娘の話

私達の大切な

 私には娘が居る。今年で高校生になる一人娘。娘とはいうが、私も妻も娘との血の繋がりはない。出会った当時の彼女は小学三年生。それ以前の彼女のことを、私達は知らない。知っているのは、母親は彼女の命と引き換えに亡くなったということ、父親から虐待を受けていたということ。それくらいだ。彼女を虐待していた父親のその後は知らない。出来ることなら、知りたくはなかった。


「……ずっと、後悔していたんです。なんで気づいてあげられなかったんだろうって」


 昼間のファミレスの席で泣きながら懺悔をする、母と同年代くらいの女性。彼女は清水しみず雅美まさみさん。私達の娘の父親の母親——つまり、彼女の祖母にあたる人らしい。彼女との出会いは数日前に遡る。





 その日、私は妻と娘を連れて映画館に来ていた。


「飲み物買ってくるわね」


「私、グッズ見てきて良い?」


「良いよ。チケットとってくるから行っておいで」


 私は券売機に、妻はドリンク売り場に、娘はグッズ売り場にそれぞれ別れた。チケットを買って、ドリンクとポップコーンを持ってきた妻と合流してグッズ売り場に居る娘の方を見る。目が合うと慌てて時間を確認する素振りを見せた。『まだ見てて良いよ。時間になったら呼びにいく』とメッセージを送り、妻と共に近くの椅子に座る。しばらく談笑していると、ふと、妻が何かに気付いたように控えめに指を差した。その先に居たのは一人の女性。女性は立ち止まり、じっと私達の娘の方を見つめていた。娘は気づいていないようだった。


「……声かけてくる」


「私も行く」


 妻を連れて、女性に声をかける。すると女性はハッとして「すみません。知り合いに似ていたので」と言った。


「海菜さん、百合香さん。知り合い?」


 娘が合流する。すると女性は娘を見て、彼女に名前を尋ねた。


「えっと……」


 答えて良いのかと悩む娘の代わりに、私が答える。すると女性は目を丸くした。そして良い名前ですねと複雑そうに笑った。


「……おばあさん……どこかで……」


「……私にマナカという知り合いはいないわ。気のせいじゃないかしら」


「そう……ですか……」


「ごめんなさいね。に似ていたから。もしかしてって思って名前を聞いたの」


「……その子、そんなに似てるんですか? 私に」


「……ええ。そっくりよ」


「……そうですか」


「ええ。……引き止めちゃってごめんなさいね」


「いえ。行こうか、愛華」


「うん」


 女性と別れて劇場に向かう。


「……、手、繋いでも良い?」


「良いよ」


「どうぞ」


「……ありがとう」


 繋いだ彼女の手は少し震えていた。その時彼女はあの女性が誰なのかはなんとなく察していたのだろう。しかし、私も妻もあの女性の正体について言及することはしなかった。それをすれば彼女の辛い記憶を呼び起こすことになってしまうことは明白だったから。




 それから数日後。私は街で女性から声をかけられた。声をかけてきた女性は、映画館で会った彼女だとすぐに気づいた。


「あの子の——愛華のことで、お話があるんです」


「……話をする前に、聞かせてください。貴女と愛華の関係を」


「……あの子が私が知る愛華なら、私は彼女の祖母にあたります」


 女性は俯き、申し訳なさそうにこう付け足した。「父方の祖母です」と。




 そして今に至る。彼女曰く、父親は虐待容疑で刑務所に入り、出所してすぐに亡くなったらしい。虐待の件を通報したのは雅美さんだったという。父親は亡くなったと言ったが、恐らく自殺だろう。

 言葉が出なかった。そんな話を聞かされて、私に何を言えというのか。きっと彼女はずっと罪の意識を抱えてきたのだろう。それには同情するし、それを愛華に直接懺悔しなかった判断は正しいと思う。しかし、私に言われても困る。困るけれど、放ってもおけなくて、ただただ彼女の重苦しい懺悔を聞き入れるしかなかった。


「……ごめんなさい。こんな重い話をして」


 ほんとですよ。こんな話、聞きたくなかった。貴女とも、知り合いたくなかった。

 本音を飲み込み、言葉を探す。最初に出てきたのは「ありがとうございました」の一言だった。彼女は「え」と驚くように顔を上げる。それは決して建前ではなく、本心だった。彼女が通報しなかったら今頃愛華は——それ以上のことは考えたくはない。


「……お礼を言わなきゃいけないのはこちらの方です。ずっと、心配だったんです。あの子のことが。施設で酷い目に遭っていないかとか……。この間あの子の笑顔を見た時、驚きました。美愛みあさんに——愛華を産んだ母親に、そっくりだったから。息子と結婚したばかりの頃の、幸せいっぱいな彼女に。でも、彼女が美愛さんの娘だという確信はできませんでした。だって、愛華の笑った顔なんて見たことなかったですから」


 出会った頃の愛華はほとんど笑顔を見せなかった。大人なんて信用出来ないと警戒心をむき出しにして、わざと食器を割って私達の反応を見るくらい、私達を信用していなかった。今の彼女からは想像出来ないくらい荒れていた。私にとってはそれは、そんなこともあったなと思える過去の彼女で、今の明るい彼女の方が見慣れているが、雅美さんからしたら今の彼女は自分の知る愛華とは別人のように感じるのだろう。


「でも……もし本当に彼女が私の知る愛華なら……一緒に居た貴女方はきっと、凄く良い方々なんだろうなって、思いました。私ではきっと、あの笑顔を引き出すことは出来なかった」


 それまでずっとテーブルに向かって喋っていた彼女は、ふぅと震える息を吐いて、顔を上げて私を見据えて言う。「あなたが愛華ので良かった」と。


「……ありがとうございます。あと、すみません、私、ではなくです」


「え゛っ」


 それまでのシリアスな空気を壊す素っ頓狂な声に、思わず笑ってしまう。彼女は顔を真っ青にして何度も頭を下げたが、私は気にしてなどいない。性別を間違えられるのはいつものことだ。


「え、えっと、あれ? じゃあこの間一緒に居た方は……?」


「妻です。あの人も愛華の母親ですよ」


「あ、あぁ……なるほど……すみません……」


「いえ。……ところで雅美さんはこれから、どうするんですか? 愛華に会うつもりはありますか?」


 彼女が虐待を受けたのは恐らく十年以上前のこと。しかし、未だにその心の傷は癒えない。雅美さんと初めて会った日の夜も、眠れないと言って私たちの寝室にやってきた。その時彼女は言っていた。『あのおばあさんが誰かは分からないけど、多分お母さんの知り合いだと思う』と。祖母だということまでは分からなかったようだ。覚えていないのか、記憶から消しているのかは分からないが、後者ならそのまま呼び起こさずにそっとしておいてやりたい。一緒に嫌な記憶まで呼び起こしてしまいそうだから。


「……いいえ。あの子に会うつもりはありません。……どんな顔して会えば良いか分かりませんし。それに……私の正体に気づいたら、嫌なことを思い出させてしまいそうで。……あの子が今、幸せであることが分かった。それだけで、充分です」


 そう言うと、彼女は頭を下げてこう続ける「これからもどうか、愛華をよろしくお願いします」と。


「……言われなくても。あの子は私の——大切な娘ですから」

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