第3話 『男慣れはしていない。』

 中学と高校でテニス部だった陽奈は大学にいくつかあるテニスサークルのうち、一番ゆるいサークルに入ることにした。サークルでの拘束時間が多いと勉強時間や自由時間――すなわち、パパ活をする時間が失われるからだ。


 今は、サークルの新入生歓迎会……の皮を被った宴会の最中だ。貸し切られた居酒屋の、畳敷きの宴会場には同期や上級生だけでなくOBOGまでたむろしていて、あちらこちらでドンチャン騒ぎだ。コールで発破をかける者、コールにのせられてグイグイとビールジョッキを仰ぐ者が会場のそこかしこで湧く一方で、部屋の隅では談笑の輪を囲う構成員が集まっている。陽奈は後者に含まれた。


 それにしても。


「大富豪、貧民以下は恋バナ! やる人!」


 いかにも恋愛慣れしてそうな男の先輩のもとに、新入生や先輩が集う。陽奈は参加するふりをして、その輪から離れたところでお酒を飲んでいた。未成年だが宴会の席ではお構いなしだった。大学の近くに住み始めてからセフレから勧められ、飲み始めた。酒は好きな方だった。


 ――高校生も大学生も、恋の話題はウケがちらしい。ただし、大学生の恋愛は爛れがち。環境要因に左右されるんだろうけど。


 しばらくして、人の恋愛話が聞こえてくる。甘酸っぱい初恋だったり、ほろ苦い失恋だったり、あるいは惚気話だったり。


 しかし、陽奈は恋愛に対する距離感やスタンスが分からなかった。聞こえてくる話が、自分とは違う世界にあるものに見える。甘酸っぱさやほろ苦さは定型句として覚えているのみで、実際そんな風味を味わったことはない。

 羨ましいとは思わないけど……。



 たった数センチ先の世界がはるか遠くに見えて、少しだけ胸がざわついた。


  †


 宴もたけなわになり、陽奈はサークルの会計係に代金を支払って外に出た。5月上旬の夜風は心地よいはずなのに、充満した酒精と雑多な臭いのせいで台無しだった。


 居酒屋の周りでは二次会に行くグループが点在している。一方で、口説き落とした新入生女子とともに夜の街に融けていく先輩も見られた。先輩の誘いに軽々しくついていく同期は、総じて遠目で見ても目立つ可愛い系だった。


 一夜の過ちだ。陽奈は苦笑を漏らした。慣れないアルコールで興奮した恋愛脳が、錯覚を起こすのだろう。そして、頼れる先輩の虚像に縋ってしまう。


 大人の階段をリードして、一時の勝手な優越感に浸るのだろうか。


「……それでも、わたしよりはぜんぜんマシ、なんだろうけど」


 知らない男で青春をすり減らした陽奈にとって、先輩にお持ち帰りされる同期は輝いて見えた。お持ち帰りされなくても、二次会のために集まった人たちは誰もがキラキラしている。


 ――好きで身体を売っているはずなのに、私だけが荒んでみえるのは、どうしてだろう。


 思考に薄暗く闇が立ち込めそうになったので頭を振った。

 きっと、ブラックルシアンを飲みすぎたせいだ。


 夜の街は人工的な光に満ち溢れていた。喧騒の波が押し寄せて跳ね返って乱反射する。お世辞にも都会と言えない故郷で生まれ育った陽奈にとって、都会の街路の痛いくらいの眩さは目に毒だった。すぐそこにいるはずの陽気な集団をはるか遠くに感じる。

 まるで天体観測のようだ。

 定点から数光年先の星の瞬きを眺めているような、そんな果てしない気持ちになる。


 だからこそ、だろうか。陽奈は一番星を観測した。

 学科の人気者。見知ったキラキラ女子集団の1人。

 ――サークルの先輩に詰め寄られて、戸惑っている梅小路純恵の姿を。


「梅小路さん、このあと俺の奢りで一杯どうかな。オススメ漫画の話しようよ?」

「え、あ、あはは……でも……」


 引き気味の純恵に構わず、グイグイと距離を詰める先輩の構図。

 圧で押し切ろうという脳筋な思想が垣間見えている。女慣れは……していないだろうな。


 対する純恵は講義室で会うときよりも明らかに化粧に気合が入っていた。真っ黒で透き通るような長い髪に傷一つない白い肌。大きな目に、つんと高い鼻。薄紅色のリップで潤った唇。

 すっぴんに近似するように調整した精緻なメイクのお陰で顔の良さが際立つ。

 作り物のような、女の子。腕の毛がぞわわ、と逆立つ。

 ――私とは天と地ほどの差だ。

 こんな美人の後輩がいたとしたら、一般論として放っておく先輩のほうが少ないだろう。

 なのに、彼女は一切男慣れしていない様子だ。男性への用心より先に、


(もしかして女子校出身なのかな……。いやー、ありえるな。講義室にいるときは常に常葉明美のキラキラ女子集団に囲まれてるし。男子と話しているところ、見たことないし。もしくは、

 よほどの箱入り娘か。両方の線もありうるけど)


 一列違いの席に座っているだけで、陽奈と純恵の接点は薄い。はっきりと会話したのは、連休明けの講義後だったくらいだ。


 それにしても。手塩にかけて育てた娘が容易く籠絡されようとしていることを知った両親はどう思うのだろう。箱入り娘だったなら卒倒だろうな。

 裏を返せば、甘やかして育てた代償なのかもしれない。過保護は遅効性の毒だ。早すぎる門限や男女交際の際の報告を強いてきた実家を持つ陽奈なら痛いほど理解できた。


 果たして純恵を切り捨てて良いだろうか。逡巡が迷宮に片足を突っ込む。

 

 ――私にとって彼女は他人だろう? 触らぬ神に祟りなし、だ。それに、ただ慣れていないだけで本当は先輩に連れ込まれたいのかもしれない。少しくらい強引に連れて行ってくれる雄を求めているのかもしれない。人の思惑って外見や仕草からトレースできるほど単純じゃないはず。


 惑いの手綱を締めようとして、幸か不幸か、陽奈と純恵の目が合った。

 しまった。この瞬間、逃げ道は完全に失われてしまった。

 目を逸せばよかったものを、目を逸らすことはできない。

 彼女の深海を思わせる深い瞳が、陽奈を真っ直ぐ捉えて離さなかったからだ。

 目は口ほどに物を言う。ならば、梅小路純恵の大きな目は分かりやすく困惑と迷惑の淀みを映していた。


「先輩、お取り込み中すいません」

「んっ?」

「お誘いのところすいません。これから学科の友人と、梅小路さんのお家で女子会する約束してたので――、」

 陽奈は、はずみで自分の腕を純恵の腕に組ませた。「今日は外してくれませんか?」


 陽奈は淡々と嘘八百を並べて、据えた目つきで先輩を見上げた。

 じぃ、と無言で見つめ続けると、後ずさった先輩が「わ、分かったよ。先客がいたのにごめんね、梅小路さん。じゃあ、」と足早に去っていった。丸まった背中に哀愁が漂っている。

 申し訳ないことしたな。


「小林さん、また助けてもらっちゃいましたね」

「さすがにお節介だったかも」

「いえいえ! あの先輩しつこくて、やんわりと断っても寄ってきたので困ってたんですよね」


 先輩の思いは一方通行だったらしい。

 ただ、誘いがしつこい男が鬱陶しいのは頷けた。ましてや、興味のない異性をや。


「小林さん、なんで両手合わせて拝んでるんですか?」

「…………恋の弔い?」


 もちろん、1人で夜の街に去っていく先輩に向けて。

 純恵はなんですかそれと噴き出していた。好意を向けられた当人が呑気なものだ。


「で、このあとどうしましょうか」


 周りを見やれば二次会をする組も、居酒屋の前から散らばり始めていた。

 大学入りたての1年生2人で夜の街を彷徨ってみろ、ろくな目に遭わないだろう。


「女子会って手札を切った手前ですし、アリバイ作りしますか?」

「賛成。でも、お互いに未成年だからソフドリで」

「飲み会の席の端っこでグビグビ飲んでいましたよね、小林さん」

「観察されてたんだ……」

「視野は広い自信があるので」


 ちゃっかりした女だ。


「なら……いいや。ここらへんのコンビニ、年確緩いし。お酒は手に入る、はず」

「じゃあ、お酒とおつまみ買って、わたしの家に行きましょうか」


 夜は更けていく。人と酒の臭いが薄れていく。2人はコンビニで度数低めのカクテル2缶とスナック菓子を買った。

 居酒屋から純恵の借りている部屋は徒歩圏内だった。


「でも、突然の言い訳に付き合わせちゃって大丈夫?」

「今聞いちゃいますか、それ。

 ……別に構いませんよ。部屋は片付いていますし、いつでも人を呼べます」

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