第9話 アスター大神殿3

 老人の表情は、膝関節の痛みを堪えて羊の世話をしている時の祖父のようだと、ファンは思った。


 「女神がお怒りに…?」

 「ああ」


 ため息のような肯定を返し、バレルノ大司祭は目を閉じた。

 皺に覆われた瞼の下で、眼球が下を向いているのが動きでわかる。


 「リタ。茶を出してくれ。できればブランデーを垂らしてな」

 「かしこまりました。ウィル、お手伝いしてくれますか?」

 「はい!」


 二人が立ち上がり、隣室へ向かうのを気配で感じたのだろう。

 再び目を開き、バレルノ大司祭はゆっくりと胸の前で指を組んだ。


 「ちっとな、爺の昔話に付き合ってくれ。その上で、学者のお前さんの意見も聞きたい」


 「あ、覚えててくださったんですか」

 「そりゃあな。あの一族から学者が出るのは流石に珍しい。覚えてるさ」

 くつくつと咽喉を鳴らし、身を幽かに震わせて笑う。


 「ああ、でも、兄貴も魔導士なんだったな」

 「より正確に言えば、魔導騎士ですね。まあ、研究する方じゃないですけど」


 精霊の力を借り、魔導を操る魔導士は、大まかに分けて二通りいる。


 ひとつめは、魔導を研究し、新しい術式の開発や魔導を応用した技術の発明に一生を捧げる研究者。


 ふたつめは、実際に魔導を行使し、その力を振るう魔法使い。


 兼ねているものも、魔導を研究していても術を発現できない者もいれば、仕組みや実式は一切知らずとも大魔法を行使する者もいる。

 ファンは博物学者なので、魔導についても見聞きする機会があれば記録は取っているが、本格的な研究はしていない。

 魔導研究は昔から行われていただけあって、魔導という分野に対する目次も付箋もたくさんあるのだ。片手間に記した研究など、本当の研究者に対して失礼だ。


 「お前さんも使えるんだろ?」

 「まったく使えないわけじゃないですが、兄貴と比べなくてもしょぼいですね」


 魔導を行使するためには、精霊と親しくなる必要がある。

 精霊と交信し、その力を発現させ、それを己の中の魔力と術式で望んだ形に変えていく。


 例えば、風の精霊の力を発現させ、術式によって吹く方向を指定するように。


 どれだけ優れた術式を編み出しても、精霊と交信する能力がなければ魔法は発動しない。

 交信する能力だけあっても、実際に精霊の力を術式によって変換させる為の力、魔力がなければ魔導にはならない。


 こればかりは、生まれつきのもので後天的にどうこうできるものではない。


 そして、その交信能力や魔力は、血に宿るとされる。

 魔導士同士の夫婦から生まれた子は魔導士になる可能性が高くなるし、その祖父母、曽祖父母と遡っても魔導士なら、さらに確率は上がる。


 ファンの一族は代々魔導士ではないが、一世代に一人くらい魔導士や呪い師を輩出する家系だ。

 兄は雷の魔導を振るって戦場を駆け抜け、その疾風迅雷の如き行軍速度から、雷神の異名をもって国内外に知られている。


 馬に乗り、駆け抜けながら魔導を行使することができるのも、アスラン人くらいだろう。

 魔導の行使には多大な集中力を必要とする。

 何の意識も気負いもなく馬を駆けさせられる魔導士など、アスラン以外にそうはいない。


 「俺ができるのは、せいぜい静電気を防ぐのと、雨乞いくらいですね」


 同じ両親から生まれた兄と自分にどうしてここまで差が出るのか。


 血に宿るなら、自分にも兄と同等の能力があったほうが整合性がつく。

 なのに、何故これほど差があるのか。血に宿るという大前提が間違っているのか。


 そのあたりを突き詰めて考えて研究していくのはとても楽しいし、一時期没頭していた時もあったが、本格的にやろうとすると魔導学者になるしかないようなので断念した。

 定説を覆すのは面白い。

 だが、もっと他にも調べたいことはあるし、この分野は研究者も多い。

 自分と兄という、まったく気を使わなくてよい相手が研究対象というのは魅力だったが、協力を惜しまなければ、誰かが真実に辿り着くかもしれない。


 「お家芸はできんのかい」

 「できなくはないですが、はい、ドーンってのはできません。時間がかかります。雨乞いだって晴天から小雨を呼ぶなら半日、本格的に雨を降らせるなら三日くらい要りますね」

 「そらまた、ささやかだな」

 「ええ。だから俺は逆立ちしても魔導士とは言えません」


 おそらく、魔導士見習いの子供の方がファンよりよほどまともな術を使えるだろう。別にそれを苦にしたことはないが。魔導士になりたいわけではないのだし。


 「だがな、ファン・ナランハル」

 ひたり、と老人はファンを見つめた。


 「それでもな、魔力の素質がない奴は一生祈っても小雨も呼べやしねえ。

 神の声もおなじことよ。どれだけ敬虔な使徒であろうと、神の声を聴く素質がなきゃあ御業を授かることもできん。そんでな、どんだけ祈ろうが過酷な修行をしようと素質があろうともな、神がその気にならなきゃ、神の声は降りてこねぇんだ」


 小さな瞳に宿る力は強い。しかし、それは風前の蝋燭のように揺れているようにも見えた。


 「今回、30年ぶりに女神アスターは聖女拝命の神託を下された。そして、そんな時期に降ってわいたように、猪だってそうは見かけねえ山に、何だか得体の知れねぇモンがいやがる。

 ファン・ナランハル。この試練はよ、女神の与えたもうた罰とは思わんか?

 決して聖女拝命は許さないという」


 「どゆこと?」

 「ええっと…女神アスターはなんだか怒っていて、30年間聖女拝命の神託をくださらなかった。今回、突然それがあったってことですよね?あと、ナランハルって呼ばないで…」

 首をかしげるヤクモに説明しながら、ファンは頭の中で情報を整理する。


 「ああ」

 「時系列で並べると、女神の神託が先ですか?今回の未帰還者が出たのが先ですか?」


 最初の未帰還者がでたのは最低でも十日以上前。


 満月花の値段は一ヵ月前から上昇傾向にあるようだが、それは需要が集中して値上がりした可能性もある。すぐに未帰還者と絡めるわけにはいかない。


 冒険者ギルドで張り出されていた未帰還者リストは、帰還予定日から五日以上で張り出され、二十日間経過すると外される。


 なら、出発から三十日以上は経過していないとみるべきだろう。


 ナナイも採集に十日経っても帰ってこないのはおかしいと言っていた。

 となれば、一月未満。逆に言えば、たったそれだけの日数で七人もの未帰還者が出ているという事だ。


 薬草採集を行うような冒険者は駆け出しで、武装も大したことはない。

 だが、それでも冒険者には違いない。

 7人全員が付近の村人がやってくるような地域まで逃げることもできなかったとすれば、よほどのことだ。


 「神託は前の満月の日の翌日に下されたから、ほぼ一月前だな」

 「同時期か…」

 ファンに呟きに、老人の瞳の揺らぎが大きくなる。


 「ああ、でも、俺はこの件、女神の意思は罰を与えることではないと判断します」


 その揺らぎをかき消すように、ファンは彼にしては珍しく断定した。

 学者として、不確かなことは断定したくはない。

 だが、断定できることは、そうだと自分が納得したことは大きく肯く。


 仮説ばかりで結論を打ち立てられない学者など、言語道断だ。


 「何故なら、それにしては回りくどい。

 罰としての試練なら神殿の前にどーんと眷属の聖獣でも竜でも置いて、堂々と試練と宣言すればいい。

 もしくは、神託を授けなければいい。

 俺はアスターの信徒ではありませんから、一般的な知識しかありませんが、こんな遠巻きに計略を巡らせるような神様じゃないでしょ。探求の神クロウドじゃあるまいし」


 ファンの説明に、老人はぽかりと口を開け。


 「そりゃあそうだ」

 くしゃりと、笑った。


 「そりゃ、そうだ。ああ、そうだ。我らが女神アスターは、そういう御方だ。やれ、おれも本当に耄碌したわ」

 組み合わせた拳に額を付け、バレルノ大司祭は女神へ謝罪の祈りを捧げる。その祈りを終え、開かれた双眸には、揺らがない光が戻っていた。


 「それなら、どう思う?偶然か?」


 「偶然と片付けるには時期が一致しすぎています。なら、そこから考えられる仮定は二つ」

 「最初から五つくらいにしておけ。二つ目の仮定が苦しくなるぞ」

 クロムのつっこみに少しばかり怯みつつも、ファンは示した指の数を増やさなかった。


 「今度は間違いなく二つだ!まず一つ。単なる偶然」


 「む?先ほどそれはないとファン自身が言っていなかったか?」

 「時期と場所が一致しているだけ、だからな。ただ、可能性は薄いと思う」


 たまたま、満月花の群生地に『何か』が棲みつき、冒険者を襲っている。

 たまたま、聖女拝命の儀式の神託が下された。

 たまたま、場所は同じマルダレス山である。


 並べてみればみっつの「たまたま」が揃っただけなのだ。


 「後ろ向きに小石を三つ投げたら、偶然同じ場所に落ちたくらいのもんだ」

 「それって、ほぼ不可能だよねぃ」

 「たまたま偶然ってのは結構侮れないからな。常に可能性は考えておいていいと思う」

 執拗に因果関係を求めて、実は偶然が重なっただけだった、という結果に振り回される学者もいる。

 

 「もう一つは、『何か』がそこに棲みついたのが先で、後から神託が下ったという仮定です。可能性としてはこちらの方がはるかに高いので、今回はこの仮定をもとに考えていきたいと思います」

 「はじめからそれでいいだろ」

 「まず仮定を明らかにしないと、後からの仮説が崩れるの!」


 クロムの顔には、偶然と故意を分けて考えることに意味あるのかよと書いてあったが、ファンは鼻息荒く仮説を立て始めた。

 「女神の意思でもなく、偶然でもない。ただ、同時に起こっているから、聖女拝命の儀式を利用して何か悪だくみが進んでいる…にしては回りくどいか」

 ん?と首を捻ると、そのまま動きが固まった。


 「あれ?まいったな」


 「仮説いきなり破綻してるじゃねぇか」

 「破綻しているっていうか…」

 なんとも困惑した顔で、ファンは視線を床に這わせた。


 「んー…」

 「どうした。なんも思いつかねぇなら別にいいぞ?つかよ、普通はわかんねぇだろ」

 「あの…俺、とても失礼なことを聞くと思うんです」


 床を彷徨っていた視線が、バレルノ大司祭に向く。


 その、満月のような色の双眸は、20年前に間近に見た、彼の父親と同じ色。

 まだ老人が老いてはいなかった過去。

 戦場に出ることはなかったが、兵站の担当者として、軍議には何度も参加した。

 寄せ集めと言われても苦笑しかできないバルト王子の陣営の中で、最も異彩を放っていた、異国の騎士。


 弟子が惚れるのも無理はないと、感嘆したのを覚えている。

 何本もの飾り紐を織り交ぜて結い上げられた砂の色の髪。

 鮮やかな青を基調とした、毛皮と毛織物で作られた服。鋭利に整った顔立ち。


 そして満月色の双眸。琥珀より黄色く、金より淡いその色は、人よりも野生の狼のようだと思ったものだ。


 お前は敵か味方か、それとも獲物か。どれでもない草木のようなものかと値踏みしているかのような目。


 そして今、その息子の双眸が老人を見つめている。


 満月の色に込められているのは、罪悪感に見えた。その奥に、それでも押し殺せない好奇心…いや、知りたいという欲求。


 「遠慮すんな。必要だと思ったら聞け」

 「…わかりました」

 罪悪感という雲を欲求の風が押し流す。輝度を増したように見える双眸が、まっすぐにバレルノ大司祭の目を捕らえた。


 「神託は、本当にあったのでしょうか?」

 「…どうしてそう思う?」


 「偶然ではない、という仮定に基づいて考えれば、同時すぎるんです。

 神託が下りてから『何か』をマルダレス山に放ったなら、冒険者の未帰還が早すぎる。

 『何か』を放ってから神託があったと考える方が自然だけれど、そう都合よくホイホイ降りてくるものではない。

 なら、『何か』を放ち、そのうえで神託をでっちあげたと考えるのが一番しっくりくるんです」


 「さすがに飛躍しすぎだろう。そもそも、元神殿跡地と満月花の生えている場所が近いとも限らないだろ。反対側だったらどうすんだよ」

 「いや、おそらく近いはずだ。満月花の群生地は聖女神殿付近だろうから」

 「そなの?ナナイに聞いたの?」

 「いや、ナナイも知らないって言ってたけどさ。特殊な条件下でしか育たない植物があって、満月花もそうなんだ。それを考えれば、推測はできる」


 自信たっぷりに言い切ったファンに、疑わし気な視線と声が突き刺さる。

 仲間たち…と言うかクロムは、こういう時に本当に容赦がない。


 「本当か?お前の頭の中だけで成り立ってることじゃないだろうな?」

 「んなわけあるかい!まず、満月花はムームーの木の根元にしか絶対に咲かない」

 「ムームーの木?なんかカワイイ名前の木だね」

 バレルノ大司祭は内心に首を傾げた。

 それほど植物には詳しくないが、そんな木が聖女神殿の傍にあったと聞いたことはない。名前のインパクトで覚えていそうなものだが。


 「実に毒があって、食べるとむーむーとしか喋れなくなるから、ムームーの木。

 種が一番強いけど、果肉と皮にも麻痺毒があるんだ。まずは食べた口や舌が麻痺するから、口の中に麻痺直しを流し込んでも飲めないことが多いんで、鼻から突っ込んで無理やり咽喉に流し込むのが正しい処置だな。

 別名、継母の林檎」

 「ああ」

 その名前なら知っている。

 有名な昔話に出てくる毒だ。継子の美しさに嫉妬した継母が、家を追い出しただけでは飽き足らず、その実を食べさせて殺そうとしたという話。

 最後は娘の美しさを聞いて探しに来た王子がキスとすると、毒の実を食べて死んだように見えた娘は目を覚まし、王子と結ばれてめでたし、めでたしで終わる。


 「昔話通りにムームーの実を食べたのなら、口が閉じなくなり、舌が突き出されて涎が口からあふれ出るので、それでもキスをした王子さまは見た目だけの美しさに捕らわれない好い男だったんでしょう。

 強い毒性を持ちますが、その毒はうまく使えば薬になります。神経を麻痺させますから、痛み止めにもなる。神殿など、医療行為をする場所ではよく植えられています。

 見た目は普通の林檎なので、間違えて食べないように道から離れた場所に植えられることが多いですがね」

 「確かに、継母の林檎なら植えられていたかもしれん。だが、さすがに確証はねぇぞ」

 「ムームーの木は、根が弱く、本来は斜面が多い山には自生しないんです。それが生えているなら、誰かが地面を均して植えたとしか考えられません。麓に近い満月花の群生地も、聖女神殿の神官が植樹したムームーの木の根元にあるはず」

 「絶対に他の場所じゃ生えねぇのかね?」

 「満月花が自生するためには、もう一つ欠かせないものがあります。より正確に言えば、満月花…正式名称オオマツヨイベニバナ。そのうち、大きく開いた花弁を持つ亜種が、満月花と呼ばれるんですが、通常のマツヨイベニバナがラッパ状の花を咲かせるのに対し、この亜種は完全に開ききって球状になった花を咲かせる。これには…」


 「そこまで」

 ぴしゃん、とクロムの平手がファンの額を叩いた。


 「わかりやすく!簡潔に!」

 「ええ~?かなりわかりやすく簡潔に言っていると思うんだけど」

 「なんか丸い花が咲くでいいだろうが!で?もう一つ所条件ってのは?」

 「それにはオオマツヨイベニバナが何故ラッパ状の花を咲かせるのかってことから説明しなきゃいけないんだけど…」

 「絶対に要らん!断言してやるからさっさと話せ!」


 こいつはナランハルの護衛じゃねぇのか。

 顔立ちはアスラン人ではないが、服装や長く伸ばした髪を結っているのは、いかにもアスラン風だ。

 他の二人は他国人のようだし、さすがに一人で旅に出すことは許さないだろう。

 さきほど、ナランハルと呼んだときは、殴りかかるような殺気を向けられた。

 だから、間違えてはいないと思ったのだが。


 「あー、その、なんだ。もう茶の支度もできただろう。まずは、そっちの面子の自己紹介もしてくれんかね?」

 気になるのなら、聞いてみればいい。植物の生態よりも、そちらの方が気になる。


 「あ、そういえばしてなかったね。ねー、ユーシン…?あ、コイツ寝てる」

 「さっき元気にしてなかったか?」

 「ファンの説明始まると即寝るからねえ」


 はあーとヤクモが溜息を吐いた。それとほぼ同時に、隣室に通じるドアが開く。

 「お茶をお持ちいたしました」

 「ああ、ありがとうございます」

 とっさに立ち上がり、配膳を手伝おうとしたファンをジョーンズ司祭は首を振って止めた。


 「お招きしたお客様を床に座らせているのに、お茶まで配らせたら立つ瀬がありませんわ」


 茶器は、先ほどウィルたちが使っていたものとは違い、鮮やかに色付けされたティーカップになっていた。その中でとろりと紅茶が湯気を立てる。

 まずはウィルが全員の前にトレイを置き、その上にジョーンズ司祭がティーカップを乗せていく。最後に籠に盛られたクッキーが、銀の大皿の上に乗って真ん中に配置された。


 「どうぞ、大司祭。お熱いですからお気をつけて」

 「爺扱いは許すが、ガキ扱いはすんなっての」

 大司祭の座るソファの横にサイドテーブルがウィルによって運ばれ、最後のティーカップはその上に置かれた。

 紅茶の湯気に混じって漂う芳香は、老人の望み通りのものが垂らされていることを教える。


 「では、改めて自己紹介ですね。俺は、ファン。ええっと、冒険者風に言えば、戦士で弓使いです」

 左手を胸に置き、頷く。それがアスランでの座った状態で行う礼だということをバレルノ大司祭は知っていた。


 「僕はヤクモ!戦士で剣士になるのかなあ?まだ、ちょっとわかんないけど!」

 その隣で、元気よくヤクモが手を上げる。


 ファンとヤクモの名乗りに、残り二人は続かない。目を閉じて安らかな寝息を立てているユーシンの脇を、思いきりヤクモの指が突く。


 「いったい!硬い!指折れるかと思った!」

 「鼻の前にクッキー出してやれ。起きるから」

 ふうふうと指をふきながら、ヤクモは頷き、クッキーに手を伸ばす。


 「もらいますねぃ、ありがとぉ!」

 ひょいと一番上のクッキーをつまみ、ユーシンの鼻先に持っていく。

 「ひあっ!?」

 その指先まで齧りつく勢いでクッキーが持っていかれ、変な声が出た。


 「うまいな!イダムよ、ターラよ!照覧在れ!」

 「神様にお祈りより前に、僕に言う事あるよね!?」

 「ヤクモに?何を言うのだ?」

 バリバリとクッキーを咀嚼しながら首をかしげるユーシンに、がっくりとヤクモは肩を落とした。


 「あーもう!ほら、ユーシンもクロムも自己紹介!」


 バンバンと床を叩いて催促するヤクモにちらりと視線をよこし、クロムは膝の上に拳を置いた。

 胸にではなく、膝に置いたままなのは、礼を取る意思がないことを表している。


 「クロム…!」

 「まだ、この爺たちが味方と判じるのは早い。だが、名乗れというなら名乗る。

 俺はクロム。ナランハル・スレンだ」


 「あ…」


 ウィルの小さな呟きに、クロムの硬質の視線がぶつかる。

 青みを帯びた鋼色の双眸は、気を許すつもりはないと刃の鋭さをもって告げていた。


 「あ、あの、ファンさんはやっぱり、ナランハルなんですか?」

 幸いというか、ウィルにその気配を感じ取る技量はなく、怯えた様子はない。


 「小僧、どこまでナランハルについて知っている?」

 だから、唸るようなクロムの声にも、特に怯んだ様子はなかった。これが怒声なら、ウィルは身を竦ませて震えあがっただろう。


 「えと、モウキ様の一族で、次男を表すって…あ、あ、ええっと、モウキ様って司祭様が仰るくらいだし、やっぱりファンさん、貴族なんですか?あ、ああ、あと、大司祭様がナランハルじゃなければいいって…」


 縋るような目で見つめる神官見習いに、大司祭は軽く手を振って答えた。

 「リタがさかっちまうからな。ほれ、母親みたいな年の女に欲情されたら、ファンが可哀相だろう?」

 「失礼な!モウキ様はモウキ様です!ご子息を代わりになど思いません!」

 ぷん、と頬を膨らませるジョーンズ司祭に、大司祭は苦り切った顔を向けた。


 「だからよう、そりゃあ五十路女がしていい顔じゃねぇよ…まったく。

 ナランハル・スレンか。また随分と若いな」

 「若ければなんだ。勤まらんというのか」

 「本当に若ぇなあ」

 微笑ましいものを見たと、老人の苦い顔が緩む。反対にクロムの眉間に皺が寄った。


 「ナランハル、スレン…?」

 「スレンは守り人という意味でしたね、たしか。モウキ様のお傍には、オドンナルガ・スレンと名乗る方がいらっしゃいました」

 「そうです。オドンナルガは…まあ、長男の意味です。親父は長男なので」

 「やっぱり、聖獣の名前なんですか?」

 「そうですよ。星の運航を整理し、時を回す竜です」


 へええ、と感心するウィルに、クロムの殺気が幽かに和らぐ。

 それを感じて、ファンはそっと胸をなでおろした。

 敵に回しても大したことはないと判断したのだとしても、真横でピリピリされては気が休まらない。


 「ウィルさん。申し訳ないんですが、俺がナランハルだということは誰にも言わないでください」

 「あ、あの、悪い人に狙われているんですよね?もちろん、言いません!」

 「ありがとう。俺は、んー、貴族ではないです。ある氏族の族長の家系だってくらいです」

 ファンの説明に、ウィルは頷いた。それを貴族というのではないかと思ったが、ファンが違うのだというなら納得しようと決める。


 その納得に、くあ、と欠伸の音が被った。

 「ヤクモはもう名乗ったのか?」

 「とっくにだよ!」

 「そうか。ならばあとは俺だけのようだな」


 にこり、とユーシンは笑みを浮かべ、両拳を膝の横の床に立て、そのまま前に頭を下げる。

 「ユーシンだ。天下一の戦士となるため槍を振るっている!」


 「ふたりとも、ナランハルについては分かってるのかい?」

 「はい。もともとユーシンは、幼馴染ですから。あああ、そんなまた苦い顔を…」

 「お前さんの幼馴染って言ったらなあ?」

 「キリク王国のシーリン殿の長男です」

 ファンの回答に、思いきり顔をしかめてから、いや、と大司祭は首を振った。湯気を立てるカップを口に運び、しばらく沈黙に落ちる。


 「お前さんは、キリクの民だな。クトラの惨劇についてどれくらい知っている?」

 「ふむ。母上が命懸けで天馬に乗り、父上に助けを求めにきたことと、母方の祖父母も親戚も、民も家畜も皆死んだということは知っている。

 それだけ知っていれば、十分だと思うが、如何か?」


 ユーシンの口の端は仄かに吊り上がり、目は緩やかに細められている。


 それは、常にハイテンションではあるが、激昂することは滅多にない彼が、怒りを感じている時に見せる表情だということを仲間たちは知っていた。

 腰を浮かしかけたファンとヤクモを、バレルノ大司祭はにっかりと笑うことで押しとどめる。


 「そりゃあ、そうだな。さて、ウィル坊や。お前さんにとっては、ちぃっとばかり天地がひっくり返るような話になるかもしれん。だが、年寄りの長話、付き合ってもらうぞ。

 お前さんのような若いもんがな、伝えていかなきゃあならん話だからよ」


 「え?」


 目を瞬かせるウィルをしばらく見つめた後、大司祭は語り始めた。

 30年前にあった、出来事を。

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