第11話 『いつも通りを手探りに。』

 部屋に帰ると、純恵がキッチンから顔を出した。「おかえりなさい」との笑顔を向けてくれる。ただそれだけで、陽奈の心は底から温まっていく。


 部屋の外では、夕方頃から振り始めた雨がしとしとと降り注いでいる。


「今週から梅雨入りなんだね、今年。いつもより早いね」

「………え、あ、はい!? 今なんて――」


 純恵の反応は決定的に遅れた。陽奈はその様子に両眉をあげて訝しんだものの、そう長くは続かなかった。純恵が夕食を作るために立っているキッチンには、元々、陽奈のいるリビングルームからの音が届きにくかった。聞き返すのも不自然ではない。


「いや、今年の梅雨入りっていつもより早いねって」

「あ、そ、そうですよねー。……じめじめするのは苦手です」

「うんうん、私も苦手」


 陽奈はリビングの隅にあるテレビを点けると、半ば動揺する純恵をさして気にせず、洗濯物を取りにリビングを抜けた。

 ――当然、姿


 大学の講義を終えた金曜日の夜。純恵がキッチンでポークソテーを作っている一方で、陽奈はテレビに映った天気予報をみながら洗濯物を部屋干し用の物干しに乾かしている。


「毎日部屋干ししてたらじめじめするのもあんまり関係ないんだろうけど……」

「除湿機かけてますし、部屋の中は快適だと思いますよ。部屋から出ると別ですが」

「確かに。毎日除湿機かけてるから尚更じめじめが効くかも」


 陽奈は洗濯物を干し終えると、テレビの前のソファにごろんと寝転んだ。チャンネルを回して、テキトーなバラエティ番組を流す。

 その一連の光景を眺めた純恵は「……ふふ」と堪えきれなくなった笑いを漏らす。


「陽奈さんもだいぶ慣れましたね、うちに」

「え、そうかな?」

「——飼い慣らされた猫みたいです」

「……ごろ、にゃーん?」

「陽奈さんは夜もネコさんですもんね」

「な……っ、そういう話じゃないでしょ!?」


 突然の下ネタに困惑した陽奈が振り返って、純恵を威嚇する。そういうところが猫っぽいんですよ、と純恵は痛いところを指弾した。


 陽奈の、純恵に対する態度はテニスの一件からみるみるうちに柔らかくなった。以前は、テレビなんかに目もくれず、夕食までじっとダイニングチェアに腰掛けていたくらいに態度が硬かったが。


 純恵はコンロの火を止めた。バターと肉の香りがソファに座る陽奈のもとに行き届く。陽奈は無意識にジュル、とよだれを啜っていた。


 純恵と陽奈のルーティンワークは同棲から1ヶ月半でだいぶ形になってきた。起床時間や就寝時間だけでなく、食事の時間や娯楽の時間まで足並みを揃えている。


 お互いに苦にならないように案を擦り寄せた結果の快適さだ。


「でも、1ヶ月前に比べてずいぶん丸くなったと思いますよ、陽奈さんは」

「まるで1ヶ月前まで不良だったような言い草だな?」

「親から勘当された少女はニアリーイコール不良じゃないですか?」

「……ひ、否定できない。純恵とは違っていい子ちゃんではなかったから」


 食卓にポークソテーを主菜とした料理が並ぶ。二人はダイニングテーブルを囲った。「いただきます」の声は自然と重なる。


「わたしも、そんなにいい子ちゃんじゃないですよ」

「見た目も性格も育ちが良いじゃん。天然物の素行優良児だよ」

「確かに……人には好かれやすいかもですね」

「自分で言っちゃうか、それ」


 苦笑いを漏らす一方で、陽奈も純恵の魅力は実感していた。

 サークルにしかり、講義にしかり、梅小路純恵は初対面の人との間にある壁を簡単に溶かして、自分のフィールドに引っ張ってこられるような不可思議引力を持っていた。


 だからだろう、彼女の周りには男女構わず常に人が多い。先輩方の一番のお気に入りを聞けば10人に9人くらいは純恵を指すだろう、と陽奈は確信していた。


 人から好かれることは素晴らしい、はずだ。

 ――必要としてくれる人が多いのだから。


「私も、もっと人に好かれたいな、なんて」

「……その割に、陽奈さんって一匹狼というか群れない猫みたいなイメージですよね。クールで凛々しい優等生みたいな」

「人を見た目で判断しないの」

「同棲生活をするともれなく、無防備な猫にしか見えなくなっちゃうんですけどね」

「その猫はどの意味の猫かな?」

「……一緒に住んでいるから、陽奈さんの弱点もたくさん握っているんですよ。今夜もいっぱい鳴かせちゃいますから」

「はいはい、期待してる期待してる」


 パンパン、と気の抜けた拍手をして、食事へと目を落とす。


 ――

 後ろ暗い感情がチリチリと陽奈の脳裏を焦がす。


 陽奈はナイフで切ったポークソテーを口に運んだ。暖かい肉汁と、引き締まった繊維を絡めて咀嚼していく。バターの風味が芳醇で、頭の中で快楽物質が増幅していく。

 純恵の料理は、陽奈から見て贔屓目なしに美味しかった。


「でも、弱点なんて知らなくてもいいんじゃない? お互いに安心しきってるなら」

「でも、安心している時ほど注意しなきゃいけないことってあるじゃないですか。自動車の事故とか」

「……安心し過ぎて、慎重にしてきたものを見誤るのは危ないかもね」

(自戒も含めて、だけど)


 生活を共にしていた女に心を許せるようになったからか、陽奈は日に日に、研いできた刃が剥がれていく感覚を味わっていた。ヤマアラシから針を一本ずつ抜いていくような所業。身を守る手段が失われていく、ということ。


 針を抜く何かの正体は、安心感。


「――安心しすぎた時に、重大な事故が起こる展開って漫画でもよく見ましたし」

「事実は小説より奇なり、でしょ? だから余計に――安心感は毒なんだと、思うよ」


 増幅していく安心感。陽奈は『ここにいてもいい』と思えてしまう錯覚が恐くもあった。


  †


 情事は日が変わる時まで続いて、それから純恵はすぐに寝てしまった。


「しまったな……、純恵に連絡するの忘れちゃった」


 静まった寝室の暗がりで、陽奈はスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げて、セフレに予定時刻を伝えた。すぐに既読がつかないとき、彼は寝ているか女遊びをしているかだった。

 純恵に抱いている安心感が本物だったなら、きっと。


「セフレとも、もうおさらばかもしれないな……」


 1ヶ月前ではあり得なかった思考だ。純恵と一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、他のことを考えられなくなっていく。

 梅小路純恵の深海のような瞳に魅入られていく。取り込まれていく――。


「んむにゃ、陽奈さん……?」


 びくり、と陽奈の肩が揺れる。隣では純恵が寝ぼけた顔を陽奈の背中に擦り合わせていた。寝言だったらしい。


「スマホ、電源消しておこう。通知見られないように」


 失望されたくない。ただその一心が陽奈の内側を砕いていく。

 必要とされたい、という願いを純恵は叶えてくれる。


 だから、陽奈は盲目的に恋人を信仰するために、過去の男と交わることを決心した。


 陽奈は背後から抱きしめてくる純恵の頭を撫でてやった。撫でられた彼女は陽奈の背中に顔をくっつけて、むふ、と満足げに鼻を鳴らした。

 陽奈の胸の下の方でずきり、と鈍く不自然な痛みがはしった。


「ごめんね、ありがとう」


 虚空に送信した謝罪を受信してくれる、都合のいい誰かはどこにもいない。

 ――そう、都合のいい誰かなんてどこにもいない。たとえ、陽奈の安心感を生み出す彼女だったとしても、例外ではない。


  †


「純恵、今日は友達の家、泊まってくるね」


 寝起きたばかりの純恵に向かって、用意を終えた陽奈は断りを入れる。

 純恵は一瞬だけ無表情になったものの、すぐに優しい口調で、


「……急なお誘いですね? というか陽奈さんって大学に友達いましたっけ」

「失敬な。大学に友達いないのは合ってるけど。……今日泊まりに行くのは高校の友達の家」

「それって、お泊まりデートですか?」


 陽奈が珍しく、眉をひそめて露骨に不機嫌な顔になった。


「もしかして、嫉妬?」


 純恵がまさか、と顔の前で手を振る。

 彼女は、埒外の問題だと一蹴し、余裕げある表情で玄関まで純恵を見送る。


 スニーカーの紐をきつく結び、ボストンバックを肩にかける。陽奈は玄関扉を開けながら、「行ってきます」と声をかけようとして、純恵に唇を塞がれた。


 いつものような、段階を踏んだキスではなく、最初から舌をねじ込むような強引な、それを食らう。


「んっ……、ど、どうしたのいきなり!?」

「――嫉妬なんかするわけないじゃないですか。だって、もう、陽奈さんはわたしにベタベタ、ですか、ら……」


 純恵が顔を逸らす。まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。

 前で組んだ両手が忙しなく動いていた。


「へえ、心配してるんだ」


 陽奈の勘ぐりは図星だったようで、純恵はあからさまに目を白黒させてびっくりしていた。


「そんなに、顔、出てました?」

「顔に出てなくてもわかるよ。あからさますぎる」


 ――だって、好きなんだもんね、私のこと。私も、あんたのこと、好きになりそうだよ。


 好きだから、怖くなるのだろう。

 奪われてしまうことが、失ってしまうことが。


 だから、陽奈は純恵の腰に手を回し、身を寄せる。そして、首元に唇を寄せると跡をつけるように強く、強く、彼女の肌に吸い付いた。陽奈の顔の上で身を硬らせた純恵が、キスの感触に耐えきれず、気持ち良さそうに乱れた吐息をしている。


 このキスは、陽奈が男と交わる中で覚えた、一つの愛情表現だった。


 キスは部位が違えば、その意味も違ってくる。そして、身体を売るとき、陽奈にこだわる雄ほど、部位に拘った愛撫をした。


「ねえ、――純恵」


 陽奈が純恵の首から唇を離して、開きかけた玄関から外へ出た。勝手に閉まりゆく扉とともに、置き土産を遺してやる。


「首筋へのキスは、執着心のあらわれ」

「……へ?」

「純恵はもう、私のものってこと」


 閉じた重い玄関扉の向こう側から声にならない悲鳴が聞こえる一方で、陽奈は、ほんのりと下腹部の熱を感じていた。その感触を指でなぞっていくうちに、自分の身を満たしている高揚感の正体に、顔が熱くなる。


「我ながら、恥ずかしいことしたなぁ……っ」


  †


 玄関に取り残されたままの純恵は、暫く立ち尽くしたまま、首筋を撫でていた。

 恋人からのキス、その感触は拭えそうにない。


 ――そのキスは、きっとわたしではない誰かから教わったもののはずだ。


「これで、いいんですよね。――陽奈さん」


 ここにはいない恋人に問いかける。

 梅小路純恵は人気者だ。誰からも認められる人気者。他人本意な自我の持ち主。

 ゆえに、恋人であろうと知らないことは知らないふりをしているべきだ、という思考がはたらいた。


 だって、当人が隠しているのだから。隠しているものを掘り起こして傷つけるのは純恵の人気者のポリシーに反していた。


 


 ――だから、わたしは貴方の理想通りの貴方になることで貴方の拠り所になりましょう。それが貴方の幸せならば。


 寝起きの髪に手櫛を施し、純恵は玄関前で背伸びをした。

 梅小路純恵は、人気者としての1日を繰り返していく――。

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