身一つ…」


 「ああ。ただし、その身一つは全てを捧げる。

 スレンは一度任じられれば辞することは許されない。

 その時は己で己の首を撥ねる。

 そして、主が死んだ場合は殉死する。

 己と言うものをすべて主に差し出し、主を守るのが守護者スレンだ」


 殉死。高名な司祭が亡くなった時には、弟子がその死を共にすることもあったとは聞いている。


 だが、それが決められているなんていうのは、あまりにも厳しい。

 つまり、ファンが先に息を引き取れば、クロムも後を追うという事か。


 「そりゃあ、ずいぶん昔の話だよ、ユーシン。今は辞職も許されてるし、殉死なんて命じられないよ」

 あきれたように笑って、ファンが話に割り込んできた。


 「む?三年前、お前の大伯父上の葬儀の際には、生き残っていた守護者は全員殉じたと聞いているが」

 「あー、大伯父は昔の人だったからさ、守護者の人たちも。少なくとも祖父ちゃんは守護者の殉死を命令で禁じているし、親父もそうだよ。俺だってクロムに後を追ってほしくないし。第一俺の方が年上なんだから、普通はこっちが先に寿命が尽きる」

 「安心しろ。俺もお前が大往生するなら、殉死なんぞせん。いい女を嫁にして、子供と孫に囲まれて死ぬから気にするな」

 「そうしてくれ」


 ファンは笑ったが、ウィルは笑えなかった。

 何となく、クロムはそうしない気がしたし、寿命以外でファンが死ぬことがあれば、もっと悲惨なことになる気がする。


 「ファン、長生きしてね?やだよ僕、一日に二人分お葬式でるの」

 「安心しろ。コイツが寿命以外で死ぬような羽目になった場合、俺はとっくに死んでいる。というか、お前らも死んでるんじゃないか?」

 「あー、まあそうだねぃ。お仕事大失敗で全滅とか…うん。そうなんないようにしようね~」

 「そうだな~」


 扉をくぐると、西日が視界を焼いた。

 それでも夏の暴力的な光に比べれば、随分と優しくはなっている。

 何度か瞬きを繰り返していると、橙色の斑点に覆われたような視界に、他の色が戻ってきた。


 「まあ」

 ジョーンズ司祭が呟きを漏らす。

 

 その声が聴こえたわけではないのだろうけれど、薔薇の生垣の前の集団から、何人かがこちらを見た。


 そのうちの一人は、ウィルも知っている。

 ウィルの師父の師父にあたる司祭様だ。

 バレルノ大司祭の同期なのだと、先ほど聞いたが、まさに雲の上の人だ。アスターの御使いくらい、存在は知っているが、間近で相対したこともない人。

 その遠い人は、ジョーンズ司祭に目を止めると、ひそひそと傍らの人物に耳打ちをした。


 耳打ちを受けた人が、ウィルたちに向き直る。ジョーンズ司祭がすっと膝を折った。


 「ごきげんよう、ジョーンズ司祭。今日も女神の加護を感謝いたしましょう」

 「ごきげんよう、ドノヴァン大司祭。今日の女神の加護に感謝をいたしましょう」


 その呼びかけられた名に、ウィルの背はびしっと伸びたが、ファンたちの間にも何かが走った。

 

 ドノヴァン大司祭。

 アスター大神殿の左方筆頭であり、もう一人の大司祭。


 痩せた体に纏うローブは、ウィルのものと大差ない。

 腰に巻かれているのも荒縄だ。装飾品の類は何も身に着けず、ただ澄んだ紫色の瞳が、紫水晶アメジストのように輝いている。


 歳はバレルノ大司祭よりずいぶんと若いはずだが、厚みを失った髪は真っ白で、肌も水気が抜けていた。


 「ウィルさん」

 小声でファンから呼びかけられ、ウィルははい!と大声で返事をしそうになるのを寸前で止めた。

 「ドノヴァン大司祭って、まだ五十代から六十代初めですよね?」

 「え、えと、たぶん。はい」

 「…食生活のせいかなあ」

 そう見えない、と呟くファンの意見に、ウィルも内心大いに頷いた。


 年齢差でいえば、ドノヴァン大司祭はバレルノ大司祭よりジョーンズ司祭に近いはずだ。男女の差はあるだろうが、それにしても老けている。


 「確かに臭いはあの老人からしているようだな。周辺の女たちからもするが」

 「つーことは、やっぱり香油なんだな。なんか、話を聞く限り無駄遣いはしなさそうな人だけど」

 「そこの薔薇から作ってんならタダだと思ってるんじゃないか?」

 「あー、あるかも。香油に使う油って高いんだけどね」


 なるべくなら挨拶だけで終わってほしい。

 おそらく、そこにいる誰もがそう思っただろう。


 だが、にこにこと微笑みながら、ドノヴァン大司祭はこちらへ歩み寄ってきた。

 足取りは確かで背もピンと伸び、表情はまるで若者のようだ。声も張りがある。


 その歩みに気圧されたように、参拝に来た信徒たちが首を垂れ、跪く。

 頭をそっと撫でられると、信徒の背が歓喜に震え、女神への感謝があちこちから上がった。


 ただ歩いているだけなのに、彼は確かに大司祭だと誰もが理解する。するしかない。


 彼は人の目を引き付ける。

 バレルノ大司祭にはない、吸引力。


 これこそが聖者だと言われれば、多くの人は頷くだろう。

 それでもクロムだけは首を振りそうだとウィルは思い、なんだかとても可笑しくなった。


 その可笑しさが、ドノヴァン大司祭に釘付けになっていた視線を引き剥がす。

 横のファンを見上げると、確かに大司祭を見ているようだが、なんだか見入っているのとは違うように思える。


 「ファンさん…?」

 「あ、はい、なんでしょう」

 「いえ、その、大司祭様をじっと見ていられたから…」

 「ああ、ちょっと体がどこか悪いのかなって思って」

 「え?」

 「んー…うまく言えないんですけど、重心がずれているというか…ふわふわしているというか」


 足取りは確かで覚束ない様子はない。これもアスラン人の鷹の目にしか見えない何かなのだろうか。


 「まあ、きっと、気のせいですね」

 うん、を頷いて納得した様子のファンにそれ以上聞けず、何より大司祭がすぐ近くまで来ている。

 慌ててウィルは信徒と同じく跪いた。


 「おや、貴方は、アンドレイの弟子…ウィル・ローダンでしたね」

 「は、はい!?」


 僕の名前を知っていらっしゃる?


 ありえない、と思った。

 お仕えする師父以外の方が、神官見習いの顔と名前を覚えているなんて、そんなはずはない。


 だが、確かにドノヴァン大司祭の口からは、ウィルの名前が出た。


 それはありがたいというより、恐怖だった。

 きっと捕食者に見つかったネズミは、こんな気分だろう。


 バレルノ大司祭に感じた好意とは、まったく別の感情だ。


 立場的には、彼こそウィルが尊敬し、お仕えするべき人だ。

 なのに、何故か、ウィルは怖かった。


 震えているかもしれない。どうかそれを、恐怖によるものとは気づかず、他の信徒たちと同じく喜びによる身震いだと思ってほしい。


 ああ、女神様、アスター様!僕の心臓の音が、ドノヴァン大司祭に届きませんように!


 「大司祭様、急にお声を掛けられては、その子が緊張してしまいますわ」

 「ああ、これは申し訳ないことをした」

 すっと、圧が遠ざかる。遠くなりそうな意識を、必死でウィルは掴んだ。


 「大丈夫ぅ?」

 小さな声と共に、暖かい手が背中を撫でる。それがヤクモの手だと気付いて、ウィルは何とか目を開けた。


 ウィルの前には、いつの間にかファンが立っている。その一歩前の左右に、クロムとユーシンがいた。


 「こちらの御客人は?」

 「冒険者ギルドの当番冒険者です。ジョーンズ司祭に依頼を聞きに来ていました。ウィルさんとはちょっとした知り合いなもので、同席してもらったんです」


 「そうでしたか…しかし、貴方はアスランの方ですね?」

 「ええ」


 ダメだ、逃げて、ファンさん!

 酷いことを言われてしまう。それで、ファンさんが傷つくのは嫌だ!


 なんとか、ドノヴァン大司祭の口から、アスラン人を罵る言葉が出てくるのを阻止したい。

 なのに、両手両足は冷たく重く、主の意志を裏切る。


 「遠路はるばる、ようこそ女神の庭においでくださりました」

 だが、発せられたのは罵倒ではなかった。

 

 「女神アスターのしもべ、ドノヴァンと申します。遠方より参られた客人に、女神の加護があらんことを」

 にっこりと、無邪気とさえ言えるような顔で、ドノヴァン大司祭は笑った。

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